闇の中、白い欠片が降っていた。それが雪である、ということはこの寒さを体感していれ
ば、嫌でも知れるというものだ。
雪は平等に、地面にも屋根の上にも、横たわっている少女にも降り積もる。
雪に接している少女の右頬は、もはや感覚さえなかった。
少女の身体は蝕まれていく。
しかしそれは、寒さにではない。
――あぁ、やっと。
人1人が通るのが精一杯の裏路地で、孤独に倒れているこの状況が、この上なく喜ばし
い。もう、誰にも会いたくなかった。
――やっと、死ねるんだ……。
身体はとうに冷え切り、食事もとっていないので衰弱している。しかし、この衰弱していく
感覚こそが、少女が心から欲しかったものだった。
真っ黒な闇と、白い雪を見ていた瞳を閉じると、まつげに降り積もった雪が滑り落ちた。

「――『夜の調べ(セレナーデ)』か」

ぞくりとするような低い声が、雪と共に少女に降り注ぐ。
――ああ……くそったれ!
少女はつむった目をさらに強く閉じた。冷たいはずの皮膚に汗が滲みそうなほど、身体が
一気に熱くなる。
分かる。自分以外の体温が。息使いが。衣擦れの音が。
人がいる。
自分の目の前に。
<殺せ>
脳内を震わす邪悪な甘い声が聞こえる。
――止めろ。消えろ!
消えてくれと、切に願う。けれどその願いは目の前の人物には届かない。

「……それも穢れていないとは」

――ああ、もうダメだ。

「うあぁあああぁぁぁぁあああああああっ!」

弱り果てていたのが嘘のように、少女は体をバネのようにして起き上がらせ、目の前に
立つ男に襲いかかった。
体当たりされた衝動で、男は少女に上に乗られた格好で雪の上に倒れた。
やせ細った手が、男の首にかかる。
見た目からは想像できないほどの力強さで、少女は首を絞めた。

「う、ううぅぅっ!ううぅっ!」
「…………」

<殺せ>
<殺せ>
<殺せ>
<我が存在理由は、殺戮のみ>

「うっ、ううぅっ!」

首を絞める力が、強くなっていく。
熱くなる身体とは裏腹に、少女の心は怯えて冷たくなっていく。
――いや、だ。

「――いや、だ……殺したくない……」

少女の目から、涙がこぼれ落ちた。
こんなことを望んでいるのではない。望んだことなど一度もない。
無理矢理に与えられた衝動。
気まぐれに与えられたもの。
なのにそれを、必ず人間は利用するのだ。
雫が男の唇を濡らす。

「助けて……殺したくなんか、ない……!」

濡れた黒曜石のような男の瞳が、少女の涙を見つめた。
そして――不敵な笑みを漏らす。

「貴様に私が殺せるものか、『夜の調べ(セレナーデ)』」

低く、嘲笑うような男の声に――少女の中の何かが怯えを見せた。
その怯えは確実に身体伝染し、首を絞める手が震え始める。
――な、に……?
こんな反応は初めてだった。
自分の中の――凶悪な呪いが恐れを見せたのは。

「さすが……低俗な呪いとは格が違う。しかし私が恐ろしいだろう?私のこの指が(・・・・)

すっ、と手袋をはめた指先を向けられた瞬間、少女の身体は本人の意思と関係なく、男の
身体の上から飛び退いた。
身体の内側で、呪いが荒く息をしている。まるで警戒しているようだった。
男は、まるで闇の中から生まれたのではないかと思ってしまうくらい、全身黒に包まれて
いる。髪も瞳も、服も靴も手袋も、何もかもが漆黒。
ただ、彼の肌と雪だけが異様に白かった。
男は起き上がり、自分の服についた雪を払いのけた。

(ひざまず)け。私が貴様を飼ってやろう」

――飼う、だと?

「――ふざ、けんな……」

男の言葉に、かすれた弱々しい声で少女が鋭く言葉を返す。

「どいつもこいつも……人を、殺戮兵器のように扱いやがって……てめぇだって一緒だ、
あいつらと……死にたくなかったら、目の前から失せろ」
「ほう。理性もまだあるか……」
「殺せ殺せ……って……うるさいんだよ……!そんなに誰か殺したいなら、自分でナイフ
でも銃でも持って、てめぇで殺せ!あたしに命令すんなっ!」

少女の言葉を嘲笑するように男が笑う。

「はっ……全くもってその通りだ。見事な正論だが、1つだけ訂正しておく」

黒い手袋をはめた右手が、少女に向かって伸ばされる。
――雪が。
男の指先に集まっていく。
――いや、違う。あれは、雪じゃなくて。
―― 光、だ。

「――お前は、人を殺すな」

今まで、決して言われなかった言葉に、身体が、脳が、硬直している間に男は少女のもと
へスルリと近寄り、彼女の鎖骨に白い光を伴った指先を当てた。

『満目の企ては白き太陽に晒される 汝の影は扉に届かず 蕾は開かず 脆弱な息を潜
めるのみが赦される 煌めく円は描かれ 点は定まり 汝を害する鎖となるだろう 停止
せよ フラウディター』

冷たくなっていた体が、まるで湯を浴びたようにあたたかくなっていく。
同時に、眠気も襲ってくる。
やわらかな――安堵をもたらす眠り。

「眠れ、『夜の調べ(セレナーデ)』よ。貴様が歌うことは、決してない」









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