ラジオ体操の歌が、頭の中で流れる。いっちにーさんし、の方じゃなく、新しい朝が来たの方。希望の朝の方。 そんな爽やかな曲が似合うほど、窓の外に見える空は青かった。 雲一つない、快晴ってやつだ。 ここ数日、そんな天気が続いてる。 そう、ここ数日。 この屋敷に来てから、少なくとも3日は経った。 起きて、ダンラルグと一緒に(肉ばかりの)朝食を食べて、日中どこかへ出かけるダンラルグの代わりにウサギさんとリビングっぽいところで過ごして、帰って来たダンラルグと(肉ばかりの)ご飯を食べて、お風呂に入って眠る。 その繰り返しを、3回だ。 眠りにつくたびに夢から覚めるだろう、と思って、裏切られた。 その裏切りは、確実に私の心に不安の影を落としていく。 ――ここは、もしかして夢じゃないんじゃないか? なんとなくぼんやりと覚えている自室とは違うここは、初日にダンラルグに案内されて使用させてもらった客室だ。天蓋が下りたままで、薄いオレンジ色の薄衣越しの視界は見慣れないものだけど、眠ったときの状況とは毎回一致している。 一致してるから、困る。 だって、起きたら自室じゃないとおかしいよ。 夢の中で眠りについたら、現実世界で目覚めるっていうのがお約束なんじゃないの?何で私は、今も昨日と同じ部屋にいるんだろう。 夢の中で眠ったから、さらに深い眠りについた?夢の中で見る夢、というにしたって、それでもやっぱり昨日と同じ状況っていうのには疑問を禁じえない。夢っていうものは、もっと不条理なものだ。極端に言えば陸を歩いていた次の瞬間には、海底を歩いていたって不思議じゃないはずなのに。 そうだ。 この夢は、不思議だけど条理が整っている。 移動方法も、時間の流れも、言語の文法だって、芯が通っているように思える。 呆然としながら、自分の頬をつねってみる。 痛い。 痛覚がある。 ……痛みって、夢の中で感じるっけ? 学者じゃない私は、その答えを知らない。けれど、一般的には夢の中では痛覚がないものとされている、はずだ。 一般論に従うなら、これは現実。 獣人、と呼ぶにふさわしい存在がいるこの世界は、夢じゃない。 「マジか……」 思考が一瞬止まったのち、ぶわっと脳が動きだす。 アレか。ライトノベルやネット小説やら漫画とかではおなじみの、異世界トリップってやつか。そういうものが知識としてあるってことは、私は自分でも知らない間にそんなジャンルの娯楽品を読んでいたんだろう。 そうだ。記憶。私の記憶、ない。 今までは夢だと思っていたから何も思わなかったけど、ここが現実なら問題大ありだ。私は今、記憶喪失状態なんだ。 いや、確か記憶は喪失するものじゃないって、何かで読んだ気がする。そう、喪失するわけじゃなくって、思い出せない状態になってるだけなんだっけ。喪失してないなら思い出せるはず。だけど、その方法がわからない。 忘れたときと同じ状況になってみればいいってのが一般的だったけど……そもそも私は、なんで自分に関する記憶を忘れてるんだ? 何がどうなって、あんな森の中に転がってた? 夢だと思っていたとはいえ、私の危機感薄すぎる。もっと自身の置かれた状況について貪欲に情報収集しようよ! うーん、お約束な展開としてはオンラインゲームの世界が現実になったとかだけど……そういった場合って、何かしら特殊能力が付与されてる場合が多い。 でも私、そんな特別な気配が皆無なんですが! いや、物は試しだ。 「……ス、ステータスオープン」 ぼそっ、とお約束な言葉を言ってみる。 無反応である。 「ぐ、おぉぉぉ……っ!」 思わず頭を抱えて、ベッドに突っ伏した。 な、なんだこれ……こっ恥ずかしいぞ!もしかしたらゲームで言うところのステータス画面とか見れちゃうんじゃないかって一縷の希望を持って呪文を唱えちゃったのに空振りするとか、割と恥ずかしい! アレか。ステータス画面とか無い方の異世界トリップ系か。 適当に呪文を唱えたら、水魔法とか使えちゃう系トリップか! 気を取り直して身体を起こし、手を胸の前で構えて魔法を使うぜって感じを醸す。 「ア、アクアボール」 何も起こらない。 再び頭を抱えて突っ伏す。 うわぁぁぁ。何なんだよ、魔法使えちゃう系トリップじゃないのか!今流行りのチート系トリップじゃないのか!精霊王に好かれたり、竜王に好かれたりするワクワク冒険系トリップじゃないのか! あと可能性があるとしたら召喚された系トリップだけど、森で歩いた感覚からすれば、体力チートや運動神経チートや知識チートはまったくもらってない気がするので、王様に「魔王倒しに行って来てね」って言われる可能性がすごく薄い気がする。こんな棒っきれみたいな手足付けてる小娘より、筋肉むっきーで剣を振るうのがお仕事です系お兄さんに行ってもらったほうが、よっぽど建設的だ。 知識チートに関しては、それを揮える地位にいなけりゃないのと同じじゃなかろうかと思う。小説でも知識チートが揮われるのは、一国の王とか伯爵令嬢とか侯爵子息に転生した、みたいな土地を治める立場の人が多いし。そもそも私は味噌の詳しい作り方とか、蒸気機関車の構造とかわからんぞ。こんなもので知識チートとは笑わせる。 あとウサギさんの作る料理から鑑みるに、こっちのご飯って普通においしいし。野菜は圧倒的に足りないが。食の革命起こさなきゃ!って決意させるほどじゃない。そりゃあ、液体窒素を使った料理……分子ガストロノミー?っていうのとかは出てきてないけど、賭けてもいい。日本人の80%はそんなジャンルの料理を食べたことがない。ガストロノミーってなんだ状態だ。 もしそれが間違っていても、私自身が「あー、液体窒素使った料理食べたいぃぃ」と欲してないので必要ない。 しかしチートトリップではないとは。じゃあ、もしや転生の方? 実はこの身体はちゃんとこの世界で生を受けていたけど、何かの拍子に記憶を失ってしまって、前世の魂が顔を出した的な? あ、でもそれだとスマホを持ってたつじつまが合わなくなる。あんな電子機器の塊、どう考えてもこちらの世界にはないよね。 ということはつまり、やっぱりこの身体は日本で生を受け、生活していた。 記憶が曖昧なだけで。 ……なんか色々考えたら、ちょっと落ち着いた。 一種の躁状態が過ぎ去って、むくりと起き上がる。ここでゴロゴロしてても、私の欲しい情報は得られない。あの山羊さん……ダンラルグに色々聞かねば。 そんなことを考えながらサボ……でいいや、を履いて、気付く。 そういえば、私って言語チートももらってないぞ。 こういうトリップの物語って、大抵は異世界の言語が理解出来てるようになってるもんじゃないのか。私、まったくこっちの言葉がわかってないんだけど。ペッツが何を意味するのか不安な状態だよ。 そうなんだよ。 私、ここでどういう扱いなのか、全然わかってない。 夢だと思ってたから、彼がどんな気持ちで私を見てたか、そんな観察してなかった。 害され……はしない、と思う。そんなつもりがあるなら、この数日間で何かしらのアクションがあったはずだ。不審者として警察らしきところに連れて行かれることもなかった。まぁ、もしかしたら今日連れて行かれるのかもしれないけれど。 でもそれも、どうにかなるのではないか、という希望的観測があった。何故かって言うと、とても打算的で恥ずかしいが、私はこちらの人からしても子供だと思われている節がある。それは幼児抱きから容易に察せられる。 まだ親が必要な未成年。それを警察っぽいところに連れて行くならそれは、突き出すというよりは保護してもらう、という面が強いんじゃないだろうか。 「……どうにしろ、ダンラルグ任せかな」 警察には突き出されずに、放り出されるってパターンもある。私がここで悩んでいようがいまいが、実はそんなことは関係ない。すべてはダンラルグが決めることなのだ。 結論付けたところで、コンコンとドアがノックされた。 「はい」 通じることはないのに、癖で日本語で返事をしてしまう。 しばしの沈黙のあと、ドアが開いてダンラルグが顔を出した。 「ドーン・マハナル」 ……うん。状況をちょっと把握したからって、やっぱり言葉がわかるようになってた、なんてご都合主義な展開はなかった。さっぱりわからない。 今までは夢だから、と流してしまっていたけど、毎朝毎朝かけられるこれは、もしや朝の挨拶なんじゃないだろうか。 「どーん、まはなる?」 出来るだけダンラルグの発音に寄せて言ったつもりだけど、舌っ足らず感はある。 それでも私の返した言葉に、彼は野ブドウ色の瞳を丸くした。しかしすぐに輝かせて、ぱぁっという効果音が付きそうなほどに微笑んだ。 その笑みに悪意は隠れていない、と思う。少なくとも今のところは悪意を向けられる可能性は低い。もちろん0ってわけじゃないけれど、すべての可能性を考えると身動きが取れなくなるからダメだ。ある程度低い可能性は切り捨てて、事態に対応していかないと。 ここは私がいた世界じゃない。 私の知ってる常識は通用しない。 「モイ・ハメイ」 戸口に立つダンラルグが、欧米風カモンをしている。 ふむ。モイ・ハメイっていうのは「こっちにおいで」っていう意味なのかな? ベッドから立ち上がってダンラルグのところに行くと、彼は満足げに頷いた。やっぱりモイ・ハメイはこっちに来いという意味であっているらしい。 あと、「コップ」がお風呂ってことは覚えたぞ。カルチャーショックが過ぎて。 「ダツ・エズ・オウン・フゲル・フー・エット・イップ、エズオン・ダツ?ウグ・ヴェオン・ローウ・ウェール、イゼ・クス・ダツ・イーク?」 待って待って待って。わかんないから。さすがにその長さの言葉はわかんないから。 挨拶を返したから、言葉を理解できるようになったと思われたのかな。とりあえず質問っぽいそれには、小首を傾げてわからないアピールをしておいた。 何故か悲しげな表情で肩に手を置かれ、首筋に手を這わされた。 セクハラかい?と一瞬思ってしまったけど、いかがわしい気配はまったくなく、どっちかといえば困惑しているふうだ。 「ジール・スム・エル・ラッド・ドーン・ハルフ、ヴェオン・ジール?シェップ」 ひょいと抱き上げられて、ベッドに戻された。 この数日間思い出してみれば、ダンラルグは私を荷物のように気軽に運ぶことが多い気がする。2メートルはあるだろう大男に担がれる状態に近いのだから、抱き上げられたり下ろされたりするときは、エレベーターに乗ったときのようなヒュンヒュン感を味わうはめになるのだ。 今までは夢だから、と取りたてて気にはしなかったけど、うん。 端的に言うと、抱っこされて下ろされると眩暈がしますな。 ちょっと頭がふらふらする。 ダンラルグはそんな私の肩を押して寝かせ、ベッドのシーツを私に被せた。 ん?なんで寝かされようとしてるんだ? 「どーん・まはなる?」 起きなくていいんですかい?という気持ちを込めて、朝の挨拶をすると、彼は目を丸くしたのちに優しく微笑んだ。 「ドーン・ゲナル」 それは確か、眠るときにかけられる言葉だった。日本語で言うところの「おやすみなさい」ってところかな。 つまり今日は寝ていなさい、ってこと? よくわからないけれど、眠るのは嫌いじゃないし、ダンラルグに従っておくことにした。ベッド大好き。ベッド最高。この寝室はいい香りがしてリラックス出来るから、不眠なんて言葉とは縁が切れている。 重いまぶたを閉じるのと同じくして、天蓋が閉じられるのを感じた。 ******** その日から、なんだか身体がすごくだるいことに気付いた。 眠っても眠っても、眠気が取れない。身体が重い。 ダンラルグはそれを心配しているようで、以前食べていたステーキとかではなく、トマトスープ味付けの肉そぼろを朝食や夕食として出すようになった。ちなみにどうやらこの世界に、昼食という概念はあまりないのかもしれない。この家に来てお昼に食べたことがないので。 代わりに午後2時くらいに、とても豪勢なティータイムがあるのだ。大体は日本でも見ることの出来たフィナンシェやマドレーヌっぽい焼き菓子で、紅茶に似たお茶を飲む。 ただ、今の私じゃティータイムを楽しめる体力もない。お菓子を作ってくれるのはウサギさんなのだけれども、彼女が持って来てくれたものに首を振ること2日。 白衣を着たハリネズミが、私の部屋にやって来た。 日本の動物図鑑と見比べれば差異はあるのかもしれないけど、思い出す限りはハリネズミそのまま。白衣を着て、昔の人がつけてたメガネっぽいもの――モノクル?を左目につけてるのがぬいぐるみっぽさを強調する。 でも小さな手に持っていた往診鞄の中身は本格的な医療道具で、お馴染みの聴診器や日本では見たことのない器具を使って私を診察した。 ハリネズミ先生の後ろでは、心配そうにダンラルグとウサギさんが様子を見守っている。 「ダツス・マノラントリアウル」 聴診器を外したハリネズミ先生がそう言うと、ダンラルグとウサギさんが毛をぶわっと逆立てて驚いた。 「マノラントリアウル!?」 よっぽど驚きの言葉を言われたらしい。ダンラルグが叫ぶように先生の言葉を繰り返すと、ハリネズミ先生は私をベッドに寝かせて、ダンラルグたちの方に向き直った。 「エンハ・ネルネンド・ライラー。エズ・キート・ゼーツ・ウォバン・フー・ヘス?エンハ・タル・ゲル・イップ・ラントリアウル・オッシュ・ンルー・キート、オッシ・ダツ・デラオン・ファガッツ。ヘー・エズ・レッシュ・エル・ヴァンタント・オッシ・メル・ジェ・ティアルナラナット・ガー」 ハリネズミ先生の言葉は早口で、私には全然わからなかったけれど、ダンラルグさんとウサギさんには理解できたようだ。なんかわからないけど、ダンラルグは頭を抱えるし、ウサギさんはおろおろしてるし。 ちょっと待って。私、言葉が理解できないけど、不治の病なの?ねぇ。ねぇ。めっちゃくっちゃ不安なんだけど!病人を放っておかないで! 異国で入院したときの不安感が、よもやこんな場所で体感できようとは。異国どころか、異世界らしいけど。そのせいで不安感が倍増だ。 そんな私の不安をよそに、ダンラルグの立ち直りは早かった。テキパキとウサギさんに何かを指示する。 「メーレル・ペレッペ。ウグ・ガウ・ライラー・オッシ・ウェルット・イジス・リーノ・ウル、ポナン」 「ニーイ!」 指示されたウサギさんは、慌てた様子で部屋を出て行った。 けれどダンラルグはそのままこの部屋に残り、ハリネズミ先生と色々お話をしている。けっこう長いことしゃべるので、私が聞き取ることはできなかった。 あまりにもわからない言語って、もはや音楽に聞こえてくる。 2人の会話をBGMにして、しばしぼんやりとベッドの天蓋を見つめていると、ウサギさんが籠を抱えて帰って来た。 「シャク、シャク!」 シャク、と呼ぶのはウサギさんだ。どうやら朔、という名前はこちらの人にとっては呼びにくい名前らしく、彼女は気が抜けるとそんな感じの呼び方になる。 私を呼びながら、彼女はベッドに近付いてきて、籠の中に入っていたものを取り出して見せた。 それはこの屋敷の食卓でほとんど見ない、野菜や果物だった。 りんごのようなものをあるし、みかんみたいなものもある。レタスっぽいものやニンジンみたいなものもある。 ウサギさんの名誉のために言っておくが、彼女の料理はおいしい。すごくおいしい。おそらくコンビニで買えるお惣菜の類とは別格であろう。 ただし肉料理オンリーだったのだ。 食卓にのるのは、肉肉肉。 私の身体は野菜や果物を欲していた。 瑞々しい、爽やかな野菜と果物の香り。これだ、これを待ち望んでいた! ふぉぉぉ、と感動しながら、籠の中に入っていたりんごらしきものに手を伸ばす。すみません、もらっていいですか?お行儀悪いですけど、丸かじりしていいですか?いいかな?後で謝るから! 手のひらに収まるサイズ、いわゆる姫りんご的なものを口に近づけて、しゃくりとひとかじり。 いちご味だった。 「な、なんでだ……っ」 完璧に口内がりんごを受け入れる準備をしていたので、思わぬ味に脳がびっくりしてしまった。しかし、しばらくぶりの生果物のおいしさときたら、感動ものだ。 そのままもしゃもしゃ頬張っていると、視線を感じた。 食べるのをひとまず止めて、周りを見てみる。 ウサギさんとダンラルグが、目を潤ませてこっちを見ていた。 ……ねぇ、これ、最後の晩餐だったりしませんよね? ******** 結果的に、最後の晩餐じゃなかった。 ハリネズミ先生が来た日を境に、食事が劇的に変わった。 朝食は麦のおかゆっぽいものとハムらしきもの、それにサラダとフルーツが出て、昼食が出るようにもなった。もちろんそれもお肉のみじゃなくて、パンとかサラダとかがつく。代わりにティータイムはひかえめになった。それから夕食もバランスの取れたメニューが私に用意され、そのうちに身体のだるさが消失していった。 身体のむくみも取れたし、便秘も改善されたし、食生活重要。すごく重要。 起き上がっても苦じゃなくなったところ、ダンラルグからお屋敷の中を自由に散歩していい権利を得た、ようだ。相変わらず言葉はわからないので、ボディーランゲージとニュアンスで感じ取った結果、たぶんそういうことだろうと思っている。 ただし玄関のドアを開けようとしたら、ものすごい勢いでダンラルグに首を横に振られたので、外に出てはいけないらしい。まぁ、異世界でお外のお散歩なんて迷子フラグだし、行こうだなんてこれっぽっちも思いません。 なので日中どこかへ出かけるダンラルグの代わりに、ウサギさんと屋敷を歩いて時間を過ごした。寝込んでいた間、筋力ががくんと落ちていたので、運動にちょうどいい。 その中で、書庫……というか、図書室を見つけた。 広さは小規模の宴会場くらい。だけど天井が高くて、壁は天井近くまで本棚になっていた。部屋の中にも少し低めの本棚がいくつか並んでいるけれど、机と椅子は一脚ずつだけ。 明らかに個人のための図書室だった。 図書室って公共の建物にしか存在しないものだと思っていたから、個人の邸宅で見つけたときの衝撃ったらなかった。こちらでは当たり前のことなのかな、とも考えたけど、異世界語で説明するウサギさんがとってもドヤ顔だったので、こちらの世界でもめずらしいのかも。 見てもいいのかな、と恐る恐る本に手をかけてもウサギさんに止められなかったので、ダンラルグから使用の許可は得ているのだろうと考えて、遠慮なく本を手に取った。 異世界語で書かれた書物はやはり、読むことはできなかった。 いくつか手に取って見たけど、この図書室には子供向けの絵本もあるみたいだったから、とりあえずそれで暇を潰すことにした。4歳とか5歳向けの教育絵本って、基礎を学ぶ上で馬鹿にできないからね。 うん、そうなんだよ。基礎だよ。 ここが夢の世界じゃないってことがわかった以上、言葉がわからない状態を「いっか」で済ませているわけにはいかない。 だってここに来て2週間近く経ったのに、未だに自分の立ち位置がどこかわかってないもん。虐げられてはいないから、おそらく保護されてる状態だと思うんだけど。それでもさすがに、いや庇護されてる立場だからこそ、言葉を覚えてコミュニケーションを取らねばまずかろう。 そんなわけで図書室を見つけた日からずっと、絵本で異世界語の勉強をした結果。 「 片言をマスターした。That am panレベルの人間にしては素晴らしい成長じゃないかと思う。 ここまで来るのにさらに2週間を費やしたけど、覚えが遅いのか早いのか考えてはならない。折れる。心が。異世界語、難しい。日本語訳ないし。 いいんだよ。要はやる気なんだよ。やる気を見ておくれ! そんな願いが通じたのか、ウサギさん――片言が通じるようになって、やっと名前が判明したペレッペさんとダンラルグは、私の怪しい片言を微笑ましく見守ってくれている。 ただし私がメーレル・ダンラルグと言ったら、彼はにこやかに、しかし迫力を以って首を横に振ったが。「さん」に値するらしきメーレルでもダメなのか。そうか。よほどさんづけが嫌なのか、私の発音が悪かったのか、今でもわからない。 しかしながらダンラルグと違い、ペレッペさんは発音の正しさに非常に甘いので、今のような舌っ足らずな片言でもにっこりと微笑んで「 まぁ、最近はペレッペさんがお屋敷のお掃除とか夕食の仕込みをしている間、ずっと図書室にいるのが定番になっているから、言葉が通じなくても何をしたいのかはわかってるんだと思う。さすがに2週間も図書室に通いつめれば、それなりの生活リズムが出来てくるというものだ。 というわけで、お屋敷のお掃除に向かうペレッペさんとは図書室の前でお別れし、すっかりおなじみとなった部屋に足を踏み入れる。 いつ見ても、すごい蔵書量だ。これ、向こうの世界でも図書館に寄贈したら喜ばれそう。 十中八九、読めないと思うが。 寄贈されたちんぷんかんぷんな本に右往左往する大人たちを想像しながら、適当な本に手を出す。 ダンラルグは本を蒐集しても、整理整頓までは気を配らない性質であるようだ。続きものの絵本が隣接しておらず、正反対の本棚で見つかることはままある。なので実際に開いてみるまで、それがどんなジャンルの本なのかわからない。 まぁ文章だけの場合、それがフィクションなのかノンフィクションなのかすらわからないんだけれども。だからせめて絵本コーナーを作ってくれまいか、ダンラルグ。 ちょっと泣き言を漏らしながら、本を開く。 それは絵本ではなく、文章と図形が載ったものだった。 ふむ……?内容はまったくわからないけれど、図形はなんというか、どことなく魔法陣っぽい気がする。超ファンタジーな感じだ。つまり用途がまったくわからない。 そのままパラパラとめくって――手と息が止まった。 「……日本、語……?」 象形文字とアルファベットを混ぜたような異世界文字。その中でたった1ページだけ、日本語で書かれたページを見つけた。 目を擦って、もう一度確かめる。 やっぱり、漢字とひらがなが使われた、完璧な日本語だった。 混乱、する。 何で? 何で、こんなところに日本語が。 だって、ここは異世界なのに。 それとも、やっぱり私の夢なの? 足元がふわふわして、覚束ない。 思考があっちこっちに飛んでいく。 日本語。日本人。異世界。あり得ないのに。 もしかして、私以外にも日本人がいる……? 光景としてしか見えていなかった日本語が、文章として頭に入ってくる。その意味を逃さないように、私は指で一文字一文字を追って、漏らすように声にした。 「――我が器に黎明 シャン、と鈴の音が鳴り響いた気がした。 本から視線を外し、周りを見てみたけれど音源は見当たらない。 それはそうだ。だってここにずっと通い詰めてるけど、鈴なんて一度も見たことがない。もちろん私自身もそんな音が出るものは身につけてない。 足元も、天井も見てみるけど、やっぱり音の正体はわからなかった。 いったん諦めて、本に視線を戻す。 ひゅ、と思わず息を呑んだ。 私が読めるページは、さっきまでたった1ページだったのに。 その次のページも、理解ができる。 「え、え……」 震える手で、ページをめくる。 呪文めいた言葉が延々と並んでいる。そんなことが、わかる。 けれどそれらは日本語で書かれているわけじゃなかった。 きちんと、異世界語で書かれている。 なのに、理解できてしまう。 おそらく日本で英語の文章を読むよりも、滑らかに。私は英語があまり得意じゃないので、いったん英文を読んで、単語を日本語に直して、文章を日本語にする、という手間をかけていたはずだ。でも今は、英語よりもわからない異世界語を、母国語のように読みとれる。 「なんだ、これ……」 手にしていた本を戻して、並んだ背表紙の文字を読んでいく。 基礎鑑定学、愛の流るる場所、エンダーワットの冒険3、人間語辞典、歴史はここまで紐解いた、雑学王からの挑戦状、畑の彼女、心理試験、ママといっしょ、基本から習う刺繍。 ……ダンラルグ。分類分けしような! なんで鑑定学の横に恋愛小説があるんだ。あまつさえその横には冒険記の3巻が並んでるけど、1と2はどこいった!ジャンルごっちゃ混ぜすぎぃ! あまりの乱雑っぷりに、文字が読める衝撃が薄れてしまった。 いやだって、仕方ない。この乱れっぷりは、日本の司書であれば広辞苑か現代用語の基礎知識で殴りかかるレベルだぞ。たぶん多くの司書さんはそんなことしないだろうけど。 しかし酷い。これは酷い。 続きの絵本を探すのに、軽く2時間かかるわけだ。むしろよく、2時間で見つけられたな私。軽く奇跡だったんじゃない? 他の本棚をざっと見ても、分類はされていないみたいだった。ダンラルグはこの状態で、どこに何の本があるかちゃんとわかってたんだろうか。 ……うん。整頓しよう。 人のものを勝手に動かすのは若干気が引けるけど、このカオスっぷりは酷過ぎる。せめて続きものはまとめて置いてください。 とりあえず、手近な本棚から整頓を始める。買ったものから適当に突っ込んでいったという体がありありとわかるそれを、酷い酷いと言いながらジャンル別に並べていった。 ……世界広しと言えども、異世界文字を読めるようになって初めてしたことが本の整理だなんて人間は、私しかいないでしょうね。 むしろ私だけでいい。いてくれるな。 |