久しく忘れていた穏やかな気分で、少女は目を開けた。
しかし目に映ったのは、何やら複雑な模様が描かれた天井であり、少女はそれに驚いて
身を勢いよく起こした。
見知らぬ天井に驚いたのではない。
天井があるということに、まず驚いたのである。

「な、何だよ、ここ……」

しかし驚きはそれにとどまらず、部屋の豪華さにも少女は目を丸くした。
まず、自分が眠っている、大人2人は余裕で眠れそうなふかふかのベッド。
凝ったデザインの調度品に、部屋を暖かくする大きな暖炉。少女がこれまで見たことなか
った美しい薄緑色の壁紙に、時刻を知らせる大きな柱時計。
その時計は午後1時を指していたが、少女は生憎時計が読めなかったため、今まで眠っ
ていたベッドから降りて、カーテンを開いて大きな窓を開けた。
光が目に沁みたが、少女は目を細めて太陽の位置を確認した。

「もう昼なのか……」

けれどこの状況、時刻だけを知っても意味がない。
何故、自分がこんなところにいるのか。
―― そうだ、昨日……。
そこでやっと、少女は眠る前のことを思い出した。怪しい男に出会い、おかしな光を浴びて
眠らされたのだ。
――ってことは、ここはアイツの住処か。
緊張が体に廻る前に、キィ、と何かが軋む音がして、少女はビクッと体を震わせながら音
がした方に振り向いた。
そこには、木で出来た人形が立っていた。
人形、と言っても、本当に人型をしているだけの簡素な人形だった。顔の造形すらされて
いないマネキンのような形。
その人形が、こちらを向いて首を傾げていた。

「……は?」

まさかあれが動いたんじゃないだろうな、と思った瞬間、人形は反対方向に首を傾げて
見せた。また、キィ、と軋むような音が鳴る。

「う、うわぁぁ!動いた!!」

驚きのあまり、窓から外に出ようとしたが、寸でのところで思いとどまる。どうやらここは
2階のようだが、普通の建物と違って、2階位置がかなり高い。この部屋を見れば分かる
が、この建物は天井が高いようだ。だからこそ、通常より2階の位置が高いのだろう。
死にはしないかもしれないが、確実に怪我を負う。
冷静になれ、と自分に言い聞かせる。
あの人形はどうやら魔術がかかっているらしい。そうでなければ、人形がひとりでに動く
わけなどない。それはホラーの世界だ。
――まぁ、関係ないか。
嘲笑を浮かべた後、そのまま外に飛び降りようとした少女だったが、その前に人形に捕ま
えられてしまった。
まるで重い荷物を持つかのように、肩に担がれる。

「お、おい!何やってんだよ、離せ!離せこのヤロ!」

げんこつをかまされようが、蹴りを入れられようが、人形はお構いなしに足を進め、少女を
担いだまま部屋を出る。
部屋の外は廊下だったが、この廊下も天井が高く、壁はシミ1つない白、床はピカピカに
磨き上げられた黒色の大理石だった。壁にはところどころ、壁かけランプが設置されてい
る。先ほどまでいた部屋と、この廊下を見るだけで、かなり裕福な家だと分かった。
しかし、奇妙なところがある。
この廊下――昼だと言うのに、かなり暗い。
その理由は、珍しいことに廊下の窓全てに、カーテンがかけられているからなのだが、そ
れも全て閉まっていた。
――陰気くせぇな……カーテンくらい開けとけよ。
せっかくの陽光が、カーテンによって遮断されてしまっている。もったいない。
反抗に疲れた少女は、ため息をつきながら大人しく人形に担がれていてやった。
いったいこの人形は、自分をどこに導こうと言うのか。
キィキィ、と軋ませながら人形は階段を下りて1階へ行き、2階と同じく暗い廊下を進み、
とある部屋のドアを開けた。

「……風呂?」

入った先には、立派な洗面台と浴槽が見えた。洗面台の下には何を入れているのか、横
幅1メートル程の収納スペースがあり、備え付けられた鏡もかなり大きい。
洗面台の横にはタオルかけと、ベンチのような形状の皮張りの椅子が置かれていた。

「なんつー、馬鹿でけぇ風呂場……しかも、泡風呂……」

浴槽自体も、足をのばしてなおかつ余りそうなほどの広さ。さらに浴槽を囲むようにして
3面に備えられた大きな窓も、優雅な雰囲気を醸し出すのに一役買っている。
惜しいのは、ここでも窓にはブラインドがかけられていることだが。
呆れたところで、人形はようやく少女を床に下ろした。
下ろされた少女が首を傾げると。

「ぎゃあっ!」

人形は、少女のボロボロの服を脱がしにかかった。

「何すんだ、ヤメロ!バカッ、アホッ!ヤメロって!」

しかしその声は届かず(そもそも聞こえているのかさえ怪しい)、人形は器用に少女の泥
まみれの長袖シャツ、破けた半ズボンなどを脱がし、シャワーを少女の頭からかけると、
浴槽へと放り込んだ。

「ぶはっ!」

泡まみれになりながら顔を出すと、頭の上に液体をかけられる。かと思ったら、乱暴にごし
ごしと髪の毛をかき混ぜられ始めた。

「痛い痛い痛い!ヤメロ、アホッ!」

またもやその声は届かず、一度シャワーでお湯をかけられ、またその後同じように乱暴に
髪の毛を洗われた後、今度は身体をボディーブラシで洗われた。
もはやその時には、どうにでもしてくれ、な状態の少女だった。
最後の仕上げにシャワーを浴びせられて、タオルで拭かれながら鏡の前に立つと、見違
えるほどキレイになった自分に少女は驚きを隠せなかった。
泥でくすんでいた肌は白くなり、汚れて灰色に見えていた短い髪も真っ白に。少女の紫の
瞳は、驚きに満ちていた。
――ずいぶん忘れてたな、自分の髪の色なんか。
汚れているのが当たり前の状態だったため、自分の髪が真っ白であるのが少し気持ちが
悪い。
バスローブを着せられ、イスに座って髪を乾かされながら、少女は眉をひそめた。
――つーか、あの男はどこに行ったんだ?
不意に鼻先に何かを差し出された。
少し驚いて身を引き、焦点を合わせると、それは服であることが分かり、その服を持って
きたのは、現在髪を乾かしている人形とは別の人形だった。
――着ろってことか。
意味を読み取り、服を見て――少女はげんなりする。
服は3着あったが、どれもワンピースだ。スカートだ。スカートはスースーとして苦手なため
少女は顔を逸らした。

「どれもいらねぇ。あたしの服、返して。持ってきて」

キィ、と軋みながら首を傾げた後、人形は服を持って外に出ていき、数分後、言われた
通りに少女の服を持ってきた。
びしょ濡れで、泡まみれの少女の服を。
どうやら洗濯中だったらしい。

「……それに似た服を持ってきてくれ」

さすがに、泡まみれの服は着られない。
さらに数分後、今度はシャツとセーター、ズボンを持ってきた人形から服を受け取り、それ
に着替えた。あまりにも着心地が良くて、肌がゾワゾワするが、スカートじゃないだけマシ
というものだ。
浴室から出ると、人形たちは再び少女を先ほどの部屋に案内した。
テーブルの上には、スープが用意されてある。

「……どうも。もう、いいよ」

人形たちに言うと、彼らはお辞儀を1回してから部屋から出ていった。言葉が通じていない
のかと思っていたが、ああいう行動を見る限りある程度は伝わっているらしい。
少女はため息をついて、スープを見つめた後――それを無視した。
食べる気にはならない。何が入っているのか、分かったものではない。
それに、ようやくここまで体を衰弱させたというのに、回復させては意味がない。
ただでさえ眠ってしまったおかげで、少し体力が戻ってしまったのだ。

「……ちっ」

少女は舌打ちをした後、窓に近寄り、足をかけ――躊躇なく、宙へその身を投げ出した。
ドサッ、という音が響き渡る。

「いって……」

という言葉だけで済んだのは、降り積もった雪のおかげもあるが、少女の身体が尋常でな
いくらい丈夫なことにもある。普通の人間なら捻挫くらいするものを、少女の足は全くもって
無事だった。
――いい天気だな。
昨日の雪が嘘のように、今日の空は晴れ渡っている。
そのままサクサクと雪を踏みしめながら広い庭を歩いていき、外へ出る門の前に立った。
この門も、自分の身長の3倍はありそうなほど高いし、大きい。
――何で金持ちって、でかいものを作りたがるんだろ。
うんざりしながら、少女は門に触れた。
が、その手は弾かれた。

「っ!?」

しかも、手がビリビリと痺れるように痛い。
痛む右手を、左手で覆いながら少女は門をまじまじと観察する。
とくに、おかしなところはない。いたって普通の門扉だ。
では先ほどの痺れるような痛みは何だったのか。静電気、というには痛すぎる衝撃だ。
この痛みを体感してしまった以上、二度とこの門に触れる気は起きなかった。胸がざわざ
わして、ここにいたくないという気持ちが大きい。
――何なんだよ。出られもしないのか。
塀をよじ登って出ていく選択肢もあるが、残念ながらそこまでの体力は戻っていない。歩く
ので精一杯だ。
ため息をついて、屋敷に戻ろうと振り返ると、屋根がガラス張りで出来た建物が視界の端
に入った。丁寧に、屋根に積もった雪は落とされているようだ。
屋敷へ向かおうとした足を、そちらに方向転換させて、少女は建物へと近づいた。
そう、大きな建物ではない。板壁で出来た、素朴な雰囲気のする建物だが、やけに窓が
広い。
その窓から中を覗いてみると、所狭しとさまざまな種類のバラが咲き誇っていた。

「……あったかそうだな」

入口の方に回って、ドアノブに手をかけると、ドアは何の抵抗もなく開いた。鍵はかかって
いなかったらしい。
中に入ると、暖かな空気と一緒に、かぐわしいバラの香りも漂ってきた。
少女は無意識に鎖骨に手を触れた。
この忌まわしいバラも、こんなに美しかったら何かが違っただろうか。
ふるふると、何かを諦めるように首を振り、小屋の中にベンチを見つけた少女はそこに座っ
た。このベンチも、無駄に細工がほどこされていて、バラの園にふさわしい豪奢な造りだ。
暖かい室内と、心地のいい香り。
それらに包まれた少女のまぶたは重くなり、いつの間にか彼女は座ったまま、浅い眠りに
落ちた。





********





パチン、と何かを切る音で少女は目覚めた。
――切る、音?
冷や汗をかきながら少女は飛び起き、自分の手のひらを確認した。震える手のひらには、
何もついていない。持っていない。
極端に安堵しながら窓の外を見ると、すでに日は沈んでいた。が、室内は天井に設置さ
れた電灯のおかげで十分明るい。
ふと見ると、何故かひざに黒いマントがかけられていた。

「起きたのかい?」
「っ!!」

背後から声を掛けられ、驚いた少女はベンチから飛び上がるようにして逃げ、後ろを振り
返った。
そこには、儚げな微笑みを浮かべた、銀髪の青年が立っていた。
銀色の瞳が、穏やかに微笑む。

「よく眠れたかな」
「……だ、誰だ、あんた」

やけに親しげに話しかけてくるが、こんな男に会った覚えはない。いくら人間嫌いの自分
でも、こんなにも美しい人間に会っていたら、否が応でも覚えているはずだ。
少女が警戒心も露わに訊ねると、青年は首をゆっくりと傾げて見せた。
さらり、と銀色の髪が揺れる。
それに目を奪われていた間に、青年は「ああ」と思い出したように微笑した。

「君に会ったのは、この格好じゃなかったんだっけ」

言うや否や、青年は光とともに――姿を変えた。
漆黒の髪と目を持つ――昨日の男の姿に。

「この姿で分からないなら、記憶力が貧弱すぎるな」

覚えていないはずはない、のだが少女は絶句した。
目の前で起こったことが信じられない。

「夢だ……そうだ、これは夢だ、寝よう」

ブツブツと独り言を言いながら、地面に落ちたマントを拾ってベンチに横たわろうとすると、
襟もとをつかまれた。

「食事を取らなかったようだな」
「……それが、何だってんだよ。あんたには関係ねぇだろ」
「死なれては困る」
「ああ、そうだろうよ。あたしに死なれちゃ、殺したい奴も殺せなくなるからな」

刺々しく、毒さえ含んでいそうな少女の言葉に、男は嘲るようなため息をついて、襟首から
手を離した。
――こんなところでも、手袋してやがる。
この部屋の中は十分暖かいのに、それでも手袋を外さない男が奇妙に見えた。

「鳥頭か、お前は」
「……は……はぁっ!?」
「殺すな、と言ったのを忘れたのか。精神を闇の中へ放り出したいと言うのなら別だが、そ
うはなりたくないだろうが。黙って私の言うことを聞け」

心底、馬鹿にされている。そもそもそんなに、心が広い方ではない少女は、こめかみに
血管を浮かばせながら、男を鋭く睨みつけた。

「誰とも知れない奴の言うことなんぞ、誰が聞くか!」
「ラマルク公爵だ」

滑るように男の口から漏らされたその言葉に、少女は固まった。
公爵。
それは――王族を除いた、貴族の中で一番位の高い爵位だ。
今までずいぶんと、否が応でも高い地位を持つ人々と出会ってきた少女だったが、それで
も『公爵』という位の人間に出会ったのはこれが初めてのことだった。

「他にもあるが、この名前と『ブラック・フィンガー』の名が一番使いやすい」
「はっ……豪勢なこった」
「お前の名は」
「ねぇよ」

少女は考える間もなく、即答した。

「ないわけはないだろう」
「貴族様には考えつかないような事情が、この世の中いっぱいあるんだよ」
「名がなければ不自由だ」
「じゃあ、38番とでも呼べ」
「……私にそんな無粋な名前を口にしろと?」

心底嫌そうな表情と口調で、公爵と名乗った男はため息をついた。そのため息は、少女が
今まで聞いてきたため息の中で、一番重かったような気さえした。
――無粋だろうが何だろうが、どうでもいいだろ。
この男もすぐに、自分を使い始める。己にとって邪魔なものを消すための、殺戮兵器として
利用するに決まっているのだ。
それなら名前など、気にする問題ではない。

「オンディーナ、だ」
「…………は?」
「何だその呆けたマヌケな顔は。お前に名を与えると言っている。これからオンディーナと
名乗れ」
「は……はぁ!?勝手に決めんな!」

少女が叫ぶと公爵は理解に苦しむ、といった表情でかすかに首を傾げた。

「この世で最も美しいものの名だ。何故拒む」
「名前が嫌だって言ってんじゃねぇ、勝手に決めるなって言ってんだ!」
「では勝手に名付けられたことを忘れろ」

あまりの言い分に絶句していると、不意に公爵は上を見上げた。

「朝食の準備ができたようだな。帰るぞ」
「ちょ……うしょく?」

改めて外を見るが、暗い。日は暮れている。それとも自分がそう思っていただけで、実は
この暗さは早朝だからなのだろうか。
色々なことに混乱しすぎて、ぼんやりとしか思考が働かない。そんな彼女を知ってか知ら
ずか、公爵は少女に近寄ると、おもむろに手首を取った。

「ロッド」
「は?」

彼の開いている方の手に、先に丸い石のついた棒が現れた。
石が白く光りはじめる。

『開かれし門は我が名を呼び 声無き力はその名に呼応する 風の音よ 天空の
色彩よ 伸ばされたる迷い子の手を導き 故郷の土に抱かれる至福を知らしめよ
涙の渇きより早く キャンナット』

瞬きした間に景色が一変したことで、少女――オンディーナは自力で推測することを完全
に放棄した。










BACK  TOP  NEXT