午後からは公爵が言った通り、灰色の雲が空を埋め尽くし、雪が降り始め、しんしんと 積もりだした。 窓辺に座って外を眺めていると、木製人形がミルクティーを淹れてくれた。 カップを受け取り、ふんふんと鼻を鳴らしながら香りを嗅ぐ。 ――ミルクティーだな。 率直な感想を持ちながら、人形に尋ねてみる。 「これ、今朝の紅茶とは違うわけ?」 かっくん、と人形は頷いた。 もう一度香りを嗅いでみる。 ――ミルクティーだな。 つまり、違いなど全く分からなかった。 公爵と人形に騙されているのではないかと思いながら、オンディーナはミルクティーを口に した。普通の紅茶より甘くてまろやかだ。 その程度、味など分かればいいのだ。茶葉の違いなど分からなくても生きていける。 けれど公爵は――。 こつ、と頭を窓に軽くぶつける。 ――忘れろ。 オンディーナはきつく目を閉じた。 近づきすぎたのだ。そして赦しすぎた。 公爵とはもっと距離を取らなければならない。ぬるま湯に慣れてしまってはいけない。 自分の中の凶悪な呪いは、それに付け込んでくるのだから。 目を開いて、一気にミルクティーを胃に流し込んだ。 空になったカップを人形に渡しながら、オンディーナは人形に訊いた。 「上着ある?温室に行くから」 人形は頷いて、部屋に置かれていたクローゼットへ向かった。数日前までは空だったはず のクローゼットの中身に、何着か服が入っている。その中から人形はあたたかそうな茶色 のタータンチェックのケープを手に取った。 オンディーナは立ち上がって、それを奪うように手にする。 「公爵が起きる前に教えに来てくれよな!」 またここにいたのか、と嫌みを言われるのは勘弁だった。人形が頷いたのを見て、オン ディーナは安心して自室を出た。 ひんやりとした空気が頬を撫で、身震いしながらケープを羽織る。 いつもは窓から出入りしていたが、今日は大人しく玄関から出ようと思い、階段を下りる ことにした。足取りはここ最近の中で一番軽い。点滴が効いたのだろうか。 最後の段を1つ飛ばしで下りると、2階より1階の方が寒く感じた。胸元を握りながら玄関 へ向かい、扉を開ける。 思ったよりも重い扉を開けた先は、銀世界、というより白い世界だった。 風はないのに、雪が大量に降っているので数メートル先も見えない。 部屋の中で見たときは大したことなさそうに思えたのだが、実際に外に出るとその勢いは すさまじかった。一瞬オンディーナは温室に行くことを諦めようかとも思ったが、すぐに思い なおす。たった数十メートルの距離だ。体力も戻っているし、問題ない。 「温室は……あっちの方だよな」 窓から出入りしていた弊害がこのようなところで出た。 自室の窓と玄関は違う方角にあり、さらに方向感覚が大雪のせいで少々混乱している。 ――早くあったかいところに行こう。 オンディーナは温室があると思われる方向へ、小走りで向かった。 寒さが身を切るようだ。 ほんの少し前なら雪が降っても耐えられていたのに、たった数日、公爵のもとでぬくぬくと 過ごしてしまったため、耐性がなくなってしまったのだろうか。 白い息が雪に隠されるように消えた。 瞬間、背後から伸ばされた腕が、オンディーナを捕らえた。 「――っ!?」 「捕らえたぞ!」 そのまま身体を雪の上に倒され、後ろで手を固定される。 粗暴な振る舞い。耳をふさぎたくなるような悪声。 ――公爵じゃない! オンディーナは直感で感じ取った。公爵ならば、絶対にこのようなことはしない。 「この……っ!」 オンディーナは思いきり暴れたが、腕が自由にならない。首をひねるようにして見ると、自 分にのしかかっているのは大の男だった。かなりガタイがよく、力も強い。それに重力も 加えられているので、子供であるオンディーナにその拘束を解くことは無理だった。 暴れたからか、男はオンディーナの腕をさらにひねりあげる。 腕に痛みが走った。 「っ!」 「おい、早く縄と袋持ってこい!」 足音がする。仲間がいる。 オンディーナは混乱する頭で必死に考えた。 ――こいつらは、なんだ?目的はなんだ? 縄と袋。公爵の屋敷に盗みに入るつもりなのだろうか。しかし盗みにしては少し時間が 早い。まだ夕方になろうかという時間だ。 金銭目的ではないように思えた。 金銭目的では。 ――そういうことか! オンディーナは理解した。 「誰が戻るか、あんなところ!」 金銭ではなく、オンディーナ自身が目的なのだ。 正確には オンディーナを押さえつける男と、縄と袋を持ってきた男は口の端を吊りあげた。 ――やっぱり、それが狙いか! 「お前に選択権はねぇんだよ。黙って銃の役割をしてりゃいいんだ」 「離せ!」 睨みつけると、頭をつかまれて頬を雪にうずめられた。 「離せっつってんだろ!」 「こんなところに逃げ込みやがって。おかげで手間取ったぜ」 「ブラック・フィンガーの魔術防壁は高くて面倒だった」 縄を持った男は笑いながら肩を回した。ご苦労さん、と押さえつける男が言う。 ブラック・フィンガーというのは公爵の魔術師名だったはずだ。それを知っているということ は、縄を持った男は魔術師なのかもしれない。 焦燥感が生まれる。 魔術師はマズイ。オンディーナは魔術師との相性が悪いことを自覚していた。 公爵のように呪いに詳しい者なら、出来てしまう。 ――嫌だ。 戻りたくない。もう、あの生活には。 人間を殺すことを良しとする場所になど。 <嫌ならば> 全身が脈打つ。 身体が熱くなる。 <殺してしまえ> ――やめろ。 <殺せ> ――出てくるな。 <殺せ!> 「あああぁあぁぁぁあああぁぁぁぁあぁああああっ!」 喉が裂けそうな絶叫をオンディーナは上げた。 目頭が熱くなって、その熱が額に移っていく。 <殺せ!> 腕を動かすと、簡単に拘束が解かれた。 バネのように起き上がって、殺意に侵された瞳で男たちを見る。押さえていた男は信じら れない、といった表情で固まっていた。 歪んだ感情が胸の奥から湧いてくる。 ――もっとだ。 もっと、深い絶望を映した瞳が欲しい。 雪の上に落ちていた灰色の影が、オンディーナ自身にまとわりついていく。 「ひ」 男が短い悲鳴をあげた。 それが酷く滑稽に見えて、オンディーナは笑みを浮かべる。 <私は生きる者への死を公平に実行する者> 頭の中に禍々しいメロディーが浮かんできた。短いフレーズを何度も繰り返しては消える。 脳がしびれる。 何も考えられなくなっていく。 正しさも、罪悪感も、全てがメロディーにかき消されていく。 「――わたしは、いきるものへの」 呟くと、勝手に身体が動いた。 「げっ」 ガタイのいい男のみぞおちに、蹴りを入れる。 カエルが潰れたような声を吐きながら、男はその場に崩れ落ちた。 「この……っ!」 もう一人の男がロッドを呼び寄せたのを目の端で確認する。 あれは嫌いだ。 そう思うだけで、腕にまとわりついていた影が伸び、ロッドを持った男の口と鼻を覆った。 実態のない影を男はひき剥がそうと自分の顔に爪を立てる。 「しを、こうへいにじっこうするもの」 ロッドが落ちて雪に突き刺さる。男は苦しそうにもがいていた。 なんと甘やかな光景なのだろう。 「あはっ」 笑って、オンディーナは崩れ落ちた男の首に手をかけた。オンディーナの手が男の太い首 を覆えるわけはなかったが、息を止めさせるには十分すぎるほどの力があった。 ぎりぎりと締めあげると、男は口から泡を吹いた。 必死にオンディーナの細い腕を握り、離そうとする。しかしその力にビクともしないほどの 腕力が今のオンディーナにはあった。 <殺せ> 歌が聞こえる。 <私は生きる者への死を公平に実行する者> <骨を折り、斬りつけ、突き刺し、窒息させろ> <さぁ、殺せ!> 『悪しき 鼓膜を震わす低い声とともに、白い光がオンディーナに迫った。 その光を恐れて、オンディーナは男の首から手を離し、飛び退く。 影も怯えるようにして、オンディーナの元に戻ってきた。 「――よくもまぁ、私の庭で暴れてくれたものだ」 その存在は、雪が降りしきる中でも決して見失わない。 白と相反する闇の色をした髪と瞳。衣服。手袋。飾り気のないロッド。 「ブ、ブラックフィンガー……!」 魔術師の男は咳き込みながら、黒尽くめの公爵を見て身を震わせた。 不愉快そうに、公爵は顔をわずかにしかめる。 「アレは私のものだ」 「く……!」 「邪魔だ。消え失せろ」 そう言うと、公爵はそれ以上は男に視線もくれず、オンディーナと向き合った。 厳しい表情で、にんまりと微笑むオンディーナを見つめる。 「阿呆め。取り込まれたな」 予告も無く、影を公爵に飛ばす。 <屠れ> 脳内に響く、警告にも似た言葉。 公爵は、恐ろしい。 何を犠牲にしても殺さなければならないと、呪いが囁くのだ。 「無駄だ」 公爵はいつもつけていた黒い手袋を外し、素手でオンディーナの飛ばした影をつかんだか と思うと、それを手の中に収めた。 ――指が。 いつも隠されていた公爵の指は、真っ黒に染まっていた。 しかも、ただ黒いのではない。 黒い何かが、うごめいている。 ――なんだ、あれは。 焦燥感。 オンディーナの胸の中にそのようなものが生まれ、同時に動揺も生まれる。 「オンディーナ。逆らえ」 「う、あぁ」 「私の声を聞け」 <殺せ!> ――やめろ。 メロディーが崩れていくのが分かった。心地よかったメロディーは壊れかけたオルゴール のように、不快な音に変わっていく。 公爵はまっすぐ、オンディーナを見据えて動かない。 「まだ、殺していない。踏み止まれる」 脳に響く公爵の声。 そう、抑えなければ、殺してしまう。 殺人鬼になりたくなくて、今まで耐えてきたのに。 <殺せ> ――黙れ! <憎いだろう、この世の全てが。醜い人間が。いくらでも見てきた。人は汚い生き物だ。 何をされたか忘れたのか?殺して何がいけない?戸惑うことはない、さぁ、殺せ!> ――醜い。 そうだ、人間は醜い。 己の欲のために、どんな非道もやってのける。 願望のための犠牲だと、そもそも思っていない。犠牲という言葉すら知らない。 道具であれ、と教えられた。人を殺すためだけの存在だと。 彼らにとって、自分は人間ではないのだ。道具だ。その辺りに転がっている銃と同じ。 壊れれば、替えるだけ。 あの少年のように。 「あああぁぁぁああああっ!」 オンディーナは絶叫した。 脳内に響く不快な甘いメロディーと公爵の声。 分からない。どうすればいいのか。 動揺するオンディーナの心に同調するように、影は大きく揺らめいて肌を這う。オンディー ナの白い肌は真っ黒に染め上げられていった。 「ひぃっ!」 悲鳴を聞いて、男たちを一瞥する。 ――うるさい。 不快に思っただけで、影が素早く男たちに伸びた。 『悪しき その影を公爵がロッドから放った光で遮る。 男たちは、一目散に逃げ出した。 「無闇にその影を振り回すな。それは呪いそのものだ」 「うるさい……」 オンディーナは耳を押さえた。 うるさくて、イライラする。 「耳を塞ぐな」 「うるさいっつってんだよ!殺すぞ!」 影がちぎれて、弾丸のように公爵に向かって飛んだ。 公爵はそれを手のひらで受け止め、握りつぶす。ホッとしたのと同時に、さらにイライラは 募った。 殺したい。殺したくない。 反する2つの気持ちがオンディーナの心を苛む。 「お前に私は殺せない」 公爵はロッドをオンディーナに向けながら、はっきりと告げた。 確信に満ちた瞳。 ――知りもしないくせに。 自分のことなど、何も知らないくせに何を言うのか。たった数日、身を預けていただけの ことだ。呪いへの恐怖も何も、分かっていない。 攻撃的な気持ちで、オンディーナは叫ぶ。 「知ったようなこと言ってんな!何も知らないくせに!あたしがどんな目に遭ってきたのか 分かってんのかよ!?人間なんか嫌いだ、あんたも大嫌いだ!呪いも何もかも、全部なく なっちまえ!清々する!」 <殺せ> 呪いの声が大きくなる。 ――もう、疲れたんだ。 生きることにつかれた。どんなに呪いに逆らっても、逆らえきれない。いずれ誰かを殺す だろう。夢のように、大勢の人々を。 「なんか言えよ!もう終わりにしてやる、殺してやる!全部!何もかも!人間なんかみん なこの地上から消してやる!仲良く地獄に堕ちやがれ!」 ――この声に従って、楽になりたい。 雪がまつ毛に触れた。白く、一瞬視界が解ける。 ――もう嫌だ。 耐えられない。 心が壊れそうだ。 ここまで抗ったのなら、充分だろう。 <殺せ> 出来る限りはしたのだ。 <殺せ> 赦してほしい。 「うあああぁぁぁあああっ!」 声を上げながら公爵に襲いかかった。 首に手をかけたところで、公爵はロッドをオンディーナの鼻先に近づけた。 「呪文なんか言う前に絞め殺してやる……!」 「お前に私が殺せるものか」 熱を持ったオンディーナの叫びとは対照的に、冷静な声で公爵は告げる。 「――お前が人間を美しいと思っている限り」 首を絞めようとする手が、止まった。 「醜い人間が嫌いなのは本音だろう。だが、人間に対しての感情が嫌悪感のみならば、 既にその手は血に染まっていたはずだ。未だ穢れていないのは、人間を美しいと思って いるからだろう」 呆然としながら、乾いた笑いを漏らす。 「適当な、ことを」 「適当か?ならば今ここで、私を殺してみろ」 公爵は、ロッドを放り投げた。 どうやっても、公爵の手には届かない位置に沈んで、降る雪で白くなっていく。 「どうした」 「………………」 オンディーナは手に力を込めようとした。 なのに上手くいかない。 細い肩に雪が積もるほどの長い時間、オンディーナはなにも出来なかった。 嫌いだと思う。人間など、欲に塗れた汚いものだ。 ――美しい人間なんて、そんな人間なんているもんか。 『――殺したくない』 けれど、あの少年は。 あの呪いに侵された少年は、自我が無くなる前に、確かに、自分に向かってそう呟き、涙 を流した。 自分もああなるのか、と思うと同時に、哀れみが芽生えた。 『俺、道具じゃないよ……』 殺したくないと言ったあの少年は、誰よりもみじめで。 道具じゃないと言った彼は、誰よりも痛ましくて。 ちっぽけだった。 ちっぽけな――普通の、人間だったのだ。 そして、誰よりも純粋な心を持っていた――美しい人間だった。 「……何で」 思わず声が漏れた。 「何がだ」 「何で、こんなにしてまで呪いが欲しいんだよ。関係ないし、汚いし、かわいげないこんな ガキに構わず、死のうがなんだろうが、欲しいならとっとと奪っちまえば良かったのに。 今だって殺されかけてんの、分かってんのか、あんた」 「――……」 黒い瞳がオンディーナを映す。 純粋にどこまでも深く黒い、瞳。強い意志の宿った瞳だ。 ――そうだよ。 オンディーナは公爵の首から手を離した。 殺せない。 自分には、公爵を殺すことができない。 ――だって、初めてだったんだ。 殺すなと、言ってくれた。 名を与えてくれた。 「……バカ野郎」 ――気付いてたんだ、本当は。 呪いだけが欲しいなら、そのまま奪えばよかったのに、公爵は人並みの生活を与えてくれ たのだ。人間として扱ってくれたのだ。 それは公爵の優しさで。 その優しさは、美しい。 何よりも。 心の底から望んでいた、人間の美しさだった。 目頭が熱くなって、目の前がにじむ。 「公爵……怖い夢を見るんだ……」 オンディーナは震える口を開いた。 息が上手く吸えない。 嗚咽が、言葉の邪魔をする。 「いっぱい、いっぱい人を殺す夢を。手が血に染まる夢を。現実になったらどうしようって、 怖くて、怖くて、たまらないんだ……!」 ほろほろと、涙がこぼれた。 公爵は、静かにオンディーナの拙い告白に耳を傾ける。 雪が積もる音にすら消されてしまいそうな、その小さな本心を聴くために。 「――助けて、公爵」 黒い指が、オンディーナの唇に触れた。 『満目の企ては白き太陽に晒される 汝の影は扉に届かず 蕾は開かず 脆弱な息を潜 めるのみが赦される 煌めく円は描かれ 点は定まり 汝を害する鎖となるだろう 停止 せよ フラウディター』 オンディーナの肌を黒く染めていたものが、見る間に集束されていく。 雪に溶けそうなほど白い肌。 白い髪。 透明な涙。 「――お前は、私のコレクションだ」 返事の代わりに、涙が公爵の唇に落ちた。 その上に雪が降って、溶ける。 涙が熱いことを、そのとき初めてオンディーナは知った。 「私はコレクションを人の手に触れさせない。絶対に。オンディーナ、お前も決して例外 ではない」 「……うん」 「何からも、守ってやる。救ってやる」 「……うん」 「オンディーナ」 公爵の黒い指が、オンディーナの目尻に触れた。 「――もっとも『奇跡』に近いバラの名。それがお前の名だ」 |