「――変だな。魔導は正確に発動したんだが」
「でも、ここからなら町にも近いですし、私の魔術で図書館まで飛びましょう。お茶くらいはごちそうさせてください」
しきりと不思議がっているルビーブラッドだったが、シシィとしてはこれくらいの誤差など不思議がることではないとのでは、と感じていた。
あの船がどこの海の上にいたのか分からないが、確かに言えるのはこの町どころか陸すら見えていなかったのだから、かなり遠くであったことに間違いはない。そんなところからここまで来られれば、それは十分すごいことである。
シシィはロッドを構えた。
夜風が黒い木々に触れて、音を立てる。
――ちょっと、緊張するなぁ……。
『開かれし門は我が名を呼び 声無き力はその名に呼応する 風の音よ 天空の色彩よ 伸ばされたる迷い子の手を導き 故郷の土に抱かれる至福を知らしめよ 涙の渇きより早く キャンナット!』
景色が歪み、感覚も歪み。
シシィと、陣内にいたルビーブラッドの身体は溶け、図書館の中で再構築される。
「ふぅ……」
見慣れたロビーで、シシィはため息をついた。
――成功して良かった。
その安堵共に、家に帰ってきたという安心感も胸に満ちる。少しほこりっぽくて、ひんやりとした図書館の空気。
もう何年も帰ってきていなかったような、そんな感覚にさえ陥る。
――帰ってこれたのが、こんなにも嬉しいなんて。
「あれ、でもちょっと周りが明るい……ロウソクなんて灯してないのに」
「指輪が」
ルビーブラッドに指されて、気付く。アステールがほんのりと光り、辺りをやわらかな光で照らしてくれていた。
――うわぁ、持ち運び可能な灯りだ。
じっと、指輪に見入るシシィの横で、ルビーブラッドが不意に。
顔を、あげた。
「……外に出てくる」
「え、あの、お茶を」
「帰ってくる。少し外の……空気を吸いに行くだけだ」
「大丈夫ですか?もう暗いですし……」
何時なのかは分からないが、窓から見える景色はもう夜だ。
「すぐ戻る。シシィは外に出るな――『イオス』」
そう言い残して、ルビーブラッドは魔導で外に出ていった。
1人取り残されたシシィは、窓に叩きつける風の音で我に返り。
「こ、怖くなんか、ない、し!」
我が図書館ながら、何かでそうな気配に押されて、その場にトランクを置いて足早に自宅へと戻った。
ルビーブラッドは自宅へ入ることは拒むだろうから、お茶を淹れるとしたら図書館の方でだ。そのための準備をしなければならない。
――怖いから、戻るんじゃない、もん。
しかし歩くスピードは速くなって、あっという間にリビングに到着したところで。
「シシィさん!!」
「ひゅぎょわぁぁあああぁぁぁぁぁやぁぁぁあああぁぁぁっ!!」
キッチンの勝手口が叩かれた音と、自分を呼ぶ声に悲鳴を上げた。
「おりませんここに人間はいません食べてもおいしくないです!!」
「シシィさんっ、無事ですか!!」
――ルウス、さん?
涙目で、見えるはずのない扉の向こうを見つめる。
先ほどの声は、確かにルウスだった。
「ルウス、さん?何で、まだ帰ってくる予定じゃ……」
「良かった、無事なんですね!?外に出てませんね!?」
「でっ出てません!!」
やましいことがありすぎるシシィは、ルウスに見えもしないのに頭をぶんぶんと横に振った。おまけに手も一緒に振る。
――誘拐されたことは、隠さなきゃ!
余計な心配などかけたくない。終わったことであるし、わざわざ話してやきもきさせる必要もないだろう。
そういうふうにシシィは考えていたのだが、外にいるルウスの様子はどこかおかしかった。
「い、いですか……シシィさん、絶対に、外に出てはいけません」
「――え?」
その言葉は、ルビーブラッドの言葉とかぶる。
いくら夜だからと言っても、こうも関係のない2人が揃いも揃って、同じ忠告をするだろうか。
――ルウスさん、どこか苦しそう……?
息切れをしているようなしゃべり方。
というよりも、体力を消耗して眠りたいのに、眠るのを拒んでいるような。
朦朧としている感じ。
奇妙な勘が、働く。
何か、嫌な気配がした。
「ルウスさん、外で何が……」
「隠し部屋に……そして、町の外に出て」
「……助けを、お呼び、な、さい」
――助け?
「ルウスさん……ルウスさん!?」
「開け、てはいけません……私は、行かなければ……しかし、もう彼女も……」
地面を蹴る音が、ドアの向こうから聞こえる。
――どこかへ、行く気だ!
苦しそうだったルウスの様子が心配で、シシィは勝手口のドアノブに手をかけた。
少しだけ、いつもより開けにくかった気がする。
しかしそのときのシシィは、そんなことに構わず扉を開け、闇の中、黒い姿のルウスを目を凝らして探した。
――月が出ていないから?いつもより、夜が深い……。
シシィは暗闇の中、アステールが放つ心細い光を頼りに、丘を下りていく。
さすがに犬の姿で走るのが速いからなのか、周りにルウスの姿はない。
「きゃっ!?」
辺りを見渡すことに夢中になっていて、シシィは何かにつまづいてこけてしまった。
緩やかとはいえ、下り坂の途中で転んでしまったので、かなり痛い。
「うう……何?石?」
アステールの灯りで、転んだ辺りを照らしてみた。
そこには犬の人形があった。
「……え?」
ぬいぐるみではなく、人形。球体関節人形と呼ばれる作りの、犬版と言ったようなものだろうか。
かなり精巧な作りで、実物の犬の大きさくらいで色は黒く。
闇のような色の帽子を、頭にのっけていた。
「……ルウスさん?」
声に出して、そうしてまさか、とシシィは首を振る。
――確かにルウスさんに似てる人形だけど。
胸がざわつく。
シシィはひざから流れる血を拭うことなく立ち上がり、残りの下り坂を下りていく。
――やだな、ルウスさん。置いて行くなんて。
一気に下ったところで、シシィは息を整えるためにスピードを落とし、歩きはじめた。
その足先に、またこつり、と硬いものが当たる。
びくり、と体をはねさせて足元を見ると、金髪の球体関節人形が落ちていた。
今度は子供をモデルにした人形のようで、とても美しい。
大きさも実物大なので、本当に子供が倒れているかのようだった。
「あ……あれ、やだなぁ……」
――Bさん、みたいな、人形だなんて……。
シシィが感じたとおり、その人形はBによく似ていた。金色のふわふわした髪に、青い瞳。長いまつげ。確かに特徴はある。
しかし、その人形の表情は苦悶の表情であり。
いつも妖艶に微笑んでいるBとは、やはり似ても似つかない。
それに納得することはできても、頭の片隅では疑問が湧き起こる。
何故、こんなところに実物大の人形が2体も落ちているのか。
急に不安な気持ちが襲ってきて、シシィは乱れる呼吸を感じながら、アステールをかざした。
辺りにやわらかく灯りが照らされる。
闇の中に隠れていた光景が浮かび上がる。
道のあちこちに人形が大量に落ちていた。
「っ!」
ぞっとする光景だった。美しくもない、むしろ醜悪な光景にしか思えない。
何故ならその人形たちはみな、苦痛に喘いでいるようにしか思えない表情を浮かべているからだ。幸せそうな表情の人形など1体もいない。
黒い闇に包まれる、大量の人形。
――闇?
そこでシシィは、ようやく気がついた。
これは夜の闇などではなく。
――黒い、霧……?
――霧。それは。意味は。
――のろ、い。
「ヴィトランさん!!」
シシィはヴィトランの家に向かって走り出した。ここからなら、一番彼の家が近い。
この光景の理由を知っているかもしれない。
少し走るとヴィトランの住む家が見えてきて、カンカン、と音を立てながらシシィは階段を上がる。
しかしあと3段を残してシシィの足は止まった。
階段の踊り場。つまりは玄関先。
いつもヴィトランが陽気に出迎えてくれる場所。
そこに倒れている人形は――。
「いやぁっ!!」
苦しそうな表情の、ヴィトランによく似た人形。
シシィは悲鳴をあげて、来た道を戻った。
その道にも人形、人形、人形。
どれも苦痛にゆがんだ顔をしている。
――何、これは。何?悪夢?
シシィが悲鳴を上げてもなお、静まり返った町。その静けさはいっそ、人の気配すらないようなほどの静けさで、それが余計に恐ろしかった。
黒い闇を追い払いたい一心で、シシィは懸命に走る。
――人形。
かすかな記憶。ルウスから聞いた話。
その土地に住む人々を、人形にする呪い。
孤独共存の呪い。
――嘘。嘘だ!
誰かに会いたかった。
知らない人でもいい。この町の誰か。
動いている人に会いたい。
「誰か……お願いっ、返事をして!!」
ぐお、と背後からおかしな音が聞こえた。
シシィは立ち止まると同時に振り返る。
大通りの真ん中に、黒い豹がこちらを睨むように立っていた。
「う……あ……」
――動けない。
あまりにも邪悪な気配。心乱され、気持ち悪くさせられるような鋭い視線にシシィは呼吸すら忘れた。
耳鳴りが聞こえ始める。
それは――警報だ。
逃げろ、と体全てが言っている。
――動け動け動け動け!
シシィが、全身の力を絞って指先をかすかに動かした瞬間。
豹も動いた。
「――――っ!!」
喉もとを狙って飛びついてきた豹から、シシィは身を守るようにして体の前で手をかざした。
しかし、それは何の意味もないことを知っている。
――死ぬ。
その言葉が強く脳裏に焼きついた。
が、豹は一瞬何かにためらったようにして動作を止めた。
『ヴァイス 静謐を寵愛する雪白の鷺よ 純良な獣と心神の方正 我は汝を渇望せし佳良なる芳香の果実 加護と太平 我の糧とする!』
光が豹を貫いて。
シシィの身体はオレンジの香りに包まれる。
涙がこぼれた。
「シシィ、いったん退くぞ。これは――孤独共存の呪いだ」
「待って、くださ……ヴィトランさんが……Bさんが……!」
――ルウスさんが、人形になったままで。
せめて、その3人の身体だけでも、持って帰ってベッドやソファに寝かせてあげたい。
あんな、冷たい地面に倒れたままは、かわいそうすぎる。
せめてそばに。
あたたかいところに。
しかしルビーブラッドは、ロッドに魔力を込めて口を開く。
『イオス 誇り高き二藍のかわひらこよ 妖艶な羽と神秘の羽 我は奇怪の扉を開く者 浮き世に囚われず汝の力を望む』
「待って、3人を……ルビーブラッドさん!」
光が2人を包んで、風景が溶けてロビーに変わる。
シシィの図書館のロビーは、静かだった。
外でのことなど、まるで無関係のように。別世界のように。
シシィは抱きしめているルビーブラッドの腕から逃げるように、するりと身を引いて踵を返した。
その腕をルビーブラッドがつかむ。
「どこへ」
「3人の身体をここへ連れて来ます」
「ダメだ」
「――っどうして!!」
シシィはルビーブラッドの腕を振り払おうとしたが、つかむ力が強くて振り払えない。
抗議するように、シシィは涙目で彼を見つめた。
「あんなところに見捨てるなんて、出来ません!あんな、呪いに満ちたような、冷たい場所に地面の上に置き去りなんて……っ!大切な人たちなんです!」
「3人で済むのか」
ルビーブラッドの問いの真意が分からず、シシィは瞬きをした。
涙が光るようにこぼれる。
「3人で済むのかと訊いている。その隣に倒れている、幼い子供は見捨てられるか」
「…………っ!」
「その子供を抱いている母親は。その隣にいる父親は。家族は。友人は。見捨てられず全部連れて来て、彼らをどこに寝かせる?町じゅうの人間を寝かせられるほど、ここは広くない。だが、お前は見捨てられないだろう。それに呪い……それも孤独共存の呪いの中を歩くことになる。それがどれだけ危険なのか分かっているのか」
心臓を抉られるような問いだった。
――見捨てられない。
隣に子供が倒れていれば、やはり連れてきてしまうだろうし、その隣にいる人物も助けたくなる。
町の人々をあたたかいところに寝かせてあげたい。
けれど、それには圧倒的に広さが足りない。
「でも……あんな……っ」
漠然と。
孤独共存の呪いが、人間を人形に変えると聞いて、何も考えずその表情は無表情なのだろうと思い込んでいた。
なのに、あんなに辛そうな表情をしていた。
責められているように思えた。
町がこんな状態に陥っているのに、お前は何をしているのだ、と。
「シシィ」
「ど、して……こんなことに……少し前までは、普通だったのに」
「シシィ」
「もう……こんな……」
「シシィ!」
強く呼ばれて、シシィの身体は震える。
それを押しとどめるように、ルビーブラッドはシシィの腕を強く握った。
「現実を見ろ。何がきっかけなのかは分からないが、呪いは目覚めてしまった。何もなかった頃には戻れない。魔術を持ってしても時を戻ることは無理だ」
「なら……どうしたら」
「お前の祖母は、この孤独共存の呪いをたった1人で封印した。お前の役目は」
「……私の、役目は」
「――それを受け継ぎ、再び呪いを封印することだ」
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