言葉が理解できない。
したくない。
ルビーブラッドが言った、言葉の意味など分かりたくない。
遠のいていく体温に、縋るようにして手を握る。
――嘘だ、大丈夫だ、大丈夫、私が、信じなきゃ。
「シシィさん!」
「ルウス、さん」
ルビーブラッドの手を握ったまま、シシィは背後を振り返った。肩で息をしているルウスが、ルビーブラッドが吐きだした黒い血に目を向ける。
そうして――目を逸らした。
その仕草に、絶望感が体の中を暴れ回る。
ルウスの銀色の瞳が、穏やかだ。
この緊迫した空気にふさわしくない。
「ルウスさん……治療薬……ルビーブラッドさんが、吐血を」
「……そのまま、手を握っていておあげなさい」
――何?
ルウスは動かない。治療薬を取りに行ってくれない。
「ルウスさん……ルビーブラッドさんが、弱気になって、て、死ぬなんて、言葉を言うんです。早く、安心を」
「だから、手を握ってあげていなさい」
――そういう、ことじゃない。
「早く治療をしないと、本当にルビーブラッドさんが死んじゃいます!」
ルビーブラッドが体を震わせた。寒いのかもしれない。
なのに、体は酷く熱い。
――手は冷たいのに。
うわ言のように、ルビーブラッドはただ「見るな」と繰り返す。
「――治療方法はないのです」
冷水を浴びたような衝撃。
シシィは、ルウスを見つめた。
「……黒い血を吐いた、ということは、彼はドラゴンの毒を浴びたということです」
「ドラゴンの、毒……?」
「猛毒です。その毒に対する治療は見つかっていません……」
――見つかってない?
対処法が、ない。
それは――。
それ以上考えたくなくて、シシィはルビーブラッドの手をただ握り締めた。
なのに、ルウスの声が現実を教える。
「――あと、10分持つかどうか……」
――10分。
「や……」
「シシィさん」
「嫌だ……嫌だ……!そんなの嘘だ、嘘だ、ルビーブラッドさんは死んだりなんかしない、死なない死なない死なない!」
「シシィさん!」
「だってまだ、体温だってあるのに!死ぬはずがないもの!あんなにも強いルビーブラッドさんが、死ぬはず……」
――なんか、ない。
なのに、涙がボロボロとこぼれる。
冷たい手。朦朧とした意識。尋常でない吐血の量。
思いたくない。それが死の前兆などと。
生きてほしい。
連れて行かないでほしい。
どんなことでもする。
何でもするから。
時を止めて。
――初めて、好きになった人なの。
優しいのに厳しくて。
自分のことには無頓着。
人のことしか頭になくて。
そんな彼が、大好きだ。
「死なないで……ルビーブラッドさん……」
それが、道に反することだとしても。
抑えきれなかった。
無意識にロッドを呼び、手に取り。
シシィは――唱えた。
『万物よ 円を縁を宴を停止せよ クロットウォール』
「シシィさん!!」
ルウスが止める暇なく、シシィの魔術がルビーブラッドの身体を包む。
カチン、と秒針の音がした後に、ルビーブラッドの呼吸が止まる。
心臓の音も。
血液の流れも。
何もかもが、停止する。
シシィの肩を、ルウスが強くつかむ。
「時を止める魔術を人間に使うことは禁忌です!」
「死なせない……私が、必ず治療法を見つけ出します……」
「何ですって?」
ルビーブラッドの手を握り。
涙をこぼしながらシシィはルウスを見上げる。
「ないなら、治療法を見つけ、ます……っ!」
何も――言えなかった。
ルウスはその姿から目を背ける。
あまりにも、哀れだった。ドラゴンの毒は、不可思議なことが多すぎて治療法が見つからない。すぐに見つかるような治療法はないのだ。
けれど、それを彼女はすぐには受け入れられないだろう。
――受け入れる時間がなければ、彼女は壊れるかもしれない。
「……3日です」
「3日」
「人間に時を止める魔術をかけて、障害が出ないぎりぎりの時間。それ以上を過ぎると歪みが出来て、何らかの障害を負います。いいですね、タイムリミットは3日」
その厳しい声に、シシィは頷いた。
********
隠し部屋のあらゆる本を読み漁った。
毒に関するものはもちろん、それ以外の本も。
毒と言う言葉さえ入っていれば、何でも読んだ。
それなのに――治療法は見つからない。
ただ、絶望が見つかっただけだった。
『ドラゴンの毒に有効なワクチンは、数多く発見されている。しかし人体に毒が入りこむと、途端に効力はなくなる』
その2文が、ドラゴンの毒に対する記述のすべてだった。
――数多くあるなら。
どうして、効かないのか。
「闇色ハット。これ、ドラゴンの毒よ」
Bの声にシシィが振り向くと、彼女は紫色の液体が入った小瓶を持っていた。
あの小瓶の中のモノが、ドラゴンの毒らしい。
シシィがありがたくそれを貰うと、Bは少し戸惑ったように口を開けた。
「ルビーブラッドは……貴女の部屋のベッドに寝かせたわ」
「ありがとうございます」
「…………闇色ハット。無理をしてはダメよ」
その言葉は――聞かないようにした。
Bが階段を下りていく音を聞きながら、シシィは小瓶を見つめた。
限られたドラゴンの毒。
よく考えて実験をしなければならない。
――効くワクチンは、いっぱいある。
なのに人体に入りこんだ毒に効かないのは何故なのか。
「……成分が変わる?」
それしか思いつかない。
けれど何がきっかけで、何が原因で成分が変わるのか。
例えば、血液。
シシィは机の引き出しからナイフを取り出し、指を切って小皿の上に血を落とした。
その上に、毒を一滴垂らす。
「効くのは……コーライ」
戸棚から瓶を取り出し、シシィは小皿の上に一滴垂らした。
特殊な紙で、毒性が消えたかどうか検査する。
紙は黄色のまま変わらない。
――毒性が消えてない。
ということは、やはり血液に反応して成分を変えるのか。
「……これくらいのことは、みんな思いつくってこと……」
頭を振り、シシィはまた考えを巡らせ始めた。
********
不意に気付くと、手元に朝日が差していた。
顔をあげると夜明けどころか朝になっている。
小鳥たちの鳴き声が、今だけは別世界の音に聞こえた。目を何度かまばたかせた
あと、シシィは手元のノートにまた向き合った。
ぎっしりと書かれた言葉と計算式。
そのどれもに、正解はなかった。
ため息をついて、またノートにペンを走らせる。
********
目がかすんで字が見えなくなり、シシィは目頭を押さえた。
――寝てる暇なんて、ないのに。
「闇色ハット君」
眠気で頭が働かず、誰だろう、とぼんやり背後を振り向くと、左目にガーゼを当て、右手を吊ったブレックファーストが階段を上がってくる途中だった。
――そういえば、誰でも上がってこれるようにしたんだっけ。
隠し階段は、誰の目にも見えるようになっているのを忘れていた。その方が自分と話すのに便利だろう、と昨日解除しておいたのだ。
「ケガは、いいんですか……」
「そうだね……私の方は平気だよ……」
微笑む表情が暗い。
それはそうなるかもしれない。彼もまた、親友を失おうとしている。
「……すまない」
「何が、ですか」
舌がうまく回らず、どこか幼児っぽい発音でシシィは彼に尋ねた。
「ルビーブラッドは……ここに来たがらなかったんだよ、本当は」
「…………」
「君を泣かせたくないと言っていたのを、私が無理やり運んだんだ」
頭が上手く回らない。
聞きたいことはいっぱいあったはずなのに、何も浮かんでこない。
「闇色ハット君、君は私を恨むべきだ」
「……どうしてです」
「ルビーブラッドの死を見せた。それに――彼が毒を受けたのは、私を庇ってだったから」
――ルビーブラッドさんらしい。
そういう行動をするからこそ、ルビーブラッドなのだ。
だから、ブレックファーストを恨むのは間違っている。
――そう、私はルビーブラッドさんを助けるチャンスを貰ったんだから……。
「平気です。ルビーブラッドさんは、必ず私が治します」
「闇色ハット君……」
「毒に効くワクチンは、たくさんあるんです。必ず、治療法がありますよ」
「闇色ハット君……!」
シシィは耳にふたをする。
――聞きたくない。
死などという言葉は、今は。
彼は死なない。
彼は死なない。
死ぬはずが、ない。
「もう……無理なんだ!どんなにあがいても、ルビーブラッドは!」
「ブレックファーストさんは……責められたいんですね」
シシィの言葉に、ブレックファーストは言葉を呑んだ。
苦しげに表情を歪ませる。
――本当に、そっくり。
類は友を呼ぶのか、友は類を呼ぶのか。
ルビーブラッドとブレックファーストはそっくりだ。
「大丈夫です。私が治せば、笑い話にだってできます。だから待っててください」
「闇色ハット君……っ!私は君の体調が心配で」
「待っててください……完成、させますからね」
再び、治療薬を作ることに没頭する。
――ブレックファーストさんのためにも、薬を。
かすむ目で、シシィはノートに字を埋めていった。
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