『返し終わったら、俺と――』

 止まったら、あの時のことばかりを思い出しそうになるので、シシィはルビーブラッドが去ってから、魔術の勉強に精を出した。
 Bからの依頼も積極的に受けたし、新しい料理にも挑戦するようにもしたし、色々とこの3週間ほど、精力的に活動してきた。
 そう、3週間。
 ルビーブラッドからの連絡は、未だない。

「うあうあうあうあうあーー」

 訳の分からない恥ずかしさを紛らわすため、奇声を発するとそんな自分が余計恥ずかしくなった。悪循環である。
 シシィは力尽きたように、ぼすん、とリビングのソファに倒れ込んだ。
 行儀悪く、足をバタバタさせて、ピタリと止める。
 そして、またバタバタさせる。
 そんな様子を眺めていたルウスが、ついに我慢の限界とでも言うように口を出した。

「シシィさん。この間からおかしいですよ」
「おかふぃくないへす」

 ソファに顔をうずめたままなので、発音が情けないことになっているが、シシィは構わず反論した。
 自分は決しておかしくない。
 ルビーブラッドが、ちょっと、いつもと違っただけだ。
 ――だって、あんな。
 あんな場所で、あんな時に。あんな意味深なことを言いかけられたら、どうやっても期待してしまうのが、片思い中の人間というモノではないか。
 あの続き。
 ――『付き合ってくれ』だったら、ど、どど、どうし、よう。
 そこまで考えて、シシィはまた足をバタバタさせた。

「にあーにあーにあーにあー」

 ついでに奇声も発する。

「もう、しっかりしてくださいよ、シシィさん。明日はいよいよ、私の魔術薬を作ってもらう日なんですからね!」
「……わかってますよ」

 シシィは顔を横に向けて、ルウスを見つめた。
 ――しっかり、やるに決まってる。
 ルウスは魔術師という道に導いてくれた、一番最初の依頼人なのだ。
 手を抜くはずがない。

「……もうそろそろ、ルウスさんと会って1年が来ますね」
「そうですね。あと1か月もしたら1年です」

 思えば、人生の中で一番濃い1年だったかもしれない。いろんな人と出会い、いろんな出来事を経験し、壁にぶつかって、成長してきた1年だ。
 ――1年前の私より、強くなれたかな……。
 他人から見れば変わらないかもしれないが、自分の中では大きく変わった。以前とは考えられないくらい、心が大きくなった気がするのだ。
 ――でも、さみしくなるな。
 ルウスの魔術を解いたら、依頼は終了。ルウスも普通の生活に戻る。
 今までずっと一緒だった分、お別れはさみしい。

「……そろそろ、材料を取りに行ってきます」

 シシィは壁掛け時計を見ながら、ルウスに告げた。
 現在、2時20分。
 もう家を出なければならない時間だ。
 ルウスの魔術薬に使う材料は、そう珍しいものではないのだが、採る時間が限定されている。
 午後3時から4時の間に採ったものでなければ、魔術薬にならない。
 どうやらその時間帯だけ、微妙に成分が違うらしい。
 向かう場所はクロアの森。何かと魔術に使う材料が揃う森である。

「気をつけていってくださいね」
「大丈夫ですよ」

 心配するルウスに笑顔を見せて、シシィはソファから起きあがった。





********





 ――いい天気。
 雲ひとつない空を見上げながら、シシィは森の中を進む。
 木々を揺らす風は、すでに春風で温かい。少し強めの風に髪の毛を躍らせながら、シシィは森の奥を見つめた。
 まだ目的地は見えない。
 ポケットから地図と方位磁石を取り出して、シシィは方角を確認した。
 今はまだ道のあるところを歩いているが、そのうち獣道を行かなくてはならなくなる。
 そのための、迷わないための装備だ。

「えっと……ここから入るのかな……?」

 よく見ると、草の根が少しかき分けられている。
 場所的にもここのようだし、とシシィが足を踏み入れようとしたとき、背後から声をかけられた。

「――闇色ハット君」

 いきなり呼ばれたワークネームに驚いて背後を振り返ると、そこには同じように驚いた表情で固まるブレックファーストの姿があった。
 先に笑みを見せたのは、やはりブレックファーストの方であった。

「……やぁ、久しぶりだね。どうしたんだい、こんなところで」
「わ、私は魔術薬の材料を取りに……」

 ――ああ、ブレックファーストさん……。
 目を、覆いたくなる。
 彼は一見して分かるほど、痩せていた。目元にうっすらとクマもでき、疲れたような表情だ。最初に会ったときと、全く違う。別人のようだ。
 ――いっそ、別人の方が良い。
 こんなにも弱った彼を見ていられない。
 涙が滲みそうになった。

「ブ、ブレックファーストさん、ご飯、食べてますか……?」
「大丈夫だよ。ちゃんと食べてる……食べてるさ」

 微笑む顔も、どこかさみしげで。
 彼は会うたびに、ボロボロになっていっている。

「あ、あの、また何かBさんに売りに来たんですか?」
「うん?いや……それもあるけれどもね。何とはなく、ぶらりと立ち寄ってみたんだ」

 その言葉にシシィは首を傾げた。
 ブレックファーストにしては珍しい発言だ。いつも彼は復讐相手を追うのに忙しく、来てもすぐに旅立ってしまうような人だったのに、そんな悠長なことを言うなどと。

「――目的がなくなってしまってね」

 シシィは、絶句した。
 ――そんな。
 ブレックファーストの言葉の意味は、『復讐をやり遂げた』ということだ。
 終わってしまった。
 彼は目標を失ってしまったのだ。
 ブレックファーストは宙を見つめながら、つぶやいた。

「喜ばしいはずなのに、何故だろう。復讐をやり遂げるたびに、何か穴が開いていくような気持ちで……今は、空しさしかない」
「ブレックファーストさん……」
「……魔術薬の材料を探してるんだったっけ?私も手伝おうか。暇だしね」

 パッ、と、沈んだ空気を明るくするように、彼は言った。

「何の魔術薬を作るんだい?」
「あ、えっと……前に話しましたよね?ルウスさんの、解除薬を」
「おっと、そんなところまでもういったんだ。上達が早いなぁ」

 そうなのだろうか、とシシィは内心首を傾げた。周りに魔術師見習はいなかったのでどうにも比較ができない。
 が、ブレックファーストは優しい人なので、おそらくはお世辞だろう。
 シシィは曖昧に微笑んで、森の奥を指した。

「あっちのほうにあるんです。この魔術薬を作るために、頑張ってきました」
「そうだねぇ、君は私と会った当初、かなり悩んでたからね」
「そうですね……そもそも、謎が多すぎるんですよ、ルウスさんに。初めて会ったときはびっくりしましたよ、『レイモルルさんはいらっしゃいますか』なんて……」
「――レイモルル?」

 ブレックファーストの表情が訝しげなものに変わったところで。
 シシィは顔を真っ青にするほどの失態に気付いた。
 ――おばあちゃんの本名を、言っちゃった……!
 唇を震わすシシィに気付き、慌ててブレックファーストがフォローする。

「いや、亡くなった魔術師の本名は知っても平気なんだ。何の影響もない……生きているうちに知られなければいいんだ」
「そ、そうなんですか」

 しかし安堵するシシィとは逆に、ブレックファーストの表情は硬くなる。

「……ルウス、という人物は『レイモルル』と確かに言ったんだね?」
「は、はい。だから私は、おばあちゃんのことだってすぐに分かったんです」
「それは、おかしい」

 ――え?
 風が吹いて、木々がざわつく。
 耳鳴りが聞こえる。

「もし、そうやって言われたなら……彼がパールを頼ってくるはずがない(・・・・・・・・・・・・・・・・)

 意味が、分からない。
 混乱するシシィに、ブレックファーストは諭すように話す。

「魔術師が魔術師に本名を知られてはいけないように、魔術師が依頼人に本名を知(・・・・・・・・・・・・)られてもいけない(・・・・・・・・)んだ」
「な、え……?な、何故」
「依頼人に本名を知られると、魔術が効かなくなる。そういうハンデを負ってるんだ」
「でも、その人が魔術師になる前から、本名を知っていたら大丈夫なんじゃ……」
「それもあるけれど、そういう場合は特別な儀式が必要だし、ルウスという人物がパールが魔術師になる前から知り合いだったと思い当たる節は?」

 シシィは首を横に振った。
 知らない。
 そんなルールも、何も。
 何も、ルウスはそんなことは言っていない。
 ――ああ、たぶん、そうだ。ルウスさん、も、知らなかったんだ……!
 けれど、ど頭の中で声がする。
 魔術師が魔術師に本名を知られてはいけないと、教えてくれたのはルウスだったのではないか。
 その彼が、このことを知らないことがあり得るのか。

「なんで……なんで……?」

 ぐるぐると頭が回る。
 混乱する。
 思い起こせば、おかしなところはまだあった。
 ルビーブラッドに、犬になれる魔術薬を作ってもらうとき、自宅に上がってもらったが彼は奥の階段が見えていなかった(・・・・・・・・)
 けれど、ルウスは。

『ルルルルルルルルウスさん!かかかっ階段があります!!』
『いや、あるでしょう』
『ないですよ!い、今までこんなところに階段なんてなかったです!!』

 見えていた(・・・・・)
 何者なのか、彼は。
 ――違う。
 何が目的なのか(・・・・・・・)
 ブレックファーストの言う通りなら、シシィが魔術薬を作っても、効くはずがない。そういう儀式をした覚えなどないからだ。
 なのに、何故ルウスはシシィの下で魔術薬を待っているのか。

「ルウスさんは……何が、目的で……」

 不安から、シシィがアンティークキーを握りしめようとした瞬間。
 ぷつりと、鎖が切れてアンティークキーと、一緒に通していたアステールの指輪が地面に転がり落ちた。
 きらり、とアステールが瞬く。
 ブレックファーストが、息を呑んだ。

「や、闇色ハット君……その、アステールは……」
「あ、ああ、えぇ。これは、人から貰ったモノ、で……」

 呆然としながら答えるシシィに、ブレックファーストは焦ったようにシシィの肩をつかみ詰め寄った。

「まさか……ありえない!こんなにも輝くアステールは……っ」
「これ、は、ルビーブラッドさんから貰った……」

 あまりの剣幕に、シシィは体を強張らせながら答えた。
 ルビーブラッドの名を聞いたブレックファーストは、一瞬目を見開き、視線を泳がせたあと、地面に落ちたアステールに視線を合わせたまま口を開いた。

「……間違っていたら、教えてくれ。もしや、ルビーブラッドは、緑の髪で、鋭い目つきの赤い瞳、身長は高い……」
「そ、そうです」
「正義感が強くて、不器用で、優しいくせに厳しい……」

 ――え?
 足から力が抜けそうになる。もう、訳が分からない。
 何故、話もしたことがないのにそんなことが分かるのか――。

「――オレンジケーキの好きな、男じゃないか……?」

 シシィは、酷く混乱しながらもこくりと頷いた。

「あぁ……何てことだ……何てことだ!!」

 ブレックファーストはシシィから離れ、手で顔を覆った。
 声は震えていて、手の隙間から光るものがこぼれ落ちる。
 ――泣いて、る?

「ルビーブラッド……ルビーブラッド!!君は、そうか、夢を果たしたんだな……!こんなにも、嬉しい日があるだろうか……っ!」
「ブレック……ファーストさん……?」

 シシィの呼びかけに、ブレックファーストは顔をあげた。
 瞳が、輝いている。
 彼の心は――少年時代に戻っていた。

「ルビーブラッドは、私の親友だ」