湿った土の匂いがする。
 その匂いを嗅いで真っ先に思い出すのは、学校にある花壇のこと。今の時期はサルビアが咲いてる。赤くて蜜が甘い花。でも花壇に何が咲いてるかはあんまり関係なくて、乾いた土にジョウロの水がしゃわしゃわと染みていくのを見るのが好きだった。特に夏場は涼しげな感じがするから良い。
 目をつむったままフンフンと鼻を鳴らして嗅いでいると、その中に緑の匂いも感じ取れた。青くて苦い、胸がすっとする匂い。だけどほのかに緑を煮詰めたような、そう、苔の匂いもする。
 ……苔?
 え、なんで苔?ベッドで寝てるはずなのに、そもそも土の匂いっておかしくない?いつの間に、私のベッドは苔むすほどの年代ものになったの?っていうか、そもそもベッドに苔はむすものなの?あ、木材部分にはワンチャン生えるかも……?
 ……苔むすベッドで眠るのもファンタジーで素敵かも。
 いやいや。ないない。
 ちょっと血迷ったけど、やっぱりおかしい。ごく普通に掃除している私の部屋が廃墟も真っ青の苔むす部屋になっていて堪るものか。
 目を開けた。
 森が広がっていた。

「……………………は?」

 土臭いのも、苔臭いのも当たり前だった。
 倒れた木に苔がむし、雑草が生い茂り、木漏れ日射す森の中。私は地面に倒れていた。
 どこだ、ここ。
 視界いっぱいの緑、緑、緑。こんなに緑があるならなんで地球温暖化とか叫ばれてるんだろう、って地球に問いかけたくなるほどの緑っぷリだ。
 うん、清々しいほどに森。
 もしかしたら林かもしれないけど、私には林と森の区別がつかないからよくわかんないので森とする。竹は見る限りではなさそうなので、竹林でないことは確か。
 とりあえずこのまま地面に横たわっている理由もないので、起き上がってみた。地面は泥、というほど水気を含んでいたわけじゃないけど、乾いているというにはしっとりとし過ぎている。身体が汚れてないか確認してみると、セーラー服にはあまり汚れがついてなかった。
 あれ、セーラー服?
 ぺそっ、とプリーツスカートの土を払いながら、小首を傾げる。
 私、なんで、セーラー服を着てるんだろう?
 セーラー服。
 セーラー服は女子学生が着るものだよね。白地鮮やかな夏服。スカーフは赤い。なんの変哲もないこれは、コスプレ衣装とかそういう類のものには見えなかった。ちゃんと着古した感じがある。
 ってことは、私はセーラー服を制服とする学校に通っているわけだ。

 っていうか、そもそも、私って誰だっけ?

 我ながら、哲学的な疑問が湧きあがったな。
 いや、そうじゃなく。
 本当に、私って誰?
 ……あれ?
 日本に住んでたとか、国歌とか、日本語とか、制服とか、学校とか、そういう世間一般の常識はわかる。と、思う。実はセーラー服は男子制服だったのだ!とか言われない限りは……あ、待てよ。でもセーラー服の原型って水兵さんの制服だから元は男性服なんだよね。もしや私の常識は実は違って……いやとりあえずは常識は持ってるとしよう。うん。話がものすごく面倒臭くなる。
 ともかく、自分のことが思い出せない。
 名前とか、年齢とか、仔細な住所とか、家族構成とか。
 血液型も思い出せない、ということに思い至って、輸血が必要になったときとかどうしようと焦ってしまった。でもよく考えたら、輸血が必要なときってそもそも自分に意識がない場合の方が圧倒的に多いから、どうにもならないんじゃないかな。
 なぁんだ、問題解決!
 違うわ。何も解決してない。
 何がどうなって、私は1人森の中で寝転がってたんだろう?
 空を見上げれば青空が広がっていて、太陽の位置も真上だった。お昼?よくわからん。
 なんだかのったりとしか動かない思考を必死にぐるぐる回しながら、改めて辺りを見渡してみる。と、寝転がっていたときには見えなかった位置に、スクール鞄とギフトボックスが転がっていたのに気付いた。
 スクール鞄が森に落ちてるのも変だけど、ギフトボックスが落ちてるのも奇妙な光景だった。しかも100円ショップで売ってそうな、チープなオシャレさが漂うパッケージ。リボンまでかけられてるのがそれに拍車をかけていた。
 ……なんだろう。パッケージが赤色で毒々しいからか、嫌な感じがする。
 ギフトボックスに触るのは避けて、スクール鞄を引きよせた。森の中、女学生とスクール鞄。これはどう考えても私の持ち物でしょう。
 遠慮なく中を覗いてみて、うへ、と顔をしかめてしまった。
 中に入っている教科書やノートの類は、もれなく泥だらけになっていた。たぶんこの森で泥だらけになったんじゃないと思う。乾いて染みになってるから。
 ちょっとちょっと、記憶をなくす前の私はどれだけお転婆っ子だったんですかねー?
 へへ、と乾いた笑いを零しつつ、比較的キレイだった数学の教科書の裏を見た。
 名前が書いてある。青山朔……あおやまさく、でいいのかな?なるほど、私の名前は青山朔というらしい。グッドな発見だ。
 あと数学の教科書の表紙が中学1年って書かれてた。私は女子中学生だった!
 他に何かないかな、とごそごそ探ってみれば、手に硬い感触を覚えた。掴んで出してみれば、素晴らしいことにスマホが現れた!
 やったー!念願の個人情報を手に入れられそう!
 ぬふふ、とニヤニヤしながら液晶画面にタッチする。ぽん、と映し出されたのは20:31という数字だった。
 ……なんだこれ?
 小首を傾げかけて、気が付いた。あ、これ、時刻だ。
 ……20時31分?
 空を見上げる。青空だ。
 私の記憶違いでない限り、24時間表記で現されるこの時間帯は暗くないといけないはずなんだけど。いつの間に日本は白夜地域になったんですかね?うそ、私が知らない間に、日本は極地に移動してた……?
 ないわ。そんなことになってたら今頃凍え死んでる。
 たぶんスマホの不具合だなー、とスルーして、電波状況を確認。アンテナが1本も立ってない状態って初めて見た。どれだけ山奥なの、ここ。まさかの離島じゃありませんよね?
 不安を誤魔化すように、色々と弄ってみる。端末情報を見ると、改めて自分の名前と、9月4日生まれであることと、A型であることがわかった。そっか、私A型か。血液型がわかれば安心安心。
 ひゅう、と音になってない口笛を吹きながら、他も見てみる。アドレス帳とかに何かないですかね?とか思って覗いて、後悔した。
 すごいぜ、記憶を失う前の私。アドレス帳に自宅しかない。
 SNSやってる形跡もない。呟くとかいいね!とかスタンプ何それ状態。
 写真フォルダとかも覗いてみたけど、何もなかった。風景写真1枚もないよ。桜が咲いてキレイだったから、つい撮っちゃいました!とかあるじゃん?カフェのご飯を撮ってみたとか、花火を撮ってみたとか、あってもいいじゃん?残念、ないんだな、これが!
 ぼっちか。
 私、絶賛ぼっちだったのか。
 ここまで潔いぼっちって、本当にあるんだなー。へへへ、高校に入ったら高校デビューしてやるんだ……。髪とか金髪に……あ、やっぱ嘘ですごめんなさい、今のままの黒髪ショートヘアでいいです。プリン頭になるのが目に見えてわかってるもんね。だって現時点で、ショートヘアが割と長さバラバラだし。ざっくり切って放ったらかしにしてるにもほどがある。
 ガサツか。乙女力皆無のガサツか。どんだけトムキャットなんだ。あ、違う。トムキャットは確か戦闘機の名前だ。私は間違ってもミサイル発射はしませんよ。おてんば娘って意味はトムボーイだ。
 はぁぁ、とため息をつく。
 あー、どうしよう。これから。
 電波がないからどこにも連絡できない。アンテナの立ってないスマホなんて、ただの携帯ゲーム機だ。それもバッテリー消耗を考えたら無駄に触れないし。
 何より結局、どうしてこんな状況に陥っているのかが全然わかんない。
 まさかの登下校最中なのかな、これ。にしたって、森のど真ん中で寝てた意味がわからないけどな!
 順当に考えるなら犯罪に巻き込まれた?拉致?それで森の真ん中に捨てられた?
 とりあえず、殺されなくて、よかった、な。
 ただ、私が迷子であるということは目を逸らしようがない事実。
 迷子っていうか、遭難?
 迷子のときはその場を動かないのが鉄則と言われてるけど、遭難したときもなのかな?ぐぬぬ、日頃からサバイバル知識を蓄えておけば……ってはあんまり思わない。いや、今は必要な知識だけど、普通に生活していればまず間違いなく必要のない知識だったもん。
 ない知識を嘆いても仕方ない。とりあえず……うーん、私が森で遭難してるってことを知ってる人っているのかな?それこそ警察とか……こういうときって誰が捜索してくれるんだろう?消防?自衛隊?
 ともかくそういう人たちが、私のことを捜してくれるならここで待ってるのが最良な気はするんだけど、誰も私がここで遭難してることを知らない場合、待ってても意味がないよね。それこそ自分でこの森を抜けてやる!くらいの気概がないとマズくない?
 だって雪山とかで遭難した人が持ってたという、チョコレートとか、マヨネーズとか一切持ってないもん。それどころかお水の一滴すらないこの状況。森の中だから探せば水場はあるかもしれないけど、生水は飲んじゃだめってテレビとかネットでも言われてたし。私、外国の生水の中には寄生虫がいることもあるってのを知ってから日本の湧水とかでもウッ、と思うようになっちゃったんだよね。安全なんだろうとは思うんだけど。
 ……そういう、どうでもいいことは思い出せるのに、自分がいた環境を思い出そうとすると頭にもやがかかったようにわからなくなる。なんでだろう?
 唸って考えても答えは出そうになかったので、諦めて立ち上がった。土を改めて払いのけ、スマホをスクール鞄に戻す。
 たぶん森の端を目指した方がいいと思う。外国の広大な森なら絶望しているところだけど、日本の森であればまだ希望が持てる。……ここが樹海でない限り。
 ……住んでるところ、富士山が見える場所じゃないといいな。
 ともかくスクール鞄を肩にかけ、周囲を見渡す。どの方角……いや、方角とかわかんないけど、方角に行こうかな?明るいうちに出来るだけ移動しておきたい。
 適当な木の棒を拾って、垂直に立てて手を離してみた。ぱたん、と棒が倒れる。倒れた先にはギフトボックスがある。
 …………仕方ない。あれ、ものすごく嫌な感じがする、けど、もしかすると私に関する大事なものが入っている、かもしれないから持って行こう。でも今は到底開ける気分にはなれない。
 だって、本当に、胸が苦しくなるほど嫌な感じがするんだもん。
 顔をしかめながらもボックスを拾って、そのままの勢いで歩きだした。
 にしても、このボックスやけに軽いけど、中身って入ってるのかな?
 振ってみると、何やらかさかさと音がした。空じゃない、みたい。だけどそれがさらに怖気を増す。あぁぁ、もうこのボックス放っておきたいけど、捨てて行ったら後悔しそうな気がする。
 捨てたい。でも捨てられない。
 うぅ、今の私に必要なのは……しゃ、しゃりしゃり?違う。どんしゃり?これも違うな。えっとえっと、あ、い、う……た、だ、断捨離?そう、断捨離だ!でも断捨離の極意とか全然知らないから無理!
 結局嫌な感じがするものを胸に抱いて、足場の悪い森を移動するしかない。
 草やら石やら倒木やらある地面を歩いていると、平坦なアスファルトが恋しかった。夏はふざけんなと言いたいくらい熱くなるけど、歩きやすさを重視すれば仕方ないことだったんだな。せめて国道に出ればアスファルトに出会えないかな。
 そういえば、アスファルトって古代ローマ?エジプト?あたりではもう発見されてて、接着剤として使われてたとか何とか聞いたことがある気がする。この知識が本当だったかわからないけど、記憶を失う前の私は雑学が好きだったのかな?ならその雑学の知識にサバイバル知識も入れておいてほしかった。あ、でも、砂漠を進むときは日中眠って夜進むんだっけ?どっちにしろあやふやだし、ここ砂漠じゃないし、意味はないな!
 そうじゃなくて、そういう知識じゃなくて、マッチとかライターとか文明の利器がないときの火の起こし方とか、陽が落ちたあとどこで眠ればいいかとか、そういう知識が切実に欲しい。だって熊とかに襲われたらどうしよう。……熊か。熊なら、確か物音のする方からは向こうから離れてくれるって話じゃないっけ?鈴とか大事って言うもんね。だが残念、スマホに風景写真を1枚も撮ってない系女子は、鞄にキーホルダーもつけない系女子でもあった。鈴、どこだ。
 とりあえずは物音がすればいいんでしょ、物音が。歩きながら木の棒を拾って、それをそこらの草にガサガサ当てながら歩く。これで熊は近寄ってこまい。むしろ近寄ってくんなお願いします。
 棒の先に当たる草丈は、私のすねほどまである。人の手が入ってない森なのかな。ネットとかで見る『癒され系森画像』は木の枝の剪定とかきちんとしてるところが多いって、やっぱりネットで読んだような。この森、倒木も多いし、放ったらかしっぱなし、って感じだもんね。
 ……あれ?
 その倒木を見て、若干の違和感を感じた。
 違和感、の正体はわかる。木肌っていうの?なんかさ、日本にある木って基本的には茶色が多いはずなんだけど、あったとしても白っぽいとかのはずなんだけど、あの倒木、若干紫っぽくないですか?
 ハッ、として周りの木々もよく見てみる。どことなく、茶色に紫がかかったような、不思議な色合いをしていた。
 ……ひ、檜?
 いや適当なことを言った。高級木材って言ったら檜かなって思って。そもそも檜が高級木材かさえわかんないけど、お風呂場に使うのは最高の贅沢っぽそうだから高級木材なのかなって安易な考えしました。とりあえずは檜はあんな色合いじゃないと思う。
 というか、地球上の木で紫がかった木ってあるのかな。あるんだろうな。ここにあるもん。
 前向きに考えたら、私が発見した1人目かもしれない。後ろ向きに考えればここってもしかして日本じゃないかもねー。
 ヤバいぞ。パスポートとかどうしたんだ?記憶を失う前の私は、海外旅行に行ったことがあるのかな?持ってませんかね?ガサガサとスクール鞄を探してみても、パスポートは見つからなかった。まぁ、持ってたら持ってたでどうしたって話でもあるし。
 だけどもし道を見つけても、パスポート持ってなかったら身分証明にならないんじゃないの?あ、学生証とかはダメかな?財布は持ってないし、銀行口座カードとかも持ってない。いざとなったら日本大使館に行けばいいんだっけ?
 ハッ。その前に、言葉とか通じるかな?日本大使館に行くまでの道のりがわかんない。つまり、人に聞かなきゃいけない。けど、私の英語力なんて5以下のゴミなんですが。That am pan!レベルと思ってほしい。この短い例文で数え切れない間違いを犯すほど英語はボロクソだってことですな!
 英語なんてそんなレベルだから、フランス語とかイタリア語とかドイツ語とかアメリカ語……違うアメリカは英語でいいんだ。ともかく他の言語なんてメルシーとダンケシェーンとグラッツェくらいしか知らない。最悪この語彙でゴリ押すしかないな。「すみません(メルシー)、日本大使館への道のりを教えてください(メルシー)」たぶんこれ、意思疎通無理。
 うん?待って、そもそもここが外国なら、この森で遭難してるって私が思ってる以上にヤバい状態なんじゃない?広大な外国の森を、方角も知らず、子供の足で抜けられると思うとか、どんだけ脚力に自信があるの。ないない。この細ッこい棒きれのような足にそんな力は断じてないぞ。
 現に色々と考えながら歩きまわっているこの時点で、すでに足は疲労を訴え始めてる。座ろうよー、座っちゃおうよーという悪魔のささやき声がうるさい。でも私はなんでか知ってる、こういうときに足を止めるとマジで歩けなくなる。歩かねば、という気概を保っておかないとそこでヘタれてしまうんだ。なんだっけこの感覚……誰しもが経験する……あ、遠足だ。25km遠足の心持ち。
 でも実際は、25km歩いたところで森を抜けられるかどうかの保証なんてない。
 ……遭難、というのはこういうことか。
 身が凍る思いをした、と同時に「ぎっちょー」とどこからか鳥……鳥?の鳴き声がした?
 さ、さすが外国……鳥の鳴き声も摩訶不思議!

 なんてくだらないことを考えながら歩くこと3時間。

 スマホが示す時刻は23時42分となっていた。日本では深夜もいいところだけど、ここの空はまだまだ青い。けれど真上にあった太陽が傾いてきているのはわかった。
 ローファーじゃなく、学校から『派手じゃない運動靴』という曖昧な指定をされたスニーカーで歩いているにしても、足はもう限界を訴えていた。いつの間にか、すねやふくらはぎには細かな傷が出来てるし、足は重たいし、もう座りたい。
 でも辺りの光景が変わったわけじゃない。ずっとずっと、どこまでも森の中。……同じところを歩いてたりしないよね?
 喉も渇いてきたからか、さすがに漠然とした不安を覚え始めた。いやむしろ、なんで私、今まで不安を覚えてなかったんだろう。馬鹿じゃない?自分の記憶がなくて、外国らしき森に捨てられた理由もわからない、出口も見つけられない、飢え死にしそうな状況なのに。
 死か。ここで死んじゃったら、どうなるのかな。おとうさんとおかあさん、はいるよね?どう思うんだろう?
 雑学を思い出すように、家族のことも思い出してみようとするけど、無理だった。なんだか、自分のことを思い出すときは、頭の回転が悪くなる。
 比例して、足の動きも悪くなった。
 もう無理。疲れた。
 さすがに一休みしようかな、と思う視界の端で、何かがひゅん、と下りてきた。
 何だろう、と顔だけ右に向ける。
 手のひら大の、蜘蛛が吊り下がっていた。

「ぎゃああああああああああ!」

 ほぼ、反射神経だったと思う。
 疲れたと文句を言っていたはずの足はそれまでの疲労を忘れて、我ながら素晴らしい走りを見せてくれた。今なら100メートル10秒で走れてるんじゃないかな!
 いやそんなんどうでもいいよ!無理無理無理!なんで蜘蛛!?いや、森の中だからいても不思議じゃないけど!でも無理!怖気が走る!
 心の底から湧きあがる嫌悪感を、別の私がどこからか俯瞰した。なるほど、どうやら私は蜘蛛が大嫌いであるらしい。それこそ、身体に刷り込まれるレベルで。見よ、このチキンスキン。
 涙目になりながら森の中を爆走していると、前方の光景が少々違うことに気付いた。
 横長に、開けているような。途切れているような。
 道だ!
 国道だぁぁぁ!と嫌悪からの爆走が、狂喜乱舞の爆走に変わる。道に出ればこっちのもんだ、相手がどんな人種であろうとも、ジャパニーズスマイルでなんとか日本大使館への道を聞くんだからね!
 ガサガサ、と草から抜け出して、土で汚れたスニーカーが道を踏みしめた。
 道、だ。でもアスファルトじゃない。
 剥き出しの土に、轍がついてるような――今では私道でしか見ないような道だ。
 道路じゃない。
 国道じゃなかった。

「マジかー……」

 呆然として、棒立ちになってしまった。
 えっと、これってもし私有地だったりしたら、私って罪に問われたりするのかな?侵入したとかなんとかで。でもたぶん、拉致?とか誘拐?されて捨てられたんだと思うから、見逃してもらえないかなぁ。
 あ、でも、待って。もしかするとアスファルトで整備されてない道が普通の国かもしれない。外国っていうとうっかりアメリカとかイギリスとかフランスとかを思い浮かべちゃうけど、アフリカあたりにある国に拉致されたという可能性も無きにしも非ず?的な?
 でも大切なことはそんなことじゃないんだ。
 道に出たからって、助けを求められる状況じゃなかったんだなぁ。
 筋が通るように1本道が続く先には、森に挟まれた道が続いているだけ。村とか、町とか、全然見えなかった。
 ……あー、疲れちゃった。
 張りつめてたものが、ふつりと切れた気がする。なんかもうさ、いいんじゃないかな。ここで座り込んでも。頑張って頑張って頑張った結果がこれなら、もう頑張らなくてもいいよね。いっか。どうとでもなればいい。
 汚れとかどうでもいいや、とその場に座り込んで、ぼんやりと空を仰ぎ見る。
 あー、いい天気。日向ぼっこ最高ですな。私、おばあちゃんになったら縁側でイングリッシュガーデンを眺めながらウーロン茶を飲みたい。カオスか。
 相変わらず「ぎっちょー」とどこかで鳴く鳥の声を聞く。そういえばこれ、私の脳的には雑音として受け止めてるのか、言語として受け止めてるのかどっちなんだろう。海外の人には鈴虫の音が雑音として処理される不思議の延長線。蛙の鳴き声とかも、慣れたら雑音とか思わずに処理できるようになっちゃうよねぇ。この「ぎっちょー」とかも慣れたら何にも思わなくなるのかな?
 にしたって「ぎっちょー」って。ホーホケキョ、くらい鳴けばいいのに。まぁあれも、最初の内は「ケッケキョ……キョッキョッ、ホケ」とか間抜けな鳴き声なんだけどね。
 はぁ。
 のどかだなー。
 なんか、ねむくなってきた。
 うつらうつらしていると、「ぎっちょー」という声に混じってパカラッパカラッという謎の音がしてきた。……時代劇で出てくる上様を思い出す。
 ん?ということはこれ、馬の蹄音?
 海外には野生の馬がいるんだな、なんて思いながら、音のした方に顔を向ける。
 1本道の先に見えたのは2頭の馬、だけじゃなかった。
 馬車だ。馬車。
 いつかテレビで見た、どこかの国の大使が皇居へ向かうときに使った馬車のような、あんな感じの馬車馬車しい2頭立ての馬車だ。馬車がゲシュタルト崩壊する。
 この車社会で、まだ馬車を使う国ってあったんだ。すごくエコでクリーン。
 めずらしいものを見て半ば放心してしまっていたけど、馬車が走ってるってことは、それを操る人がいるってことだ。人がいるってことは、道が聞けるってことだ!
 にわかに希望が湧いてきて、私は疲れも忘れて立ち上がり、こちらに来る馬車に向かって手を振った。

「おーい!すみませーん!ハロー!グラッツェー!メルシー!エクスキューズミー!えっと、ぐら、ぐらしあす!すぱしーば!だんけー!助けてー!ヘルプミー!」

 とりあえずこれだけの言語叫んどけば、どれかはわかるに違いない!そんな適当な感覚で叫び、手をぶんぶん振っていると、御者台に座っていた人がこちらに気付いたのか、馬車のスピードが緩まった。
 止まってくれそう!
 すっごい愛想笑いしながら手を振り続ける、うちに馬車が近くなる。
 同時に、異質に気付いた。

「え……」

 御者台に乗って馬を操っているのは、男性、だ。たぶん。そう判断したのは着ているものがシャツとズボンだったから。あと、身体が大きい。
 でも犬耳が生えてた。
 明るい茶髪の中から、ぴょこんと反りかえりそうな三角の耳が見えてる。
 仮装かな、って思った。一瞬だけ。
 仮装じゃないってわかったのは、近づいてくる馬車とともに、御者の――彼?の顔が鮮明になってきたから。
 目鼻立ちはまるっきり人間だった。でも異様に感じられたのは、人間みたいに白目も見えるんじゃなく、犬や猫のように、黒目しか見えなかったからだ。
 手を振るのも忘れて固まる私の前に、馬車が止まった。

「ケッチャ・コロードゥ?」

 ……それ、何語ですか?
 というかそれ以前に、何語かわからない言葉を吐く口から見えるのは、人間が持つにしては鋭すぎる犬歯で。まるで吸血鬼みたいな。
 ……化け物、みたいな。
 御者台でこてん、と首を傾げる姿は一見大型犬が首を傾げるようなかわいさがあったけど、そもそも人型をした者が犬耳を生やして真っ黒な目をしてるっていうのがおかしい。
 おかしい、ぞ?
 紫がかった木とか。時刻とあってない空とか。鳥の鳴き声とか。
 土台が、おかしい。

 おかしい。

 ――ここは、日本じゃない。
 そしてたぶん、海外でもない、んじゃないか?
 じゃあどこだ、ここ。
 頭がぐわんぐわんと揺れる。
 ここ、どこ?
 日本でも海外でもない場所って、地球にあったっけ?
 あれかな、宇宙人に拉致されて地球外に来ちゃったのかな?
 うん、馬鹿馬鹿しい。そんなふうに考えるくらいなら、これは夢だと思った方が説明がつく。だってさ、不思議の国のアリスみたいに不条理なことばっかり起こってるんだもん。夢以外の何があるんだろう。
 たぶん現実の私は寝てるんだ。ベッドで。うなされながら。これって明晰夢ってやつかな?早く起きてくれないかな、どうせなら空を飛ぶ夢が見たい。高いところからジャンプして、そのまま風に乗って飛んでいきたい。
 何も言わない私を訝しく思っているのか、人型わんこの眉根が寄った。
 ゆるく首を横に振って、にへ、と笑って、後退る。

「えっと、すす、すみません、やっぱいいです。ソーリー?」
「ケッチャ・ヴェッド・ウグ・ポロッツ?」

 夢って知識にないものは見れないはずなのに、私はこの言語が何語なのか全然わかんない。スペイン語っぽくも聞こえるし、イタリア語っぽくも聞こえるけど、なんか違う。意識下でごちゃまぜになっちゃったのかな?

「えーと、えーと、グラッツェ。グラシアス?わかるかな?」
「ケッチャ?」

 全然わからん。
 わんこさんはしきりに小首を傾げて困っているけど、私はもう何だかどうにでもなれな気分だった。どうせ夢だし、唐突に目覚めるんだ。ここで彼とコミュニケーションを取れなくて置き去りにされても、死にはしない。

「えーと、すみません。やっぱり大丈夫なので道を進んでください」

 完璧日本語で言い放ち、ジャパニーズスマイルでどうぞどうぞと大げさな仕草をする。でもわんこさんは困った表情のまま動かない。行ってくれていいのになぁ。これって自分が自分に甘いって証明なのかな。なにせあのわんこさんは、私の意識が作った夢の産物だもんね。その産物が私を無視しないってことは、きっと現実の私は私に甘い性格なんだ。
 記憶がないって設定は、嫌な自分を忘れたいっていう願望の表れだったり?
 なんてぼんやりと考えてると、馬車の中から腰に響くようなバリトンボイスが聞こえてきた。

「ヴェッド・ウグ・チェッツ・コロレンツ?」

 ……やっぱり何を言ってるかはさっぱりだったけど。
 わんこさんはその言語がわかるようで、応対するため御者台から降りて、馬車のドアを開けた。馬車の中から出てきた者は、やっぱり異形の者と言わざるを得ない外見をしていた。
 紫紺色の巻き毛髪を後ろに撫でつけたその頭からは、山羊のようなご立派な角が生えている。もちろん角の下には山羊耳もあるし、アゴには髪の毛と同じ色のひげが生えてた。それに首から胸元にかけてもふっとした毛が生えている。もちろん紫紺色。イラストでよく見る山羊のイメージみたいな。なのに面立ちは人に似ている。だからこそ野ブドウのように濃い紫の瞳でいっぱいの獣らしい目が、異形さに拍車をかけていた。
 年齢……年齢はわからない。人間的に見れば20代後半から30代半ばくらいに見える。肌にあまりしわがないから、異形であっても若く見えてしまう。
 山羊さんはわんこさんよりも立場が上の人なのか、着ている服がすごく高級そうだった。袖幅が広いゆったりめのシャツにはキレイなレースがあしらわれてるし、ベストのボタンも銀色でピカピカしてる。わんこさんのシャツについてるボタンは木のボタンだから、それはそれでかわいい気はするけど、豪華さで言えば山羊さんのボタンの方に軍配が上がる。
 馬車から降りてきた山羊さんをぽけー、と見てると、山羊さんは紫色の瞳を丸くしてこちらを見つめた。
 ……驚いてるっぽい?

「ヴェー・ウグ・チェッツ・クラパロン・ダ・ジェ・ポプレ・レッシュ?」

 山羊さんが発した疑問文らしきものに、わんこさんは肩をすくめて答えた。

「ラル・デー・ネア」

 何度リスニングしようとしても、どこの国の言葉かさっぱりわからない。やっぱりこれって、英語とかイタリア語とかスペイン語とかが混ざった結果なのかな?にしたって、夢の中なら言葉の壁なんてなくても良かったのに。変なところで融通が利かないなぁ。
 早く目が覚めないかなー、と空を見上げてると、突然山羊さんが視界に入った。

「ふぎゃっ!?」

 突然のことだったので、思わず飛び退いてしまった。あ、っていうか、今、気付いたけど、山羊さん身長がすっごい高い。何cmあるんだ、あれ?な、なんかどう見ても海外のバレーボール選手並みにありそうなんだけど……。むしろそれはわんこさんもか!でか!動物人間すっごいでかい!
 謎の圧迫感で恐縮すると、山羊さんはにこ、と紫色の艶々した瞳を細めた。

「ケレラ・クス・アール?」

 ……あ、なんか質問されてる感じ?

「こんにちは。すみません、言語が理解できません」
「ケレラ・ヴェー・ウグ・チェッツ・ウグナ・パントレン?」
「ハロー。アイムソーリー」
「……イルア」
「おお、なんて言ってるかさっぱりだなー」

 とりあえず困ったときは小首を傾げて曖昧愛想笑いだ。にこっと笑えば、山羊さんもにこっと笑う。ほら見ろ、スマイルは世界を救う。けれど状況は何一つ進展しない!
 わんこさんは依然困った様子で、山羊さんに話しかけた。

「ケッチャ・ヴェー・ウグ・ヴェー?」
「ダツ・エズ・フォルト・ブジ・イ・クォル。ウォレア、ダツ・ミンハ・チェッツ・ダクラ・ガレード・ゲレア」
「クォル?」
「ダツ・クス・シェスンジャー・ラッド・フー・ベッダクォート・パントレン・エル・バッシュ・ケン。ザレッタ・クス・ラー・リアル・ダ・ジェ・イッツ。ゲレア・ダツ・エズ・フォルド・フー・ジェ・パントレン・エル・ジェ・コール。イゼ・ダツ・ゲウス・ラッド・エズ・フー・エッシュ・ジュー・ガレード・エンハケ・ウォレンア・オッシ・シニング・フー・ジェ・ポーツ・ライライ・シュップ」
「エンハ・クス・イ・タトラトゥ・ゲラン」

 なんかものすごい話をしてる。してるけど、私には欠片もわからん。
 でもただの獣と違って、目の前のわんこさんと山羊さんがものすごく困っている様子は表情から見て取れた。2匹……2人?とも眉間にしわを寄せて、難しそうな表情を浮かべてる。人の表情を窺うとき、重要視するのは案外眉なのかもしれないなぁ。昔の歌にもなかったっけ、旦那さんの嘘を眉で見抜く歌。

「アレリアル。エー・レル・ギャレッグ・ヘス」
「ギャレッグ?イー・ウグ・キャッチ?」
「キャッチキャッチ」

 なんかキャッチキャッチ言ってる。何かを掴むの?ねぇ、掴むの?貴方たちの会話が全然わかんないから、こっちはすごい不安なんですが。
 不思議の国のアリスですら言語は通じてたのに、私の扱いときたらなんなのこれ。英語か。英語が出来ないのが逆にコンプレックスとなって深層心理に出てきた?
 言葉が通じないし、夢である以上、無理して日本大使館(あるのか?)に連れて行ってもらわなくてよくなったので、2人の会話を他人事のように眺めていると、山羊さんがパンパンと軽く手を打った。その爪の色は濃い紫だけど、マニキュアを塗っているように見えなかった。やっぱり人間とは少し違うんだなと再認識する。

「デール・ハメイ」
「ひぎゃっ!?」

 大きな手が私の脇腹を掴んで、ひょい、と抱き上げる。
 ……え、なんで私今、抱っこされた?しかもお姫様抱っことかじゃなく、お父さんやお母さんが2,3歳児を抱えるような感じの抱っこだ。
 13年間生きた記憶はすっぱり抜け落ちてるけど、培った一般常識が恥ずかしいと叫んでいる!しかも高くて恐い!これ絶対2メートル以上ある!

「エクスキューズミー!エクスキューズミー!抱っこ、ホワイッ!?」
「キャッチキャッチ」

 キャッチされてるけど!確かにキャッチされてるけど!もしかしてさっきのキャッチは私をキャッチするかどうかの話しあい?どんな話しあいだ!ねぇ誰か、どうして私が抱っこされてるか教えて!
 ギフトボックスを片手に抱え、逆の手でちょっとちょっと、と山羊さんの肩を叩いてみるが、全然ビクともしない。え、何これ、筋肉がゴムタイヤみたいに硬いんだけど。人間の筋肉じゃ……あぁ、人間じゃないから当たり前?
 なんて考えている間に、山羊さんは私を抱えたまま馬車に戻った。
 え、ちょ。私抱えてますよ。抱えたままですよ!

「イジ」

 馬車の座席に座った山羊さんが外に向かって何か言うと、少ししてからガタコン、と馬車が揺れて走り始めた。
 ちなみに私は山羊さんの膝の上に乗せられている。な、なんだこの屈辱感。
 むずむずする心に急かされるまま、膝から下りようとすると、膝の上に戻された。

「キュラ・チェッツ・エット」
「いや、逃げたりしないんで」
「キュラ・チェッツ・エット」

 山羊さんの眉がむ、とひそめられたので、私は抵抗を止めた。
 たぶんニュアンス的に「大人しくしてなさい」って言われた、の、かな?
 私はもう子供ではなくて乙女なんですからね!と怒りたいけど怒れない私は日本人だ。だってなんかわかんないけど、馬車に乗せてくれたし。いくら夢の中とは言え、足が疲れてたからもう歩きたくなんてなかった。馬車万歳。乗せてくれてありがとう、山羊さん。うん、別に眉をひそめた顔が恐かったからジャナイヨ?
 いや、こういうのは思うだけじゃダメだ。夢とはいえ、礼儀は大切。

「馬車に乗せてくれてありがとうございます」

 ペコッ、と頭を下げて戻すと、何故か山羊さんが目を丸くしてビクッとした。
 何でだ。どこに怯える要素があった。
 よくわからないのでにこっ、と微笑んでおくと、山羊さんもにこっと微笑んだ。
 ふむ。よくよく見れば、この山羊さんはパーツがすごく素敵だ。鼻筋通ってるし、唇の形も整ってるし、肌の色も日本女子からすれば憧れの真っ白さ。ただ目が獣の目だからすごく異様。目って大事だな。あ、あとよく見ると、鼻の先が茶色い。

「ウグイ・ペッツ」

 山羊さんはにこにこ微笑みながら、私の髪を梳きだした。相変わらず何言ってるかわかんないけど、罵られてはないよね?笑顔で罵られてたら私は人間不信……いや獣不信?になるぞ?
 ……イマイチこの山羊さんたちが人間と獣どっちに位置するかわかんないから、不信になりきれないな。

「ペッツ。ペッツ」

 大きな手が私の頬をごしごし撫でる。痛い。

「ペッツ、ペッツ」

 どうでもいいけど、ペッツと言われるとペット扱いされてるみたいで微妙です。と言ったところで、山羊さんは理解してくれないんだろうけど。
 しかしまさか先人っていうのは偉大だな、と夢で思うことになるとは。日本って、初めてポルトガルとかオランダとかアメリカから使者が来たとき、どうやって意思疎通してたんだろう?その当時辞書なんてなかったはずだから、手探り状態だったんじゃないかなぁ。
 ……ん?なんか、無駄に蓄積している雑学が反応しそう。うーん。言語がわからないところに行って、どうやって言葉を覚えていったか、みたいな話を聞いたことがあるのにな。何の話だっただろう。
 願わくば思い出す前に、目が覚めて欲しい。夢の中で悩むなんて馬鹿馬鹿しいことこの上ないじゃない。
 今、何時になったのかな、と疑問に思って、スクール鞄からスマホを取り出して画面を見た。24時19分。健全な中学生ならすでにお休みでなければならない時間だ。まぁ、本体は眠ってるからいいのかな。起きたら寝坊とかじゃないければいいや。
 スマホを鞄に戻して顔を上げると、山羊さんが真顔でこっちを見てた。
 あまりの真顔っぷりに心臓が跳ねた。何コレ恐い。ホラーな夢に変わる前兆?

「な、な、なんですか?」
「……ペイエ?」
「わ、わかんないです」
「……ウラーヴァ・デッヘン」
「全然わからないんです、すみません」
「ペイエ……」

 疑問符がついてたっぽいにも関わらず、山羊さんは真剣な表情で目を伏せて思案顔になった。私の返事なんて関係ないようだ。元より会話出来てないし。あれだ、自問自答?的な?

「エー・ヴェッド・ラッド・シン・ダタ・レコメック」

 ちら、と紫の瞳がこちらを見る。とりあえず微笑んでおこう。よくわからんし。
 へらりと笑えば、よしよしと頭を撫でられた。やっぱり私ってペット扱いされてない、これ?この夢の世界では人間ってペット扱いなの?

「ヴェー・エー・カポ・ペイエ。ウグイ・ペッツ!」

 今度は顔を上げて、興奮し始めた。何?何なの?何でそんなテンション上がったの?

「エー・フォレッダ・トフ・ギャメク・コペレ・グラッティーア!エゥ!レア・デー・コノン・マシェカ・フー・マナ!」

 ……すごくキラキラした目で見られてる。何でだ。
 曖昧に微笑んで小首を傾げると、向こうも微笑んで小首を傾げた。

「ペッツ。エー・オンク・フー・マナ!」
「えっと、マナさんじゃないです」
「マナ!」

 あれ、私の名前マナになった?
 まぁ、いいか、夢の中での呼び名くらい。好きにすればいい。もしかすると心の奥底ではマナって名前がいいとか思ってたのかもしれないし。今を満喫するがよい。
 ジャパニーズスマイルを向けると、山羊さんは野ブドウの目を輝かせて微笑んだ。何が嬉しかったのか、ツボを突いたのかは知らないけど、楽しそうでなによりです。
 大きな手で頭を撫でられながら、馬車の窓から見える景色に思いを馳せる。

 ……で、この夢はいつ覚めるんですかね?














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