爽やかで、甘いオレンジの香りがした。
 シシィはぼんやりと意識を覚醒させながら、そのオレンジの香りを引き寄せた。
 もっとこの香りに包まれていたい。
 ――だってこれは、ルビーブラッドさんの香り……。
 そこで。
 その自分の言葉で。
 シシィの脳は猛烈な勢いで回転を始めた。
 ――ルビーブラッドさんの香り?
 何故そんな香りに、自分が包まれているのか。
 何故、体があたたかいものに包まれているのか。
 それはもしや。
 ――る、ルビーブラッドさんに抱きし……!?

「ふわぁぁああああぁっ!?」

 あまりにも刺激が強すぎる考えに、シシィは奇声を発しながら飛び起きた。
 その際、シシィにかけられていた黒いコートがずり落ちる。
 ――コート?
 その黒いコートはルビーブラッドのものであり、それでシシィはようやく状況を把握できた。つまり香りの原因はこれだと。

「シシィ!」
「ひゃあっ!」

 背後からの声に驚いて、跳ね上がりながらシシィが振り向くと、そこにはやけに慌てた様子でやってくるルビーブラッドの姿があった。手にはロッドを持っている。

「何か異変が……」
「いいいや!すみませんっ、違うんです!ちょっと夢見が……」

 悪かったと言うか、良すぎたような。
 ――夢?
 そこでシシィは凍りつくようなことに気がついた。視線を窓にやる。
 外は真っ白な霧に覆われている。
 ――白い霧は、太陽がある時間に活動する。
 その記述を思い出した瞬間に、シシィはルビーブラッドに向かってものすごい勢いで土下座をした。

「たたたたた大変申し訳ありません!ここ交代をすると言っておきながらぐーすかぴーすかとのんきに安眠を貪ってしまい言い訳のしようもないと申しますか本当にすみません上着まで奪ってしまい本当に申し訳ないです!」
「いや……とりあえず土下座をやめてくれ……」
「ああぁぁあ、もう本当に申し訳ないです!ルビーブラッドさんっ、今からでもどうぞ仮眠を……」

 顔をあげてルビーブラッドを見たとき、シシィの頭に昨夜の出来事が鮮明に思い出された。ルビーブラッドの持つロッド、アレは眠る前光っていなかっただろうか。
 そして、彼は『シュヴァルツ』を使っていなかったか。
 ――シュヴァルツは、眠らせることもできる……。
 その視線に気づいたルビーブラッドは、さりげなく視線を逸らし、咳払いをすると別の話題に話を逸らそうとした。

「『協力者』についてだが……」
「ルビーブラッドさん、昨日私に向かって、『シュヴァルツ』使いましたよね?」
「……夜じゅう悩んでも分からなくてだな……」
「『シュヴァルツ』って、人を眠らせるんですよね?」
「………………眠らせたのは謝る」

 視線を逸らしたまま、ルビーブラッドがつぶやいた。

「――昨日は、ああするのがいいと思っただけだ。俺は3日眠らなくとも平気だし、シシィはこれから調合をするのに疲れていてもらっては困る。だからと言って、お前は素直に良しとしないだろうし……俺も明け方に仮眠は取ったから気にするな」

 しょんぼりとするシシィの頭を軽く叩いて、ルビーブラッドはシシィの前に座った。ロッドを脇に置き、シシィから上着を受け取って袖を通す。

「話は戻るが、『協力者』というのが分からん。この場合、魔術師のことか?」
「でも、祖母は1人で呪いを封印したんですよね……?」
「ああ。そこは噂も記述もあっている」

 祖母の記録を見ても、魔術師に協力を仰いだ記録はなかった。必要だとも書いていない。なのに、『協力者』という単語。
 ――よく分からない。

「……呪われたリボンが現れたときのことを覚えているか?」
「あ、はい」

 初めて呪いと向き合ったときのことだ。忘れるはずがない。

「あの時、実はかすかに、一瞬だがうごめく多くの呪いを感知したことがある。あの呪いとは別の呪いの気配だった。が、あまり確信も持てず、お前には警告だけを残したんだが」

 ――もし、それが孤独共存の呪いだったとしたら?
 もしかして、とシシィは唇に手をあてた。今まで多発していた呪いの事件、Bが首を傾げるほどに多かった呪いは、全て孤独共存の呪いの一部が漏れ出して起こしていたことではないのだろうか。
 ――あの、切り裂き魔の事件も。
 弟と姉に、別々の呪いが憑いていた。それはかなり稀なことだ。
 そう思って考えだすと、キリがない。『フォアン』の青年のときも、その前の人に聞こえざる音を聞く少女のときも。
 あのとき少女が言っていた、不思議な音の正体。
 それは、孤独共存が目覚めようとする音だったのではないだろうか。
 ――ああっ、私のマヌケ!
 過去の自分を責めてもどうしようもないが、責めたくなってくる。

「――ずっと前から、孤独共存の呪いは復活の時を狙っていたということでしょうか」
「そういう、可能性もある……もっと人数がいれば、違う意見も出るだろうが……」

 2人しかいないのでは、2つの意見しか出てこない。
 ――呪いに対する意見、か。
 シシィはふぅ、とため息をついて。

「あ!」

 思い出した。

「どうした」
「意見、貰えるかもしれません!わ、私……」

 シシィは大慌てで、服のポケットに手を突っ込んだ。
 ――どこにやったっけ?
 ポケットになかったのでシシィは読書スペースに置かれたトランクのところまで走っていき、中を漁る。

「何か思い出したのか?」
「そうです!私、貰ったんです……これ!」

 シシィは紙きれをルビーブラッドに見せた。

「『ブラック・フィンガー』さんの連絡先です!!」
「ブラック・フィンガーの……?」

 あの船の上で、最後にオンディーナと再会した時に、指輪と共に投げられた連絡先のメモ。
 ――あれから、時間はまだ経ってない。
 もしかすると、連絡がつくかもしれない。間に合うかもしれない。
 が、ルビーブラッドはメモを見て渋い表情を見せた。

「……電話番号か」
「その、でんわってどういうものなんですか」
「離れたところにいる相手に声を伝える機械だ。形状は……」

 ルビーブラッドはペンをとり、そのメモの裏に電話の形を描いた。
 その不可思議な形状。
 日常生活でなら決して見ないその形を、シシィはどこかで見た覚えがあった。
 ――どこだっけ?
 依頼人の家、ではない。ヴィトランの家でもなく。
 ――Bさんの店だ!!

「あります!その、でんわっていうの!Bさんのお店に!」
「店?」
「魔術師と依頼人の仲介をしてくれる人のお店にあったんです!Bさんは、いろんな魔術師さんと連絡を取り合うから」
「……普通の電話ではなさそうだが、魔術師と連絡を取るなら十分かもしれん」

 しかし、これには問題がある。シシィもルビーブラッドも気付いていた。
 ――外に出ないといけない。
 Bの店には、魔術で飛んでいけない。それはしてはいけないと言われている。
 飛べるのはBの店の前の、路地裏まで。
 つまり呪いの中を歩かなくてはいけない。

「――場所を教えてくれ。俺が……」
「ルビーブラッドさ……きゃあ!?」

 突然家が縦に揺れはじめた。
 同時に地響きのような音も鼓膜を震わせる。

「くそ……っ、呪いか」
「窓が……!」

 びりびりと震えて、今にも割れそうだ。割れなくても、図書館自体が潰れる。
 ――呪いが攻撃を仕掛けてるんだ!
 ここには聖水がある。聖水は持ち運べない。
 ここの結界を解かれたら――おしまいだ。
 ルビーブラッドは立ち上がるとロッドを床につけ、魔力を込める。

「あ……!」

 すると、窓に張りついていた白い呪いは離れて、揺れも収まった。

「……っ、はぁ、はぁ……」
「る、ルビーブラッドさん」
「平気、だ……」

 ――全然、平気じゃない。
 守る、というのは攻めるということよりもはるかに難しいことはあまりにも有名で、実際にルビーブラッドの顔色は、先ほどよりも悪くなった。
 さすがに堪えたのか、ルビーブラッドはイスに座り、机に上半身を預けた。汗にまみれたその額をシシィが拭うと、気持ち良さそうに目を伏せる。
 ――もしかして、夜中にも襲撃があったんじゃ……。
 明け方に仮眠をとった、のではなく、明け方にしか仮眠が取れなかった、の間違いではないのか。
 ――私の、役割……。

「……ブラック・フィンガーさんに、意見を訊きに行きましょう」
「ああ」
「私が行ってきます」
「……何!?」

 顔をあげたルビーブラッドの目を、まっすぐとシシィは見つめる。

「適材適所だと思います」
「待て。俺が行く……すぐに体力は戻る」
「違うんですルビーブラッドさん……ここを守れるのは、貴方しかいないからです」

 微笑みながら言うも、シシィは心苦しかった。
 ――本当は、ルビーブラッドさんに少しでも休んでほしいからだけど……。
 でも素直にそう言ったところで、彼は「自分は大丈夫だ」と言って頑として受け入れないだろう。それならば。

「私の力じゃ悔しいけど、ここを守り切れません。あの大量の呪いから守れるのは、ルビーブラッドさんだからこそできるのであって、私では一か八かの賭けです。それなら、私が連絡を取りに行って、ルビーブラッドさんがここを守る。その方が理に適ってませんか?私、間違っていますか?」
「……いや、しかし」

 こうやって、仕事で縛りつけておいた方が彼は動かない。
 ――それに、この方法が1番いいはず。
 シシィの言葉にウソはなかった。ルビーブラッドが連絡をとりに行っている間、シシィがこの図書館を絶対に守り切れるかというと怪しい。しかし、ルビーブラッドなら確率が跳ね上がる。
 連絡と防衛。絶対に失敗してはいけないのは、防衛。
 なら、防衛に確率の高いものを置いておくのがベスト、というもの。
 ルビーブラッドもそれは重々承知らしく、頭を抱えてひとしきり悩んだあと、ため息をつきながら頷いた。

「……そうだな、シシィが正しい」

 しかしその声は、渋々、といったふうだった。






********





「メモは持ったし、ロッドも持ったし。準備万端です!」

 ロビーの空間転移魔法陣の前で、意気込むシシィを見つめるルビーブラッドの表情は酷く複雑なものだった。今にもやはり自分が行く、と言いそうである。
 ――ルビーブラッドさんが2人いるなら、その方がいいんだろうけど。
 連絡を取るのも、この図書館を守るのも、ルビーブラッドの方が成功確率は高い。
 しかし、彼は1人しかいないし、彼にばかり負担を負わせるのはどうかと思う。
 ――最悪の場合は。
 連絡に失敗し、シシィが人形にされたとしても、ルビーブラッド1人でも生き残っていてくれるなら、まだ救いはある。残らなければならないのは彼の方だ。

「シシィ」
「は、はい」
「これを被れ」

 頭からかけられたのは、ルビーブラッドの真っ黒なコートだった。シシィが頭から被っても、裾が地面に着きそうなほど長い。

「そのコートは防衛魔術がかけられている。大抵のものなら弾く。気休め程度かもしれんが被って行け」
「あ、ありがとうございます」

 ――オレンジの、ルビーブラッドさんの香り。
 気休め程度、ではない。このコートはシシィにとって勇気を与えてくれる。
 カタカタと足が震えているのが分かる。あの冷えた町の中に行くのは、とても恐ろしくて泣きたくなる。
 けれど、このコートがあればルビーブラッドが傍にいてくれる気がする。
 ――うぅ、でも……。

「る、ルビーブラッドさん。ちちちょっとだけ、手を、貸してください」

 首を傾げながら差し出すルビーブラッドの手を、シシィは握手するように両手でぎゅっと握りしめた。
 ――大丈夫、大丈夫、大丈夫……。
 心臓が破裂しそうなほど脈打っていて、気持ちが悪い。
 それでもこれは、やる価値のあることだ。

「――シシィ。無理だと思ったら、連絡はどうでもいい。まず、ここに帰ってこい。1人と2人ではやれることが違う。お前にしか魔術薬は調合出来ない。シシィが必要だ」

 ――大丈夫……。
 震えは止まらない。けれどルビーブラッドが必要だと言ってくれた。
 ――その言葉だけで、私、すごく頑張れるんです。
 シシィは手を離して、ルビーブラッドを笑って見上げる。

「ちょっと、外に出てくるだけですから。行ってきます!」

 魔法陣の上に乗ると、光がシシィを包み込みはじめた。
 やわらかな光の向こうに見える、心配そうにこちらを見つめるルビーブラッドに微笑みかける。
 ――私がもっとしっかりしてたら、微笑んで送りだしてくれたかな……。
 そう思うと同時に、周りの風景は溶けて消えていった。