ダンラルグの家に帰りついたのは夜も深くなった時間帯だったのに、ダンラルグもペレッペさんも玄関ロビーで待っていてくれていた。 「サク!」 ペレッペさんがうさミミを震わせながら走って来て、私を抱きしめた。 「ぺ、ペレッペさん、濡れちゃいますよ」 雨の中を馬に乗って帰って来たので、私の身体は当然濡れてしまっていた。いくら防水毛布が巻きついていたにしても、水気を完全に防ぐのは無理だったのである。 完全に濡れ鼠な状態なので、濡れるのが嫌いなペレッペさんにとってはさぞ不快だろう、と思ったのだけど彼女は私を抱きしめたまま首を横に振った。 「貴女が無事で帰って来てくれたのなら、濡れるくらい!」 オロオロして周りを見ると、家まで送ってくれたガルマンさんは顔をしかめてこっちを見てるだけだし、ダンラルグは何故かにっこり笑ってるし。誰も助けてくれない。 「ええっと……ごめんなさい、ペレッペさん。お仕事終わってるのに、遅くまで残らせちゃって。すっごく迷惑をかけてしまいましたよね」 いつもなら夕食を終えたら帰っているのに、今日は私が誘拐されてしまったせいで遅くまで残らせてしまった。疲れただろう。 それに私が勝手に外に出たことで、ペレッペさんはダンラルグから何か言われなかっただろうか。私が外に出たのは私の責任なのに、もしもダンラルグがペレッペさんに監督責任を果たしていなかった、なんて責めてたらなんてお詫びすればいい? ……こんなことになるなら、考えなしに外に出るんじゃなかった。 今さら反省しても遅いよね。 自嘲していると、ペレッペさんは身を離して、金色の目から涙をボロボロ零した。 「迷惑だなんて!」 ぐずぐず、と彼女は鼻をすする。 「心配したのよ」 ――心配? 思わぬ言葉を聞いて、呆然としてしまった。 「買い物から帰って来たら貴女の姿が見えなくて、旦那様に傘を届けに行くっていう書き置きがあって。どこかで迷子になっているんじゃないかしら、こんな視界の悪い日に出て行って誰かにさらわれるんじゃないかしらと心配で旦那様のところに行けば、案の定貴女の姿はなかった。旦那様は貴女が町を出ているっておっしゃるし、イシュドビアーグさんも賊にさらわれたんじゃなんて恐ろしいことをおっしゃるし。貴女のように小さな子がさらわれるだなんて、考えただけで身が斬られた心地になったわ。あぁ、手首がこんなに傷ついて……」 痛かったでしょうに、と手を握られた。 あったかい。 「あぁ、かわいそうに。恐かったわねぇ。頑張ったわねぇ」 雨で冷えた手をあたためるように、ペレッペさんは手をさすってくれた。 それに混じるように、ダンラルグの手も添えられる。 「君が今ここにいることを、うれしく思う」 ダンラルグは跪いて、野ブドウ色の瞳で私を見つめた。 「何故、1人で外に出たのか改めて聞いても?」 言葉のどこにも、叱責めいたものは感じられなかった。 たぶん、叱られていたら私は口を閉ざしていただろう。童話の『北風と太陽』のように、ダンラルグはひたすらにあたたかい口調で私の口を開かせた。 「……雨が、降っていたから傘を届けに行こうと思ったんです」 「うん。それは書き置きにあったから知っているよ。私が知りたいのは、何故傘を届けに行こうと思ったのかということだ」 「ダンラルグが、濡れて帰って来るのは……かわいそうだと思ったんです」 ペレッペさんは濡れるのが嫌そうだった。だから獣人は、濡れるのが嫌いなのかなと思ってた。ここに帰って来るまでにガルマンさんも時折顔をしかめてたし、他の獣人たちも嫌そうだったから種族的に濡れるのを忌避してるんだろう。予想はあってるはずだ。 でも今、ペレッペさんは濡れた私の手を取ってる。 ダンラルグは冷えた私の手をあたためてる。 嫌であるはずなのに、濡れることをためらってない。 ――どうして? 触ってたら濡れちゃうよ?不快な気持ちになっちゃうよ? 私、たくさん迷惑をかけたのに。 こんな、に。こんなに、優しい、なんて。変。 「私のためだったんだね。ありがとう」 大きな手が、雨を吸ってしんなりとした頭を撫でた。 「でもね、私はサクの待つ家に帰りたかったんだよ」 ――私が、待つ? 「君が私を思って傘を届けに来てくれたのはうれしいけれど、傘が届いたところで君がいなければ何の意味もなかった」 言葉が、染み入る。 「心配したよ。おかえり、私の愛娘」 優しくて穏やかな声が、呼び水となる。 奥底に溶けていた本音が、汲み上げられる。 ――帰って来たかった。 目が、熱くて痛い。 まばたきすると涙がほろほろと目から零れた。 「うぇ……ひっく……ひっ……」 ――帰って来たかったの、ここに。 さらわれた荷馬車の中で望んだ帰る場所は、日本じゃなかった。 うろ覚えの家じゃなくて。便利だったかもしれないけど記憶のない日常じゃなくて。 ダンラルグとペレッペさんが待つ家に帰りたかった。ガルマンさんが遊びに来てくれる日常に帰りたかった。ずっとずっとそればかりを願ってた。 13年も住んでいたはずの日本なのに、半年しかいないこの家の方がすごく、すごく大切になってた。 神様に『今から日本に帰してあげる』って言われても、何も聞かなかったフリしてこの世界に留まってしまうだろうなって思うくらい、好きになってた。 私って、薄情なのかもしれない。でもそんなのきっと、お互いさまだ。 向こうの世界だって、私に薄情だった。 この世界で優しくされるたびに積もった疑念は、もう無視できないところまで膨らんでしまっている。 手足の痣はまだいい。でもお腹にまで痣があった。 教科書やノートは泥まみれだった。 スマホには、両親の携帯番号さえ入ってなかった。 髪が変に切られてた。 おかしいでしょ。おかしいよね? 私、たぶん、向こうの世界でいらない子だったんだと思う。 薄々、勘づいてた。気付かないフリをしてただけ。 確信的なことは思い出せない。でも状況証拠が揃いすぎてる。 向こうで私がどういう扱いになっているのか知らないけど、たとえ行方不明になっていようが悲しんでくれる人はいないんだろう。むしろ邪魔者がいなくなったことを喜んでるんじゃないかとさえ思う。 記憶を失ってるってことは、人格さえ変わってしまってるんだろうか。向こうの私はどんな子だった?虐げられて当然の、嫌な子だった? わからない。わからないから、ここではずっといい子にしてた。 敬語をなるべく崩さなかったし、わがままを言わなかったし、お手伝いだっていっぱいした。 嫌わないで、捨てないで、って心の底でずっとずっと思いながら、皆の負担にならないように、邪魔にならないように振舞った。 だからだと、思ってた。 皆が優しいのは、私がいい子にしてるからだって、思ってた。 きっと迷惑をかければ捨てられてしまうんだろうなって、思ってた。 でも違った。 今日すごく迷惑をかけたのに、お前なんかいらない、なんて言わずに皆心配してくれてる。 皆が優しかったのは、私がいい子だったからじゃなかったんだ。 いい子じゃなくても、良かったんだ。 「ごめんなさい……」 ごめんなさい。与えられた優しさを、心から信じることができてなくて。 私ずっと、いい子なんかじゃなかった。嫌な子だった。 皆の優しさなんて、すぐになくなるんだって、思ってた。 捻くれてた。拗ねてた。 「心配、かけてごめんなさい……っ」 しゃくりあげながら言うと、ぽん、と頭に手を置かれた。 「その謝罪なら、受け入れる」 ガルマンさんがそう言ってくれたのが、駄目押しで。 私はわぁわぁと、小さい子みたいに声を上げて泣いた。 「こら、ガルマン。私の娘を泣かせるんじゃない」 「俺のせいじゃないだろう!」 「うっ、うっ、サクが帰って来てくれてよかったわ……」 「そら、愛娘。父の胸でお泣き。ガルマンから守ってやるからね」 「貴様、救出に向かったのは誰だと思ってる!」 「こんなに手が冷たくなって……」 ちょっと自由すぎる皆に囲まれて、私も好き勝手に泣き続けた。 ******** 目が覚めると、窓から朝陽が射していた。 どこにいるのか一瞬わからなかったけど、眠っていたのが自室のベッドだってすぐに気付いた。日本の自室じゃない。ダンラルグの――私の家の自室。 部屋に帰って来た記憶がないので、きっと昨日は泣き疲れて寝てしまったんだろう。ダンラルグがベッドまで運んでくれたに違いない。 上半身を起こしたとき、目の周りがつっぱるような感覚がした。たくさん泣いたから、その痕かもしれない。ごしごしと擦れば、その違和感はすぐに消え去った。 息を吐いて、ベッドから下りる。 向かうのは、机。 その上に、制服も靴も鞄もスマホも――ギフトボックスも置いてある。 目の前に立っても、ギフトボックスから嫌な感じはしなかった。 どうしてだろう。あんなに嫌で嫌で仕方なかったのに、今なら開けられる気がする。 頭の中の霞が消えたような感じがするせい?ううん、地に足が着いた感覚のせい? 昨日までと違って、意識がはっきりしてる。 こんこんと奥底から湧き上がる何かに従って、赤いリボンに手をかけた。 しゅるり、と解く。 クリスマスプレゼントを開けるときとは真逆の、わかりきった罪状を聞くような静かさで蓋を開けた。 中には、蜘蛛の死骸があった。 ひしゃげた大きな蜘蛛の死骸が、ボックスの底を埋めるようにして敷かれてる。 ――悪意のプレゼント。 脳裏に思い浮かんだのは、そんな言葉だった。 なるほど、このギフトボックスも立派な虐げられた証拠の1つだったのか。 自分でも驚くほど、失望も絶望もしなかった。そうだったのか、と思っただけ。 「サク、おはよう。起きてるかい?」 ノックと呼び掛けに、私は「うん」と答えた。 ダンラルグはいつもどおり部屋に入って来て、ギフトボックスの蓋を持ってる私を見て、一瞬黙った。 野ブドウ色の瞳が、まばたきをする。 ダンラルグに「おはよう」と笑って返して、私はボックスの蓋を戻した。 「あのね、ダンラルグ。私、持ってきたものを焼いてしまおうと思うんだ」 「では、庭に準備しよう」 ダンラルグは何故、ともいいのか、とも聞かなかった。 ただとてもうれしそうに微笑んだ。 ペレッペさんは昨夜遅くまで残ってもらったので、今日はお休みになったらしい。なのでダンラルグに焚火の準備をしてもらって、運んできた制服や鞄や教科書なんかをじゃんじゃん燃やしていく。美しい庭の片隅で、炎は赤々と踊った。 スマホもちょっと迷ったけど、火の中に放りこんだ。データを惜しんだわけじゃなく、環境汚染にならないかなと心配したのだ。でもまぁ、これくらいのものを1個焼くだけだから、この星も許してくれるだろう。たぶん。 黒っぽい煙は、よく晴れた空へと昇っていった。 私がこの世界に来たってことは、ガイアはこの世界よりも上にあるんだろう。だからきっと、この煙はガイアにまで届く。 大事に思えなかった日本の欠片は、きっとガイアに戻ってくれると信じてる。 最後にギフトボックスも、炎の中に投げ入れた。 パチパチ、と音を立てて、悪意は燃えていく。 「少しだけ安心したよ」 隣に立ったダンラルグが呟いた。 「元の世界に戻りたいと言い出すんじゃないか、と思っていたんだ」 「……帰れるの?」 「いいや」 にっこりと、彼は笑う。 「君が帰ろうとするなら、私が思いっきり妨害してやったからね」 「色々台無しだよ、ダンラルグ!」 「あらゆるコネと金を使って阻止するとも」 「間違っても娘に言う言葉じゃない!」 妨害するのかよ!協力するんじゃなく!?愛娘とか言っておきながら、やることが本当にえげつないですよ!? 非難を多分に含んだ目で睨むと、ダンラルグはしれっとした顔でアゴヒゲを撫でた。 「他のおねだりなら、叶えてあげるさ。ぬいぐるみでも本でも宝飾品でも、君が望むのならば。婿が欲しくなったら早めに言いなさい、婿候補を幾人か見繕って50年くらい観察し、これぞと思った良い男を紹介しよう」 「ヤバい、結婚できる気がしない……!」 仮に、今から欲しいです、と申告しておいても、婿を連れて来てくれるのが最短で60歳を超えてる。ダンラルグに任せておいたら私、結婚できない。 結婚に関することだけは、今の内から危機感を持って動いておこう。うん。 「 ダンラルグは静かに告げた。 「彼らは例外なく、この世界で生き、この世界で死ぬ」 「……そっか」 「帰れなくてがっかりしたかい?」 「ううん」 どちらかと言うと、ホッとしてる。間違っても、もうあちらの世界に戻ることはないんだという事実に。 ぎゅ、とダンラルグの手を握ると、彼も手を握り返してくれた。 あったかい。 この手は私を傷つけない。 私を心配し、守ってくれる手だ。 「私の帰って来る場所は、ここだよ」 笑って告げると、ダンラルグも笑った。 「あと70年は恋人じゃなく父に甘えるように」 「嫁に出す気がゼロ……だと……!?」 死ぬまで結婚できないんじゃないか説が濃厚になったけど、まぁいいか、とどこかで思う自分がいる。ダンラルグとペレッペさんとガルマンさんがいれば、今は幸せなんだから。 昇っていく煙を眺める。 君たちは元の世界に帰るといい。 私はこの世界で生きていく。 優しい世界で、生きていく。 |