黙々と本棚を整頓し、はた、と気付けば夕方を告げる鐘の音が響いていた。日本で言うところの午後5時に流れる夕方のチャイムみたいな感覚なんだろう、とこの数週間で学んだ。 手を止めて、目の前の本棚を眺める。まだ色々ごちゃついてるけど、一応分類だけは分けられた。 この一角だけだけど。 でもまだ整理はしたいよねー、と思って本棚を眺めていると、本棚の内側側面でモシャリと何かが動いた。 ん?と思ってよく見てみる。 蜘蛛だった。 …………睨んだまま、退がる。 蜘蛛、お前、なんっ、おまっ、こんなとこにいるとか。さては卑怯者。 じりじり退がる。奴は動かない。どっかいけ!と念を送ったけど、奴はふてぶてしく、まるで本棚の主のようにそこに居座った。 ……くそうっ! いやさすがに、午後の時間だけじゃ図書室すべてを整頓するの無理だし? ちょっと喉も渇いたし、ペレッペさんにお茶をねだろう。今日の作業はこれでおしまい。 逃げるんじゃないからな!後で、後でペレッペさんかダンラルグに追い払ってもらうから! ということで区切りをつけて、図書室を後にした。 ペレッペさん、キッチンにいるかな。それとも洗濯物を取り込んでるかな。 キッチンにいたらお茶を淹れてもらって、洗濯物を取り込んでたらお手伝いしてからお茶をねだろう、と考えながら廊下をてってけ歩いて行く。 もう見慣れてしまった玄関ロビーを通って、まずはキッチンのある方へ。 キッチンまでは、リビングがある部屋の前を通って行かなくちゃいけない。 ちょうどそのリビングの前を通ろうとしたところで、うっすらとドアが開いているのが見えた。 「――い漁っていると。もしや貴様、奴隷などという悪趣味かつ下劣なものに手を出したのではあるまいな」 「お前、そんなに私に対しての信頼がないのかい?」 「欠片もない」 「人聞きの悪い。奴隷など、野蛮な人間の好むことじゃないか。趣味ではないよ」 あれ、これダンラルグの声だ。もう1人は知らないけど。 いつのまに帰ってきたんだろう。いつもなら真っ先に顔を見せてくれる……のに……。 …………ん? 答えているのはダンラルグだ。なんか、辛辣なことを言ってるのは知らない人だ。 あれ。 私、なんで、会話内容が理解できてるんだ……? ぴたり、と足を止める。 理解不能な事象に、心臓がドッドッと激しく鳴った。 おかしい。私のヒアリーディング能力は、有り体に言ってカスみたいなもんだ。ダンラルグとペレッペさんが交わす日常会話は全然聞き取れない。彼らが幼児にしゃべってくれるように、ゆっくりと発音してくれて、初めて私は言葉の意味をなんとか片言で推測できるくらいなのだ。 それが、なんで明らかに早口な日常会話を聞き取れてるんだ? なんで、割と難しい言葉を理解できてるんだ? ぞわ、とうなじが粟立つ。 何か、気持ち悪い。自分の知らないところで、自分が変わってしまったような、得体の知れない気味の悪さがある。 だがしかし、震える私の耳に、それを上書きするような衝撃的な言葉が飛びこんできた。 「貴様の趣味はコロコロ変わるから、信頼できんと言っているのだ」 「はは、まぁ、そうだなぁ。趣味が変われば持つかもなぁ」 ――ちょっと待て。 今聞き捨てならんことを、ダンラルグが言わなかったか。 今は趣味じゃないけど、ころりと趣味が変わって――奴隷を持つのが趣味になれば、それに手を出すのも厭わないと言ったよな? 奴隷制度にモノ申すみたいな雰囲気0じゃないですかこれ。 待て。 待て待て待て、嘘ですよね、ダンラルグさん!? 自分を保護してくれて優しく接してくれていた人……け、獣?が、奴隷所持に嫌悪を抱かない類だったって、現代日本を生きる身としては相当な衝撃っていうか、人間不信レベルのトラウマなんだけど!え、何これやばい、私もしかしてのほほんとかしてたけど、奴隷なの?奴隷な立場なの?だから外に出ちゃダメって感じだったの? ダダダダンラルグさん!?と内心叫びながら、リビングがある壁にへちょりと耳をつける。ドアはうっすら開いてるけど、そこに耳を付けようと思ったら1回開いたところを横切らなければならない。そうすると気付かれるかもしれない。 なんで言葉が理解できるようになったのかはさておき、ひとまず自身の立ち位置を明確にする情報収集のため、盗み聞きを開始する! 「下衆め」 「はっはっは」 「下郎が」 「はっはっは」 「腐れ脳。獣人の誇りを母君の腹に置いてきたクズめ」 「はっはっは」 やばい、盗み聞きを開始したはいいけど、得られた情報が罵倒だけだ。 ダンラルグさん、私の知らぬ相手からすっげぇ罵倒されてますけど、ど、どういったご関係なんですか。少なくともご友人じゃないですよね。親の仇みたいなご関係ですよね? その後もしばらく罵りが続き、ダンラルグはそれをすべて笑いで流した。受け流すダンラルグもダンラルグだが、罵倒する方も罵倒する方だ。よくもあんなに悪口が思いつく。日本語だったらすでに「お前の母ちゃんでーべそ」というファイナルウェポンに達しようという数なのに、悪口は滞りなく続いていく。 っていうか、これ、スラング入ってないか。せっかくキレイな異世界語しか学んでいなかったというのに、すさまじい勢いで異世界罵倒用語が増えていく。自分の脳が汚された気がする。 若干悲しくなって以降も罵倒が続くため、本来なら近づきたくない人種だと判断するのに、逆にこれほど悪口の引き出しを持っている人ってどんな人なんだと気になってしまい、薄く開いたドアからリビングを覗いてみた。 いつもなら奥のソファに座るのはダンラルグだ。けれど彼は今そこではなくて、机を囲んでコの字型に配置されたソファの内、縦線部分に座っていた。代わりに奥のソファに座っていたのは、見たことがない山羊人間だった。 ダンラルグと同じような出で立ちだけど、髪が違った。黒くて、巻き癖がない。目は……ダンラルグと同じ野ブドウ色の瞳だけど、彼の方が少しだけつり目気味だ。身体も彼の方が少し大きい。着ているものはダンラルグよりもラフなもので、ゆったりとした裾の長い青色のシャツとズボン。手抜きというより、気取ってないという印象を受けた。 ダンラルグはわりと煌びやかなお洋服を着ることが多い気がする。こちらの風習なのかと思ったけど、そうではないのか。ただ単に趣味、かな。 趣味かぁ……。 よく似ているけれどわずかな差異があるのは、人間と同じような気がした。人だって、細目とか、体格が大きいとかで見分けてる。彼らにもそれが適用できそうだ。 人間と同じで、個人差がある。そう考えるとダンラルグたちが身近な存在であるように思えた。角が生えてても、耳が獣耳でも、私と同じように考えて行動し、好みだって各々違う生き物、なんだ。 じぃ、と見つめていると、こちらに左半身を見せて座っていたダンラルグが顔を上げて、こっちを見た。 目が、合った。 あ、やば……とその場を離れる前に、ダンラルグがにっこり微笑んで、カモンと手招きする。 「いいところに。おいで、サク」 幼児に話しかけるようなゆっくりとした発音は、私以外の誰にも向けられていないのは確かで。ふぉぉ、言うとおりにせざるをえない。 そろり、とドアを開くと、見知らぬ山羊さんがハッとこちらを見た。 うえっ、目が合った。 ぺこっ、とお辞儀して顔をあげると、なんでか山羊さんは肩を大きく跳ねさせ、びくついてた。 なんでだ。私が何をしたって言うんだ。むしろ私の方が現状恐いんですよ?保護してくれてたと思ってた人が、まさかの奴隷扱いしてるの疑惑が浮上してるんだからね? 見知らぬ山羊さんを警戒しながらダンラルグに近付くと、彼はいつものとおり、私を抱き上げて自分のひざの上に乗せた。 ……優しい、と思うんだけどなぁ。奴隷って言うか、ペット扱いなのか? そう考えると、そうかもしれないなというあれやこれやが思い浮かぶ。うん、てめぇこら働けーって言うか、愛玩動物っぽい扱いだよな、私。室内犬と同じ扱いされてない? 「どうだ、かわいいだろう」 私の頭を撫でながら、ダンラルグが自慢する。対する山羊さんは、私を見つめて「あぁ、うーん、まぁ……」と困り顔だ。 この世界にも鏡があるので知ってるけど、私の容姿は日本人として平均的だ。クラスのアイドルとなるくらい美人じゃないが、クラスで浮くほどブサイクなわけでもない、と思っている。あくまで主観。主観な! まぁ、主観ですらそんな感じだから、かわいいだろうと自慢されても山羊さんもお困りだろう。 なんかすみません、とジャパニーズスマイルを浮かべると、山羊さんはアゴに手を添えて考えるポーズをとる。 「……………………かわいい、な」 そんな間の入った同情いらない。 いっそ「好みじゃない」とかすっぱり切ってくれたほうが遥かに誠実だ。乙女心に若干傷が残った私のことなど知らず、ダンラルグは「そうだろう」と頷いた。 山羊さんは恐る恐るといった様子で、私の頬に手を伸ばし、ぷに、と突く。意図がわからなかったので、されるがままになっておいた。 しばしぷにぷに突かれ、やがてそれは頬を撫でる仕草に変わる。 「大人しいな。粗野ではないし、気品がある。本当に奴隷ではなかったのか……」 「だからそんな趣味はないと言っただろう?」 「ただ単に保護しただけか」 山羊さんはホッとした様子だった。その態度から察するに、こちらでも奴隷を扱う人間……とか獣?はあまりいい感じじゃないみたいだ。よかった、価値観がそう違わなくて。 罵倒しながらも、山羊さんはダンラルグが道を踏み外さないように忠告するつもりだったのかもしれない。そういう関係だと、友人とかあるいは親友とかそういったポジションなのではないだろうか、と考えられる。 山羊さんは安心したようで、私の頬をさする。人間だったらセクハラで訴えていたぞ。 なんて考える私の耳に、信じられない言葉が飛びこんできた。 「いや、保護じゃないぞ。娘にした」 「「娘ぇぇっ!?」」 山羊さんと合唱して、あっ、と気付く。 思わず見上げた先のダンラルグは、目を丸くしていた。 「……おや、サク?なんだか発音がいいと言うか……今の会話を聞き取れていたのかい?」 あばばばばばば。 やばい、やばいやばい。いやあのその、別に今までわからないふりをしていたんじゃなくて本当にわからなかったんだけど何故か今日のお昼過ぎからわかるようになったっていうか、自分でもなんでこんなことになってるのかわからなくてダンラルグに言う暇がなかったっていうかやましいことはないっていうか、なんていうか、なんていうか、なんていうか。 そんなことどうでもいいんだよ! 「どうでもいい!貴様、それよりこの娘を養女にしただと!?」 そう!それ! 言いたかったことをそのまま、山羊さんが言ってくれた。同調して激しく首を縦に振ると、ダンラルグは幾度かまばたいて、ふと笑う。 「そうだとも。サクは私の愛娘だ。法律的には問題ないぞ?」 「問題大あ……いや、同意があるなら確かに問題はないか」 なんだと!?山羊さんのトーンダウンに慌てる。 「ない、ないですよ!娘になってたとか、聞いてないですよ!」 何せこちらの言葉を片言でも理解できるようになったのは、最近のことだ。だというのに、そんな確認1つもなかった。今、初めて、私はダンラルグの養女になってたんですかって知ったレベルですよ。 心からの叫びに、山羊さんの口調が再び荒くなった。 「ダンラルグ!貴様、どういうことだ!」 「あぁ、言葉の学習を済ませる前に届けを出したからな」 束の間、沈黙。 ……ええと、整理しよう。どうやら私はダンラルグの娘になっていたみたいだが、娘にするには私の同意がいるようで、しかしダンラルグは私が言葉を学ぶ前に――つまり同意なにそれおいしいの状態のときに、養女申請してしまったと。そして受理されてしまったと。 「制度ガバガバじゃん!もうちょっと厳しく審査しようよ!」 書類申請だけじゃなく、面接とかして、本人の意思を確かめようよ! 私の指摘に、山羊さんが崩れるように頭を抱えた。整っていた黒髪が、ぐしゃりと乱れてしまう。 「普通なら良心に基づいてこんな愚行を犯さぬところを……!今日ほど獣人族の性善信仰を愚かしく思ったことはない……!」 「生き物の本質は善だと信じることは、害悪ではないぞ?」 「元凶が口を開くな、クソめ!」 俯いたまま、山羊さんが怒号を飛ばす。表情は窺うまでもなく苦悩に満ちておられるだろう。 ダンラルグのしでかしたことは己が責任です、と言わんばかりの態度に、日本人としては恐縮せざるをえない。 そうですね、日本のお役所でも性善説に基づいたシステムとかあるそうですもんね。異世界の政治にばかり完璧を求めるっていうのも、アレだよね。うん、ダメだわー。自分ところのダメなとこ棚上げにして、他所のダメなとこ突くの、ダメだわー。 「信じた相手の良識が欠如していたからと言って、八つ当たりをされてもな」 「ダンラルグ、それは八つ当たりじゃなく正当な怒りの発憤だと思います」 しかも良識の欠如を自覚してるじゃねーか。ダメじゃん。 前言撤回して思わず突いて出た言葉に、ダンラルグは「おやおや」と微笑んだ。 「私のかわいい娘は、今朝よりも発音がぐんと上手になったし、難しい言葉も使いこなすようだね。予定では日常会話を理解するのにまだ時間がかかり、その間に現状に疑問を持たせないよう誘導しようと思っていたのだが……いったいどこの誰がよけいな知恵を」 あまりのえげつなさに絶句だよ! 嘘だろう、ダンラルグ!言葉がまったくわからないときから片言理解時まで、そんな腹黒っていうかえげつない性格感0だったじゃん!今の発言は家に帰ってくる前に何か悪いものでも食べたせいだ、と思いたいっていうか願いたいけど、それが真実であればその何かがちょっと恐ろしくなってくるので、やっぱりダンラルグ本来の性格で構わないな。 「ふむ。何か、愛娘に良からぬことを考えられている気がするな」 ひぇっ、この人……もう人でいいか。心でも読めるのか。 「サクは私の娘だからね。君の心なんて、お見通しだよ?」 マジか。 「心を読むの止めてください。恐いです」 「はっはっはっ」 ぶるぶる震える私に、ダンラルグは鷹揚に笑った。 「冗談はさておき、獣人と違って人間は瞳に感情を出るので読みやすい。特に私は商売柄、感情を読むのに長けていてね」 「……商売?ダンラルグは何かを売っている人なんですか?」 「うん。宝石を取り扱っている。屑石を高値で売ろうとしてくる詐欺どもに比べれば、サクの表情から心情を読むことなんて容易いことだ」 なるほど、商人さんだったか。 言われてみれば、色々と納得した。どう見てもダンラルグは農作業してる感じの人じゃなかったし、かと言って荒々しい感じもしなかったから、傭兵とか兵隊ではないだろうな、と思ってた。この不思議な圧迫感のなさは、商人故の物腰だったか。 着ている服がきらびやかなのも商人さんっぽいし、お家が大きいのも商人さんだからかぁ。 1か月ほどここにいて初めて知ったことの衝撃の大きさに、ちょっと脳の処理が追いつかないでいると、ダンラルグがよしよしと頭を撫でてきた。 「さて、そろそろ言葉を理解できるようになった経緯を教えてもらっていいかな、愛娘。私の見立てでは、あと半年ほどは言葉に疎い状態が続くと見ていたのだが」 あー、と私は唸るような声を漏らした。 何と言えばいいか。 「いや、私もよくわからないんですけれど。図書室で本の整理を……する前か。そう、とある本を見ていたら、いきなり言葉が理解できるようになってました」 私自身も人に説明できるほど、自分に起こったことを理解できてない。なのでずいぶんぼやっとした説明をしてしまったのだが、ダンラルグと、頭を抱えていた山羊さんも顔を上げて納得したような表情を見せた。 「なるほど、サクは魔法書を読んだんだね。翻訳魔法の呪文はこちらの言葉に疎くても理解できるのか。新発見だな」 「貴様、また適当な場所に突っ込んでいたんだろう」 本人よりも事情を理解してしまった2人に対し、私が小首を傾げてみせると、ダンラルグはおや、と目を見開いた。 「サクは魔法がない世界から流れてきたんだね」 ――世界。 息が止まった。 今、ダンラルグは何と言った? 世界。 世界って、言った?流れてきた、と? その台詞が意味するものは、ただ一つ。 この人は。 「――私が、この世界の人間じゃないって、知ってたの?」 どうして。 「その娘、 私と同じように、どこか呆然とした山羊さんがダンラルグに問う。 ――流人? 「あぁ。流人だ」 ダンラルグは山羊さんにそう答えて、私に向き直る。 「君がこの世界の人間じゃないことは、君を拾った馬車の中で気付いた。こちらの世界では見ることのできない技術を手にしていたからね」 言われて、気付いた。 そうだ、ずっと夢だと思っていたけれど。 私はこの世界に来たとき、ダンラルグの前で――スマホを使った。科学技術の結晶であるそれは、こちらの世界では見たことがない。 たぶん、こちらにはないものだったんだ。 それでダンラルグは、私が違う世界の人間だって気付いた……? でも、そんな荒唐無稽なこと考えられるんだろうか。 私が日本で魔法を見たからと言って、すぐさまそれが魔法だと信じることはできないと思う。たぶん、手品とか、なにかトリックがあるんだとか、色々と疑って、最終的には超常現象だ、て済ませてしまうかもしれない。 この場合の超常現象は、今現在の科学では説明をつけられないけれど、未来の科学なら事象が説明できるようになるかもしれないもの、という意味だ。本当に、それこそ神様が起こした奇跡、みたいな考えはしない。すべての事象はいつか、きっと解明されてしまうんだろうと言う漠然とした確信があった。 見知らぬ技術を見たとき、それが魔法だなんて信じない。 同じように、こちらの人も見知らぬ電子機器を見て、それが科学の結晶だなんて考えないはずだ。 ましてや、それが異世界から来た技術だなんて。 信じない、はず。 信じない私が、ひねくれてるの? 目を回しそうなほど、色々な考えが頭をめぐる。つられて視線があちこち飛ぶようになると、ダンラルグは私をあやすように、背をぽんぽんと叩いた。 その大きな手のひらのあたたかさに、我に返る。 「大丈夫だ、サク。ここに君を傷つける者はいない」 詰めていた息が、自然と吐き出された。 「わ、たしは、ダンラルグに保護されてると考えていいんですか?」 「愛しい娘を守るのは、父親の務めだ。何からも守ってやるとも」 娘になった記憶はとんとないんですがね! 抗議の視線を送ると、ダンラルグはくつくつと笑った。それで、日本人的感覚がからかわれたのである、と告げる。 なんだかそれで気が抜けてしまって、私は自然と固くなっていた身体の力を抜いた。同時に思考も通常通り働きだす。 「あの、色々聞きたいことがあります」 「この父に、存分に聞くと良い」 頼られるのが嬉しいのか、ダンラルグはご機嫌な様子だ。彼が不機嫌なところはあまり見ないとはいえ、聞いていいと言われている間に聞くことにしよう。 「まず、この世界はなんていう世界なんですか?」 その問いに、ダンラルグも山羊さんも難しげな表情を浮かべた。 「世界の名前かい?国や大陸に名前はあるが、この世界には名前がない。サクの世界にはあるのかい?」 言われてみれば、ない。 だって世界は1つしかない、と考えられていたから、わざわざ名づける意味がなかった。世界、と言えばそれは、日本やアメリカのある世界を意味する。それ以外に意味はない。 地球っていうのは星の名前だし……世界の名前じゃない。あ、あとガイア?って名前もあった気がするけど、あれも結局は地球のことを指すような名前だったような、うろ覚えですよ。 でもまぁ、一応名義として、日本のある世界をガイアと呼ぶことにしよう。 だってかっこいい響きだもんね、ガイア!母なる地球って感じで! 「私のところも世界に名前はないですけれど、便宜上ガイアと呼ぶことにします」 「あぁ、あちらの世界、と言うのはなかなか面倒だから良いね」 賛同を得られたので、これからは向こうの世界はガイアに決定。 「えーと、それで、ダンラルグ……とそちらのお兄さんは私が異世界の人間でもあんまり驚いてなかったけど、ここでは異世界の人間がよく来るんですか?」 ふむ、とダンラルグはあごひげを撫でた。 「ひとまず、紹介をしておこう。彼は私の友人の、ガルマンだ」 ……すごいな、ダンラルグ。あの罵倒を浴びても彼を友人と紹介できるとは。 しかし山羊さん――ガルマンさんもその紹介に不満はないらしく、軽く頷いた。 「ガルマン・イシュドビアーグだ」 「あ、えっと、サク・アオヤマです」 ダンラルグのひざの上でぺこっ、とお辞儀をすると、やはりガルマンさんはビクッと身体を揺らした。さらにはダンラルグも。何故だ。 その疑問をぶつける前に、ダンラルグが口を開いた。 「先の質問についてだが、異世界の人間がよく来るか、と問われると割と来る、という言い方が適切だろうな」 衝撃的事実だった。 わ、割と来るのか。そんな、常連みたいなノリで来ちゃうのか。 「異世界から来たものを流人、と言ってね。大抵は人だが、獣や物が落ちてくることもある。それらも総じて流人と呼ぶ」 え、じゃあガイアの猪とかキリンとかタイヤとかカミソリとか、果てはパンツがこの世界に来ても流人と呼ばれるのか。私、パンツと同類か。 もうちょっと、せめて人でない場合は呼び方を変えようよ、と思う部分もあるけど、養女の申請方法といい、この世界はおおざっぱなのかもしれない。今さら小娘がわーわー言ったところで、呼び方は変えられないだろう。 でも割と、というくらいガイアから何かが流れこんで来てるなら、自分が異物だ、という感覚は薄れるかもしれない。 それに、日本人にも会いたくなったら会えるかも。 「流人が割といるなら、私と同じ故郷の人にも会えるかもしれないんですね」 「いや、それはわからん」 ガルマンさんが口を挟んだ。 「流人は確かにこの世界には割といるのだが、それが必ずしも君が住んでいた――ガイア世界から来たとは言えない」 「……え?」 ガイアから来たとは言えない? 「確認しておきたいが、君の世界には羽が生えた人間は存在していたか?」 「あっ、ガイアの人じゃないですねー」 間髪いれず否定する。 天使とか妖精は、一部の人には存在するものなのかもしれないけど、少なくとも私には存在しないものだ。そして多くの人が見たことない存在だろう。だからきっと、普通のガイアの人ならば「うちの世界の人間じゃないです」と言うに違いない。 ガルマンさんは私の答えがある程度予想できていたのか、小さく頷いた。 「つまりだ、この世界には色々な世界から流人がやって来る」 「一応、仮説があってね」 ダンラルグがガルマンさんの説明を継いだ。 「世界は縦方向に、点で存在しているのだろう、と。そして我々の世界は数ある世界の中でも下の方に存在していて、上の世界から落ちてくる存在が多いのではないか。そういうふうに考えている」 ……うーん。噛み砕くと、この世界やガイア以外にも異世界はたくさんあって、それは平行線ではなく縦に存在している。で、この世界は中でも下の方に存在する世界で、上の世界からやって来る異物を受け止めることが多い、そんな世界だって考えられているってことかな? イメージとしては滝だ。上から落ちてくる水を受け止める地点。それがこの世界。 その考えに倣うと、ガイアは割と上の方に存在していた世界なのかもしれない。異世界の者が流れて来たって話は聞いたことがない……いや。宇宙人とか、天使とか、悪魔とか、ネッシーとか、実は異世界から流れて来たんじゃないか?ん?ネッシーは嘘だったってわかったんだっけ? しかし日本にも妖怪とかいるしな。いったんもめんとか、風が強い日にふんどしが飛ばされてたのを酔っぱらった人が妖怪と勘違いしたんじゃない?とか思ってたけど、実は他の世界にああいう生き物がいたのかもしれない。そう考えると、あながちこの世界の仮説が間違っているとは言えなかった。 実際、私はこの世界に来ちゃったわけだし。 「ガルマンさんとダンラルグが言いたいことはなんとなくわかりました。流人だからと言って、その人が必ずしもガイアの人とは限らない。だから故郷の人と会える確率が低いってことなんですね」 異世界がガイア1つなら、いずれ日本人と会えたかもしれないけど、異世界は1つじゃないから流人の数が多くても日本人である可能性が低くなる。そういうわけだ。 ダンラルグはよくできました、と言わんばかりに私の頭を撫でた。 「ええと、流人という存在が周知されてるってことは、流人に対する差別とか偏見はあまりない、感じですかね?」 物語でよくある、黒髪黒目は不吉の象徴で迫害される、とかだったりしたら大変だ。まぁ、日本人の髪と目ってよくよく見れば黒ではないんだけれども。一応、念のために確認をば。 私の問いに、ダンラルグとガルマンさんは小首を傾げた。 「毛嫌いする、という話は聞いたこともないな……」 「人型でない場合は、少し恐れられるかもしれないがね。サクは愛らしい容姿だから、むしろ誘拐されないように気をつけなければいけないよ」 アイラシイヨウシ、っていうお菓子は食べたことないですねー。 なんて冗談はさておき、ダンラルグは娘贔屓が過ぎやしませんか。大丈夫だから。どう見ても、掃いて捨てるほどの容姿しか持ち合わせてない私が、誘拐されるなんてことありませんから。物語のヒロインならともかく、私にそんなハイスペックを期待しないでおくれ。 そんなことを考えていたら、横からガルマンさんがダンラルグの言葉に同意した。 「確かに、流人の中にはこの世界にない技術を伝える者もいるからな。そこに価値を見出し、自分の手元に置いておきたいと思う人間も少なくない。気をつけた方がいいだろう」 ……。 無言でダンラルグを見上げると、彼は苦笑してみせた。 「私はサクに技術や知識を求めて娘にしたのではないよ。そもそも子供にそんなものを求める方がおかしいだろう?」 「あぁ、その点は俺が保証しても構わん。その男はどうしようもなく下衆な男だが、幼子に利用価値を求めるほど落ちぶれてはいない」 ガルマンさんのフォローは、果たしてフォローなんだろうか。 フォローになってない気がするな、と思いながらも私は謝った。 「疑ってごめんなさい、ダンラルグ」 ガルマンさんのフォローがなくても、考えてみればダンラルグは私に何かを要求したことは一度たりともないのだ。 ……まぁ、会話が成り立たなかったこともあるけど。それでも、彼からプレッシャーのようなものを感じたことはない。与えられて、見守られただけだった。私を利用しようと考えたなら、もっと焦りがにじみ出ていただろう。でもそんな気配はまったくなかった。 知らないうちに娘になっていたのは、驚いたけど。 …………あれ?搾取はされてないけど、割と下衆いことされてる? 「構わないよ。幼いのに疑うことを知っているのは聡いことだ」 褒めるように頭を撫でられた。 怒ってないのはいいんだけど……幼い? 疑問符が浮かぶ単語に、ガルマンさんも頷いた。 「そうだな、これほど幼いのに話を理解しているのはすごいぞ。冷静だし、難しい言葉もよく知っている。サクの世界ではそれが普通なのか?」 ……あれ。 こういう話、日本人が外国に旅行に行くとよくあるやつじゃない? 認めたくないけど、その、私、もしかして……13歳より下に見られてる? 「じゅ、13歳としては平均的な知能だと思いたいんですが」 言うほど幼くないですよー、というアピールのため年齢を口にすると、ダンラルグとガルマンさんは大きな目をさらに見開いた。 「13歳……だと……!?」 ガルマンさんが思わず、といった様子で言葉を漏らした。驚きの感情モリモリである。 「か、数え間違いをしてないか……?どう上に見ても、君は8歳くらいにしか見えんが……」 「8歳!?」 ガルマンさんの口から驚きの年齢が吐き出された。なるほど、8歳か。それは幼いと言うでしょうよ!私だって8歳の子が非日常な場所で落ち着いてたら、大人びた子だなぁとか、神童かとか思いますよ! だがしかし!数え間違いはしてない! 「1分が60秒、1時間が60分、1日が24時間、1年が365日の計算であれば、13歳であることは間違いないですね」 だって、中1の教科書持ってたし。スマホの個人データにも誕生日が打ちこまれてたから間違いない。私は13歳である。 ガルマンさんがはぁぁ、と嘆息する。 「数え間違いは、ないな。時間の流れは同じようだ。いやしかし、その容姿で13歳とは……どうりで聡い幼子だと思ったぞ。13歳ならば、成人も近い故、当たり前のことか」 「え、こちらの成人はいくつなんですか?」 「15歳で成人だな。ガイアでは?」 「ガイア、というか私の国では20歳で成人でしたね」 しかし15歳で成人か。私、あと2年で大人になれるかな?日本にいたときは20歳で成人だったから、まだまだ時間があると思いこんでた。そうか、こちらのしきたりだと成人が早いとか思ってもみなかった。 大人になったらどうしたらいいのかな、とか考えていると、ふとダンラルグが静かすぎることに気付いた。 見上げれば、難しい表情をしている。 「ダンラルグ、どうしたんですか?」 「ふむ、少々マズイかと思ってね」 「マズイ?」 何が?と小首を傾げると、彼はしらっととんでもないことを言った。 「8歳と書いて、養女申請をした」 ……ん? 「いやはや、我が娘がこんなに小さく幼く愛らしいので、まさか13歳になる少女だとは考えもしなかったんだ。人間であることを鑑みても、8歳くらいだろうとあたりをつけて申請し、通ってしまった」 「……えっと、すみません。ちょっと混乱して。つまり?」 「つまり、サクは戸籍上、8歳の少女ということになっている」 サク・アオヤマ。戸籍の上で、13歳から8歳に若返ったようです。 |