――もう、頭が混乱して何も考えられない。
シシィは目の前にある本棚に触れた。
絵本コーナー。
このコーナーは、シシィ自身が幼いときによく見ていたコーナーだ。
ルウスに言われるがままやってきたが、夜の図書館の空気は、春先と言えどひんやりとしている。もう1枚何か羽織ってくればよかったかもしれない。
けれど、体の中は熱い気がした。
それは緊張でなのか、期待でなのかは分からないが。
シシィは腕をさすった後、アンティークキーを握りながら目を閉じた。
――ご褒美って、何のことか分からないけど。
目を開けて背後を振り返るが、ルウスはまだ来ていない。先に行っててくれと言われたので1人でやってきたが、心細いものがある。
――でも、いつまでもグダグダしているわけにはいかないし。
覚悟を決めて、口を開く。
「――オレンジケーキと闇色ハット」
本棚の本たちが、カタカタと震えだす。
それにシシィが驚いて一歩後ずさりすると、惹かれるように本たちが飛び出した。
「うわぁぁぁ!!」
腕でガードしようにも、それより素早く1冊の本がシシィの額に体当たりし、床にばさりと音を立てて落ちた。
それを合図に、他の本もバタバタと落ちていく。
――な、何?
額に当たった、足元に落ちている絵本に目を向ける。
その絵本のタイトルは――『オレンジケーキと闇色ハット』。
「え……」
しかしシシィが驚いたのは、タイトルにではない。
驚いたのは、その表紙に見覚えがあったからだ。
緑あふれるガーデンの中で、少女と少年がお茶をしている絵。
そのタッチは、やわらかくあたたかで、懐かしい気がした。
――これは。
「ずっと、探してた絵本……」
ルビーブラッドと会う、夜のガーデンのモデルになっている、絵本。
懐かしむように、その絵本を拾い上げて表紙を撫でる。少しザラザラして古ぼけているが、それが妙に愛おしかった。
自然に、手が表紙をめくる。
『むかしむかし、あるところに、オレンジケーキを焼くのが上手な魔女がいました。
けれど彼女は、いつもは魔女であることを隠していました。
魔女のいないこの国では、魔女だということが分かってしまうと仲間外れにされるからです。
魔女はひっそりと、自分の力を人のために使っていました。
そんなある日、王さまたちがお茶会に使うガーデンが国の人々に公開されました。
魔女がオレンジケーキを手に行ってみると、そこには一心不乱にガーデンのスケッチをする闇色の帽子をかぶった少年がいました。
手元をこっそり盗み見ると、そこにはあたたかなタッチで描かれたガーデンがありました。その絵のあたたかさと一生懸命さに、魔女はたちまち恋に落ちました。
そのとき、ちょうど少年のお腹がぐぅ、と鳴いたので魔女は持っていたオレンジケーキを少年にあげました。
彼は、魔女の優しさとケーキのおいしさに一瞬で恋に落ちました。
どちらからともなく、彼女たちはガーデンが公開されている間は、ずっとそのガーデンで、自分の好きなもの、嫌いなもの、故郷、行ってみたいところなど語り合いました。
そのうちに、少年は想い人が魔女であることに気が付きましたが、そんなことでは心は揺らぎませんでした。
そしてガーデンの公開が最後となった日。
オレンジケーキを差し出す魔女に、少年は言いました。
どうか自分の花嫁になってほしい、と。
魔女は嬉しくなって思わず頷きそうになりましたが、自分が魔女で、みんなに気味悪がられていることを思い出しました。
この少年も、自分が魔女だと知れば離れていくかもしれない。
怖くなった魔女は、少年の前から姿を消しました。
少年は大変悲しみ、傷ついた心を抱えて故郷へ帰ってしまいました。
しかしそこで大きな呪いが少年の故郷を包み、少年は人形になってしまいました』
――これは。
シシィはページをめくる手を止めた。
この呪いはもしかして、孤独共存の呪いのことではないだろうか。
――じゃあ、この魔女は。
『少年の故郷が呪いに覆われたことを知った魔女は、たった1人で大きな呪いに戦いを挑みました。
何日も何日も戦った末、魔女はついに呪いを封じることに成功したのです。
呪いが解けた少年は、すぐさま魔女のもとへ飛んでいき、すべてを話しました。
君が魔女だということは知っている。それでも君が好きなのだ、と。
そして、もう一度プロポーズをしました。
君の作るオレンジケーキを、いつも食べたいのです、と。
魔女は涙を流しながら、静かに頷きました。
それから2人は丘の上に図書館を建てて、そこで幸せに暮らしました。
めでたしめでたし』
――この魔女は、きっとおばあちゃんのことだ。
シシィは絵本をそっと撫でた。
この魔女が祖母であるなら、この闇色の帽子をかぶった少年は――。
推測する前に、勝手にページがめくられた。
白紙のページ。
けれどそこに、突然魔法陣が浮かび上がった。
<これ、本当に発動してる?>
<してますよ。ほら、シシィを抱っこしてあげて>
懐かしい声と、低い声。
本に浮かびあがった魔法陣は、『孤独共存の呪い』について書かれていた記述本と同じように、光を放ちながら映像を映し出した。
低い声でしゃべるのは、闇色の帽子をかぶった男性。
初老になろうかなるまいか、といった年齢で、優しそうな顔立ちだった。
その男性が、赤ちゃんを抱いていた。
――あの、赤ちゃん……私?
<シシィ。かわいいなぁ、シシィ>
<かわいいですねぇ>
映像に、女性が映る。
男性の隣で赤ちゃんのシシィの額を撫でているのは、祖母だった。
記憶の中の祖母より、ずいぶん若い。
<彼は将来、私の気持ちが分かるようになるんだろうなぁ>
<コーファさんのこと?男親は、やっぱり娘がお嫁に行くのはさみしいのね>
<もちろん。でも、そのおかげでシシィに会えたんだ>
<ふふ、そうね>
<幸せにおなり、シシィ。きっとシシィの手を取ってくれる人はこの世にいる>
優しい声で、諭すように男性は言う。
<そして、シシィが手を差し出してくれるのを待っている人も必ず。――ねぇ?誰かさんと誰かさんみたいに>
<それは、私たちのことかしら?>
くすくすと、笑いあう声が聞こえてくる。
幸せそうな声音。
穏やかな雰囲気。
この光景を覚えていはいなくても、シシィは知っている気がした。
<愛を忘れない子に育ってほしいね。愛することも、愛されていることも忘れない子になってほしい>
<優しい子になってほしいわ>
<でも、私たちはそういう願いを込められて生きていることを忘れがちになってしまうよね>
<だから、今魔術で記録を録ってるんじゃないですか>
<本当に録れてる?>
<私は『パール』ですよ?>
<そうだな、ごめん。シシィが人生の壁にぶつかったときに見てもらいたくて、君に協力してもらってるんだものな>
<本来なら両親の仕事だけど……アンリーヌは魔術のことは知りませんからね>
<はは。本当に、おじいちゃんとおばあちゃんの仕事じゃないね>
――おじいちゃん。
シシィは食い入るように画像を見つめた。
祖父は若くして亡くなったという。確か50歳になったかどうか、という時期に病気で亡くなったらしく、シシィの記憶にはあまりなかった。小さすぎて覚えていない。
なのに、この声は懐かしさを呼び起こす。
記憶になくても、脳の一番深い所に染みついていたのだろうか。
――夢でも、見た。
熱で朦朧としたときに見た夢。あれは。幼いころの自分の記憶だったのだろうか。
<でも、私は絵本作家だ。だから君に、物語を紡いでおこう――愛の物語を>
また勝手にページがめくられる。
新しい光が、別の映像を映し出した。
『――その愛の物語が、この本なのよ、シシィ』
「……おばあ、ちゃん」
今度は、先ほどよりいくらか年をとった祖母。その姿はシシィの記憶に在るものと同じで、この映像はそう古くないものであることを示していた。
『この絵本は、貴女だけに描かれた絵本。幼いころの貴女は、この本を読んでとねだっては、あの映像を見るのがお気に入りだったの。と言っても、この絵本を読んでいたのは4歳ころまでだったから、覚えていないかもしれないわね。貴女が物心つく前に、魔術に関するものは私が全て隠したから』
祖母が微笑む。
その微笑みを見たのは、1年ぶりになるだろうか。
思わず涙がボロボロとこぼれた。
『このメッセージを見ているということは、シシィは立派な魔術師になれたのでしょう。おめでとう、シシィ。そしてごめんなさい、手荒なことをしてしまって』
ふるふると、首を横に振る。
決して会話はできないのに、シシィはそれでも答えたかった。
――謝らないで。
この道に、魔術師になれて、本当に良かったと思っている。
感謝の言葉あれど、恨みの言葉はない。
『いきなりルウスが現れて、びっくりしたことでしょう。けれど、彼はとても優秀な魔術師で、私の自慢の弟子なの。彼はきっと、影から貴女を導いてくれたはず』
「うん……っ、たくさん、助けてもらったよ……っ」
『修行している間、貴女は何を思ったかしら。辛かった?楽しかった?私は貴女が虚無になっていないかが心配なの。私の命は長くない。私を失って、自暴自棄になってないといいのだけれど』
――ごめんね。
そんな時期もあった。悲しくて悲しくて、後を追ってしまいたいくらい。
でもそれを引き止めてくれたのは、他ならぬ祖母だ。
――人生とは、扉を開けること、って……。
そう言ってくれたから、ここまでこれた。
あの言葉は、本当だったのだ。
図書館の扉を開けて、魔術師への道へと入った。
笑って、泣いて、怒って。
成長する日々。
充実した毎日。
そうして今、目の前に再び祖母は現れた。
あの言葉がなければ、今、自分はどうなっていたか知れない。
こんなにも輝く日々を、過ごせなかったかもしれない。
『シシィ、魔術師になってくれてありがとう。貴女は私の、自慢の孫だわ。天国でも自慢してしまいそうよ。残念なのはワークネームを知れないことね』
「……ふふっ」
『――シシィ、愛しているわ。貴女の幸せを願ってる』
「私も、大好きだよおばあちゃん」
光が急激にしぼんでいく。それと同時に映像も薄まっていった。
消えていく祖母。
お別れのとき。
――でも。
やっと、祖母とお別れをした気分だった。
あの日、祖母が本当に亡くなった日に言えなかったこと。
伝えたかったこと。
結局祖母に言いたかったのは、1つ。
大好きだ、という言葉だけで。
「――懐かしい。ラフォーさんの姿を見られるとは」
――ラフォー?
シシィが振り返ると、そこにはルウスと、珍しく大人の姿のBが立っていた。
「び、びびBさん!」
何故、ここに。
というか、その隣にいる人物のこと、分かっているのだろうか。
色々な疑問が頭を巡るシシィに、Bは微笑んで見せた。
「紹介しておこうかしら。彼は私の夫『ルウス』よ」
――おっと。
それが、転びそうな時につい口に出てしまう「おっと、」ではないことは、状況を見れば明らかだ。
Bはルウスの腕にひっついた。
仲睦まじそうである。
「えぇ。隠していて申し訳なかったのですが、Bさんは……私の妻です」
「つ、ま」
「大丈夫ですか、闇色ハット?」
ルウスに確認されるが、大丈夫じゃない。
――ルウスさんが夫で、Bさんが妻。
それは夫婦ということで。
「ええええぇぇぇぇぇええ!?」
「どう?良い男でしょう?」
「ええ……そう言われるのは嬉しいですけどね、B。犬の姿のときに「かわいいかわいい」と撫でくりまわされるのは、男としてのプライドが」
「やぁね、そんなもの捨ててしまいなさい」
――ああ、うん。それはBさんが苦手になるはずだ。
ルウスは何かとBに苦手意識があったようだが、それはB本人に、と言うわけでなく、彼女の自分の姿に対する言動が苦手だったということらしい。
確かに、微妙だろう。妻に犬の姿を見せるのは。
あまつさえかわいい、と遊ばれてしまうのは。
「私1人では、どうしても『闇色ハット』の育成には限界がある。魔術師として登録してしまった以上、依頼のレベルなどは関係なく仕事として舞い込みますから。そこで彼女の出番です」
「ルウスから詳細を聞いて、貴女のレベルに合った依頼をまわすようにしていたの。それなら無理なく、レベルアップできるでしょう?」
「……今、分かりました。Bさんの紹介状を持ってないお客さんに、ルウスさんが過敏に反応していたわけが」
Bの紹介状を持っていない客は、シシィのレベルに合うかどうかが分からない。
そんなことはルウス自身も言っていたが、こんなにも深い意味だったとは。
――に、しても。
かなりの美男美女夫婦である。子供の顔が楽しみと言えるような。
2人の顔をまじまじと見て、シシィは不意に思い出した。
――衣装祭のときに見たのは、ルウスさんだったのか。
Bと一緒にいた男性をちらりと見たが、よくよく考えればルウスと似ている。
その他にも、ルウスがたびたび姿を消していたのは――Bのところへ帰っていたのだろう。
リボンの呪いのとき、おそらく呪いをいったん預かることになったBの身を案じて、ルウスは彼女についていったのだ。
するすると、疑問は解かれていく。
あまりの急展開に、額に手を当てるシシィにルウスは微笑んだ。
「だから言ったでしょう。私の魔術を解けば謎は解けると」
「……一気に解けすぎて、眩暈がします」
シシィは苦笑しながらつぶやいた。
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