ダンラルグはその日から、ガイアのパッケージについて色々質問を重ねてきた。
 私がそれに答えるたび、彼は優しげに微笑んで、穏やかに褒めてくれる。
 君のおかげで、この世界の人たちも包装の重要性を見直すだろう。君は素晴らしい提案をしてくれた、と。
 ペレッペさんも、ダンラルグのお仕事の一部に関わっていることを知り、こんなに幼いのにお仕事のお手伝いができるなんて、果ては大商人ですねぇと笑わせてくれた。
 時折来るガルマンさんも、パッケージデザインを伝えるために描いた私の絵を見て、とてもよく描けている、と幼児に向けるような賞賛を述べてくれた。
 そのどれもが、くすぐったくもあったかかった。
 自分でも意識しないうちに凍りついていたらしい心が、春の訪れと同時に溶けゆくつららのように、じっくりじっくりと溶かされて、キレイな水になっていくような心地がする。

 この世界は、穏やかだ。

 そう感じたのは、ガイア風の包装がダンラルグの店で定着し、人気を博すようになったころ。
 こちらの世界に来て、半年が経っていた。





********





 糸を撒くような雨が降っている。
 太陽は雨雲に隠れ、肝心の雨粒も空が薄暗いせいで見ることはできない。
 雨音だけが、屋敷の静寂を打ち破るように響いていた。
 ペレッペさんは現在、買い物に行っている。雨が降ってきたから少し肌寒いでしょう、と夕食の予定になかったスープを作ってくれることになった。
 ガイアで言うところのコンソメスープかな。ペレッペさんのスープはすべてが手作りだから、より一層おいしく思える。
 読んでいた本を膝の上に置いて、いったん休憩するためうにー、と伸びをした。肩がバキッと鳴ったけど気にしない。うら若い乙女が出すような音じゃなかったけどリビングには誰もいないし、恥ずかしくない。
 この半年間いっぱい本を読んだけど、やっぱり加護魔法(パッケージ)を解くのは無理なことみたい。どの本を読んでも『加護魔法(パッケージ)の決定はご利用的に』なんてどこの金融会社なんだこちとら加護魔法(パッケージ)するつもりで唱えたわけじゃないわ……ダメダメ、やさぐれてる。加護魔法(パッケージ)の解けなさにやさぐれてきちゃってる。
 やはりこの加護魔法(パッケージ)と生涯を寄り添う決意を固めなくちゃいけないのかなぁ。誰か、誰か加護魔法(パッケージ)を解いてよ!
 はぁぁ、と重いため息が漏れた。
 しかしすごい雨だなぁ。午前中は快晴だったのに。ペレッペさんと一緒に慌てて洗濯物を取り込んだのを思い出す。
 こっちでは天気予報がないから、明日の予定を立てにくいんだよね。明日が晴れなら大きな洗濯物を干して、とか考えられるのになぁ。
 もう一度肩を鳴らしたところで、ちゃりん、と音が響いた。
 おっとっと、とダンラルグからもらったペンダントを確認する。鎖、切れてないよね。
 日常的につけるには高価なものだから渋ってたんだけど、ガルマンさんが「使わない道具は無駄な道具ということだ」って言うから身につけることにした。高価そうだからビビってただけで、デザインはかわいくて好みだったからね。開き直れば毎日つけるほどのお気に入りだ。
 アメジストみたいな宝石を撫でて、ご機嫌になって。
 あれ?と気付いた。
 今朝、晴れてたんだよね。ダンラルグのお見送りしたから知ってる。そのダンラルグだよ。あの人、傘持って行ってたっけ?
 うーん……うーん…………持ってってないな!
 えぇぇ、この土砂降りの中、ダンラルグ傘なしで帰ってくんの?か、かわいそうじゃない?あの毛並みが濡れちゃうの、かわいそうじゃない?
 ペレッペさんもお風呂以外で毛並みがびっしょり濡れるの嫌がるもんね。1回窓掃除してるときに頭から水を被ってて、うさミミがへっちょり折れてた。
 獣人にとって、濡れるのってものすごく嫌なことなんじゃなかろうか。
 ざぁざぁと降る雨を見て、一考する。
 ……ダンラルグのお店の場所は知ってる。何度か連れてってもらった。道も覚えてる。
 …………傘を持って行ったりしたら、喜んでくれるかな?
 ちょっとそわそわする。なんて言うか、初めてのおつかい、秘密バージョン的な。
 傘を届けたらダンラルグは喜んでくれる気がした。日本人感覚としては、ちょっとオーバーなくらいのリアクションをくれると思う。
 普段お世話になってるし、そう、届けに行こう。
 ペレッペさんには一応言っておこう。ペレッペさんが買い物から帰ってきたときのため、紙に「ダンラルグに傘を届けに行ってきます」と書いた。もちろんこちらの言葉で。
 リビングから玄関へ向かい、隅に置かれた傘立てから傘を2本抜く。
 1本は私用。1本はダンラルグ用。
 ダンラルグの傘をしっかり持って、私は外へ出た。
 鍵の心配は必要ない。ダンラルグに拾われて3か月経った頃、「サクがいるから防犯対策はしっかりしておこう」と言って玄関のドアがオートロック……的なものになった。魔法、じゃなくて魔法陣により、ドアが閉まったら勝手に鍵がかかるような仕組みになっているらしい。難しいことはわからなかったけど、魔法は便利だなって考えておいて間違いない。
 あとやっぱりダンラルグは親馬鹿かもしれない……。でもペレッペさんも勧めてたし、あのガルマンさんも同意してたからなぁ……。
 この世界の常識を量る目安はガルマンさん>ペレッペさん>ダンラルグだ。この半年で、それだけはきっちり学んだ。
 ダンラルグは自分に都合が悪いことだとさらっと嘘を吐く。「15歳になっても女の子は結婚するまでは実家で暮らしながら、来るべき日に向けて花嫁修業をするものなんだよ」なんて本当にしらっと言うものだから2週間くらい信じてた。ガルマンさんが「15歳になったらどこの町に住みたいとか、ここに残りたいとか志望はあるか?」と聞いてくれなかったら今でも信じてたよ。ガルマンさんありがとう。
 閉まった扉を背に、私は美しい庭を駆けて門の外に出た。

 町には獣人の姿が見られなかった。代わりに数人の人間がぽつぽつといるくらい。ダンラルグやペレッペさんとお買い物に出たときよりも、空気が静かだ。たぶん雨だから、皆家の中にいるんだろう。
 石畳に当たって跳ね返る雨粒で足元を濡らしながら、私はダンラルグの店がある方へと急いだ。獣人が多いこの町で、獣人がいないのはとても変な感じがする。
 誰もいないショッピングモールとか、廃校になって間もない学校とか、そういった類の特殊な静けさは不安感を覚えさせるものだ。誰もいない夜の病院とか夜の美術館とかはホラーの域に入るから除外な。貴様らにあるのは不安感ではなく、恐怖感だ!
 あー、ホラーと言えばこんな雨じゃないけど『ミスト』って映画もあったよね。なんかぼんやりとしか知らないから、ガイアであらすじだけ知っちゃったのかな。町が霧に囲まれて、そこで悪夢……あれ、これ何か映画じゃなくて別のゲームな気がしてきたぞ。
 町を歩く人が少ないせいで、こんな恐い思考になってるんだ。今なら街角からクリーチャーが鉄パイプを持って出てきても「やっぱり?」と思える自信が……さすがにない。そんなんあったら、第一声は間違いなく悲鳴だ。次に断末魔な。生き残れる気がしない。
 あぁ、そう、街角。えーと、ダンラルグのお店にはそこの大きな角を曲がるんだったよね。
 ぴちゃぴちゃ、という足音は雨音で消される。それでもルンルン気分で傘をしっかと握りしめて、角を曲がろうとした直前。
 横から手が伸びて来た。
 ドッ、と心臓が一拍強く打った。
 どこから、と手が出て来た方を見ると、路地になっていた。角を意識しすぎて、そこを見てなかった。
 路地の薄暗闇に紛れて、黒や茶色の服を着た、どう見てもチンピラな男が2人いる。
 獣人じゃない。人間だ。
 それがわかったところで、どうしょうもなかった。
 私が悲鳴を上げる前に、黒い服の男が手で口を塞いだ。そのまま路地裏に引きずり込まれる。
 ――嘘。誰か。
 視線だけを辺りに滑らせる。
 獣人は雨だから、外に出ていない。人間も雨音で連れ込まれる音を消され、傘で視界が悪くなってるから気付かない。
 ――誰も。
 誰も、助けてくれない。

「見ろ、めずらしい顔立ちしてるぜ」
「高く売れるな。髪もめずらしくはねぇが、手入れが行き届いてる」

 手が、髪を掴む。
 止めてよ。せっかく伸びたの。切らないで。
 人間の手が恐い。
 ダンラルグの手は違った。人と違って、いつもあったかくて、異形の手だった。ペレッペさんの手も人間じゃない。ガルマンさんの手もそう。
 恐くてぎゅっ、と縮こまった私は相手にとって都合が良かったらしい。あっというまに猿轡を噛まされて手足を縛られ、荷物のように抱えられてしまった。
 チンピラたちは複雑な路地は庭である、と言わんばかりにひょいひょいと角を曲がって、走って、いつのまにか町外れの森の入口まで来た。木々に隠すようにして置いてあったのは幌付きの荷馬車だった。
 恐怖で凍りついた頭でも、なんとなく感じられる。
 あの中――よろしくないものが入ってるんじゃないか?
 幌を開けられて、まさしく荷物のように馬車に乗せられると、身も心も固まった。
 中には……獣人の、本当にまだ幼い子供が5人いた。
 完全に獣型のネズミ獣人もいれば、姿形は人に近いけど一部分に獣性が残る猫の獣人もいる。
 共通してるのは、好奇心につられてお母さんの手からパッと離れて行っちゃうような、小さな小さな子ばかりだったということだ。どの子も大きな目に涙を浮かべてる。
 ――ヤバい。
 恐怖で麻痺していた頭と身体が急に働きだして、生々しい現実感が胸に刺さる。
 ――これ、誘拐だ。
 今さら何を言ってるんだろう、私。でも今まで、連れ去られたのが誘拐なんだってことがピンと来なかった。
 一般的に。
 一般的に、金銭目的の誘拐は割に合わないっていう知識が脳に入ってる。どこで知ったかは知らないけど、金銭目的の誘拐の場合、お金を受け取る場合に必ずリスクを犯さなければならないから、らしい。だから金銭目的の誘拐は近年あまり聞いたことがない。
 でもそれって、安全な日本だったからなんじゃないか?
 それに、誘拐犯がお金を欲してない場合――どうなるの?
 殺すために誘拐する、とか。そんなの、生きられる可能性0じゃん。いやでも待って、あのチンピラたち売るとか言ってた。売るって、私とこの子たちを売るってこと?臓器売買?こちらの世界でも、臓器移植みたいな外科医療って発達してるんだろうか。魔法があるのに。
 あぁ違う。そういえばこの世界には奴隷がいるんだっけ。
 ガルマンさんとダンラルグが最初に言ってなかった?奴隷を買うなんて、野蛮な人間がすることだって。こちらの世界じゃ人間が奴隷を買うの?

 ……獣人を、奴隷にして?

 胸の内側が、泥で真っ黒に汚された気分になった。
 世界中の獣人に謝りたい。同じ人間が、こんな馬鹿なことをしてるのを。
 異世界で生きてても、所詮人間は人間なんだって思い知った。良い人もいるんだろう。でも同じように悪い人もいる。
 そいつらを野放しにしてることが恥ずかしい。
 目を伏せた瞬間、荷馬車が揺れた。一度大きく振れた馬車はその後、規則的な揺れに変わる。
 移動してる。
 どこへ?
 ……落ちつけ。まずは情報だ。情報が必要。情報は身を守る。
 恐怖で萎えそうになる心を叱咤して、芋虫のように這って幌に張り付く。外の声が聞ければ儲けもんだ。
 でも私の行動を見て、5人の子供たちはめちゃくちゃ怯えた。
 ……うん。そりゃ、知りもしない人間が芋虫の動きをしてたらびっくりするよね。ごめんね。脱出できたら謝るから、今は許してね。

「――ずは、カルダー港へ行くために……」
「アズナルの検問――」
「バラッダ国で小動物系の獣人は高く売れ――」
「――だろ?」
「あの娘はどっかの悪趣味な金持ちに――」

 雨の音が混じってわかりにくい、けど声の感じからして最低5人は外にいる。馬の蹄の音が5,6……?パカパカうるせいやいと怒鳴りたくなる。それに蹄の音に混じって、若干の金属音がする。寂びたシンバルを擦り合わせたみたいな。
 うーん……この世界ってもしかして、銃じゃなくて鎧とか剣とかを日常的に持ってるのかな?ファンタジーな世界で金属が擦れる音っていうと、それしか思い浮かばない。これで『実は携帯食料が擦れる音だったのさー!』なんて言われたら、私は奴らを人間とは認めない。現時点で屑だと思ってるけど、貴様らの歯のエナメル質どうなってんだと叫んだあと、化け物扱いしてやる。
 にしても外のチンピラたち、割とホイホイ重要事項をしゃべってるけどいいのか、これ。どこに寄るとか、どこに売るとかって商品には隠しておかないと、悪用されるんじゃない?脱出計画たてられちゃうよ?たてちゃうよ?いいの?
 割とお馬鹿なのかな?と思ってから気付いた。
 そうか、言語。
 あいつら人間の言語でしゃべってるから、獣人には意味がわからないって考えてるんだ。いやでも、地名とかはわかるだろ……あ、さらったのが小さい子ばっかりだから理解できないと考えてやがるな。
 はん。残念だが、私はもう13歳だ。立派に思考できる。
 ただし逃げ出すための実力がない。
 致命的だった。
 あぁもう、どっかの廃倉庫にぶち込まれたんなら適当に転がってるかもしれない空き瓶を割って手首の縄を切って華麗に脱走してやるのに!もしくは陶器片でも可。尖ったものがあればシュパッ、と切ってダッと逃げてやろう。なのに見よ、この何もない貧相な荷馬車を!どこかに釘の1本でも落ちて……。
 目を凝らした馬車の片隅で、釘が1本曲がって飛び出ているのが見えた。
 あれだ!
 また芋虫状態で、釘が飛び出たところまで這っていく。獣人の子たちが怯えた。ご、ごめんってば。
 曲がった部分に、うまいこと猿轡を引っかけてもがもがと動かす。解けた。
 猿轡を外して、怯えて隅っこに固まっている獣人の子たちに囁く。

「大丈夫」

 獣人の使う言葉だったからか。
 子供たちは目を丸くして、束の間怯えの色を消した。

「大丈夫、助かる」

 無責任なことを言ってるのは、わかってる。
 例えば、本当にここが廃倉庫で脱出できる手立てがあったとしても、それがうまくいくなんて限らない。私は神様に愛されたチートじゃないし、召喚された特殊能力持ちの聖女でもない。これが物語なら、脇役でしかない私の命を保障してくれるものなんてない。命が守られるのはハッピーエンドが決められた主人公だけだ。
 私は命を呆気なく無くしてしまえる、名もなき通行人。
 すごい魔法もすごい身体能力もない、無力な子供だ。
 でも自分より小さな子たちを前にして、どうしても『私たちは助からない。奴隷になったときの身の振り方を考えておかなくちゃいけない』なんて言えなかった。
 何より言ったら、本当になってしまいそうで私自身が嫌だった。

「帰ろう」

 願望が口から零れる。
 帰りたい。
 家に。日常に。
 子供たちも皆、頷いた。
 ――帰ろう。
 そのために、できることはしておかないと。
 震える体に渇を入れて、今度は曲がった釘に後ろ手で縛られた荒縄を擦りつける。根気強く縄を削るように切っていくしかない。とりあえず手の縄が切れたら自由度が増す。他の子の縄も解いてあげられる。
 でも見えない釘に見えない縄を擦り続けるのは難しかった。何度も縄から外れて、釘が肌を引っ掻く。熱い痛みが走ったけど、止めるわけにはいかない。
 二の腕が攣るほど擦り続けて、幾重にも巻かれた縄の1本の半分くらいまでやっと切れた。
 そこからは時々手首を動かして、縄を緩める努力をしてみる。縄で擦れて手首が痛い。
 止めたい。もう痛くて手が動かせない。
 ガタン、ゴトン、と荷馬車が揺れる。

「――金が手に入ったら酒と――」
「お前は――」

 雨に混じって聞こえる、チンピラたちの憎らしいやり取りがやる気の炎を消さなかった。
 あいつらにいい思いなんてさせてやるもんか。絶対に帰る。帰って、警察に全部全部話す。どこへ行って、どこから出ようとしていたか、そのすべてを。
 そうなれなかったときのことは、考えない。炎が消えてしまう。
 ペレッペさん、今頃慌ててるだろうな。帰ったら私の姿がないし、いくら待っても帰って来ないんだもん。黙って出て来たわけじゃないのが救いだ。一筆書いておいたから、しばらく戻らなかったらペレッペさんはダンラルグのところに行ってくれるはず。そこにも私がいないとわかったら、探してくれる。
 ダンラルグは過保護だから、ガルマンさんにも探すの手伝ってくれと言うかもしれない。後で謝らないと。何やってるんだ、ってすっごく叱られるだろうな。
 だから、大丈夫。
 帰る。
 一息ついて、縄を削る作業を再開する。
 これを削りきったら、どうしよう。まずは子供たちの縄を解くけど、その後のことだ。外には最低でもチンピラが5人。悪ければもっといる。しかも荷馬車を引く馬だけじゃなくて、他にも馬を持ってるっぽい。蹄の音が複数だから間違いない。
 荒事に慣れてる男たちから、無力な子供が逃れられる方法ってどんなのだ?
 縄が解けたからって馬車から逃げ出すわけにはいかない。すぐに連れ戻される。
 ……囮?私が、囮になって子供たちを逃がす?
 いや、無謀だ。男は複数いる。私1人を捕まえるのに1人いればいいし、馬だってある。子供たちもそう。2人くらいで追いかければすぐに捕まえられる。
 移動中に逃げるのは無理に近い。隙があるなら……そう、検問って言ってた。その検問のときにどうにか私たちの存在を知らせることができない?
 日本でも検問はある。イメージが強いのは、お巡りさんが2人組で車を止めて中を見るシーン。たぶんどこの世界も変わらないはず。そのときに異常を知らせれば、検問所の人がどうにかしてくれるかもしれない。
 あとは港。港ってことは海があるってことで、船があるってことだ。船に乗る前にも隙ができるんじゃないか?
 でも港は時間的にギリギリかもしれない。そこで脱出が失敗したら、船に乗ることになる。すなわち身動きが取れない。リスクが大きすぎる。
 やっぱり狙いどころは検問所だ。そこしかない。
 願わくばそこに行くまでに、この手首の縄が解けますように。





********





 手のひらが嫌な感じに引き攣ってる。
 何故かその感覚には覚えがあった。血が半乾きだと付着したところがつっぱる感じになる。
 たぶん手首が擦れて血がにじみ、手のひらまで垂れたんだろう。もう痛みはなくて、熱が常にこもってる感覚しかなかった。
 縄は、ようやく1本と半分が切れた。でも拘束は緩くならない。よほど荒事に長けてるのか、ちょっとやそっとでは解けない縛り方をしてくれてるらしかった。いらない気遣いをありがとう!
 馬車は相変わらず動いてる。どれだけ時間が経ったんだろう。
 …………すごくお腹が減ってるから、たぶん夕食の時間はとっくに過ぎたはずだ。なら、夜の8時くらい?誘拐されたのが夕方の5時……半くらいだったはずだから、2時間以上は経ってるかな。午後は雨だったせいで、陽が落ちたという感覚がいまいち掴みにくかった。
 馬車の中はすごく暗い。雨雲のせいで月明かりもないので、同じ馬車内にいる獣人の子たちの姿も見えづらい。
 そもそも日本人……っていうかアジア人?って暗い場所が苦手みたいだし仕方ない。同じ人間でも、欧米の青い瞳とか緑の瞳の人は暗いところでも割合見えるらしいね。いいよな、と思う反面、逆に明るすぎるところは苦手だそうだ。なので欧米の人はサングラスとかかけてるんだって。色素が明るくなるほど日光に弱いとか聞いた気が。
 ……あ、しまったな。外にいるチンピラたちの顔を拝んでおくんだった。私と同じ茶色い瞳なら、暗いところでの行動は苦手だろう。だから暗闇に乗じて逃げる算段も出来たかもしれないのに。目の色が明るかったら暗闇大丈夫だから、無駄な逃走計画かもしれないけど。
 でも真昼間に逃走するよりは確率上がるよね。考えておこう。
 でも今は縄を解くことに集中。
 ギコギコと釘に縄を擦りつけていると、不意に遠くから――泥混じりの蹄の音がした。

「――くそっ」
「なんで――」
「誤魔化せ――」

 外にいるチンピラたちが慌てふためいてる。
 ……何?トラブル発生?
 がたん、と大きく揺れて、馬車が止まった。
 え、もしかしてもう検問所に着いたの?
 待って、まだ何にも準備をしてない。今すぐ叫んでも大丈夫なのか。今、検問所前で並んでるだけなら、ここで騒いでもチンピラたちに誤魔化されてしまうかもしれない。
 もしくは検問所じゃなくて――別のチンピラグループと鉢合わせしただけだったら?
 もしそうなら、助けを呼ぶのは危険だ。最悪から最悪に移るだけ。情報が削がれる分、今のチンピラたちについておきたいくらいだ。
 様子を窺うために、とりあえず幌に耳をつけた。

「――これはこれは」
「――知らせが――中身――」

 媚びへつらうような声と、凛々しい声。
 声の種類からして、追いついて来た方がどうやらチンピラたちよりも上の立場っぽい。チンピラグループにも上下関係があるのかもしれないな。それで媚びてる?
 そうだとしても、易々と商品を渡したりはしない、だろう。チンピラたちだってお金がほしいはずだ。横取りされるとしたら良い思いなんてするわけない。
 ……願わくば。この声の主が警察であってほしい。
 巡回していた警察官に、呼び止められたのであってほしい。

「――特に――空――」
「――当にか?」
「空――行商――帰り――」
「中を――」
「ボロ馬車――」

 ……や、やたらもめてるな。
 縄張り?縄張り争いなの?
 争いになるのはやだなぁ……。チンピラたちが傷ついても心の1ミリも削れないけど、屍累々な光景を見るのはちょっと……。大抵の日本人にリアルグロ耐性はないと思いたい。戦国時代の武士じゃないんですから。武士でも江戸の中期から後期あたりの武士は合戦上に出た経験すらなかったんじゃなかろうか。黒船が来たときだったか、鎧の付け方がわからない武士が続出したらしいし。
 ではなく、グロ耐性だ。スプラッターホラーとかは、作りものだから大丈夫なのだという人も多かろう。ちなみに私は無理だった派なんじゃないかな。この脳に、映画のワンシーンでアシヲキリオトスシーンガアルンデスケド、ムリ。ムリダワー。カンガエタダケデ、ゾウモツトイウゾウモツガキュットスルカラヤメヨウネ。
 頼むから馬車からこんにちは、したら肉片の海だったっていうのはやめてください。死んでしまう。
 想像しただけで大ダメージを食らった。げんなりしながら、引き続き外の音を拾う。

「――を改めるだけだ」
「――時間がないんですよ、こちらも」
「――娘が消えたと。我々は捜索に来た。念のためだ。馬車の中を」

 捜索。
 これは、救援だ。
 理解した瞬間、私は大声を上げていた。

「助けて!馬車の中に獣人の子供が5人いる!誘拐された!助けて!そいつら誘拐犯だ!お願い、助けて!」

 呼吸の間もなく、シャン、と金属の高い音がした。

「警備隊抜刀!」
「くそっ!」

 高い金属音がそこらで鳴った直後、鈍い金属音が続いた。
 剣戟?
 わからない。恐い。
 雨音と、泥を踏む音も混じった。馬のいななきも。

「――は――すな!経路を聞く必要がある!」
「――せ!」
「――た!逃がすな!」

 馬車が横揺れして、子供たちが酷く怯えた。
 私も恐い。
 助けに来てくれた人たちが、殺されたらどうしよう。私が助けを呼んだせいで、死んじゃったら?
 恐い。助けて。誰か。誰でもいい。死なせないで。
 外の音が止んだ。
 雨音以外、際立った音はない。
 ――どっち?どっちが勝ったの?
 恐怖心がこみ上げる前に、幌が開いた。

「発見しました!」

 幌を開いたのはチンピラ、じゃなくて、軍服らしきものの上にカッパっぽいものを着た熊の獣人だった。
 人型ではなく、獣型。なので半端なく喰われそう感がある。
 こ、こわっ!
 ホッとしたけど、今まで草食系獣人(ただし主食は肉)にしか会ったことなかったから、肉食系獣人の威圧感たるや。馬車の隅っこで私は固まったが、逆側の隅っこにまとまっていた子供たちは、熊さん獣人を見て安堵から泣きだした。

「毛布、毛布!」
「怯えさせるなよ」
「まずは縄を切ってやれ」

 熊さん獣人が荷馬車に乗ると、その後ろから続々と獣人が顔を出した。虎やら鳥やら多種多様だなぁ。獣が混じった姿を見てると、人間に対峙するときよりもはるかに落ち着くのは、ダンラルグやペレッペさん、ガルマンさんで慣れてしまったからのかな。
 彼らは子供たちの縄を切り、小さな身体を毛布で包んで抱き上げて外に出て行く。毛布はどうやら防水加工をしているハイテクなものらしく、雨を弾いていた。現代日本にも欲しい代物ですね。
 ぼんやりそれを眺めていると、ふと熊の獣人さんがこちらを見た。

「……うぉぉっ!?にっ、人間の子がいる!」

 気付かれていなかった……だと……!?
 私ってばいつのまに忍者スキルを身につけていたんだ?むしろ日本人特有スキル?いやそんなまさか。日本人全員が忍者なわけじゃないからな!武士とか、水軍とか、農民もあるだろう!農民は全世界共通スキルな感が否めないけども。
 1人ボケ1人ツッコミをする私を置いて、周りの獣人さんが慌ただしく動きだした。

「分隊長ー!分隊長、女の子発見しましたよー!」

 虎の獣人さんが馬車の前で叫び、熊の獣人さんが後ろに回って縄を切ってくれた。

「うわ、酷ぇ。あいつら、こんな小さい子を血がにじむほど縛りあげやがって……切り傷までつけられてんじゃねぇか。女子供の肌に傷つけるなんてマジでクソ野郎どもだな」

 すみません、その傷私が自分でつけました。なんて言えない状況。
 縄を切ってくれた獣人さんに「ありがとうございました」とへらっと笑うと、彼のまん丸でつぶらな金色の瞳に涙が浮かんだ。

「傷つけられたのに笑うとか……お前、健気過ぎんぜ……!」

 ごめんなさい二度申し上げますが、傷は自分でつけました(罪悪感)。
 チンピラたちにかけてやる慈悲はこれっぽっちも持ち合わせていないけど、もしもこの傷が罪状に加わっちゃうのであれば、本当のことを言おう。私の罪悪感をなくすために。
 決意すると同時にバシャバシャと足音がして、荷馬車に山羊人間が乗り込んできた。
 ……あれ?

「サク!」
「ガルマンさん!?」

 ガルマンさんはいつものシンプルな装いではなく、軍服の上にカッパを着ていた。剣も腰に下げている。
 ……え?え?ガルマンさんって、もしかして警察官だったの?
 混乱している間にガルマンさんは鬼のような形相で荷馬車に乗りこんで来て、私の頭にチョップを喰らわした。地味に痛い。

「この馬鹿者が!よりにもよってこの視界の悪い日に1人で出かけるなど……っ!どれだけ探したと思ってる!」
「うぇっ、あ、お、お手数をおかけして申し訳ないです」

 たぶんダンラルグがガルマンさんにも捜索協力を依頼したに違いない。なんだかんだ人の良い彼は、断りきれずに面倒事をまた背負ってしまったんだろう。面倒事が私で申し訳ない。
 ぺこっ、とお辞儀をして謝ると、傍にいた熊の獣人さんがすっごい驚いてた。だからなんで君たちは、私がお辞儀すると驚くんだい?
 だけど今はそんな疑問を聞く気になれなかった。ガルマンさん、めっちゃ怒ってる。
 恐る恐る顔を上げると、彼はまだ鬼の形相をしていた。
 ……怒るのも無理はない。
 だって私が不用意な行動をしたせいで、色んな人に迷惑をかけてしまった。ガルマンさんにも警察の人たちにも、この雨の中を必死で探させるマネをさせてしまった。

「迷惑かけてごめ」
「そんな謝罪は受け入れられない」

 ピシャリと拒絶された。
 呑み込んだ言葉が重い。
 なんて言えばいいのかわからず黙ってしまうと、彼はため息をついた。
 ……呆れられてしまった。

「……謝り方は保護者に教えてもらえ。正しければ受け取ることにする」

 ガルマンさんの口調がやわらかくなったので、少しだけ緊張が解けた。でも完全に許してもらえたわけじゃない……。こちらでは謝罪の仕方に作法があるのかな。後でダンラルグに教えてもらおう。

「それよりも今は、ダンラルグの過保護さに感謝しておけ」
「過保護……」

 ガルマンさんは私の胸元を指した。

「首飾りをダンラルグから受け取っただろう」

 あぁ……あのバラみたいな花のペンダント?

「は、はい」
「それには魔法陣が組み込まれている。あいつの家の敷地から出た瞬間、所有者の現在地をヤツに知らせる仕組みだ」

 ……ん?
 敷地から出た瞬間、現在地を知らせる?ダンラルグに?
 そ……そんな機能、今初めて聞きましたよ?え、つまるところこれって、GPS装置?所有者ってたぶん、私のことでしょ?これをつけて私がダンラルグの家から出ると、私の現在地がダンラルグに知らされると。
 あの人、何も言わずにしれっと渡してきたんだけど!?本当えげつないな!でもありがとう、ダンラルグ!これのおかげでダンラルグからガルマンさんに情報が伝わって、私を追いかけて来てくれたってことだよね!

「分隊長、子供たちを全員馬に乗せました」
「わかった」

 分隊長、と呼ばれてガルマンさんが荷馬車の外に返事をした。
 ……ガルマンさん、警察の中でも偉い人だったんだ。知らなかった。
 彼は部下らしき獣人さんから防水毛布を受け取って、私に巻いてくれた。その手が泣きたくなるほど優しい。呆れさせるようなことをしでかしてしまったのに、彼はまだ優しさを持って接してくれている。

「帰るぞ」

 ガルマンさんは少し戸惑ってから、壊れものに触れるような手つきで私を抱き上げた。
 横抱きじゃなく、幼児抱きだった。
 ……私、抱き上げられるときは一生幼児抱きかもしれないな。













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