貴女の成長を、何よりも愛しく見守ってきた。
時に優しく、時に厳しく。
立ち止まれば道を指し示し、実力以上の速さで走りだせばたしなめた。
泣き虫で頼りなかった少女は、いつの間にか大きく成長した。
それが私には嬉しい。
このまま、貴女の成長を見ていたかった。
けれど、偽りの生活ももうすぐ終わる。
私の願いは2つだけ。
1つは、彼女との約束を守ること。
そしてもう1つは。
――シシィさん。貴女が立派な魔術師になることなのです。
********
コポコポと音を立てて、耐熱ビーカーの中で沸騰するお湯をシシィは黙って見ていた。白い湯気が、天井へと昇っていく。
祖母の隠し部屋には、シシィの姿しかなかった。
いつも一緒に調合を見守ってくれるルウスはいない。
――分からない。
思わずため息がこぼれる。
結局ルウスは何も語ってくれない。ただ、「自分の魔術を解けば分かる」との一点張りだ。
まさかここにきて、真剣にルウスのことで悩むことになると思っていなかった。
シシィは乳鉢の中で、リースターの種を砕きながら眉をひそめた。
本来なら魔術薬は明日作る予定だったが、思わぬ出来事で早まってしまった。
けれど、今さら先延ばしにはできない。
どうしても、知りたい。
何故、ルウスは祖母の本名を知っていたのか。
何故、シシィの本名を知ったのに依頼してきたのか。
何故、犬の姿になってしまったのか。
その他にもごまんとある疑問を、この魔術薬1つで解決できるというのだろうか。
――ああ、頭が痛くなってきた。
それに頭痛の種は1つだけでない。
ブレックファーストとルビーブラッドはどうなっているのか。
シシィはお湯を乳鉢の中に移しながらつぶやいた。
「……ちゃんと、話しあえてるのかな」
取っ組み合いのケンカになっていなければ良いのだが。
――何だか、今の私にはどうしようもないことばっかりだ。
乳鉢の中の材料が、どろりとした液体状になったところでシシィは手を止めた。
あの2人の間に、いったい何があったのか詳しくは分からない。2人とも、その辺りはかなり曖昧にしてしゃべる。
それはよほど辛いことがあった裏返しだろう。
本当の心の傷は、誰にも言えない。
自分の中である程度、傷が癒えない限り。
「ふぅ……」
本当に、全てが解決できるのだろうか。
――私は、余計なことをしたんじゃないかな……。
ブレックファーストは会うことをためらっていた。ルビーブラッドもどうだっただろう。
今もまだ、会いたいと思っていたのだろうか。
心配で堪らない。
余計なことをしてしまったのではないかと。
それでも、あの2人を会わせてあげたかった。
「……エゴ、だよね……」
ぐるぐると悩みはめぐるが結局のところ、ここで悩んでいても仕方ない。
それにどんなに望んでも、当事者でない自分にはこれ以上は関われない。
――私は、私のするべきことをしなくちゃ……。
乳鉢の中の液体を、ビーカーに移す。そこにさらに、魔術薬を注ぐ。
煙が上がったのを確認して、シシィはため息をついた。
――さぁ、いよいよだ。
これですべてが終わる。
魔術も全て基本は取得し終える。後は自分の研究を進めていくのみ。
何の戸惑いもなく、魔術師を名乗れるようになるのだ。
シシィはゆっくりと、ビーカーを床に置いた。
手にロッドを握り締める。
『我は有為の門扉を創る者 全てはここから始まりここに終わる』
透明だった石がオレンジ色に光り出し、シシィの呪文を待っている。
――怖くても、さみしくても、知らなくちゃ。
震える口を、無理やりこじ開ける。
『荊棘に力もたらす輝き在り 瞬きの間を流るるは思慮深き造詣 知は愚を圧伏し その芽は荊棘に沿い流れゆくだろう 交差する一閃は魔を潤滑し 種子は寄り添い咲き誇る 幾千万の安定が 包まれし造詣を照らし出す 光は不自由闇は自由 荊棘の理が線と蔦の行方を握る 零れ落ち行く魔の木の葉 造詣の流れに従って 己の文字を知りし者』
一度、息継ぎのため呪文を中断する。
この魔術がこれだけ長いのは、これが解除の魔術薬だからだ。
解除するための魔術薬は、飛躍的に難易度が上がる。
――ルビーブラッドさんと同じようにはできないけれど。
いつか見せてもらった、彼なりの魔術薬の作り方。あんな無茶はできないが、1つ1つ確実に、魔法陣を敷いていく。
『廻れ轟きよ 囲いし檻の壁を破れば輝きが見える 歪曲の言葉に従わず実直な声を聞け 其は惑いしモノ 惑え魔と力 其は進むモノ 進め魔と力』
円が、描ききられる。
線と線は淀みなく繋がって、オレンジ色の光を灯す。
シシィがロッドを振り上げた瞬間、魔法陣の光は瞬き。
魔術薬は、光の中から姿を現す。
「…………ふぅ」
魔術薬の色は、黄色。
ルビーブラッドに見せてもらったときの魔術薬と同じ。
「……あの時から、ずいぶん時間は経ったけど……」
やっと、同じステージ上に立てた気がした。
追いかけ続けてきた背中が、やっと近くに見えた気が。
「成功ですね」
背後からの声に、シシィは振り向いた。
そこには階段を上ってきたらしいルウスの姿があった。
――気のせいかもしれないけど。
シシィの目には、ルウスの表情がどことなくさみしそうに見えた。
「これ、で、話してもらえるんですか?」
「言ったでしょう、私の姿を元に戻さなければ話せないと」
「…………」
しばし見つめあい――先に視線を逸らしたのはシシィの方だった。
――いつだって、ルウスさんには勝てたことがない。
「……時間はかかりましたけど、飲んでくれますか『依頼人』さん」
「ありがたく頂きましょう、『闇色ハット』さん」
シシィはビーカーを取り上げて、ルウスのそばに近寄った。
――でも、今まで考えなかったけど、ルウスさんってどんな姿してるんだろ?
気になって、思わずルウスの口元にビーカーを持って行ったままで止まった。
ここまで来てなんだが、女性だったらどうすればいいのか。
――いや、それは、ない、はず。
それに青年や少年だった場合は、どうすればいいのか。
シシィはルウスを見つめた。
「何です?」
「…………」
最初に思ったとおり。
この性格で少年青年だったら、嘆くしかない。将来が不安だ。
シシィは思わず顔をうつむけた。
瞬間、ガツンと頭を殴られた。
「――!?」
じん、とこめかみの辺りが痛む。
呆然と、ルウスを再び視界に入れる。
ルウスは――酷く不思議そうな表情をしていた。
――ルウスさん、に殴られたわけじゃ、ない?
「シシィさん……?顔色が悪いですよ?」
「え……」
気付けば、じっとりと背中に汗をかいていた。
酷く、不快だ。
――違う。気分が悪い……?
何だ、と疑問に思ったとき、それは嘘のように消え失せた。
「……?」
「どうかしましたか……?」
「い、いえ」
さっきまでは確かに気分が悪かったが、今は全く問題ない。
そうとしか、言えない。
――気のせい、かな。
そう思うことにして、シシィは改めてルウスの口元にビーカーを運ぶ。
容器を傾けると液体はルウスの口に入り、ごくりと喉が鳴った。
ぽんわりと、ルウスの身体が光って。
溶けて。
「――――」
シシィは、言葉なくその人物を見上げた。
アンティークの銀細工を思わせるような銀色の瞳。
黒くて長い、絹糸のような長い髪は、すべて右に流され緩く1つで括られている。
黒いタートルネックに、黒いズボン。
そして何より、彼のトレードマークの闇色の帽子。
――でも。でも、これは。この姿は!
「――この姿で会うのは、2度目ですね『闇色ハット』」
微笑みながら――ルウスは手をゆっくりと上にあげた。
「『ロッド』」
「!?」
呆然とするシシィの前に、シシィのロッドより少し長いロッドが突きつけられる。
石が銀色に光りはじめた。
『往時の絆は我が前に在り 絆は役目を終えたと知る 魔の種は『シシィ・アレモア』 空の名を『闇色ハット』」
そのとき、シシィは確かに見た。
ルウスがさみしそうに。
けれど誇らしそうに、微笑んだのを。
『我が名は『ハウンズ・ドルチェ』 空の名を『ルウス』 我は汝の師として汝の花を認めよう』
――師。
――師匠……!
『円の中で 存分に咲き誇れ』
シシィとルウスの足もとに、魔法陣が現れて、溶けていく。
魔法陣の欠片がシシィの胸に飛んで、銀色の魔力を体中に染み渡らせた。
――ああ、どうしよう。
何故か、嬉しくて涙が止まらなかった。
頭は混乱しているのに、感情だけがやけにはっきりとしている。
嬉しい。
心が躍る。
「あぁ、懐かしい。私も儀式を受けた後はそうでしたね」
「ル、ウス、さん」
「改めて自己紹介しましょうか」
ルウスはへたり込むシシィを立ち上がらせて、微笑んだ。
「私は、貴女の魔術の師と成るためにやってきた、魔術師『ルウス』と申します」
そう言って、ルウスがいつも被っていた闇色の帽子を外した瞬間、シシィはあっ、と声をあげた。
――魔力が。
帽子をかぶっていた時は分からなかったのに、彼が外した瞬間、それは明らかに分かった。
魔力は一般人より高く、開花していることが。
「な、何で……」
「私はもともと、魔術師だったのですよ」
混乱するシシィを落ち着かせるように、ルウスはゆっくりとした口調で話し始めた。
「そしてわたしの師は『パール』。貴女のおばあさまだった。この家で修業しました」
「う……うぇぇえええ!?」
「貴女が1歳になるかならないか、の時期に一度お顔を拝見したこともありますよ」
あまりの展開に、シシィの思考は完全にストップした。
――いや。だって、1歳の頃の記憶って、私はないし!これっておかしい!?
普通の人もないのだが、シシィは混乱していた。
苦笑しながら、ルウスは続ける。
「私は15で弟子入りし、17で師から独り立ちを許されました。そしてそのときに、私は師匠とある約束を交わしていました」
ルウスが目を細めた。
「師匠自身に何かがあったとき、私が貴女を導く師となるように、と」
「……おばあ、ちゃんと」
「彼女は大変思慮深い人でした。自分自身が不慮の事故や病気で、シシィさんの魔力が目覚める前に他界してしまったときのことを考えていたのですよ。この帽子についている『魔力隠し』は『パール』の魔術です」
にやり、とルウスは意地悪く笑う。
「貴女が最初は、魔術師になるのを拒むこともきちんと予想なさっていたようで」
「へ」
「臆病な貴女は自分自身のためには魔術師にならずとも、お人好しの貴女なら困っている人のために魔術師になるだろうと見抜かれていたわけですよ」
つまりそれは。
孤独共存の眠るこの町に、魔術師は必須。
しかし、祖母自身はそろそろ力が衰える。
その孫のシシィは魔力が高く、魔術師に向いている。
祖母は自分自身が何かの事情で、シシィに魔術を教えられなかったときのことを考えて、弟子のルウスに「自分に何かあったらシシィに魔術を教えてやってくれ」と約束を取り付けた。
そしてシシィの性格を考えると、最初から呪いと闘うために魔術師になるとは考えられない。しかし、シシィはお人好しである。
その前に、魔術師を必要としている困った人間――たとえば、犬にされて元に戻れなくて困っている人が現れたらどうだろうか。
結果は――ごらんの通りだ。
「おばあちゃぁぁあああん!!」
――そうか、弟子だったから。
隠し階段が見えたのも、当たり前なのだ。この家で修業したなら、おそらく祖母が見えるようにしていたはずなのだから。
「いや、苦労しましたよ。せっかくシシィさんが魔術師になってくれると言ったのに、ルビーブラッドなぞが出てくるものだから、彼に解かれないように必死に嘘をつきましたからね」
「う、嘘」
「ルビーブラッドにかけられた、というのはもちろん嘘ですよ。この魔術は自分でかけたものです。ですから自分で戻ることも可能ですよ。よく思い起こせば、おかしな点があったでしょう」
それは、シシィのいない間に1人で紅茶を淹れていたり。
お風呂で自分の身体をきれいにしていたり。
――ああ、ございました……!
「さて、細かいことは後にして、貴女にご褒美を差し上げましょう」
「へ……?」
ふ、と美しくルウスは微笑んだ。
「図書館に行って、絵本の本棚の前で『オレンジケーキと闇色ハット』と言ってごらんなさい。きっと、素晴らしいことがあるでしょう」
|