町はその空気ごと、真っ白な霧に包まれているようだった。
空間転移に成功したシシィは一瞬あまりの白さに、自分がどこにいるのか見失いかけた。が、そこは普通の霧とは違う孤独共存の呪い、まだらになっている白い霧の薄い個所を見つけることで、居場所を特定できた。
――『ライシャー』……洋服店の前……。
ちらりと薄く見えた看板に、シシィは覚えがあった。が、同時に緊張も高まる。
――Bさんの店から遠い。
ちゃんと、裏路地を思い浮かべていたはずなのに、全然違う場所に出てしまった。
ルビーブラッドがあの船の上からこの町に飛んだときと同じように。
――これも、呪いの影響……?
魔術の発動を邪魔しているのかもしれない。そうだとすれば、やはり孤独共存の呪いとはかなり知能の高い呪いだ。
そういえばBも、この町だけ依頼人の気配を探りにくいと言っていた。あれは全て、この呪いが目覚める前兆だったというわけらしい。
とにかく早くBの店まで行こうと、シシィが足を進めようとすると、足先に何か固いものが触れた。
「っ!」
驚いて下を見て――また、目を逸らす。
人形にされた、幼い子供だった。
まだ5,6歳といったところだろうか。なのに、酷く苦しげな表情をしている。
――……!
図書館まで運んであげたいと、強く思った。
硬い地面じゃなく、まだじゅうたんの上の方が苦しみも安らぐのではないかという、甘く根拠のない幻想がシシィにささやきかける。
そんなわけはないと、シシィも分かっている。
これは呪いを解かなければ、このままの表情なのだと。
――分かってるけど!
心の中ですら言葉にできず、シシィは連れていきたい気持ちを抑えこんで、その子供の元から離れた。どんなに連れていきたいと思っても、ルビーブラッドの言うとおり連れていけない。あの子を守りながら万が一の時に戦えるほど、シシィは強くなく、そして1人だけを救う強さもない。
今は、見捨てるしかなかった。
どんなに苦しくとも。悲しくとも。
――目的を、忘れるな……っ!
シシィは強く、頭からかぶったルビーブラッドのコートをつかんだ。
「……Bさんの店、は、こっちであってるはず……」
風景さえ包み込む白い霧が、シシィの方向感覚を狂わせる。たまに霧の薄い場所から見える周りの景色だけが、シシィの感覚を狂わせずにすましてくれた。
――町の外は晴れてるのかな……曇りなのかな……。
霧が太陽の光さえさえぎり、空まで覆い尽くしているため天候が分からない。
これが夜の、黒い霧になるともっと暗くなるだろう。昨日はパニック状態でよく覚えていなかったが、この白い霧を見てあらためて恐ろしいと思う。
「うっ!」
また、足先が人形に当たる。シシィは体を跳ねさせるように、一歩退く。
今度は少女だった。制服を着ているので学生だというのが分かる。
――何にも、悪くないのに。
きっと彼女も普段通りの生活をしていたはずだ。なのに、いきなり呪いをかけられて苦しみの表情で人形にされている。
早く呪いを解くのが、この人たちにとってもいい、と言い聞かせてシシィはまた歩きはじめたが、不意に気がついた。
――今まで考えてなかったけど、道に倒れてる人が多いってことは、呪いが発動したのは深夜や早朝じゃないってことだよね……?
でなければ、これだけの人が道に倒れていることなどない。早朝や深夜なら、まだ家の中にいる人の方が多いはずだ。こんなに人気は多くない。間違いなく呪いは、人が大勢活動している時間に発動した。
シシィは人形をよけながら歩き、逸らしそうになる視線と心を叱咤しながら必死に辺りを観察し、考える。
――学生が多い……登校途中、か、下校途中……?
現在はテストの期間ではないはずなので、学生が半端な時間に帰ることはない。
考えられるとしたら朝の7時から8時か、夕方の4時から6時までの間だ。
――買い物袋を提げてる人がいない……。
夕方なら、買い物袋を提げた婦人でいっぱいのはずだ。
なのに見当たらない。
――ということは、朝の可能性が高いってこと……?
けれどそれはかなりめずらしいことだった。大抵、呪いは闇を好むものであり、発動するのも深夜が多い。光がある時間に動く呪いもあることにはあるので、孤独共存の呪いもそれだと言われてしまえば何てことない違和感なのだが。
シシィはロッドを握り締めた。
――もし、これが故意に解けた呪いなら。
解印者も時間は選ぶはずだ。自分にとって都合のよい時間。
呪いをかけていても誰にも見られない時間だったり、解印者にとって唯一空きがある時間だったり。
カラン。
と、背後で音が鳴って、シシィは心臓を激しく鳴らしながらロッドを構え振り向いた。
シシィの前には――何もない。
ただ、真っ白な霧があるだけで。
足元を空き缶が転がっていった。
「なっ、なん、だ……ぁ……っ」
呪いが攻撃してきたのかと、冷や汗をかいてしまった。
――今、考えても仕方ない。やれるのは、この状況を覚えて帰ること。
これは帰ってルビーブラッドに意見を訊いた方が良いだろう。勝手に決めつけるのはマズイ。
霧の薄い場所から辺りを確認すると、やっと裏路地近くに来たことが分かった。
シシィは人形になった人々を踏まないように、手探りで壁を探す。
「……あった」
ぺち、と当たった壁を頼りに進むと、角が現れる。この角を曲がればBの店につながる裏路地だ。
カランと、また背後で空き缶が転がる音がする。
構わずシシィは足を進めようとしたが。
あることに気付いた。
周りの霧が薄くなっている。
辺りが見えないほど、手探りで進まなければならないほどだったのに、レンガの壁が見え始めている。
シシィは、嫌な予感がして振り向いた。
獅子がそこにいた。
吸った空気で、肺が燃えそうな感覚。
――呪い!!
シシィは――駈け出した。
「う、あぁ……!」
訳も分からず、シシィの目に涙がたまる。
恐ろしい、という感情と共に、孤独共存はもう1つの感情を押し付けてくる。
――さびしい。
自分は1人だと。
孤独だと。
理解してくれるものなどなく。
理解できているものもなく。
つかんでくれるものもなく。
つかむものもなく。
近くに誰もいない、のではない。
世界中にただ、無意味な自分だけがいるような。
――生きている、意味を……。
オレンジの香りが、シシィの意識を取り戻す。
「――っ!」
シシィはコートを握りしめた。
――呪いの気に負けるな!
『拒めブランシェリーア!』
ロッドを自分に向けて唱えると、自分の中から白い欠片がこぼれたのが分かった。
あれは、呪いの断片だ。
――いつのまに。
眉をしかめながら、シシィは欠片が砕けるのを見た。孤独共存の呪いの断片と言えど、欠片程度なら弾きだすことは可能らしい。
が、本体をくらえば祓うことはできない。
ただ、人形になるだけだ。
――つまり。
自分の後ろを追っかけてきている、あの獅子から攻撃を受けてしまえば、自分も人形になってしまうだろう。
『まずここに帰ってこい』
ルビーブラッドの言葉が頭に響く。出来るならそうしたい。
――でも、まだ連絡を……!
『拒めブランシェリーア!』
獅子との距離が近くなった気がして、シシィはもう一度魔術を放った。それはかわされたが、知能の高い呪いらしく、シシィと距離を取る。
――そのままでいて……!
祈るように、そう願うシシィの前に、待ち望んだ行き止まりが見えた。
あの壁の向こうに、Bの店がある。
シシィはそのまま壁に突進し、通り抜けようとした。
が、壁に触れた瞬間、強力なゴムが切れたような音が響く。
「え……っ」
シシィは地面にしりもちをついた。
――石畳。
Bの店の床、ではない。
辺りもまだ白い霧に包まれた、裏路地のままで。
――入れなかった!?
何故、という言葉が頭を埋め尽くす。
呪いが邪魔をしたのか、店自体が転移を拒んだのか、主であるBが人形になっているから魔術が発動しないのか。あるいは全てか。
理由は分からない。けれど確かに言えるのは。
――追い詰められた……!!
あの獅子は、自分の魔術では祓えない。
肺が焼けるような感覚を思い出したシシィは、震えあがった。
封印方法があるのなら、まだ対抗もできる。対黒魔術、特に封印する魔術は呪いの
弱点を突くようなもので、弱点を突くのであれば、魔力の強さはそう関係ない。
が、今回は対抗策がない。
真正面からぶつからなくてはいけないのに、あの獅子の呪いは強すぎて、シシィには勝てない。
本能で分かる。あれと闘ってはダメだと。
シシィは立ち上がって後ろを振り返った。
まるで、シシィが怯える様子を楽しんでいるように、呪いはそこに佇んでいる。
――恐い……!
けれど、本能に逆らい闘わなければ、帰ることができない。
――せめて、空間転移魔術の唱えられる距離がないと……!
『拒めブランシェリーア!』
震える手でロッドを呪いに向け、魔術を放つ。
退いてくれ、と願ったのに、それをかわした獅子は、シシィに向かって突進してきた。
獰猛な表情。
鋭い牙。
『拒めブランシェリーアッ……!』
必死に叫んで、ロッドを獅子に向ける。
今度は――当たった。
「やった!?」
はずなのに。
獅子は散らされることなくシシィに向かってきた。
――え!?
揺らぎもせず、欠けることもなく。
何一つ損なわぬまま、獅子は走ってくる。
それは、魔術が効かなかったことを意味した。
――でも、黒い霧や欠片には……!
昨日も『ブランシェリーア』を使ったが、黒い霧はそれで退いたし、散らされた。ちゃんと有効だったのだ。
それは白い霧の欠片にも言えたことで、先ほど『ブランシェリーア』で自分に憑いていた呪いの欠片を祓ったのだ。
効かないはずがないのに。
目の前の呪いはピンピンしている。
近くなる距離。
もう呪いはすぐそこまで来ている。
――間に合わない。
防衛魔術も、転移魔術も。
鋭利な獅子の爪が、シシィの喉にかかる。
――ごめんなさい、ルビーブラッドさん……!
ただ反射的にシシィは腕を交差させて、顔を守った。
大きな口がシシィの頭を飲み込む前に、獅子は散った。
「――っ?」
閉じていた目を開けると、目の前で霧がぐにょぐにょと曲がり、歪んで、再び獅子の姿になろうとしているのが目に映る。
――何?
もうダメだ、と思い、停止していたシシィの脳は、再び動き出す。
逃げろ、と。
「……っ!!」
震える足を叱咤し、シシィは来た道を戻るために駆けだした。
「はぁっ、はぁ、はぁっ……!」
――どういう、こと。
何故いきなり獅子が散ったのか分からない。
時間差で魔術が効いたのだろうか、とも思ったがすぐさまそれはない、と否定する。
確かに当たったが、あれはもしかすると、魔術の方が散らされていたのではないかと思えて仕方がないからだ。本当に効いたなら、もっと別の、感覚的に何かが違う気がする。
――でもっ、これを逃しちゃダメだ!
シシィはロッドを構えて、空間転移の呪文を口にする。
『ぎらがれ……ゴホッ!』
――声が。
もう一度試そうとして、シシィは口を開いたが、空気を吸った瞬間のどが激痛に襲われて、何も発することなく結局閉じた。
――のどが、潰れてる。
先ほど、獅子に襲われた時だろう。あの爪がのどにかかったせいで、ダメになってしまったのだ。
――どうし、よう……。
シシィの顔から血の気が引いていく。これでは図書館に帰れない。
空間転移ができないなら、走って帰ればいいだけだが、問題はドアだ。あのドアを開けば必ず呪いが入りこんでしまい、聖水がダメになる。
祖母の魔術で持ってしても、自宅の方は防ぎきれなかった。図書館の方はルビーブラッドが守ってくれているとは言え、ドアを開けることによって均衡が崩れれば、呪いが入りこむかもしれない。
けれどこのまま逃げ回るわけにもいかないのだ。もう魔術は使えない。
考えている暇もない。
――とにかく、図書館まで行こう。
自分を防衛できる術を失ったのでは、闘うこともできない。シシィは追いかけてくる獅子から必死に逃げ、大通りまで出られた。
白い霧は薄くなっている。それはまるで、ここ一帯の霧が、あの獅子1匹を作るのに使われたような気さえした。
カラン、と空き缶が転がる音が響く。
また呪いか、とシシィが使えない魔術を使おうとしてロッドを向けた先にいたのは、
少年だった。
――え?
呪いが変形した姿なのかと思った。
しかし、違う。
呪いなどではない。邪悪な気配を感じない。
それは、呪いが町を覆ってからシシィが初めて見つけた町の人間だった。
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