意識が浮上するとともに、肌寒いことに気がついた。
 布団を蹴とばして寝てしまったのだろうか、と思いながらシシィは布団を手繰り寄せようとしたが、布団が見つからない。
 そこでようやく、ここが図書館であることを思い出した。

「――っ!」

 飛び起きて、窓の外を見るともう黒い呪いが外を覆っている。
 ――今、何時?ルビーブラッドさんは……!!
 まさか1人で行ったのでは、と図書館内を見渡すと窓に寄りかかるようにしてルビーブラッドが眠っているのを見つけた。
 安堵のため息をついて、シシィはルビーブラッドの傍へ近寄った。
 彼は手に、紙を持っている。
 難しい計算式と、シシィには良く分からない言語のメモ。しかも言語は何種類もあるようだ。
 ――外国語?
 と思われるが、全く分からない。何種類かは見た事のある言語であったが、その他は全く知らないものだ。
 ――ルビーブラッドさんって、外国語が使えるんだ……。

「――起きたのか」

 いきなり振ってきた声に驚いて、シシィがルビーブラッドの顔を見つめたまま固まっていると、彼は不思議そうな表情を見せて、手に持っているメモに視線を落とした。
 そして、「しまった」という表情を浮かばせた。

「△△△△△?」
「……はい?」
「……○○○○○?」

 ――何を言ってるのか分かんない。
 と、そこでシシィは慌てて訂正した。

「い、一番最初の言語で合ってます!」
「……いかん。久々に多様な言語を使いすぎて、混乱した……」

 つまり、寝ぼけたと。

「……ルビーブラッドさんの母国語って、どれなんですか」
「…………いや」

 珍しく視線を泳がすルビーブラッドを見て、シシィは首を傾げたが、すぐさま血の気が引いた。
 ――ああ、しまった。多分、訊いちゃダメなことだったんだ。
 これ以上困らせないために、とりあえず話を本来の方向へと戻す。

「魔法陣と魔術の調整は上手くいきましたか?」
「理論上はこれでいいはずだ」

 と言いつつ、ルビーブラッドは再び手元のメモに視線を落とす。シシィは見ても分からないので、とりあえず頷いておいた。

「……もう、10時だ。そろそろ準備しよう」
「あ……はい」

 もうそんな時間だったのか、と驚くシシィを置いて、ルビーブラッドは聖水から瓶とアステールを取り出した。
 ――う、消毒液臭い。
 傷に浸された時の痛みも思い出されるようで、シシィは思わず顔をしかめた。
 しかし聖水に漬けておいた効果は如実に表れており、瓶とアステールは美しい空気をまといながら、輝いていた。
 さらにルビーブラッドは、懐からハンカチを取り出し、それを浸したあと地下収納のふたを閉めた。そしてその足で、少年のもとへ向かう。ルビーブラッドが少年の額に手を触れると、彼はまつ毛を震わせながら目を覚ました。

「協力してもらいたい」

 目を瞬かせる少年から視線を外し、ルビーブラッドはシシィに視線を送る。それが「こちらへ来てほしい」との意味であるということに気付いたシシィは、大人しく従った。
 3人がそろったところで、ルビーブラッドは小さなナイフを取り出した。
 聖水に浸した瓶の中にアステールを入れて、彼は机の上にそれを置く。
 そして自分の指をハンカチで拭い――ナイフで指先を切った。

「ルビーブラッドさん!?」
「封印には血が必要だ。忘れたのか」

 傷口に血を送るようにして指をさすった後、瓶の中に血を一滴垂らす。アステールが血に濡れた。
 それを確かめた後、ルビーブラッドはナイフとハンカチをシシィに渡す。
 渡されたはいいが――案外、自分を傷つけるというのは勇気のいることである。
 小説などでは簡単に指先なんかを切ったりして血を出しているが、アレを実際にやろうと思うとなかなかできない。痛い、という想像が必ず壁となる。
 躊躇するシシィを見かねたのか、ルビーブラッドが口を出した。

「……後で治してやるから、心配するな」
「だっ、大丈夫、です」

 傷跡が残るとかいう心配をしているのではない。痛いのが怖い。
 だがここでごねるわけにもいかず、シシィはハンカチで指を拭った後、

「なっ、やめ!」

 目を見開くルビーブラッドが止めるのも構わず、思い切ってナイフを横に滑らせた。

「〜〜〜〜っ!!」

 思い切りが良すぎて、だくだくと血が出てしまっている。
 とりあえず血を瓶の中に垂らしたあと、ルビーブラッドが憤慨と呆れを入り交えながら『ジャッロ』で治してくれた。

「……頼むから、もう少し加減と言うモノを覚えてくれ。見ろ、完全に怯えてしまった」

 ルビーブラッドの視線に促されて見ると、確かに少年の顔色が青い。この上なく。
 結局少年はルビーブラッドに指を切ってもらった後で、彼に傷跡を治してもらった。
 指先を切る前に、少年とルビーブラッドの間に静かなる攻防戦があったのは言うまでもない。

「――これから、呪いを封印しに行く」

 準備が整うと、ルビーブラッドは静かに少年に語りかけた。

「一度、俺達は森に移動する。ここの防衛魔術は、少しでも負担を軽くするため解いていくつもりだ。お前はどうする、一緒に森まで来るか」

 おそらく、少年は媒介者であるため呪いは襲ってこないだろう。しかし、こんなところに1人では心細いだろうという配慮だったのだろうが、少年は少し間を開けた後、首を振った。

「……僕を追って、呪いが森にまで行っちゃったら大変だから」
「そうか」

 確かに、そういう問題もある。
 普通なら、この少年を連れていくことはないだろう。危険が増すからだ。
 けれどそれがルビーブラッドの――。

「お姉さん」

 ロビーへと歩いていくルビーブラッドの背中を見ながら、シシィは少年の小さな声に耳を傾けた。

「僕、最初はあの人が怖かった。けど、本当はあの人、優しい人なんだね……」

 シシィは答える代りに、少年を強く抱きしめた。
 ――どうしてだろう。
 シシィにとっては当たり前のことなのに、誰かにルビーブラッドのことをそう言われると、涙が出るほどうれしかった。

「――ごめんね……みんなを、助けて……!」
「助けるよ。必ず」

 勇気をもらえた気がした。





********





「――呪文は、覚えたか」
「はい」

 町を眼下に見下ろしながら、シシィは背後にいるルビーブラッドに答えた。
 町を黒い霧が覆っている。あの中にいたときには気付かなかったが、空はよく晴れていて、月と星が輝いていた。
 木々が風でざわめく。シシィの心臓も、それに同調するようにざわめいた。

「『風の雫』の威力を強めるために、使用は呪いの上空にする。量があれば時計台の上からでも十分だったが……この量では町中の呪いを集められない」

 シシィは振り向いて、首を傾げる。

「……じゃあ、空を飛ぶってことですか?飛べるもの、なんですか?」

 ルビーブラッドは首を振った。
 ありえない、というように。

「飛べるとしたら、魔法使いで精霊に愛されている者だけだ。それほどまでに風を操るのは難しい。正確には、俺達は落ちていくだけだ(・・・・・・・・)
「落ち……!?」
「もちろん風で、落ちる速度を遅くはする。が、危険な行為だ」

 ふわりと、オレンジの香りがした。
 抱きしめられた、と思うよりも早く、肩に乗っけられる。

「――1つ間違えば死ぬ。逃げ出すなら今だ」
「ルビーブラッドさんを信じてます」

 バランスを崩さないように、ルビーブラッドの頭にしがみつく。
 それを確認してから、彼は一度深呼吸をし、

『イオス 誇り高き二藍(ふたあい)のかわひらこよ 妖艶な羽と神秘の羽 我は奇怪の扉を開く者 浮き世に囚われず汝の力を望む 』

 と、唱えた。
 一瞬浮くような感覚を覚えた後――風がシシィの頬を叩きつける。
 いつもの風より澄んだような風。
 それは間違いなく、上空の強い風だった。
 遥か下に、黒い霧が見えた。

「シシィ、『風の雫』をこぼせ!」

 近くで叫ばれているのに、遠くで話しかけられているようにしか聞こえない。シシィは一瞬間を開けた後、言葉を理解して左手に持っていた『風の雫』をこぼした。
 雫は風をまとい、その風がさらに風をまとい――大きくなっていく。
 黒い霧が吸い寄せられていく。
 まるで竜巻を上空から見ているようだった。

『ベルデ 馥郁(ふくいく)の疾走者深緑の(ひわ)よ 流るる緑と (ゼロ)の道 我は汝の気ままと自由を求める者 鋭利と飛揚 汝の力を見せよ』

 ふわり、と落ちていく速度が緩くなって――再び速くなる。

「くっ……!」

 ルビーブラッドの手に汗がにじむ。呪いを集めるには、上空の、呪いに侵されていない強い風を味方にしなければならない。
 だからこそ、少しでも長く上空に留まらなければいけないのだが、コントロールは難しい。
 ルビーブラッドのロッドが光り、速度が遅くなる。
 安堵する前に、シシィは封印の瓶のふたを開けた。
 ――さぁ、分かるでしょう。
 黒い霧の注意が、一気にシシィの持つ瓶に向いた気がした。この瓶に、血が入っていることを嗅ぎつけたのだ。
 黒い霧どころか、地面に吸いこまれるようにして隠れていたはずの白い霧ですら、姿を現す。同時にギィィ、という不快な音が町中に鳴り響いた。
 あれは――悲鳴だ。
 月の光を浴びて、白い霧はダメージを負っている。しかしよほど血が魅力的なのか、
 瓶に惹かれるように上空へと立ち昇り、風に巻き込まれていく。
 背筋が張りつめる感覚。
 一瞬たりとも気が抜けない。
 ――まだ、だ。
 封印の呪文を唱えるのはタイミングが重要だ。呪いが集まりきってからでなくては封印しても意味がない。けれど、もたもたしていると――。
 ルビーブラッドも険しい表情で、「そのとき」を見極めようとしていた。
 呪いを混ぜた風の渦が、シシィ達に接近する。
 ――巻き込まれる。
 シシィは瓶と、小脇に抱えていたロッドを握りしめた。

『永劫の――』
「待て!まだだ!」
「でも、ルビーブラッドさん、このままでは……っ!」

 呪いの塊と、風の塊。
 その2つにぶつかって、無事でいられるわけはない。

「必ず、守る。だから信じてくれ」

 シシィを支えるルビーブラッドの左手に、力がこもる。
 たったそれだけのことなのに。
 ――どうして、こんなにも頼もしく感じるんだろう。
 シシィは一度瞬きをして、口を固く結んだ。
 どんどん風の渦は近づいてくる。
 ルビーブラッドはまだ合図を出さない。

「……まだか…っ」

 ルビーブラッド自身も焦っているように見えた。おそらく、風の雫が少ないせいで呪いを集める力に影響が出ているのだろう。自然の風の力を借りても、まだ危うい。
 瞬間、シシィは自分を支えるルビーブラッドの左手に違和感を感じて、素早く彼の頭にしがみついた。その行動に、ルビーブラッドが慌てる。

「シシィ……離せ。大丈夫だ」
「ダメです!私だって戦います!」

 ――私の身体を自分の体で覆って、守る気なんだ!
 万が一のときのために、体勢を変えるつもりだったルビーブラッドの思惑を察知した
 シシィは、強くルビーブラッドの頭にしがみついた。
 自分だけ守られたくない。
 ――私は、魔術師なんだから……!
 そう思ったとき、シシィの目に白の切れ目が映った。
 視認したと同時に、ルビーブラッドが叫ぶ。

「今だ!」

 シシィは――ロッドにありったけの魔力を注いだ。

『永劫の闇 永劫の光 刹那の断絶に歓喜はあれど嘆きはなく 汝は静穏(せいおん)(しとね)に包まれる 無限を見よ 陽炎(かげろう)を見よ 揺らぎの信号は無であり有であり 二極の意味を成すだろう 散り落ちた花弁が還るとき 汝もまた百夜へ還る (から)(つるぎ) (うつ)ろの盾 汝の持つモノ全て虚構なり 永遠の前の片時に 光と闇の眠りにつけ』

 ロッドが震えている。自分が震えているのではなく、シシィの魔力を限界まで受けているロッドが、悲鳴を上げているのだ。
 ――もう少しだけ、お願い、耐えて!

『瞬け ティセランゲニウス!』

 最初、それが『音』なのだと気付かなかった。
 一瞬遅れて、シシィとルビーブラッドは鼓膜を突き破りそうなほどの風の音を理解した。
 ――息が……!
 風が強すぎて、呼吸ができない。それでもシシィは、懸命に封印の瓶を持っている
 手を宙へ突き出した。
 黒い霧が圧縮されるように瓶の中に吸い込まれていき、その瓶の中では稲妻が奔っている。時折、バチッという音もした。
 ――どうか、お願い!
 もう自分に魔力は残っていない。なのに、まだ白い霧が残っている。
 まだ、瓶の中に封印されていない。
 ルビーブラッドが力の入らないシシィを肩から下ろし、仰向けになって抱きしめる。
 その刹那、遠ざかっていく白い霧を目に映した。
 風の渦の勢いが――弱くなっている。
 自分たちは息ができないほどなのに、呪いにとっては逃げられそうなほど弱い。
 ――逃げられる……!
 とっさにシシィは自分の指を噛み、血を流した。

「シシィ……!」
「逃がさ、ない……来なさい、孤独共存の呪い!」

 シシィの血の匂いに惹かれるように、遠ざかっていた白い呪いが一斉に下りてくる。
 封印の小瓶を掲げると、白い霧は吸い寄せられていった。
 途端に、風の勢いが無くなる。
 ――渦の領域を抜けてしまった。

「呪い……はっ」

 ルビーブラッドが仰向けになって落ちているので、抱きしめられているシシィは上空の様子が分からない。

「ふたを閉めろ!封印した!」
「封印……」
「封印したんだシシィ!閉めろ!」

 コルク栓を、ねじ込む。
 瓶の中で、灰色の霧がぐるぐると渦巻いていた。
 しかし喜ぶ間もなく、シシィの目に飛んでもない光景が映った。
 ――町が、近い!
 この落下速度で落ちたら、大怪我どころではすまないのは確実だ。

『ベルデ 馥郁(ふくいく)の疾走者深緑の(ひわ)よ 流るる緑と(ゼロ)の道 我は汝の気ままと自由を求める者 鋭利と飛揚 汝の力を見せよ』

 ルビーブラッドが呪文を唱えるが、速度は変わらない。
 どうしよう、と瓶を握りしめたとき、ぼふん、という音とともに落下速度が落ちたのを感じた。
 ――クッション、みたいな……。
 その間隔は一定で必ずあり、その度に速度は落ちていく。
 どうやらルビーブラッドは風をコントロールするのではなく、風でクッションを作り出したようだ。
 最後のクッションを鈍い音で突き抜けて、シシィとルビーブラッドは時計台の屋根の上に転がり落ちた。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」

 自分の乱れた呼吸しか聞こえないほどの静けさが――ざわめきに変わる。

「何だ?」
「あら、私どうしてこんなところに……」
「真っ暗だよー」

 ――声が、戻った。
 町の、音だ。
 ――封印、したん、だ……封印出来た!
 シシィは体を起こし、隣に転がるルビーブラッドを見つめた。
 彼は、微笑んでいた。

「言っただろう……」
「え?」
「祖母を超える魔術師に、なれると……」

 目から熱いものが零れた。

「……また、泣く」
「うっ、だって……っ」

 その言葉を覚えていてくれているとは、思わなかったから。
 滅多に見せない微笑みを見せてくれたから。
 生きて帰ってこれたから。
 祖母に恥じない行いが出来たから。
 その全てが嬉しくて、涙が勝手に出てくるのだ。
 ルビーブラッドは微苦笑しながら、シシィの頬に手を触れた。

「悪いが……下りるのは待ってくれ……少し眠らせ……」

 目が緩やかに閉じられて、ルビーブラッドは穏やかな寝息を立てる。
 シシィはその穏やかな寝顔を見つめながら、自分の頬に触れる大きな手をそっと握った。