――甘い香りがする。

目覚めるとオンディーナは温室ではなく、公爵に自室としてあてがわれたベッドの上に横
たわっていた。
移動した覚えはなかったので釈然としないまま、オンディーナは起き上がる。窓の外から
はカーテン越しに朝日が射して、鳥の声が聞こえてきた。
不意に手の中に何か握っている感触を覚えて、手を広げると茎のない青い色のバラを握
っていた。良く見ると純粋な青ではなく紫も入っている。
――香りの元はこれか。
しかしよけいにオンディーナは混乱した。こんなバラを手にした覚えはない。
可能性があるとすれば温室で寝ぼけて摘み取ってきてしまったのだろうか。
不意に、公爵が大事そうに手入れしていた姿を思い浮かべる。あの手つきは高価な宝石
を磨きあげるような手つきだった。よほど大事なバラなのだろう。
鼻に近づけて、その甘い香りを吸い込む。
これほどの良い香りなら、公爵が大切にするのも分かる気がした。

「眠るなら」
「ぎゃっ!」

いきなり公爵の声が聞こえて、オンディーナは肩を跳ねさせた。
顔をあげると、いつのまにか木製人形がベッドのわきに立っている。

「ベッドで眠れ。温室で眠られると邪魔だ」

声は、木製人形から聞こえてきた。

「……は?」

しん、と沈黙する。人形はそれ以上何も言わなかった。
ふつふつと、怒りがこみ上げる。

「てめっ、何て言った!?もういっぺん言ってみやがれ!」

人形は沈黙したまま、がくがくとオンディーナに揺さぶられた。キシッ、と人形の関節が
軋む音を立てたところで、ようやくオンディーナは把握した。
人形が言ったのではない。
魔術で、公爵自身が人形に伝言を伝えさせたのだ。
つまり今の言葉は公爵自身の言葉。
怒りは冷えるどころか、ヒートアップする。

「あの野郎!」

ベッドから跳ね起き、オンディーナは部屋を飛び出した。ちょうどシーツを持って歩いていた
人形に出くわし、とっ捕まえる。

「陰険野郎の部屋はどこだ!」

きぃ、と人形が首を傾げた。

「お・ま・え・の・あ・る・じ・だ・よ!」

心得たように一礼し、人形はのんびり広い廊下を歩きだす。

「走れ!」

命令すると、素直に走りだした。
素直に命令を聞くところはかわいい、とも言いきれないこともない。
しばらくついていくと、一番奥にある部屋の前で止まった。ドアとドアの感覚からしてかな
り広いらしく、主寝室であることは間違いないだろう。
ドアノブをひねると、簡単に開いた。
少し、拍子抜けする。
――大丈夫かよ。
寝込みを襲われたら、一発ではないか。
――別に、どうだっていいだろ!
自分の思考にツッコミを入れながら、オンディーナは扉を開いた。
部屋の中は朝だというのに、夜のように暗かった。大きな窓には、それに見合ったカーテ
ンがかかっており、光を遮断していた。おかげで中がよく見えない。
かろうじて物体の輪郭が分かり、オンディーナはベッドと思わしき物体に近づいて行った。
思った通り、それはベッドであり、真ん中が人の形にふくらんでいる。

「おい、クソ公爵!」

行儀悪くベッドを蹴ると、もそり、とそのふくらみが動いた。

「……うるさい」
「起きろ!ふざけたことをわざわざ伝言に残しやがって!」
「うるさい。私は寝たばかりだ、静かにしろ」

顔をしかめた公爵がオンディーナを見上げる。姿はよく見かける、黒い髪の青年だった。
オンディーナはもう一度ベッドを蹴った。

「知るか!てめぇの生活リズムがおかしいんだろうが!」

ベッドから離れて、カーテンを開けた。

「……っ」

公爵はまぶしそうに眉根を寄せ、手を目の前にかざす。
かざした手には手袋がはめられていた。オンディーナは少々驚く。この男はいつもあの手
袋をしているのだろうか。

「閉めろ」

低い声がオンディーナに命令する。

「やだね」
「私を殺す気か?」
「へっ、朝日で死ぬのはヴァンパイアだけだ」

ふぅ、と公爵はどこかオンディーナを小馬鹿にしたようにため息をついた。

「私の皮膚は陽光に弱い。長く浴びるとただれる。理解出来たな?閉めろ」

陽光に弱い。オンディーナはそれでか、とようやく屋敷中の窓にカーテンがついていた
理由を理解した。
屋敷の主人が陽光に弱いから、それを遮断していたわけだ。そして、生活も昼夜逆転の
生活になる。普通の人間にとっての夕飯が、この男にとっては朝食になるのだ。
オンディーナはしぶしぶカーテンをまた閉めた。

「理解出来たようで何よりだ」
「この野郎……」

怒りに震えるオンディーナに対し、公爵は寝そべったまま言った。

「いいか、私はこれから寝る。その間何をしていても構わんが、外に近づくな。地下室には
行くな。この2つを守れ。理解したら出ていけ」

返事の代わりにオンディーナはベッドを思い切り蹴って、きびすを返す。部屋を出る際、
ドアが破壊しそうなほどの勢いで閉めてやった。
廊下に出ると、人形が朝食をトレイに乗せて待っていたので、ギョッと驚いた。

「び、びっくりさせんなよ」
「ああ、それと」
「ぎゃあっ!」

背後のドアが開き、公爵が顔を出す。

「知能があるなら食事しろ」
「てめ……っ!」

胸ぐらをつかもうとすると、ドアを閉められ、鍵をかけられた。
怒りのままにドアを蹴る。

「ぜってぇ食ってやる!あんたの食いもんも食いつくしてやるからな!覚悟してろ!」

部屋の中からは、返事は聞こえなかった。





********





日が暮れて、空に闇が迫る。
暗くなっていく温室の中で、オンディーナは美しいバラたちをベンチに座り、じっと見つめて
いた。
がちゃ、と温室のドアが開かれ、電気がつけられた。

「……またここにいたのか」

また黒い髪の青年姿だった。あの姿が一番気に入っているのだろうか。
オンディーナは横切る公爵を睨みつけながら言った。

「何してもいいって言っただろ」
「何が楽しくて見ている」
「めずらしいだけだよ」

突き離すように答えたが、本心は違う。
めずらしいから見ているのではなくて、美しいから見ているのだ。
ぱちん、と公爵は薔薇を切り始めた。
しばし心地いい音が響く。
慎重に吟味するように切っているところを見ると、ただ単に切り落としているのではない
ようだった。剪定、というものだろうか。本当に大事にしているようだ。
ぱちん、とまた薔薇が切られる。
冷たく、はさみが光った。

<――殺せ>

どくっ、と心臓が大きく鳴る。

<殺せ>
<殺せ>

――黙れ。

<殺せ!>

――黙れ!

<殺せ!>

身体が、勝手に動いた。
バネのようにベンチから立ち上がり、バラを切る公爵に向かって突進する。
手が届く前に、公爵はオンディーナの異変に気付き、手袋をはめた手でオンディーナの額
に触れた。そのまま、地面に押し倒す。

「懲りん奴だな」
「がっ!ああああぁぁああっ!」

――止めろ。止めろ!
オンディーナは公爵の首に伸びようとする手を止めようとした。
殺したくない。
殺したくない。
脳裏に、『夜の調べ(セレナーデ)』に心身を侵された少年の姿が浮かぶ。
獣だ、あれは。
否。
獣以下のもの。
そんなものに成り果てたくない。
公爵はオンディーナの頭を強く地面に押し付けた。

『満目の企ては白き太陽に晒される 汝の影は扉に届かず 蕾は開かず 脆弱な息を潜
めるのみが赦される 煌めく円は描かれ 点は定まり 汝を害する鎖となるだろう 停止
せよ フラウディター』

白い光がオンディーナの身体を覆って、集束していく。
光が体内に入り込むのに比例するように、殺人衝動は急速に収まっていった。
代わりに、吐き気がオンディーナを襲う。

「う……っ!」

公爵はオンディーナから手を離すと、カーディガンを脱ぎ、身体を起こさせたオンディーナの
口元に押し付けた。

「吐け」
「……るっさい……っ」
「地面に吐かれた方が、後片付けが面倒だ。こっちに吐け」

我慢できずに、オンディーナはそのまま吐き出した。口の中が苦くなる。

「うえ、ぇっ」

朝と昼に食べたものが、全て出ていってしまった。全て吐き出したと見ると、公爵はいつ
のまにかいた木製人形によごれた上着を渡し、持ってこさせた水をオンディーナの口元に
押しつける。

「いらない……」
「飲めと言ってるんじゃない、口をすすげと言っている」
「何なんだよ……」

吐き出せるものは吐き出したのに、まだ胃の中が熱かった。
酷くイライラして、自分を抑えられない。
肩に置かれた手が、熱を持っていて気持ち悪い。
――放っておけよ。
苦い口の中を、ぎり、と噛んだ。

「馬鹿じゃねぇの、汚ねぇガキに構って。ほっとけよ、どうせ死にゃしねぇんだ!」
「口をすすげ」
「あんたいったい、何がしてぇんだよ!」

オンディーナは公爵の胸ぐらをつかんだ。

「殺したい奴がいるならさっさと言えよ!もういいよ、殺してきてやる!だからあたしをちや
ほやしてんだろ!?こんな回りくどいことしなくてもやってやるよ、どうせいつかは誰かを
殺すようになるんだ、ほら、言えよ!今すぐ殺してきてやる!」

――こいつといると、おかしくなる。
公爵の毅然とした態度は、自分の胸の中をかき乱す。自分のペースが保てない。
嫌いだ、と思った。
この男が嫌いだ。
オンディーナは胸ぐらをつかむ力をさらに強くした。

「……」
「なんだよ、言えねぇのか!おキレイな公爵さまのために何人でも何十人でも何百人でも
殺してやるって言ってんだ!」
「低能が」

低い声で公爵は呟き、オンディーナの手を払った。
冷たい視線を向けられ、びくり、とオンディーナは一瞬ひるんだが、すぐに睨み返す。
公爵は視線をそらさず、衿元を正しながら言った。

「お前のものさしで私を語るな」
「うるさい……!人間なんか、どいつもこいつも殺すことしか考えてねぇんだ!」
「お前は夜空の星を数えられたのか」

話が訳の分からない方向に飛んで、オンディーナは思わず唖然とした。
公爵は淡々と問う。

「数えられたのか」
「そ、そんなの知るか!」
「人間は脳で物事を考える。そして人間の脳細胞は夜空の星と同等の数ある」

それがなんだというのか。

「夜空の星の数も知らないのに、それと同等の数ある脳細胞を持つ人間のことは知った
ように語る。全く、低能のすることだな」
「な……っ!」
「お前の見てきたものなど、指の輪から覗いた星の数程度だ。憎悪しか知らないのは、
人間の一面しか知らないということと同義語。人間とは何かという問題は、先人達が悩み
続けている難問だというのに、お前のような猿が分かったように語るなど、失笑ものだ」

黒い手が、オンディーナの目を覆う。
深い闇だ。
いつだって、闇を見てきた。
醜い人間の性根。それが、数える程度の星なのか。
一面しか知らないというのか。
――でも、そういうもんじゃねぇか。
憎ければ殺し、邪魔であれば殺し、いらなくなれば殺すのが人間だ。

「私はお前に殺人を決して命じない。私が殺人を美しいと思わないからだ。人の死は美し
いものもあるが、殺すという行為は醜い。それが私の価値観だ」

――価値観?

「オンディーナ」

公爵が、名を呼ぶ。

「……」
「難しいことは、まだ考えなくていい。眠れ、今は」

ゆっくり頭が傾いでいくのを、公爵は手のひらで受け止める。
穏やかな表情で眠りこんだオンディーナを、公爵は丁寧に抱き上げた。そばでオンディー
ナを心配するように人形がゆらゆら揺れる。
ふぅ、と公爵はため息をついて口を開いた。

「不眠、精神不安定、拒食。心的外傷からくるものだ。朝食と昼食もあまり口にしなかった
んだろう?」

こくり、と人形は頷いた。

「性格上、煽れば食欲も湧くかと思ったがしばらくは無理のようだな。胃が受け付ける受け
付けない以前の問題だ。食べるのは本能だ。それが薄れているのは、オンディーナの心
に問題がある。あまりにも食べないようなら、点滴も考えなければ」

人形が首を傾げる。
公爵は暗い窓の外を見た。朝は晴れていたのに、雪がちらつき始めている。

「……部外者はあまり招きたくないがな。外ではまだオンディーナを探している。隠し通せ
るかどうかは微妙なところだが、医者は必要なら屋敷に通さなければいけない」

厳しい表情で雪を見つめた後、公爵は人形を連れて温室を後にした。









BACK  TOP  NEXT