霧がかる町の中。
シシィと目が合った少年は、息をのんだ様子だった。
しんと静まり返った町の中、一瞬だけだったが時間さえも止まった気がした。それだけ、シシィにとっては予想外であり、衝撃的な出来事だったのだ。
――まだ、生きてる。
冷たい、死の気配さえする町の中で、体温のある生き物がこれだけあたたかく見えるものだとは知らなかった。
シシィは涙をこぼしそうになりながら少年に近づこうとしたが、すぐさま背後の獅子の気配に気がついた。
――そうだ、ぼんやりしてる場合じゃない!
「ぎみ……ッゴホッ!ゴホッ!」
声をかけようとしたが、声にならない。声とも言えない雑音がシシィののどをすべって出ていく。
しかしそれでも少年はシシィの呼びかけに反応し。
彼は走りだした。
シシィ、ではなくその逆に向かって。
――え?
その行動の意味を、シシィは読みとることができなかった。
「まっ……!」
呼びとめたいのに、呼びとめられない。
少年は遠くなって。
背後に呪いが迫り。
白い霧が再び周りを覆いつくしはじめる。
――何も見えない……!
なのに背後の呪いは今にも襲いかかってきそうだ。
こうなれば、体に負担をかけるのを承知で、心の中で呪文を唱えるべきかとシシィがのどに手を触れようとしたとき、その指先に硬いものが当たる。
首から下げられた、服の中に隠されたペンダント。
ルビーブラッドから貰いうけた物。
『魔力を一定以上注げば――』
――ルビーブラッドさんが、言ってた。
このペンダントに魔力を注げば、これからは彼のもとへ行けると。
その範囲がどれくらいのものなのかは分からないが、少なくとも今の状況なら彼のもとへ帰れるだろう。ルビーブラッドの魔術なら術範囲はかなり広いはずだ。
――でも、それは。
今、ここで帰ることを選択するということは。
あの少年を見捨てるということだ。
――まだ、あの子は人形になっていなかったのに……!
もしかすると、自分の背後に迫る呪いの姿を見て、恐ろしくなって駆けだしたのかもしれない。彼も怯え、逃げ回っていたのかもしれない。
救いたいと思う。
なのに――救えない。
シシィはもう見えなくなった少年の姿を、もう一度探した。
けれど、辺りに広がるのは白い霧。
白い呪い。
背後にあるのは危機。
「――――っ!」
シシィは目をつむり。
ペンダントに魔力を込めた。
********
「――シシィ!」
ピアスが光った瞬間、目の前に現れたシシィをルビーブラッドは慌てて抱きとめた。
「ずみ……ゴホッ!」
「――のどをやられたか」
シシィのつぶれた声に、ルビーブラッドは顔をしかめた。
苦しそうなシシィにロッドを向けて、『ジャッロ』を唱える。
「――っはぁ、はぁ……」
「痛みは?」
「あ、りがとうござ……取れまし、た」
――でも。
のどの痛みは取れても、胸を抉るような痛みが取れない。
吐きそうなほどの罪悪感。
涙をこぼすことを拒否しながら、シシィはルビーブラッドに謝った。
「すみません……連絡は結局取れなくて」
「そうか」
「転位ができませんでした……呪いに邪魔をされたのか、分からないんですが」
――本当に、何をしに行ったのか分からない。
シシィは無意識に唇を噛みしめた。
悔しくてたまらない。何にも役に立てていない。
――あの男の子を、助けに行かなくちゃ。
――連絡も、諦めちゃダメ。もう一度行けば、どうにかなるかも。
――あの男の子が無事だったってことは、他にも無事な人が……。
ルビーブラッドに支えられてなお、目の前が回る。やりたいことはたくさんあるのに、体が、実力が追い付かない。
――嫌。そんなのを、言い訳にしたくない……!
「わ、私、もう一度行ってきます。もう一回行けばどうにか……」
「待て。呪いが邪魔しているのなら、どうにもならん。連絡は諦めるべきだ」
「でも」
「シシィ」
「早く、何とかしなくちゃ……!」
「シシィ……!」
懇願されるように呼ばれ、シシィは顔をあげた。
「シシィ、頼むから焦らないでくれ」
「――でも!何かをしないと、呪いが広がっていってしまうんです!」
――何か、役に立たなければ。
町が呪いに侵されて、取り返しのつかないことになる。
大切な人たちが死んでしまう。
ルビーブラッドに負担を負わせてしまう。
――成長なんか、出来てない。
使える魔術は当初より多くなったとしても、それだけだ。本当の意味でなど成長できていない。魔術など勉強していれば使えるようになるのだ。
もっと、別のことで成長していなければならないのに。
変わっていない。すぐ弱気になるところも、卑怯なところも。
――治さなきゃ。治さなきゃ治さなきゃ治さなきゃ……!
今すぐに。急激に。変えなければ。
焦るシシィをなだめるように、ルビーブラッドは手をシシィの肩に置いた。
「シシィ、俺も焦っている」
「――?」
「早く何とかしようと思い焦っていて、俺は何かを見落としているかもしれない。その『何か』が重要なことかもしれん。だからシシィは焦らず、俺が気付かなかったことに気付いてほしい」
――そんなの。
無理だ、とシシィは首を横に振る。ルビーブラッドのような、素晴らしい魔導師に気付けなかったことを、どうして自分のような平凡以下の魔術師が気付けるというのか。
ルビーブラッドは肩に置いた手に、さらに力を込めた。
「――必ず、シシィにしか気付けなかったことがある。世界を見る速度は、人によって違う。速さが違えば見える景色も違う」
「…………景色が」
「シシィ、頼む。力を貸してくれ」
すぅ、と。
頭が冷えていく感覚がした。
――そう、だ。
焦ったところで、自分に出来ることが増えるわけではない。強くなるわけでもない。
知識が増えるわけでもない。むしろ、空回りする。
急ぐことは必要だ。
けれど焦りは邪魔になる。
――私が、気付いたこと。
ルビーブラッドは太陽のある時間に外へ出ていない。自分しか様子を見ていない。
――伝えなくちゃ。
シシィは深く息を吸って、町の中のことを出来るだけ細かくルビーブラッドに伝えた。
倒れているのは学生が多かったこと。
買い物袋を提げた人がいなかったこと。
これらのことから、呪いが発動したのは朝ではないかという推測。
白い呪いに出会ったこと。
対呪いの魔術が効かなかったこと。
そして――。
「……少年に、会いました」
シシィの言葉に、さすがのルビーブラッドも驚きを隠せなかったらしく、目を丸くしてシシィを見つめた。
「意識を保っていたのか」
「はい。呼びかけに反応していました」
少なくとも、走れる程度には体力はありそうだった。
――ああ、でも!
彼はまだ、走りまわっているかもしれない。1人孤独に、呪いから逃げ回っているかもしれない。
胸が抉られるように痛かった。
「……どうして、も、あの子を連れてくることが、出来なく、て」
ルビーブラッドはシシィの頭に手を置いた。黙ってそのまま軽く叩く。
シシィは泣きたくなった。
――ルビーブラッドさんは、私に甘すぎる……。
本当なら、何故見捨てたのかと言われなければいけないのに、彼は責めない。
逆にそれが心苦しかった。
「……どんな少年だった」
「少し……色白で、ちょっと気弱そう、な……」
外で走り回るより、本を読んでいるのが好きそうな少年だった。
――あれ?
そこでシシィは、息をのんだ。
何かを忘れている気がする。
重要な何かを。
――何か、まだ伝えていないことがあったような。
シシィは視線を彷徨わせたが、そこに何かヒントがあるわけでもなく、結局は思い出せなかった。
思い出せない、ということはそれほど重要な何かではなかったのだろう。シシィはそう思うことにして、町で見かけた少年の姿を思い浮べた。
――あの男の子。
どこかで見た気がするのは何故なのか。
「シシィ?」
「ちょっと、待ってくださ……」
――どこで見た?
洋服店。違う。
精肉店。違う。
八百屋。違う。
雑貨屋。違う。
パン屋、レストラン、ケーキ屋、学校、すべて違う。
――Bさんのお店、も違う……。
依頼人、でもない。
けれど見た顔。それは。
「――図書館の本を借りにきた子!」
線の細い、か弱そうな少年。
「本を?」
「わ、私がさらわれる前に、直前に借りにきた子です。でも、結局何も借りて行かなかったんですけれど……」
その言葉に、ルビーブラッドは眉間にしわを寄せて黙り込んだ。
――何か気になるのかな?
図書館に来ても、結局何も借りずに帰る人は多い。シシィ自身もそういう経験があるため別に何も思わなかったが、ルビーブラッドは何か思うところがあるようだった。
シシィが首を傾げるのも目に入らない様子で、ただひたすら黙考したあと。
意を決したかのように重く口を開いた。
「見たか」
「え?」
「その少年が、本当に何も借りて行かなかったところを見たか」
その質問の意図を。
シシィは、正しく理解した。
理解したからこそシシィはごくりと喉を鳴らして、ふるふると首を横に振る。
「見て、ないです、けど」
「けど」
「まさか、だって……まだ、子供です……」
「じゃあ、何故その少年が人形化していない?」
――何か、偶然で。
――何かに、守られていて。
声に出しかけて、そんな言葉ではルビーブラッドを説得できない、とシシィは飲み込んだ。どう考えても、ルビーブラッドの考えが正しい。不明な点は残るが、説明の余地はまだ彼の方が多い。
シシィは胸を押さえた。
――まだ、子供、なのに。
「――媒介者は、意識が無事である必要がある。憎しみを肥やすために」
――あの子が。
もしも、ルビーブラッドの考えている通りに。
媒介者だったなら。
「でも、それは同時に……解印者でも、あるということ、で」
シシィは声を詰まらせて、それ以上言葉にはできなかった。
事故か故意か。それは現時点では分からないが。
もし媒介者だったなら、あの少年が孤独共存の呪いを目覚めさせたことになる。
「そ、そんな図書館に来たっていうだけで」
「他に本を持ち出せる人間がいると思うのか?」
「祖母が管理していた時にだって……」
チャンスはあったかもしれない、と言いかけて、シシィは止まる。
――あるわけが、ない。
孤独共存の呪いを封印した張本人だ。解印しようと近づく者に気付かないはずがないだろう。
チャンスがあるとすれば、祖母が病気し、死ぬ間際にこの図書館を離れた時期か、何も知らない後継者――自分がここを管理し始めた今までの時期。
――でも、おばあちゃんが倒れていた時期は図書館を閉めてた。
それならおのずと、自分が管理していた時期に絞られる。
今までこの図書館にやってきたものは大勢いる。
しかし本が目的でやってきたのはたった1人。
あの少年だけ、だ。
「で、でも!」
シシィは首を横に振る。
「私にすら今まで見えなかった、呪いが封じられた本を、どうやってあの子が見つけたって言うんですか?魔力が開花していればいいというものではないはずです!」
「確かに……」
「決めつけるには早すぎます」
「しかし見逃すことはできん。どちらにしろ、重要人物ではある」
その意見は誰が聞いても正しいものだろう。シシィは静かに頷いた。
彼の言うとおり、この呪いに侵された町の中でおそらく唯一自由に行動ができる、呪いに侵されていない少年。孤独共存の呪いを封じるための切り札になる人物だ。
――彼の様子を観察すれば、呪いに対抗できる術を見つけられるかもしれない。
祖母が見つける事の叶わなかった、封印できる方法を見つけられるかもしれない。
「私……もう一度行ってきます」
「待て」
「ルビーブラッドさんにはここを守ってもらわないと」
「それは分かっている」
なら何を待てというのか、とシシィが無言でルビーブラッドを見上げると、彼はシシィがかぶっていた自分のコートを取り上げた。
「夜まで待った方が良い。白い霧には対呪いの魔術が効かなかったのだろう」
「は、はい」
「それなら魔術が確実に効く方が安全だ。夜の方が良い」
ルビーブラッドは外を見つめる。
「……対呪い魔術が効かないとは」
「――あれ?」
シシィの声に、ルビーブラッドは再び室内に視線を戻した。
「どうした」
「あ、いえ、何も……」
――今、何か分かりかけたような気が……。
けれどつかむ前に逃してしまった。
――まぁ、いいか……たぶん大したことじゃないと思うし。
シシィはどこか腑に落ちないながらも、そう思うことにしてつかの間の休息に入ることにした。
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