馬車でカタコト揺られること幾ばくか。歩き疲れたからか、揺れが心地よかったせいか、恥を知る日本人としてはあり得ないことに、山羊さんのお膝の上でうっかり眠ってしまってました。誰か私の記憶を殺してください。あ、やっぱり止めて、ただでさえない記憶が全然なくなったら困る!ぐぬぬ、私はこの恥ずかしい記憶を背負わなければならない宿命……宿命と書いてさだめ……ごめん、ちょっと廚2病に憧れがありました。 ともかく寝て起きたら、いつの間にか町に着いてた。 正直に言うと、起きたときちょっとだけ落胆した。まだ夢の中だったのか、って思って。 人の夢と書いて儚いと読ませた人間、ちょっとここに来て正座してくださいます?私の夢、全然儚くない。しつこい。 なにせ馬車の小さな窓から見える町の風景は、西洋というか、中東っぽい感じだった。赤いレンガ……いや、あれ、石かな?すごくゴツゴツしてるし。そんな感じの石で造られた建築物は日本じゃまずお目にかかれない。石畳も日本の石畳じゃなくて、海外っぽい並べられ方。現実の私がどんな場所に住んでいるかは知らないけど、明らかに日本じゃないなら夢の続きとしか考えられなかった。 まぁ、ちょっとした小旅行?みたいな?感覚で気楽に行こう。いつかきっと目が覚める。 そんな感じでぼんやり眺める町には、山羊さんやわんこさんと同じような――獣が混じった人間で溢れていた。虎っぽい人とか、熊っぽい人とか、羊っぽい人とか、いっぱいいっぱいいる。みんなゆったりめの服を着てた。やっぱり中東みたいなイメージの。 いや、正しく言うなら違う。中には獣も紛れて歩いてた。ねずみとか、それこそ不思議の国のアリスに出てくるようなウサギとか。ちなみにサイズはどの獣も、大型犬が立ったくらいはある。あと二足歩行だ。普通にてくてく歩いてて、周りも全然気にしてない。 むしろ、人間が少なかった。 いち、にぃ、さん、とかって数える余裕があるくらいに、少なかった。 ねぇちょっと。私の深層心理どうなってんの?ぼっちを拗らせすぎて、人間不信に陥ってんの?夢で人間を排除するとかどんだけなの?大丈夫なの、現実の私!それともあれか、ペットが飼いたいのか。もうおとうさんとおかあさんにねだっちゃえばいいじゃない!こんな夢見てる方が悲しいわ! 「ヴェー・ウグ・ポップ・イップ?」 山羊さんが顔を覗きこんできた。起きぬけだったので、ちょっとびっくりした。 うん、そして相変わらず言葉は通じないのね。期待してたのに。 「ダツス・ウグ・エズ・タタレット」 紫の瞳が細くなり、頭を撫でられた。これ、この人の癖なのかな。私、もう頭を撫でられるような歳じゃないつもりなんだけど……。 ……いっか。なにせ夢とはいえ、命の恩人?だし。撫でられるくらい何も減らないから好きにしておくれ。 ご主人さまに癒しを提供するわんこの如く撫でられることしばし、馬車が止まった。それからドアが開く。わんこさんが開けてくれたようだ。 さすがに膝から下りねばならまい、ともそもそ動くと山羊さんはそれを制した。そんでもって、当たり前のように私を抱き上げて馬車から下りた。ちなみに幼児抱きな! 前言撤回する。減る。この人に構われると何かが減る。あぁ、止めて通行人……人?さん見ないで!私が好き好んで抱っこされてるわけじゃない、本当山羊さん後で覚えとけ! ふぉぉ、と羞恥心から鞄とギフトボックスを抱えて悶えていると、山羊さんは不思議そうに小首を傾げた。 でも反応はそれだけで、すぐに馬車から荷物を下ろしてくれたわんこさんにお金らしきものを渡した。日本のように紙幣じゃなくて、硬貨だ。銀色だから……順当に考えれば銀貨あたり?ファンタジーの定番硬貨だもんね。これでオリハルコン硬貨だったりしたら、なんでそこで意外性を入れた、とツッコむぞ、私は。私に。 「アー・イー・ロットン・クエンター・フー・シェルフェ・トズ・ウール」 最後にわんこさんは爽やかに笑いながら何かを言い、馬車を操って去っていった。 ……そういえば、獣っぽい人間が馬を操ってるってシュールな光景だ。 ぼんやりと馬車の後ろ姿を見送っていると、急に身体が沈んで、浮いた。何事かと思えば、山羊さんが地面に置いていた荷物を取ったようだ。びっくりした。 荷物を手にした山羊さんは、私ごと後ろに振り返る。そこには中東の、どこか一軒家ちっくな建物があった。塀と鉄門扉までついてて、玄関に行くまでにはお庭もある。日本ならお金持ちのお家ですな。 山羊さんは気負う様子もなく、あっさりと門扉を開けて敷地に入った。え、勝手に入っていいの?ここどこなの?私の扱いはどうなってんの? よくわからないうちに、山羊さんは美しい花で溢れた庭を抜けていく。 バラの匂いがする。甘いけど、緑の匂いが混じって爽やかないい香り。キレイなお庭っていうのは、きっと香りも計算されたお庭ってことなんだ。 くんくん、と鼻を鳴らして辺りを見ていると、鮮やかな黄色の木バラの向こうにプール?を発見した。 日本のプールとはちょっと違う……噴水の受け皿の部分を広く大きく造って地面に埋めた、みたいなプール。なんにせよ……お金持ちだ!なんだあれ!すごいぞ!お家にプールある家とか、都市伝説じゃなかったんだ!私も宝くじで1億円当てたら家にプール造りたい!あ、でも、私の住まいが関東より北だったらどうしよう。プール、無用の長物じゃない?……いらないな!プール造るなら温泉造ろう。 生プールの興奮は、結構あっさり収まった。まぁプール、見たことないわけじゃないはず。絶対に学校で見てると思う。記憶にないけど。 記憶にないけど、知識としては知ってる。知識と記憶ってどこで線引きされてるんだろう?体験して得た知識は記憶から成り立っているはずなのに、その記憶が喪失してしまったら知識としてそれは成り立っているのかな。それとも私はすでに忘れてしまってるのかな? う、頭が痛くなってきた。ちょっと哲学的な話になってきてないかな、これ。それとも私が頭悪くて理解出来ない……だけですね。 まぁいいや。頭が痛くなったから疑問はポイッチョしよ。思考放棄。 ふかふかといい香りのお庭を嗅いでいると、山羊さんが玄関のドアを開けた。 ……おぉ。 建物の中も、アラビアンな雰囲気。玄関ロビーは吹き抜けになってて、2階に通じる階段が正面にデデン、と大きく設置されていた。お姫様とかが下りてきそうな階段だ。すごい。そこに敷かれてる絨毯も手織りなら間違いなく苛々するな、と思うくらい複雑な文様で織られてる。 玄関ロビーの床はピカピカした石のタイルでモザイク模様っていうのかな?が描かれてた。色合いはシックだから、目はチカチカしない。家具も黒い木調で大人しい印象だけど、壁にかけられたタペストリーや活けられた花がこの場を明るくしてた。庭と同じく、いい香りが溢れてる。くんくん、鼻が幸せ。 「メーレル・ペレッペ」 呼びかけられたのかと思って、なんぞな、と山羊さんを見るけれど、彼の視線はこちらになかった。紫の濡れた瞳がキョロキョロとロビーを見渡す。 「メーレル・ペレッペ」 「ニーイ」 右手にある廊下から顔を出したのは……150センチくらいありそうなウサギだった。 人型ですらない。不思議の国のアリスのような、2足歩行するウサギ。青いワンピースの上にエプロンをしてるので、メイドさんっぽく見えるし、どこか、大人まで魅了するほどのクオリティーを持つ恐るべき玩具ファミリーの人形を思い出す。つまりめっちゃかわいい。 ウサギと聞いてすぐに思い浮かぶのは、毛が白くて目が赤いものだ。だから無意識にウサギはその配色がかわいい、と思ってた、んだろうな。でもこのウサギさんを見てると、茶色い毛で金色の目をしてるのも超かわいいと思えてくる。玩具ファミリーさん、この色合いで出してくれないかな。つい買っちゃうと思う。 トテトテと近づいてきたウサギさんは、金色の目をパチクリさせた。 「エゥ!エゥエゥ!ホマック・ゲウス・ジェ・トオープ・クラパ?」 「ペイエ。エー・ウェプレッタ・イップ・バ・ジェ・レッタルッタ」 「ペイエ!?」 なんかわかんないけど、ウサギさんは驚いたようだ。まん丸な目がさらに丸くなって、私を見てる。ねぇ、不安になるんで、ペイエ?って何か教えてもらえませんかね?私と関係ある? 「エー・シルタ・トオープ・エズ・ジェ・イッスト・チプ・ペイエ」 「プー・ルー」 なんで今、プールの話してるんだろう。小首を傾げると、ウサギさんがなんかキャッキャッと笑った。声も高いし、ワンピース着てるし、女性で間違いないと思う。 「ウグイ・ペッツ!」 貴女もか。貴女もペッツと言うのか。なんなの、ペッツ。 混乱する私をよそに、山羊さんも深く頷いた。 「ニーイ。ペッツ」 とりあえずペッツとは、肯定するものらしい。それだけはわかった。 「ペッツ」 「ペッツペッツ!」 もう止めて、ペッツがゲシュタルト崩壊しそう! 脳が痒くなるような思いになったところで、やっと山羊さんが床に下ろしてくれた。久しぶりに足が固いものに触れた気がする。 ホッ、としたのもつかの間、山羊さんは私の頭を撫でてから、ウサギさんの方に押しやった。 「パスパル・レア・プー・ロット・ヘス・ダ・ジェ・コップ。エー・モイ・フー・ガル・ディスト・ネクレックシア・ヘス・ジェ・アプレッタ」 「ニーイ」 何?なんですか? 思わず山羊さんを見上げると、彼はにっこりと笑って「キャッチ」と言った。何もキャッチしてないし、キャッチするものがないんですが、それはどうしろと。 なおも山羊さんを見つめていると、くん、と手を引かれた。それにつられて視線を移動させると、自分よりも身長が高いウサギさんが私の手を引いていた。自分の身長で改めて見るとウサギさん、割と圧迫感がありますね。 「モイ・ハメイ。レアル・イッチェ・イ・コップ」 コップ?何か、飲み物でも飲ませてくれるのかな?実を言うとありがたい。森を歩きまわったせいか、今、すごく喉が渇いてる。 手を引かれながらとりあえず頷くと、ウサギさんは目を細めて微笑んだ。……たぶん。ちょっとウサギさんに関しては獣感が強すぎて、表情を読み取るのが難しいです。でもほら、纏う空気を日本人は読めるからね。エアリーディング能力がすごいからね。なにはともあれ、ジャパニーズスマイル。 にこっ、と笑うとウサギさんもやっぱり微笑んだ気がする。 山羊さんはそれを見届けた、と言わんばかりに頷いてから、踵を返して家を出て行った。 ……私の身柄ってひょいひょい人に渡されてるけど、どういう扱いなんだろう?一抹の不安を覚えたけど、まぁ、夢だし、最悪起きればどうにかなるかな、と気楽に考えた。ネットホラーの『猿夢』とか思い出しちゃったけど、大丈夫大丈夫、あんなことは現実には起こらない……。はず。 にこにこしてる(らしい)ウサギさんに手を引かれて、家の奥へと招かれる。 ロビーを抜けた先は回廊になっていた。ロの字型で、中庭にはハイビスカスっぽい花が咲いてる。回廊を支える柱もどこかアラビアンで、異国情緒あふれる感じだ。窓ガラスがないけど、雨が降ったら大変じゃないかな、回廊って。でもなんか、ここの気温とか湿度ってカラッとしてるし、雨が降ってもすぐ乾くのかな? ぼやー、と中庭を眺めながら、ウサギさんについていく。雨のことを考えたら、お水が飲みたくなった。 するとウサギさんが立ち止まって、数あるドアの内の1つを押し開いた。そこがどんな目的の部屋なのかは、すぐにわかった。 水を弾くタイルに、子供用のプールに似た浴槽が埋まってる。その中に入っている液体が水じゃないとわかるのは、室内にもうもうと湯気が立っていたからだ。 ここ、お風呂だ。 ウサギさんは振り返って微笑んだ。 「コップ」 コップっていうには、器がでかすぎやしませんか。異文化難しい。 わかったから、早く夢から覚めないかな。 ******** 夢から覚めることなく、おいしくお風呂をいただいてしまった。 ウサギさんはずいぶんと過保護?で、私がお風呂に入るのを手伝ってくれた。いくらウサギ相手とはいえ、よく知らない人に裸を見せるのはかなり抵抗があったけど、よく考えれば温泉とか大衆浴場とかは知らない人相手に裸を見せてるんだし、どうせ夢だし恥のかき捨て!と割り切ってお世話してもらいました。 そもそも、日本のお風呂と色々違ったんで、1人で入るにはすごく不安があった。身体を洗うボディタオルはなくて、なんか食器用スポンジみたいな青くてモコモコしたものがついたブラシ的なもので洗われた。ボディーソープも固形石鹸だったし。なんか花びらが練り込まれてた。それでもって、香りがすごくいい。なんていうか、人工的な香りじゃない。それこそそこに咲いているような、みずみずしい花の香りがする。 なによりびっくりしたのはシャワーだった。ウサギさんがいきなりシャワーのヘッド部分をペンぺペンとリズミカルに叩くから何事かと思った。あれなに?今も理由がわかってなくてちょっと恐いんですけど。シャンプーも私が知ってるシャンプーよりどろっとしてたし、コンディショナーは油っぽかった。 異文化に恐怖するお風呂が終わって浴槽から上がると、自分の身体が割と傷だらけだったことに気が付いた。すねとかには森で歩いたときにでも出来たのかな?細かい傷があるし、太ももにも痣がいくつかあった。あとなんでかお腹にも。ドジっ子か。ドジっ子属性希望なの、寝ている私。 ウサギさんが何故か耳をしょんぼりさせながら、傷薬っぽいものとか湿布っぽいものを貼ってくれた。しょんぼり耳がかわいかった。 傷の手当てをしてもらってから、いつのまにか用意されてた水色のワンピースを着せてもらった。……ワンピースと言っていいのかわからないけど。やっぱりこれも、アラビアっぽい衣装だ。袖がゆったりとしててロング丈。身体の線が出ない。でもかわいい。 靴もスニーカーじゃなくて(衣服や持ち物はどこかに消えていた)、サボ?的な靴を履かせてもらえた。ちょっと大きいけど、歩けないことはない。サンダルみたいなものだ。 全体的に締めつけがないから、すごくリラックスできる。なんかホッとした。 人心地ついたところで、ウサギさんに手を引かれて、回廊を歩いて、どこかの部屋のドアをノックする。中から「ニーイ」と返事が聞こえた。 あれ、この声は山羊さんだ。 ドアを開けてウサギさんに促されるようにして部屋に入れば、やっぱり山羊さんがソファでくつろいでた。なんかリビング?っぽいお部屋でアラビアンだけどシック、という不思議なインテリアコーディネート。家具は大人しめだけど、青地の草花模様の絨毯とか、机に敷かれたアラビアンな布とかが華やかだ。 「モイ・ハメイ」 ベストを脱いで、さっきの服装よりもゆったりしたものに着替えたらしい山羊さんは、にこにこと笑いながら手招きをした。日本風じゃなく、外国風の。カモン、的な。こういう細かいところ、外国っぽいな。すごいぞ私の脳。 呼ばれたなら駆けつけるのが日本人。ウサギさんから離れて山羊さんに近付くと、彼はひょいと私を抱き上げて膝に乗せた。なんだかこの位置がデフォルトになってるような気がしてきた。まぁいいか、どうせ夢だし。 抵抗しませんよ、という気配を悟ったのか、山羊さんはにっこりと微笑んで、ローテーブルに置かれていたピンク色の液体が入ったガラスコップを渡してきた。 「ドーン」 いや、いきなり擬音を発せられても! なんだ、ドーンって。まさかこのコップをドーンと放れとでも?いや、まさか。 それともあれ?爆発させろって? 夢っていうものは不条理なものだって決まってるけど、いわば明晰夢らしい状態でそんな馬鹿馬鹿しいことをしろ、とおっしゃられても無理っつうもんです。 どうすればいいかわからず固まっていると、山羊さんは私が持っていたコップを取りあげて、一口飲んで見せた。それからにこりと笑って、私の手に戻す。 ……あ、飲めってことか。 ようやく理解出来た。ピンク色の液体を飲め、と言われているのは割と恐ろしい事態だけど、山羊さんは一口飲んで見せてくれたし、害意はない、はず。 ここで害意が露わになったら、ホラーな夢確定ですな。 まぁでもそこはほら?流れに流される日本人の性と言いますか? 山羊さんの無言の圧力に逆らうことも出来ず、ちびりと口を付けてみる。 口内をわずかに湿らせた液体は、ほんのりと甘い。マンゴーと桃、の中間のような味わいがする。 ふむ、ジュース? 結構おいしい。 喉が渇いていたこともあって、半分ほど一気に飲み干した。山羊さんはそれをにこにこしながら見ていた。というか、観察?観察されてる、私? 刺さるような視線に耐えきれず顔を上げる。山羊さんはそれを待っていたかのように、野ブドウ色の瞳をキラキラさせて、口を開いた。 「ケッチャ・クス・ウグナ・アメン?」 おう、疑問文であることはさすがに予想がつくよ。 しかしそれ以上の推察は無理だ。 とりあえず、全世界で共通であるはずの「わからない」というジェスチャーであろう、小首を傾げるという答えを返してみる。 山羊さんは唇に手を当てて、しばし思案。 ぱちり、とまばたきをしてからその手を自分の胸に置いた。 「ウル・アメン・クス・ダンラルグ・ラビラビアーガ」 その台詞は、今まで聞いてきた言葉の中でも一層ゆっくりとした発音だった。 つまり彼は私に何かを話しかけたい……教えたいと思っている? 山羊さんがもう一度、自分の胸を軽く叩いた。 「ダンラルグ」 「だん……だんらるく?」 復唱すると、瞳が輝く。 「ダンラルグ」 「だん、だん、らるぐ」 「ダンラルグ」 「だ、だんらるぐぇ」 「ダンラルグ」 「でぇあんらるぐ」 「ダンラルグ」 「だだ、だんうぁるう」 やばい。ダンラルグがゲシュタルト崩壊を起こした。 眩暈さえ覚えそうな状況だったけど、彼が何を言いたかったのかは理解出来た、と思う。 名前だ。 この山羊さんの名前が、ダンラルグさんと言うんだと思う。 なるほど。ダンラルグ。ダンラルグさんか。 うん。少なくとも英語圏の名前じゃないな……。 ダンラルグ、って心の中では言えるけど、発音しにくい。舌がもつれそう。 こんなに必死に発音しているのに、彼の許容範囲外であるらしい。彼は三度自分の胸を叩いて、名前を告げる。 「ダンラルグ」 「ダン……ダンラルグ?」 「ダンラルグ!」 お、正解?すごく嬉しそう。 それにしてもこの発音、難しい。ダとデの真ん中の発音を求められる。舌が筋肉痛になりそうな予感。LとRの発音を使い分ける英語圏の人は、舌の筋肉が発達しているに違いない。 なんて阿呆なことを考えてしまったけど、そんなことを考えるよりも聞きたいことはたくさんあるのだ。たとえここが夢の中としても、現状把握はしておきたいのが人の性ってやつなんじゃないかな。 どうやら小首を傾げたジェスチャーが伝わっている様子を見ると、ある程度のボディーランゲージは通用するようだし。いけるいける。 「ダンラルグさん」 呼びかけたら、ものすごい渋いものを食べたような顔をされた。 何でだ。今のたった一言のどこに、機嫌が悪くなる要素があったと言うんだ。 「ダンラルグ」 「ダンラルグさん」 彼は渋い表情のまま、首を横に振った。 「エー・ヴェオン・ネルネン“スァン”」 「スァン?」 「ダンラルグ」 が、頑張って読みとけ!日本人特性『エアリーディング』をここで使わねばいつ使う! えーと、どうも彼が今発した言葉は否定的なニュアンスを感じる。首を横に振る、っていうのは私の常識を信じるなら否定であっているはずだ。 ……スァンってなんだ?スァン、スァン……。 あ。『さん』か。 ピンときた。そうか、彼はようやく私が正しい発音で名前を言ったのに、それに付随する余計なもの――敬称が邪魔だと判断したんだ。 というか、敬称だとわからなかったか。 そういえば『さん』づけするのって日本だけだもんね。英語ならミスターとかだもんね。 ふむ。日本人的には初対面の年上……年上?らしき人……人か?獣?に敬称をつけないのはかなり戸惑いを覚えるけど、彼が嫌であるならば仕方ない。異文化交流とは自分の文化を押しつけるだけではいけないと思う。 まぁ、夢だけど。夢だけど、せっかくのコミュニケーションは棘のない雰囲気でいきたいじゃない。 「ダンラルグ」 言い直すと、彼は雨から一転、お天道様が見えたとでも言わんばかりの笑みを見せた。 うん、ちょっと心は痛むけど、敬称はなしでいこう。お互いのために良さそう。 それを確かめてから、私は彼、ダンラルグと同じように、自分自身の胸を軽く叩いて見せた。 「サク・アオヤマ」 名乗ってもらったからには、名乗り返さないと。 ……しまった。普通にかわいく、名前を教えてもらったらこちらも教えないと、とか考えておけばよかった。なんだ、名乗り返すって。どこの武士だ。ぼっちなうえに女子力0か。悲しい。 そんなことを考える私の傍で、ダンラルグは眉根を寄せた。 「シャクア・オァヤマ?」 日本人的名前が、一気に異国めきました。 いやいや、違う、と首を横に振る。さすがにシャクアと呼ばれて反応出来る自信がない。 うーん、名字は省こう。名前だけの方が短いし。 「サク」 「スァク」 「サク」 「サク?」 うんうん、と肯定の意味で頷く。 頷くけど、ちょっと釈然としないぞ。私は相当苦労してダンラルグの発音をマスターしたっていうのに、あっちはすぐさま習得だと。この山羊、ハイスペック! そんなにハイスペックなら、私の言いたいこともわかるな?今なら特別サービスで、ボディーランゲージ満載だ! 「だんらるぐ、ここは、どこ、ですか?」 「デー。ダンラルグ!」 真面目な表情で首を横に振られた。発音が違ったらしい。 渾身のボディーランゲージは無視された。 その後しばらく発音練習を重ねていたわけだけど、ウサギさんがいい香りを漂わせながら部屋に入って来た。食欲を誘ういい香りは、舌がつった口内を唾液で満たさせる威力があるとは思わないかい。 どうやら夕食の準備が終わった彼女に呼ばれたらしく、ダンラルグは当然のように私を抱きあげられたまま、部屋を後にする。 しかしまぁ、広い屋敷だ。日本人の平均的住居なんて、廊下が数メートルあるかないかだと思うんだけど、このお屋敷では長い廊下でシャトルランが出来そう。 そんな馬鹿なことを考えるのは、現在ダンラルグに幼児抱きされていることを忘れるためだ。 早いところ、この恥ずかしい体勢をどうにかしてほしいと願うのは罪じゃない、はず。若干遠い目をしている自覚を持ちつつ、大人しく運ばれていると、先を歩くウサギさんがとあるドアの前で止まり、そこを開いた。 いい香りが濃くなる。 同時に、核家族化が進んだ日本ではあまり見られない、8人用くらいの大きな食卓の上にずらりと並べられた食事が目に入る。 わーい、おい……し……そう…………。 …………。 う、嘘じゃない。おいしそうなんだよ。本当なんだよ。いい香りするし。 でもさ。でもさ! 見事に固まった私に気付かないのか、ダンラルグは一脚のイスに私を座らせて、その横に自分も座った。 目の前にはキレイな、草花っぽい紋様が青い染料で縁取りされたお皿と銀色に輝くナイフ、スプーンとフォークが一体になった小中学校御用達の食器が並んでいる。 でも私を固まらせたのは、それじゃない。 眼前の料理。 ダンラルグも、ウサギさんも――草食ですよね? 食卓を圧迫するのは七面鳥っぽいものの丸焼き肉だとか、牛っぽいもののステーキだとか、スープの具材は肉団子オンリーだとか、その他、肉肉肉肉肉料理!なのだ。 ベジタリアンだったら、キレられても文句言えないほどの肉尽くし料理だ。 語彙力が無いのが悔しいくらい、肉料理のみだ。これで生野菜と皮が剥かれてない果物が出てきてたりしたら、男らしすぎて惚れこみそうなほど、ワイルドなラインナップ。 だが残念。そんな軟弱なものは食卓にのぼっていない。ものの見事に肉ばかり。 ちょ、ちょっと待とうか。 え、これ食べるの?草食動物の前で?日本人的には、こんな胃が痛くなる料理を出されたら、「てめぇさっさと出て行けよ」って遠回しじゃなく右フックで言われているくらいの案件なんですが!京都の人が「はよ帰れ」っていうときにお茶漬けを出すってマジなんですか!? 混乱したまま隣に座っているダンラルグを見ると、彼は十字っぽいものを切って、何事かを言って。 ナイフとスプーンフォークを持つと、何の戸惑いもなくステーキを切り分けて、自身の皿に盛った。 え。盛った? 次の疑問を覚える前に、彼はウェルダンに焼かれた肉片を、当たり前のように食べた。 な、んだと……!? 脳の髄から足先まで、身体の隅々まで雷に打たれたような衝撃が走る。 嘘だろうダンラルグ!おま、おま、お前草食動物じゃないのか!山羊じゃん!山羊人間じゃん!なんで同じ草 草食動物が草食動物を食べる、というあまりに衝撃的な光景を目の当たりにし、硬直していると、肉を食べたダンラルグがこちらに気付いた。 何も手をつけてない私を見て小首を傾げ、手近にあった肉団子オンリーな白濁スープを勧めてくる。もちろん肉団子には野菜が混じってたりしない。肉のみ。 やばい、肉肉言いすぎて、ゲシュタルト崩壊してきた。今日だけで何回ゲシュタルト崩壊を起こしてきたのか。ゲシュタルト崩壊がゲシュタルト崩壊気味だぞ! とりあえず、落ちつこう。料理に罪はない。 隣でダンラルグがガツガツ肉に食らいついてるのを見ないフリして、私は勧められたスープを匙ですくって一口飲む。 豚骨スープだった。 スープも動物系なのかよ! ******** 肉肉しい晩餐が終わると、外は夜空に星が輝く時間だった。 森の中で迷っていたときは、ここは夜でも明るい世界――夢なのかと思っていたけれど、時間の流れはあるらしい。草食動物が肉を食べるカオスな世界なのに、律儀なことだ。 ウサギさんは食事の後片付けを終えると、私とダンラルグに何かを言って、玄関からどこかへ帰っていった。その様子から察するに、通いのお手伝いさんってところなのかもしれない。 彼女を見送ると、ダンラルグは私を客室らしいところまで運んだ。 幼児抱きは、デフォルトになりつつある。もう考えることは止めよう。 連れて行かれた部屋は、日本の平均的な子供部屋よりかなり広かった。全体的に主とされている色調はオレンジ。ほんのりとした、じゃなく原色に近い、パキッとした色合いだ。壁や、床に敷かれた幾何学模様的な絨毯もオレンジを基調としてる。 家具全体は、この家でいくつか見た通りシックな色合いだ。形も日本的よりは、ヨーロッパとかアラビアの方の家具の形に近いと思う。タンスって言うよりはチェスト、って言った方がしっくりくるって感じ。 そんな美しく控えめな家具のおかげで、部屋がけばけばしくなりすぎずに済んでいる、んだと思う。これが私の無意識を反映してるなら、現実の私はインテリアコーディネーターか、カラーコーディネーターを目指すべきじゃない? ともかく。 ダンラルグのお家パねぇ。 リアルに天蓋付きベッドが置いてある部屋、初めて見た。 ベッド自体はそんなに大きいわけじゃない。シングルサイズよりも若干大きいなって思うくらい?もしかするとダンラルグみたいな体格の人……人?が多いから、日本とは規格サイズが違うのかも。 でも天蓋付きだからね。スッケスケの布が垂れ下がってるからね! とは言うものの、不思議とこのベッドから『お姫様感』を感じない。オーガンジーのような天蓋は、私が思い描く天蓋付きベッドのようにレースやフリルが装飾されてはいないからだ。なんて言うか、あれよりももっと実用的な感じ? なので部屋の印象としては、アラビアにある高級ホテルのシングルルーム、的な。 キョロキョロする私をダンラルグはベッドの上に下ろして、シーツをめくってポンポンとベッドを叩く。 ふむ?寝ろと? 夢の中で寝るとは、中々に哲学的な問題ではなかろうか。夢の中で見る夢って、どんなものだろう。若干恐ろしい気配は感じるものの、正直森を爆走して疲れているので、その誘いには反抗しないことにした。大人しくサボ的な靴を脱いで、ベッドに身体を横たえる。 清潔なコットンシーツだ。洗濯石鹸の香りとお日様の匂いがする。それに枕もふわふわで心地いい。疲れた身体には最高過ぎる寝床だった。 上向きだとイマイチ安定を覚えられず、横向きになってようやくまぶたが重くなってうとうとし始めると、ダンラルグは枕もとにある小さなテーブルの上に乗っていたお皿に何かを呟いた。何かと思えば、火がポッとついて消える。 よく見ると陶器の白い小さなお皿の上には三角錐型のお香?のようなものがあって、もくもくと煙と香りを立ち上らせていた。 香りは――入浴剤で言うところの森林浴の香りみたいな。木、というか森の甘い香り。 ふわ、と女の子らしくない大きな欠伸を漏らすと、ダンラルグはにっこりと微笑んで私の頭を撫でた。そうして立ち上がると、ベッドの柱に寄せられていた天蓋を解き、やわらかな布の檻を作り上げる。 「ドーン・ゲナル」 何を言われたのかわからないけれど、たぶんそれは――私を傷つける言葉じゃない。 この 優しい声音に確信を覚えながら閉じ行く視界に最後に映ったのは、ベッドから数メートル先にある書き物机に置かれた、赤いパッケージのプレゼントボックスだった。 |