――どれだけ、助けられたか知れないのに。
 何故、本当に必要な時に力になれないのだろう。
 時計の秒針だけが、やけにうるさくシシィの耳に響く。

「……量じゃなくて、質の問題?」

 ぶつぶつと、自分の考えが口に出る。傍から見ればかなり奇妙な光景だろうが、そんなことにシシィは構っていられなかった。
 自分の書いたノートと、失敗した実験を見返す。
 ドラゴンの毒は、すでに半分ほどまで減っていた。
 血が成分を変えているのは間違いないと思う。なのに、ワクチンはどれも効かない。
 試しに毒自体にワクチンを垂らすと、毒性はなくなった。
 効かないわけじゃない。
 けれど、人体に入ると効かないのなら、役に立たない。
 ――新しいもので実験してみた方がいいのかもしれない。
 ただ単に量の問題かと思ったが、そういう問題でもないようだ。上質な薬であれば効くのかもしれないし、全く別の薬が効くのかもしれない。
 ――けど。
 実験するには、時間がない。材料がない。
 シシィはこぶしを握る。
 ドラゴンの毒、は魔術師の領域とはいえ、全く勉強していなかった。それが今更ながら悔やまれる。
 ――ドラゴンの毒どころか。
 普通の毒にさえ、あまり詳しくない。専門外の知識だ。

「シシィさん、夜食はいかがですか」

 紅茶の香りに誘われて顔をあげると、紅茶とサンドイッチを盛った皿をルウスが持ってきてくれていた。
 シシィの好きな、たまごサンド。そういえば何も食べていない。
 ――夜食?
 窓の外を見ると、もう夜だった。
 ――急がないと。
 もう1日経ってしまったのだ。あと2日しかない。

「……覚悟は、出来ませんか?」
「覚悟?」

 ペンを握ったまま、シシィは首を傾げた。
 ――ああ、頭が働かない。
 ――でも、考えなくちゃ。必ず、助けなくちゃ。

「……彼の死を受け入れる覚悟です」

 ――死?

「シシィさん。もしかしたら、いえ、おそらくドラゴンの毒の治療薬も未来には完成するでしょう。けれどそれは、ずっとそのことについて研究を重ねてきた魔術師が、完成させるはずです。付け焼刃の知識では、絶対にできない」
「やってみなくちゃ……分かんないです」
「シシィさん。残酷でも、受け入れなさい……」

 ――嫌。聞きたくない。

「ルビーブラッドを、看取っておあげなさい」

 シシィは、意図的に机の上に高く積んだ本を崩した。その衝撃で、ルウスが持ってきてくれた紅茶とサンドイッチも床に落ちる。
 ――やめて。そんなこと、言わないで。
 シシィの心に、炎が宿る。

「出ていってください」
「シシィさん」
「出ていってください!!ルビーブラッドさんが治るって、信じられないならここから出ていってください!」

 声を荒げながら、ルウスの身体を押す。
 何も聞きたくない。
 誰にも会いたくない。
 ルビーブラッドが死んでしまうと、思っている人となど話すことは何もない。
 ルウスはため息をつき、のろのろと階段を下りて行った。
 その後姿を見つめる。

「う……うぅ……っ」

 ――何やってるんだろう。
 涙がボロボロとこぼれた。涙腺が壊れてしまったのかもしれない。
 涙がにじむ目で、床にこぼれた紅茶とぐちゃぐちゃになったサンドイッチを見つめた。
 あの夜食は、Bが作ってくれたものだったのだろうか。
 ――何やってるんだろう。優しさを踏みにじって。
 心配してくれているのに、酷いことを言った。酷い態度をとった。
 恩を仇で返すとは、まさにこのことではないだろうか。
 それでも、聞きたくなかった。
 この部屋に、ルビーブラッドが死んでしまうという事実を持ち込めば、本当にそうなってしまう気がして、恐ろしくて。
 ――逝かないで。
 ひざを折って、額を床にこすりつけるようにしてシシィは泣いた。
 好意を、自分になんか向けてくれなくていい。
 ただ、この世界で生きてくれていればいい。
 同じ空を、星を、見てくれていれば。
 ――それだけなのに。

「…………」

 ――研究、しなきゃ。
 ひとしきり泣いて、シシィはふらりと立ち上がると、また机に向かってペンをノートに走らせ始めた。





********





 ふとした拍子に、ルビーブラッドとの思い出がよみがえるのが怖かった。
 出会ったときのこと。
 ガーデンのこと。
 励ましてもらったこと。
 衣装祭のこと。
 呪いに立ち向かったときのこと。
 たくさんの思い出が、脳裏を駆け巡る。
 その思い出がよみがえるたび、自分がルビーブラッドとの思い出を整理しているように思えて、そんな自分を叱咤し、ただ目の前のことに没頭した。





********





 とうとう、考えが行き詰った。
 午後3時の鐘を聞きながら、シシィは頭を抱えた。
 ――あれも、これも違う。
 ひっかかりすらない。全く効果がない。
 もう時間がないのに、突破口が見つからない。
 シシィはイライラしながら、ノートの片隅にペンでぐるぐると落書きする。何か手を動かしていないと、酷く落ち着かない。
 ――どうすればいいの。
 毒も、もう少なくなってしまった。無駄にはできない。
 けれど無駄を重ねなければ、研究はできない。

「闇色ハット!」

 朗々とした声で呼ばれ、シシィは力なく振り向いた。
 隠し部屋が、華やかになった気がする。
 そんな錯覚さえ起こすほど、今のシシィに――ヴィトランは眩しく見えた。

「あぁ、かわいそうに。こんなに肌がボロボロになってしまって!」

 ズカズカとヴィトランはシシィの近くまで歩み寄り、白い手でシシィの両頬を包む。
 思いがけない行動に、シシィは固まった。

「これはいけない。君は休憩するべきだ」
「そんな暇は……」
「さぁ、いざ行かん!」
「ちょ……ヴィトランさん!」

 有無を言わさず、ヴィトランはシシィを横抱きにして階段を下りていく。
 見た目の細さを裏切るような力強さに、シシィは動転しながらも声をあげた。

「休憩なんて、してたら時間がなくなってしまいます!」
「いいや。今の君に必要なのは休みだ」

 いつもテンションの高い彼が、低い声で諭すようにシシィに言う。
 その普段とのギャップにシシィが困惑している間に、ヴィトランはルビーブラッドの眠るベッドの前までやってきて、シシィをイスに下ろした。
 ルビーブラッドは時を止めた瞬間のまま、苦しげな表情で眠っている。
 ――だから、早く。
 何とかしなければ。
 助けなければ。
 苦しみを除かなければ。
 治療薬を。
 毒を除くことを早く。
 早く。

「――僕もね、一時スランプになったことがある」

 ヴィトランがゆっくりと、静かに語り始めた。

「魔道具師として、駆け出しのころさ。何を作っても上手くいかない。でも周りからは早く作れと急かされる。そんなときにルビーブラッドと出会って、彼は言ったんだ。いっそ休んでしまえと。本当に好きなものなら、休んでいる間に我慢できなくなって、また作り始めるだろうと」
「…………」
「そんな――優しいことを言ってくれる人は、僕の周りにはいなくてね。彼の後をついて回った。まぁ、そのうち魔道具が作れるようになったら撒かれてしまったけれども」

 懐かしむように、ヴィトランは目を細めた。
 ――そうか。ヴィトランさんはルビーブラッドさんを尊敬してるんだ……。

「優しい人は好きだよ。僕にはないものを持っているから。だから、闇色ハットのことも好きだ」
「……ヴィトランさんだって、優しいと思います」
「そうかい?でも僕は君たちの持つ優しさは、か弱さと紙一重だと思う。ねぇ、闇色ハット。君は毒と戦う前に、自分にやられているように思えるよ。君に必要なのは休養だ」

 焦って思考が働かないのは、時間を浪費しているのと同じことだ、とヴィトランに言われてシシィは下を向いた。
 ――そう、私は焦っている。
 周りの心配や優しさを邪険にしてしまうほどに。

「闇色ハット、お眠りよ。ルビーブラッドの時間が動きださないか、僕が見張っててあげるから。いい夢を見るといいよ」

 シシィは肩を押され、ベッドに上半身を預けるように倒れ込んだ。すぐ近くにルビーブラッドの顔がある。
 ヴィトランは優しくシシィのぼさぼさ頭を梳きはじめた。
 その手の体温が、とても心地よくて。
 すぐにうつらうつらし始めると、ぐす、と鼻をすする音が聞こえた。
 ――私じゃ、ない。

「……まさか、君が、死んでしまうなんて信じられない……」

 ――泣かないで、ヴィトランさん。
 必ず助けるから、という言葉は、眠気に押されて声にならなかった。





◇◇◇◇◇◇◇◇





 ――ガーデンが、枯れている。
 シシィは、夢の中のガーデンを見渡した。
 正確に言うと、ガーデンの花や草は枯れていない。ただ、すべてモノクロで、色が全くないのだ。
 ――術者の、ルビーブラッドさんの時間が止まっているから?
 よく分からないが、その可能性が高い。
 花の香りも全くしないガーデンで、シシィは空を見上げた。
 アステールだけは、よく光っている。
 なのに、寂しい。

「――ルビーブラッドさん」

 キィ、と背後のブランコが揺れた。
 驚いて背後を振り返ると、誰もいないのにブランコが揺れている。
 ――もしかして、ルビーブラッドさん!?
 辺りを見渡すが、人影はない。
 何だ風か、と落胆するシシィの前を少年が通り過ぎていった。

「え!?」

 夜の森を思わせる、緑の髪。
 ルビーのような赤く鋭い目。
 少年は、噴水の向こうに走り去っていく。

「今、の……ルビーブラッドさん?」

 つぶやいた瞬間。
 地面にヒビが入る。
 ――まさか、術者が不安定な状態だから……!
 魔術も不安定、ということなのか。
 分かったときはすでに遅く、地面はガラスが割れるような音を立てて崩れていく。
 それに伴い、シシィも落ちる。

「嘘!?」

 こんなこと、初めてでどう対処すればいいのか分からない。
 ガーデンの景色がガラスの破片のようにバラバラになって、崩れる。
 落ちていく先は、闇。
 何もない。
 ――違う、何かある。
 目を凝らすと、その先には緑が見えた。

 あれは――夜の草原?

 シシィの身体は、その草原へめがけて落ちていった。