その夜、シシィは泣きどおしだった。
 時計台から降りた後、まず真っ先にルウスに会いに行き、無事であることを確かめて泣き、B、ヴィトランの安否確認して同じく泣き、最後に図書館で待っていた少年と泣いた。
 目を真っ赤にはらして、まぶたが持ち上げられなくなったシシィは、ルウスに勧められるがままベッドに入った。
 うとうとしているうちに、ルビーブラッドといつの間にかはぐれていたことに気が付く。
 ルウスの安否を確認しに行ったときには、すでにいなかった。
 ――もしかして、町の様子を見て回ってるんじゃ……。
 それなら自分も行かなくては、と思うのだが、体が重くて、意識も朦朧とし、シシィは結局そのまま眠りについてしまった。





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 カーテンの隙間から届く太陽の光で、シシィは目を覚ました。
 ぼんやりと、枕もとの時計に目をやると、すでに12時を回っていた。
 大変な寝坊である。
 ギシギシと痛む体に鞭を打ち上半身を起こすと、ちょうどドアが開いてルウスが姿を現した。

「起きられましたか」
「ルウス、さん……」

 目をこすっていると、ルウスはベッドのふちに前足をかけた。

「Bさんが来てますよ」
「Bさんが……?ああ、そうだ、町の様子を見に行かなくちゃ……」
「おそらくそのことでしょう。彼女はリビングにいますから、支度ができたら来てください。……なるべく早くお願いします」

 よくよく見ると、ルウスの毛並みが少し乱れていた。おそらくBに撫でまわされた後なのだろう。シシィは笑いながら「はい」と答えた。

「――すみません、おまたせして」

 身支度を整えてリビングに行くと、ソファに座ってBがルウスと戯れていた。

「いいのよ。こちらこそ疲れているでしょうに、ごめんなさいね」

 シシィは首を横に振りながら、Bと対面するようにして座った。
 ――ああ、そうだ。お茶を出さなきゃ。
 立ち上がろうとすると、それをBが制した。

「気を使わないで、報告だけだから」
「報告……」
「結論から言うと、今回犠牲者は出ていないわ。ただ、一部の人に記憶の混乱が見られるけれど……規模にすれば、死人が出なかっただけ素晴らしいことだわ」

 ――完璧、とまではいかなかった……。
 けれど、Bの言うとおり死者が出ていない分まだマシというものだろう。祖母の時ですら死者は出た。それに比べれば、被害は少ないと言える。
 とりあえず、そのことには安堵することにして、まだもう一つ問題が残っていた。
 Bが鋭く、そのことについて話を始めた。

「――封印した孤独共存の呪いは、どうやって管理するつもり?」

 そのことが、当座の問題だった。
 今は寝室に置いてあるが、しかるべきところで管理するべきだ。二度と悪用されないために。
 だからと言って貸金庫などに預けても意味はないし、シシィの現在の魔術レベルでは悪意から呪いを守り切れる自信がない。
 せめて、魔術の勉強が終わっていればよかったが、まだあと少し勉強しなければならないことが残っている。
 ――後は、少しの魔術とルウスさんの魔術の解呪だけなのに……。
 ルビーブラッドに預ける手もあるが、世界中を飛び回る彼に預けるというのも少し不安なところがある。

「実はね、ブラック・フィンガーから連絡があったのよ」
「ブラック・フィンガーさんからですか?」
「耳の早いことね、あの子。貴女が封印した孤独共存の呪いが欲しいそうよ」

 さすが、呪いコレクター。
 シシィは絶句したが、頭の中ではそれも確かにありかもしれない、と声がしていた。
 何せ、オンディーナの呪いを制御できるほどの実力を持つ、対呪いについてのスペシャリスト。
 彼ほど、呪いを管理するのに向いている人物もいないのではないだろうか。

「……確かに、その案もありですね」
「自分が使うことはないかしら」
「おそらく……それは、ないと思います」

 悪意に敏感なオンディーナが、かなりの信頼を置いていた人物だ。そういう方面で呪いを使うことはないだろう。
 彼は単純に、呪いをコレクションしているだけの人物のようだ。

「私は構いませんが、これはルビーブラッドさんにも聞いてみないと」
「そうねぇ。彼はまだ、この町にいるの?」
「ちょっと、待ってください……」

 魔力を探ってみると、まだこの町にいることは確認できた。
 ゆっくりと移動している感じからして、町の様子を見て回っているようだ。

「いるみたい、ですね。今からちょっと聞いてきます」
「まだ、ゆっくりしていいのよ?」
「いえ……早く会わないと、ルビーブラッドさんが町から離れてしまいます」

 何せ彼は忙しい人だ。
 Bはため息をつきながら、「忙しないわねぇ」とルウスを抱きしめた。ルウスはカチリと固まり、視線だけで「置いていくのか」と訴えかけているようだったが――シシィは視線を逸らした。あえて。
 ――い、行かなくちゃ、いけないし、ね?
 自分に言い訳しながら、シシィは立ち上がり、家をあとにした。





********





 昨日の不思議な出来事について、町では噂が噂を呼んでいた。
 やれ、おかしなガスのせいだと。
 やれ、街全体が神隠しにあったのだと。
 やれ、妖精に化かされていたのだと。
 町を襲った怪奇現象は、新聞をにぎわし、町中をざわつかせている。この影響で学校までも休みになったらしい。
 ――こればっかりは、どうしようもないかな。
 シシィは苦笑しながら、町の人々の話に聞き耳を立てた。
 時間の流れだけは、どうやっても修正できない。時を止められるのは、命を持たないモノだけ、と魔術でも決められている。

「……たぶんこの辺のはずなんだけど」

 思いがけず休校になったおかげで、遊びまわる学生の姿が多い。つまりいつもより人が多いので、なかなか目的の人物を探し当てることができない。
 しかし、ルビーブラッドは背が高いので、他の人よりは見つけやすいはずだ。
 と、思ったところで、後ろから肩を叩かれた。

「どうした、シシィ」
「ルビーブラッドさん!」

 しかしすぐ、人ごみに流されそうになって、慌ててルビーブラッドがシシィの腕をつかんだ。

「空いているところに移動するぞ」
「は……はい」

 ――う、うう、うわぁ、どうしよう!
 つかまれた腕から、熱が上ってくるようだ。シシィは頬を赤くさせながら、先行くルビーブラッドの背中を見つめた。
 ――今さらながら、緊張する……。
 今までずっと一緒にいたが、それは張りつめた緊張感の中でのことであったし、呪いのことに気をとられていたため、そう意識はしなかったが、改めて姿を見ると、やはり実感せずにはいられない。

「……好きだなぁ」
「何がだ?」

 前を向いていたはずのルビーブラッドと視線が合って、シシィは目を丸くした。
 ――え。も、もしかして、私。
 固まるシシィに、ルビーブラッドは首を傾げる。

「何が好きだと」
「うえぇぇぇぁぁぁあああっ!」

 ――くっ、くくく、口に出した!?

「あああぁああ、あれですっ!あれですそれです!あの……あれです!」
「いや……わからん」
「おおおオレンジケーキですか!」
「何故訊く?……俺がまだオレンジケーキが好きかと訊きたいのか?」
「そ、そのような方針で!!」

 自分でも何を言っているのか分からない。のにもかかわらず、ルビーブラッドは律義にも「まだ好きだが」と答えをくれた。
 ――良かった!ルビーブラッドさんが勘の鋭い人じゃなくて本当に良かった!
 一気に嫌な汗をかいたシシィは、ルビーブラッドがようやく前を向いたところで、ほっとため息をついた。
 そうこうしている間に、先ほどより人ごみが少なくなってきた。

「あ、ああの、ルビーブラッドさんはちゃんと休まれましたか?」
「不覚にもな。仮眠だけのつもりが、時計台から下りた後眠気に勝てず、一時間ほど前まで眠りこけていた」

 ――すみません。ついさっきまで寝こけてました。
 シシィはがっくりと、情けなさでうなだれた。

「とりあえず、町にマネキンは落ちていなかった。死者は出なかったようだ」
「みたい、ですね」

 先ほどから歩いていても、マネキンが落ちているのは見ていない。
 Bの報告は正しかった、と自分の目でも確認できて、シシィはやっと心が穏やかになれた。
 ――って、いや、そうじゃなくて。
 本題を忘れるところだった。

「呪いの管理についてなんですが……ブラック・フィンガーさんにお願いしてみようかと思うんです」
「ブラック・フィンガーに?」
「ブラック・フィンガーさんは呪いをコレクションしていますし、管理の方法も間違えないと思うんです。私が持っているよりは、悪用される危険性が少ないと思います」

 ルビーブラッドは立ち止まり、黙り込んだ。どうやら思案しているらしい。
 ――そういえば、船の上では会ってないんだっけ。
 もしかしたら面識はあるのかもしれないが、この巨大な呪いを任せるとなると信頼のおける人物でなくてはならない。
 シシィは信頼しているのだが、ルビーブラッドはどうなのか。

「……そうだな。ブラック・フィンガーが呪いを使ったという話も聞かん。それにあの呪いは、利用しようがないほど凶悪だからな……」
「いいんですか?」
「ああ」

 これでとりあえず、話はまとまった。
 どうやって相手に送るか、いつ引き渡すか、などはBに相談すれば力になってくれるだろう。

「用件、はそれだけ……」

 何故か不自然にルビーブラッドの言葉が途中で途切れた。
 しかも、顔が青い。
 もはや生気のないルビーブラッドの視線を追って、シシィが振り向くと、そこにはとても美しい――ヴィトランの姿があった。

「何てことだ……クロッカスとスミラックスの再来!ああ、君たちがいるだけでこの空間は名画の如く輝かしくも神々しい場所へと変わりゆく!アンビリーバボー!僕としたことが、君たちのその輝きに目を奪わ」

 ヴィトランの話の途中だが、シシィとルビーブラッドはお互い合図もなく、けれど同時に走り出した。もちろん、本気で。
 あのハイテンションなヴィトランに付き合っていたら、とんでもないことに巻き込まれそうで怖い。
 というか、とんでもないことを、作る、のがヴィトランである。

「ああっ、待ちたまえ!そうか、僕と愛の逃避行をしたいんだね!」
「………………」
「ルビーブラッドさん、抑えて!抑えてください!ここは街中で、人目ががありますか
ら抑えてくださいっ!」
「あーい、らーぶ、ゆー!」

 そしてヴィトランは、もう少し空気を読んでほしい。いや、そこまで高望みはしないので、黙ってほしかった。
 痛む体に鞭を打ちながら、シシィはちょっとだけ涙した。





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 にじんだ汗を拭う力すらない。
 シシィとルビーブラッドは、オレンジ色の夕日が町を染める中、時計台の屋根の上に息を切らせて転がっていた。

「あ……いつ、の、体力は、どうなって、いるん、だ」

 あのルビーブラッドですら、疲労させるほどヴィトランはついてきた。その追いかけまわされていた時間は、ゆうに3時間は超えている。
 シシィはわき腹と肺が痛くて、しゃべることすらままならない。
 3時間以上の追いかけっこの結果、ついにブチギレたルビーブラッドが裏路地へと逃げ込み、素早く魔導を発動させて、この時計台の上まで逃げてきたのである。
 もっと早くこうすれば良かった、と思うが、ここまで長い鬼ごっこになるとは思わなかったのである。
 ――ヴィトランさんは、あらゆる意味で常識外、だ……。

「……シシィ。生きているか」
「生き、て、ます……」

 ようやっと、声が出た。
 そのあたりルビーブラッドはさすがで、もうすでに呼吸は落ち着いている。

「お腹、空きました……」
「そうだな……オレンジケーキを食いたい……」

 夕日がオレンジ色だから、そんなことを思い出したのだろうか。
 ――そういえば、オレンジケーキを作ります、って言ったのに、食べてもらってない。
 ルビーブラッドと会うと、必ず何か事件に巻き込まれて、有耶無耶になってしまう。彼はまだしばらく、この町にとどまるのだろうか。
 ――それなら、オレンジケーキを作りたいな……。
 ルビーブラッドが起き上がるのを見ながらそんなことを思っていると、低い声がそよ風と一緒に流れてきた。

「……久々に、帰るか」
「……帰るって、どこへですか?」

 シシィも体を起こしながら尋ねると、ルビーブラッドは夕日を見つめながら答えた。

「実家へ」
「お、お家、ですか!というか、どれくらい帰ってないんですか?」

 彼はしばらく悩んだあげく。

「…………2年、ほどか」
「帰りましょう!お家の方、心配なさってます!」

 シシィの家では考えられないことだ。2年も顔を出さない前に、絶対3か月ごとに両親が図書館の方へやってくるに決まっている。
 そうして、泣きつくに決まっているのだ。
「お母さんが嫌いになったの!?」と。
 その光景、目に浮かぶようだ。

「そうだな……近々帰ってみるか……」

 ――あ……。
 その横顔が、何故か遠く感じられて。
 シシィは思わず――ルビーブラッドの腕に触れた。
 驚いたように視線がこちらに移るのを感じて、シシィは一瞬固まった後、激しい後悔に襲われた。
 この後、どうすればいいのか。
 いまさら手をどけることはできないし、視線を外すこともできない。けれどこのままの状態でいるのは、心臓に悪すぎる。
赤い瞳が、揺れることなく自分を見つめている。
 ――違う、揺れて、る?
 しかしそれは、自分が動揺しているからそう見えるだけなのか。

「――シシィ。もうすぐ、借金が全て返せる」
「……え、え?」

 真剣で、どこか不安そうなルビーブラッドの表情に、シシィも呑まれる。
 心臓の音がうるさい。
 ――何、この、空気は……。
 緊張感があるのに、どこか、甘い。

「返し終わったら、俺と――」

 ビリリリリリリリリリ。

「っ!」
「ひきゃあ!」

 奇怪な音に、双方驚いて思わず距離を取る。2,3秒ほど、2人は音の出どころを探し、それがルビーブラッドのウエストポーチから鳴っていることに気がついた。
 ルビーブラッドが一辺1センチほどしかない黒い箱を取り出し、ため息をつく。

「仕事だ。ここから1人で帰れるか?」
「う……あ、え?あ、は、はい」

 顔を真っ赤にさせて、シシィは頷いた。
 ここからならロッドを召喚し、図書館まで空間転移魔術で帰れる。

「……この仕事が終わったら、またこの町に来る。話は、その時に」

 シシィが頷く前に、ルビーブラッドは『イオス』を唱えて、目の前から姿を消した。
 残されたのは、夕日と同じくらい頬を赤くしたシシィ。
 ――ちょっと、待って。落ち着こう。落ち着こう、私。
 ぐるぐると回る頭を静めるため、シシィは自分の頭を抱えた。
 ――違う、絶対違う、いつものルビーブラッドさんじゃなかった!
 もしや偽者か、と思うが、それが現実的でないことは重々承知だ。ありえない。
 結局シシィは、熱を持った頭を抱えて、夕日を眺めるしかなかった。