目の前に、もの言わぬ人間が積み重なっている。 光を失った目は、オンディーナを恨みがましく見ていた。 ――何故、殺した。 『違う、殺してない……』 腐敗臭。 血の臭い。 吐きそうな臭いの中で、狂った笑いが聞こえてくる。 『そうだ、殺せ!お前の存在理由は人間を殺すことだ!』 『嫌だ、嫌だ……!』 『その手を血に染めろ!殺せ!殺せ!』 耳をふさごうとした手が、ぬるりと滑る。見ると赤く染まっていた。 ――なんで。 『殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ!』 ――何故、殺した。 無数の目が、自分を責めるように見ている。 違う、殺していない。自分は殺していない。 では、殺したのは誰だ? 知らない。 『 呪いが彼らを殺したのか。 そうだ、呪いだ。全て悪いのは『 悪くない、何も。 自分は望んで殺してない。今まで踏みとどまってきたのだ。 悪くない。 悪くない。 自分が殺したのではないのだから。 ――違う。呪いに侵された、自分が殺した。 自分だ。 ――何故、殺した。 でも、自分じゃない。自分ではない。 だけど殺した。 両手を見下ろすと、赤かった血が黒に変わって、腕まで侵食していく。 『 『ああああああぁぁぁあぁあああ!』 染まっていく。 汚いものになる。 汚い。 自分は汚い――。 『この世で最も美しいものの名だ』 ******** 意識が浮かび上がる。 オンディーナは目を開けた。暗いので夜中だろうか。 少し見慣れた天井を見て、公爵に与えられた部屋だと分かった。 ――夢……。 オンディーナは心の底からホッとした。呪いに侵食されていく感覚を、リアルに味わって しまった。嫌な夢だ。 ――夢? 本当に夢だろうか。誰かを殺めたりしてないだろうか。 「……っ」 額に手を当てようとして、右手の違和感に気付いた。もっと正確に言うならば、右腕の 違和感。何かに繋がれている。 なんだろう、と右腕の方を見ると、ベッドに人が座っていることに気づいた。 黒髪の青年ではなく、12,3くらいの金髪の少年。それでもそれが公爵だと、オンディー ナはすぐに分かった。こちらに背を向けて、本を読んでいる。 暗いのに読めているのだろうか、と不思議に思った。 「暴れないでね」 少年らしい声がこちらも見ず、ひそやかにオンディーナに忠告する。 「針が抜けちゃうから」 よく見ると、腕には点滴の針が刺さっている。枕元にも点滴の袋が吊るされていた。 ――繋がれていた感覚は、これか。 一定間隔で雫が落ちる。 その音が聞こえそうなほど、部屋の中は静かだった。 パラ、と音がする。 公爵が本をめくった音だろう。 「……今、夜?」 「うん」 「どのくらい寝てた?」 「2日」 ―― そんなに眠ってたのか。 「でも、起きたり眠ったりしてた」 「……覚えてない」 そう言うと、公爵は顔だけオンディーナの方に向けた。ふちのないメガネをかけている。 そのレンズ越しに、金色の瞳が細められた。 「空腹じゃないなら、まだ寝てた方がいいよ。よく眠れてないだろうから」 2日も眠ったのに、と思うが、まぶたも身体も重かった。公爵の言うとおり、眠ったほうが いいのだろう。 なのに、オンディーナはまぶたを閉じれなかった。 眠るのが怖い。 眠るたびに、『 知らない間に、誰かを殺していたらどうしようと不安になるのだ。 この指が知らない誰かの首を絞める。 もしくは知っている誰かを。 ――起きたら、公爵の死体が目の前にあるかもしれない。 考えるだけでぞっとした。 「……眠くない」 「そう」 それだけ言って、公爵はまた本に視線を戻した。 「……こんなに暗いのに、読めてんの」 「メガネに明るくなる魔術をかけてるから。レンズを通して見ると、電気がついてる状態と変わらないよ」 「ふぅん……」 パラ、と本がめくられる。 「――オンディーナって、どういう意味?」 静かに問いかけると、公爵は本を閉じてオンディーナに向き直った。 その姿が一瞬闇に溶けて、銀髪の青年になって現れる。 「青に近いバラの名前だよ」 「青じゃないのか」 「青いバラと黒いバラはまだ作られていないんだ。今発表されている品種の中で、一番 青に近いのがオンディーナ」 公爵はにこりと笑う。この姿をしているときの公爵は、やわらかく笑うらしい。 「君は弱っているくらいの方が、大人しくていい。このまま点滴に繋いでおきたい気分だ」 「うるせぇ」 ――皮肉屋で根性悪のところは一緒だけどな。 睨んでも公爵は微笑むだけで、効果はなさそうだった。ある意味、黒髪姿の公爵のとき よりやりにくい。 ふぅ、とオンディーナはため息をついた。 少しめまいがする。しゃべるだけでも、体力を消費しているようだ。 公爵はベッドの陰からロッドを取り出し、オンディーナの前にかざした。 闇の中、真っ白でやわらかな光が明滅する。 「眠りなさい」 「嫌だ」 「子守唄が必要な歳じゃないだろう?」 「歌ったら暴れてやるからな」 心底嫌そうに言うと、公爵はクスリと笑った。 「今度の眠りは深いから、悪夢は見ない」 「……何で、そんなのが分かるんだよ」 明滅する光を見る。ロッドが光るのは、公爵が魔力を注いでいるからだ。 器用だな、と半分呆れ、半分感心する。魔力を送っては止める、という行為を繰り返して 明滅させているのだろう。 魔術師たちが普通、魔術を使うときはロッドは輝いているものだ。 明滅する光の周りの闇が深くなり、逆に光が強くなる。 「悪夢は見ない。得るのは深い眠りだけ。決して悪夢は見ない」 「…………」 「安息だけがある。何も君を脅かしはしない」 ぼんやり見つめていると、その光すら闇へとけていく。 『宵闇の中で汝は青の石を手に取るだろう まぶたがゆっくり重たくなっていく。 その眠気はオンディーナを怯えさせるものではなかった。水の中に沈んでいくように、ゆっ くり、深く沈んでいく。 公爵の姿が、闇に溶けていく。 「――なんで、その名前を?」 「――かったから」 声すらも溶けていく。 ――聞こえない。 「……」 おぼろげな姿の公爵の唇が「おやすみ」と告げたのを見ながら、オンディーナはまた深い 眠りへ落ちていった。 ******** 小鳥の鳴き声がして、オンディーナは目覚めた。 朝日がカーテンの隙間からもれている。室内も明るい。 公爵はいなくなっていて、点滴も外されていた。あれは夢だったのかと疑ったが、右腕の 点滴跡がそうではない、と告げている。 何故か酷く、気恥ずかしかった。 ――なんだよ。 もっと、冷たくなくては困るのに。 ――困る? 自分の思考にハッとする。何が、困るというのだ。 別に困ることも無い。今まで通り接すればいいだけだ。 訳が分からず頭をガシガシ掻き回していると、ドアがノックされた。オンディーナの返事を 待たずして、人形が入ってくる。手には服を持っていた。 ベッドまで近づいてきて、かく、と頭を傾げる。 着替えを持ったまま、器用に自分の身体を手でこする。 「なに?」 ごしごし、自分の身体を磨くように人形はこする。 磨く。 「……風呂?」 こく、と人形は頷いた。 ――まあ、入りたい、かも。 オンディーナがベッドから下りると、人形は着替えを持ったまま、回れ右をした。 ******** 汗を流し、人形に連れられて自室に戻る途中、地下へ下りる階段を見つけた。 広い屋敷には不似合いの、1人通るのがやっとの幅の階段。ひんやりとしていそうな大理 石の階段は、ほの暗い闇に向かっていて、その先にドアがあることがうっすら分かる。 『地下には行くな』 公爵の警告が頭に響く。あのときの目つきは非常に厳しいものだった。 ――見られてはいけない何かがあるのか? 好奇心がわき上がる。 先行く人形を無視して、オンディーナは地下への階段を下りた。 段数は全部でおよそ10段ほどだろうか。下におりると寒く感じた。扉は鉄製の分厚い扉 で、錠が何重にもつけられていた。 「……全部で10個」 あからさまに怪しい。 オンディーナはノブに手をかけようとした。 「やめろ」 肩を後ろに引っ張られ、手が空振りした。 「来るなと言ったはずだ」 「……何やってんだよ」 振り向くと、黒髪青年姿の公爵がいる。 まさかこの時間に公爵が起きていたとは思わず、オンディーナは大きく鳴った胸を押さえ た。いきなり肩をつかまれたので驚いてしまったのだ。 公爵は顔をしかめる。 「こちらのセリフだ。近づくなと言ったはずだ」 「……なんか見られたらヤバいものでも隠してんのか」 公爵は無言でオンディーナを睨みつけた後、子猫でもつかむようにオンディーナの襟首を ひっぱり、階段を上がる。 首が締まる、と文句の一つでも言いたかったが、公爵のあまりの恐ろしい目つきに、オン ディーナは何も言えなかった。 ――そんなに怒らなくてもいいだろ。 ずるずると自室までひっぱられ、部屋に戻ると、いい香りが鼻をくすぐった。 クロワッサンと湯気が立ち上るポタージュに紅茶、が2組。 どう見ても自分と公爵用の朝食だ。 公爵はオンディーナの襟首を離すと、当たり前のようにテーブルについた。人形が持って いた新聞を受け取り、目を通し始める。 警戒しながら、オンディーナは公爵の向かいに座った。 「……なぁ、何で起きてんだ?」 「色々ある」 ――こいつ、答える気がねぇな。 公爵の返事は理解したが、意図が全くつかめない。 オンディーナは早々に公爵の考えを探ることをやめた。あの分厚い面の皮からは何も読み 取れないし、魔術師の考えは理解できないと相場で決まっている。 頭を使うだけエネルギーの無駄というものだ。 新聞をめくる公爵を見ながら、オンディーナはポタージュに手を伸ばした。 スプーンで少しすくいあげて、口に入れる。 じゃがいもの甘みがして、おいしく感じた。 「食べられるだけ食べなさい」 男性の声ではない声にギョッとして、公爵から一瞬離した目を戻すと、新聞をめくる赤毛 の女性の姿があった。ウェーブを描く長い髪をひとまとめにしている。歳は20代前半に 見えた。 服もドレスに変わっていて、初めから向かいには女性がいたような錯覚を受ける。 オンディーナはげんなりしながら公爵に尋ねた。 「なぁ、なんでそんなにしょっちゅう姿変えてんの」 「気分よ。あとはTPOね」 「てぃーぴーおー?」 公爵は新聞をたたんで、優雅な動作で紅茶を口に含んだ。 「時と場所と場合。女性の姿や男性の姿、子供の姿、老人の姿、それぞれ利点と欠点が あるのよ」 「……腹黒いっつうか、計算高いっつうか」 「貴族の集まりなんて、そんなものなの」 にこりと笑う、女性の公爵は確かに美しかった。その姿でパーティーにでも行って微笑め ば、いいところの坊っちゃんは簡単についてきそうだ。 「紅茶の味はどうかしら。これはジョルジっていう茶葉なのだけれど」 「わからん」 茶葉の種類など言われても、オンディーナには全く分からなかった。どの紅茶を飲んでも 味は一緒のように思えるし、だいたい飲めれば何でもいい。 呆れたように公爵はため息をついた。 「名前がある以上、違いはあるの。好きな味を覚えて人形たちに言えば、その紅茶を出し てくれるわ」 「そんなこと出来んの?」 「学習能力は高いのよ」 華奢な公爵の手がスプーンを手に取り、ポタージュをすくう。 「……女の公爵は、やたらおしゃべりだな」 オンディーナの呟きに、公爵はにこりと微笑んだ。 「だから言ったでしょう?TPOと」 「なるほど」 美しい女性の姿は、貴族の中であれば情報収集に向いているだろう。饒舌に語り、情報 を聞きだす。銀髪の青年の姿はこれの男バージョンといったところか。 やはり公爵は計算高い。 どんな姿であっても、根底にあるそれが変わらないだけだ。 「あとどんだけ姿があんの」 「数えるだけ無駄よ。この屋敷で人間を見たら私と思いなさい」 「客が来てたらどうすんだよ」 「この屋敷に客が訪ねてくることはほとんどないわ」 ――そういえば、客は来たことないな。 それに、貴族という立場であるのに公爵は出かけることが少ない。この屋敷に来てから、 公爵が外出したという記憶は一度しかなかった。 つまり、パーティーなどに呼ばれていることもないということだ。 貴族は社交も仕事の一つであるはずなのだが、公爵は全くその仕事を果たしていない ようだった。しかし公爵がパーティー好きであっても違和感がある。 にこやかに人と話す公爵の姿を思い浮かべて、複雑な気分になった。 オンディーナとしては、黒髪姿の態度が公爵らしいと思う。 当の公爵は新聞を口元に当てて、眠そうに小さく欠伸をしている。 「……眠いなら寝れば?」 「お昼前になったら眠るわ。何度も言うけど、地下には行ってはダメ。外の門にも近づかな いで。いいわね」 「……分かったよ」 口を尖らせながら、オンディーナは了承した。もうあの、悪魔さえ殺せそうな恐ろしい目で 睨まれるのはごめんだった。 公爵はにこりと笑う。 「いい返事ね。それに今日はどうせ天候が崩れるから、外には出ない方がいいわ」 「晴れてるじゃん」 「お昼から崩れるわ」 公爵はカーテンの閉まった窓を見た。 「大雪になるわね」 |