公爵はその後、熱を出して倒れた。 オンディーナは仰天したが、まるでそれを予想していたように木製人形たちは医師を呼ん でおり、看病の用意も完璧にしていた。 ほどなくしてやってきた老いた医師も、診慣れている様子だった。 「公爵の体質ですよ」 よほどこの屋敷に人間がいることがめずらしかったのだろう(公爵自身も客は来ないと言 っていた)、老医師は公爵の眠るベッドの傍らに佇むオンディーナを見つめながら言った。 「公爵は身体が弱くていらっしゃるので、時々熱を出したりされるが、深刻なものではあり ません。安静にして、薬を飲めば元気になりますよ」 起きたら薬を水に2適垂らして飲ませるように言われて、オンディーナは頷いた。 「私はお暇しましょう」 人形に連れられて、老医師は部屋を後にした。 夜であっても駆けつけてくれたのは、かかりつけの医師だからなのか。 それほどまでに公爵は身体が弱いのだろうか。 ――女みたいな細い体はしてるけど。 考えて、その表現は正しくないことに気づいた。そもそも公爵が男なのか女のか分から ないのだ。 オンディーナはイスをベッドに寄せて座った。 心なしか、眠る公爵の顔は青白い。 ――バカじゃねぇの。 悪態をついて、オンディーナはベッドに上半身を伏せた。 ――弱いなら、無理してんじゃねぇよ。 人形が戻ってきた。その手にはスープの入った皿を持っている。自分用なのだろう、と考 えて、オンディーナはいらない、と手を振った。 「眠いんだ……」 目を閉じる。 あるのは暗闇。 暗闇だけだった。 ――たぶん、悪い夢は、見ない。 オンディーナの意識は静かに沈んでいった。 ******** 衣擦れの音がして、オンディーナは目を開いた。 首が固まっていて少し痛んだが、無理矢理身体を起こすと、公爵も身を起こしていた。 「寝てろよ」 まだ窓の外は暗い。ようやく、夜が深まったところ、といったところだ。 乱暴に肩を押すと、なんの抵抗も無く、公爵はまたベッドに身を沈める。 意表を突かれて覗きこむと、忌々しげに公爵はため息をついた。 「なんだ」 「……マジで弱ってんだな」 ふん、と公爵は鼻を鳴らす。 「そう騒ぐほどでもない。副作用のようなものだ」 「副作用?」 「これのな」 公爵は寝そべったまま手袋を外し、黒く染まった手をオンディーナに振って見せた。 ランプの灯りのもとで見ても、公爵の黒く染まった部分は、止め処なく蠢いている。 少々、どころか、とてもおぞましいものだ。 オンディーナは嫌な表情を隠せなかった。 「何なんだよ、それ。あたしの呪いみたいだぞ」 「めずらしく勘がいいな。これは呪いだ」 「――は?」 何を言い出すのか、と眉根を寄せ、顔をしかめる。 公爵は手を振るのを止め、影のように黒い自分の指先を眺めた。 「呪いの名を『ブラック・フィンガー』という」 「それは、あんたの名前だろ」 「違うな。世間一般では『ブラック・フィンガー』とは私のことをいうが、真実は『呪いを喰う 呪い』を『ブラック・フィンガー』という」 ――呪いを喰う呪い。 まじまじと、オンディーナは公爵の指を見つめた。 確かに呪いと言うべき、禍々しい様相。 「魔術が劣っていた昔は、呪いに対抗する術など無きに等しいものだった。現在呪いに対 抗する魔術があるのは、先人たちの知識と実験の結晶だ。しかし、先の時代ほど、呪いと は脅威だった。そこで呪いに対抗する術が必要だった先人たちは、この『呪い』を創った」 「創った……」 「そうだ。魔術を1つ創るより、呪いを1つ創る方が遥かに容易いからな。そういう経緯が あり、この呪いには対呪いの魔術も組み込まれている。ロッドが無くとも呪いと渡り合える ように。しかし『呪いを喰う呪い』とは、つまり魔術の進歩を諦めたと言って過言でない」 それは、そういうことになるだろう。結局は呪いに頼っていることになる。 許されざることだ。魔術師は呪いと闘うことも背負っているのだから。 呪いを扱うようになった魔術師は、もはや魔術師ではない。 ――あたしに呪いをかけた奴のように。 ろくなものではないのだ。 「魔術師たちの倫理とプライドで、この呪いはもはや失われた。おそらく私が宿している これが、最後の『ブラック・フィンガー』だろう」 はっ、とした。 最後の呪い。 ――似てる。 公爵と自分は、似ている。類を見ない呪いを宿しているというところが。 ざわざわと闇がうごめく、細い指を見つめる。それが嫌な感じがするのは、自分の中の 呪いが『呪いを喰う呪い』を恐れていたからなのか。 「……あんたも、誰かに呪われたクチかよ」 「この私が、誰かに呪われるとでも言うのか」 「……憎まれてるとは、思うけどな」 が、しかし、公爵の魔術師としての腕は良いだろう。でなければ、『 誰かに呪われた、ということは考えにくいことだ。 ならば、解答は1つ。 ――自分から、それを望んだ。 呪いをコレクションとするこの男は、自分の中にも呪いを宿さなければ、満足しなかったと いうことなのか。 「そんなに、呪いが好きなのかよ。頭おかしいぜ」 「……『ブラック・フィンガー』は陽の光を浴びることが出来なくなるというデメリットと共に、 メリットも私にもたらした。少なくとも私はこの呪いを受けたことで、老いて死ねる」 神妙な面持ちで、公爵は呟いた。 遠まわしな言い方。けれどオンディーナはそれに気づいた。 「あんた、病にかかってたのか」 「科学だろうが医学だろうが魔術だろうが、いつの時代も可能、不可能はある。私の場合 は医学の不可能に当たってしまっただけだ」 ――それで、か。 確かに、オンディーナの『 けれど、それを差し引いても余りあるくらいの副作用が襲い来るのだ。 良いことばかりでは、決してない。 むしろ、デメリットの方が大きい。 「……そのままさぁ」 堪えきれず、オンディーナは口を開き、漏らした。 「死んでれば良かったとか、思わなかったのか?」 公爵の視線が自分に突き刺さる。どこまでもまっすぐに、深い黒。 ――後悔などない。 そう言われている気がした。 公爵はふぅ、とため息をつくと起き上がり、木製人形を呼んで、自分のカーディガンを持っ てこさせた。 「ついてこい」 言うや否や、公爵はベッドから下り、自室を出て行った。 「おい、馬鹿っ!待てよ!」 慌ててついていくと、公爵は身体を少し傾がせながら、のたのたと歩いている。 簡単に追いついて、オンディーナは公爵の隣に並んだ。 「寝てろよ。薬飲めって、医者も言ってたし」 「今の時間帯でなければ見られん。黙ってついてこい」 頭ごなしに言われてムッとしたが、公爵の弱々しい歩行に何も言えず、オンディーナは 黙って彼の腕を取り、身体を支えた。 公爵は何も言わない。 嫌みも、何も。 少し、緊張が解けた。 そのまま黙って、大人しく公爵の隣を歩いていると、公爵は1階に下り、地下室に続く 階段の前に立った。 オンディーナを引きつれて、闇の底へと続くような階段を下りていく。 途中、重い金属音が聞こえて、公爵を見ると、懐から鍵の束を取り出していた。 「開けていい」 「開けてくださいだろ」 鍵を渡されて少し戸惑ったが、オンディーナは手早く何重にもかかった鍵を開けた。 『――――』 公爵が何か呟いた後、ガラスが割れるような音が聞こえた。と言っても、部屋を挟んだか のように鈍い音だった。 ――魔術か? 用済みになった鍵の束を見つめる。 ここまで侵入してくる者は、おそらく一般人ではないだろう。公爵が屋敷に魔術を張り巡ら せている以上、魔術を操る者のはずだ。その侵入者対策の魔術なのかもしれない。 公爵が重い扉を開いた。 扉の向こうは、暗い廊下が続いている。 「う……っ」 「やはりな。分かるだろう」 扉を公爵が開けた瞬間、汗がにじみ出た。 嫌な、重たい空気だ。この感覚を知っている。 呪いと、それを封ずる魔術の気配。 「もしかして」 「コレクションルームだ」 「マジかよ……」 中に入った公爵の後を、仕方なくついて行く。 「オンディーナ。お前は、私が呪いをコレクションする気持ちが分からないのだろう」 「分かんねぇな」 「私も、かつてそうだった」 はぁ、と苦しげに公爵が息を吐いて止まる。目の前には重厚な鉄の扉があった。 ――嫌な感じが、する。 無数の呪いが息づいているのを感じて、オンディーナは公爵の腕を取った。 「だがこの光景が私の全てを変えた」 重厚な扉を、公爵が開く。 ――なんだ、これ。 オンディーナと公爵の前に広がった光景は、星屑だった。 無数の光が瞬きを繰り返している。 まるで夜空の星の中に立っているようで、上下左右を忘れてしまいそうな感覚に陥った。 「少し待て」 公爵が動いたことで、オンディーナはハッと我に帰る。続いてまばたきをすると、夜の闇に 慣れた目は暗いその部屋の様子をオンディーナに正確に伝えた。 決して狭くない広さの部屋を圧迫するように、ガラスの飾り棚が所狭しと並んでいる。その 中に嫌な気配と清浄な気配のするビンが並べられていた。公爵は棚の戸を開けて、中か ら1つビンを取り出した。 「決してビンに触れるな」 言い置いて、公爵はオンディーナの前にビンを差し出す。 「これが……あんたのコレクション……?」 「そうだ。呪いを封じ込めた封印ビンだ」 差し出された封印ビンの中で、黒い光と白い光が交互に点滅していた。黒から白へ。白 から黒へ。星の瞬きのような光り方はこれが原因らしかった。 「黒い光は呪い。白い光は浄化しようとする封印の光だ」 ――嫌な気配は、するけど。 中途半端に呪いを受けているせいなのか、白い光にも黒い光にも嫌な感じはする。しかし 星のように瞬くビンは美しく、夜空になったような公爵のコレクションルームはさらに美し かった。 「見ていろ、目を離すな」 公爵が取り出した封印ビンは、徐々に、しかし確実に激しく明滅を繰り返し始めた。黒と白 のバランスが崩れ始める。ビンの中で黒が押されはじめ、白い光が長く光るようになった。 それがしばし続いて、やがて、全く黒い光が現れなくなる。 ピキ、とヒビが入る音がした。 「あっ」 ビンに亀裂が入り、音を立てて崩れた。光は全くないのに、ビン自体が輝きを持ちながら 崩れ、霧散し、床に落ちる前に消えた。 後には何も残らない。 「呪いに抗う力は美しいだろう」 まるで何も持っていなかったかのような公爵の手を黙って見つめる。 「だからお前に『オンディーナ』の名を与えた」 もっとも青に近い――奇跡に近いバラの名。 公爵が認める美しいもの。 その名を公爵は『 「足掻き続けろ、オンディーナ」 顔を上げると、公爵の深い闇色の瞳が自分を静かに見つめていた。 「死を恐れ、呪いを拒み続けろ。必ず私がその胸のバラを枯らす。そうすればその呪いは 今のように、美しいものとなって消えるだろう」 ――簡単に言うなよ。 オンディーナは唇を噛む。その拒み続ける行為がどれほどの責苦なのか、公爵が知りえ るわけがない。生半可なものではないというのに、彼はさも簡単かのように言い放つ。 生きていればいるだけ、長く続く苦しみ。 たった十数年生きただけで、うんざりするほどのものなのだ。 希望など持たず、死んでしまった方がどれだけ楽になれることか。 ――あんた、分かってないだろ。 希望を持つだけ、裏切られた時が苦しくなることを。 それでも。 「本当に出来るんだろうな」 「誰に向かって言っている」 「絶対だからな。後になって出来ないなんて言ってみろ、あんたから殺してやる」 もう恐れない。 「ならばその日は一生来ないな」 公爵の皮肉に抗議するように、オンディーナは彼の腹に軽く頭突きを喰らわせた。 そのまま、顔をうずめる。 ――希望を持つことを、もう恐れない。 静寂に溶けそうな声で、オンディーナは呟いた。 「…………あんたなら、信じてやるよ」 |