指輪をはめて、シシィはその手を握りしめた。
 ――良かった。
 ルビーブラッドがくれた石で作った、ヴィトランが自分のためだけに作ってくれた唯一の指輪。
 オンディーナが守ってくれていたことで、オークションに流れなかった。
 ――ありがとう、オンディーナ。
 本当に、感謝の言葉しか出てこない。キラキラと光る指輪は本当に希望のように思えて、胸に光が宿ったような気さえした。
 指輪を撫でながら、シシィはこれからのことを考える。
 オンディーナは無事に帰った。ロッドもトランクも指輪も戻った。
 あとは。
 ――ルビーブラッドさん。
 今もまだ、戦闘中なのだろうか。もしそうであるなら、来た道を戻るのは賢明とは言えない。足手まといになるだけだ。
 かと言ってここに留まるのも賢明とは言えない。従業員たちは今は眠っているようだが、そのうちに起きるかもしれないし、別の場所にいた従業員たちがやってくるかもしれないからだ。
 ――どうしよう。

「……ったく、何なんだ、この魔術は……って」

 その声に。
 シシィは背後を振り向き、固まった。

「…………っ!」
「……おやや、お久しぶりだねうさぎちゃん」

 暗闇の中、そこにいたのは自分を誘拐した短髪の男だった。
 ブレックファーストと、自分が思っている人物が同一であるならば、彼が『オピス』という魔術師だ。
 シシィは慌てて彼から距離を取った。
 心臓の音が、うるさく聞こえる。
 ――逃げなく、ちゃ。
 あの男と闘って、勝てる自信はない。何せシシィは今まで魔術を使っては来たが、それはほとんど治療と称したもので、他に使ったと言えば呪いに対してだ。
 例外をあげるなら、ルビーブラッドに向けて使った程度。
 しかもそれは相手がかなり手加減をしていてくれたもので、魔術の戦闘はしたことがないと言った方が正しかった。
 逃げなければいけないことは分かっている。
 ――けれど。

「おっと、逃げられると思ってるの?ルビーブラッドのところに行かせると?」

 ロッドを自分に向けられて、シシィも反射的にロッドを向ける。
 ――逃げられる、わけがない。
 戦うことが恐ろしい。争うことが怖い。
 人と対峙するのは、呪いに立ち向かうより遥かに勇気がいることだ。

「怖いんでしょ」
「こ、怖くなんかっ!」
「声裏返ってるよ、ははっ」

 声が裏返るどころか、ロッドを持つ手が震えている。
 ――震えないで!
 そんなシシィを嘲るように、男はニィ、と口を弧に歪めた。

「思わぬハプニングで、1つ商品が減っちゃったみたいだし?うさぎちゃんは確実にオークションに出てもらうよ」

 男のロッドに、灰色の光が集まる。

『我が意識下の黒き獣よ 我は汝に力を与えん 牙を()き爪を()ぎ欲望の心を(さら)け出せ 輝きの力は汝に及ばず息絶えるのみ』

 ――また、黒魔術……!
 シシィは身構えて、ロッドに魔力を送る。あの時のように、オンディーナはいない。
 自分の身は自分で守るしかないのだ。
 果たして、震える体であれを防げるのか。
 が、混乱する頭の中で、たったひとつ、シシィは強く感じていることがあった。
 ――発動が遅い。
 見下しているのか油断しているのか、男の魔術発動はかなり遅く感じられた。こうして考えている間にも、まだ彼の呪文は途中なのだ。
 この好機を見逃す手はない。

『汝を留めるは安穏の鎖 緩やかなる流れと鋼鉄の意志 白く無音の部屋に囲われし かけたかの鳥が鳴いたなら 汝の箱と紙は静止と沼の道を歩むだろう 委ねよ身と心 停滞は汝に安息をもたらす使いなり 縛れ ローティンフ!』
「なっ……!くそっ、『認容せぬ 摧破(さいは)せよ!』」

 まっすぐ男に向かっていった、シシィのオレンジ色の魔術は男の呪文によって光を散らされて破壊される。
 が、シシィは落胆したものの焦らなかった。
 ――魔術を壊すのは、当たり前のことだもの。
 ルビーブラッドと争った時に、自分も彼も使った魔術だ。
 シシィは構わず、破壊された瞬間に次の呪文を唱え始める。

『其を引きずりこむは蒼の結晶 何があっても冷静であれ 其はもはや活動すること赦されざる存在 喚きは凍り嘆きは冷え その悲しみは永久を得るだろう 固めよ決意の心 寒冷の流れは其を超えて行くもの 凍れ ライスカリータ!』
『燃えろ デイリスター!』

 シシィの氷と男の炎がぶつかって、辺りを水蒸気が覆う。
 ――魔術が、使える。
 シシィはそのことに驚いていた。ロッドが戻ってきた以上使えるのは当たり前だが、この場合、男に向かって使えているという状況に驚きを隠せない。
 戦えないと思っていた。
 戦えたとしても、防戦一方になると思っていた。
 が、有利なのはシシィの方だ。そのことがシシィには不思議だったのだが、シシィ自身が気付いていないだけで、それは特別不思議なことではない。
 ずっと彼女はルビーブラッドの魔術や魔導を見てきた。他人の使う魔術は彼の魔術しかほとんど見たことなく、一流であるルビーブラッドの魔術発動の速さが彼女の中である程度『基準』となっていたのだ。
 彼の速さに追いつこうと努力し、さらに最近では呪いと対峙することが多かった。
 そのことでシシィの呪文詠唱は、格段に速くなったのである。
 周りに標準的な魔術師がいなかったことで気付かなかっただけで、シシィの魔術発動はルビーブラッドに比べればかなり遅くとも、普通の魔術師と比べるとかなり速い。
 本人を差し置き、それに気付いたのは男の方だった。

「くそ……!マジかよ、まさか呪文短縮を使わされるとは……」

 水蒸気で何も見えないが、男の声からしてかなりの魔力と体力を取られたらしいのは窺える。呪文短縮は、魔力と体力が高くないと辛いものだ。
 シシィは見えない相手に対して、ロッドを向ける。
 その向けた先から――灰色の光が飛んできた。

「きゃっ!?」

 反射的にシシィはロッドでその光を防ごうとしたが、光はロッドをすり抜けてシシィの身体を包み込む。
 同時に、体が石のように硬くなり、動けなくなった。
 ――何、これ……!?
 水蒸気が徐々に晴れていき、男の姿がかすかに見えるようになってくる。

「まったく……油断してたよ、闇色ハット、だっけ?あんたの呪文詠唱がそんなに速いとは思わなかった」
「――!」
「声、出ないだろ?口も固めといたからさ」

 ――だって、呪文も何も聞こえなかったのに……!
 そう言いたくても言えないシシィの言葉を、正しく理解した男は笑いながら手を振って見せた。

「ロッドを使って、呪文を唱えるだけが魔術じゃない。指輪にあらかじめ呪文と魔力を注ぎこんでおけば、魔術は使える」

 シシィの呪文詠唱は、確かに速い。が、それ以上に彼女には経験が足りなかった。
 そういう道具を身につけていなかったし、つけようとも思わなかった。
 水蒸気が完全に晴れる。
 男の姿も完全に見えるようになってしまった。
 ――どうし、よう……!
 このまま捕まってしまえば、すぐにオークションに出されるだろう。あちらにとっては都合のいいことに、ここはオークション会場の袖だ。
 近づいてくる男に対し、身を引きたいが引くこともできない。
 ――助けて……ルビー……!

「あんたも、あんなの(・・・・)と組むから逃げられるって勘違いしたんだろ?」
「――?」

 目を瞬かせるシシィに、男は笑いながら話しかける。

「ルビーブラッド『様』だよ。あいつ、強いから一緒に仕事すると自分まで強くなったような気分に陥るって有名な話だぜ」
「――っ!」
「ま、あくまで『気分』だけど。だって、あいつの魔力って化け物、だろ」

 その、さりげなく、何気ない男の言葉に。
 シシィは息を止めた。
 ――化け、物?

「うさぎちゃんも、かなり魔力高いみたいだけど、それでも人間の範囲じゃん。でも、ルビーブラッドの魔力は人間じゃない。あれは化け物、モンスターだよな。表情も全然変わんないし、ははっ。モンスターと比べたら、誰だって弱いに決まってる」

 ――何で、笑うの?
 自分が化け物なのでは、と。
 怯えていたと、小さな声で言葉を落とすように彼は言っていた。
 それは枯れ葉のように、強く握りしめれば壊れてしまいそうで、つぶれてしまいそうで、そっと受け止めるしかできない告白だった。
 親友を失って、それでもなお、自分の心の底にある感情を汚いと、容赦なく自分を痛めつけるように責めるその姿が、悲しくて。
 とても不器用で。

 その不器用さが人間らしく思えて、とても好きだと思った。

 ――笑わないで……。
 自分を笑われるのは、全然苦にならない。我慢できる。
 けれど。
 ――ルビーブラッドさんのことを、笑ったりなんかしないで……!
 シシィが男を睨みつけると、彼は肩を軽くすくめた。

「怒ってんの?でも、ルビーブラッドってそういうヤツだろ」

 ――貴方に、何が分かるの。
 自分だって、ルビーブラッドのことなんて全然分からない。それでも、この知ったように語る男なんかよりは、彼のことを知っている。
 少なくとも、化け物なんかじゃないことくらいは知っている。
 ――汝を留めるは安穏の鎖
 シシィは心の中で呪文を唱え始めた。魔力はロッドには流さない。それをしてしまう
 と、相手に魔術を使うことを知らせてしまう。
 できるだけ極秘に。静かに、すみやかに。
 身体を廻る魔力の勢いを感じながら、シシィはひたすら呪文を唱えた。
 ――緩やかなる流れと鋼鉄の意志 白く無音の部屋に囲われし かけたかの鳥が鳴いたなら 汝の箱と紙は静止と沼の道を歩むだろう 委ねよ身と心 停滞は汝に安息をもたらす使いなり
 廻る、魔力が。体が。視界が。世界が。
 魔術で固められてもなお、体が傾きそうな感覚。
 それが限界に近づいたとき、シシィは一気に魔力をロッドに流し込んだ。

「うおっ!?」

 これ以上なく、オレンジ色の光がロッドを輝かせる。光の爆発、と言って過言でないほどの輝きを放った瞬間、シシィも呪文を唱えた。
 ――縛れ ローティンフ!

「がっ!」

 男の足もとに魔法陣が現れて、その陣からさらに光の帯が伸びる。それらは男の体にまとわりつくように上へと這っていき、彼の体を完全に押さえ込んだ。

「くそっ!『認容せぬ』……」

 ――させない!
 シシィが念じると、光の帯が男の口を押さえこむ。それにより、男は呪文を唱えることが出来なくなった。
 そう、出来なくなったのだが。
 ――ああ、これからどうしよう。
 どちらも、動けないのである。シシィは体を固められていて、向こうは体を押さえこまれている。魔術が使えない状態だ。
 シシィの方はもう一度さっきのようにして魔術を使えばいいのだが、残念なことに、気分が悪くてそれどころの話ではない。魔力と一緒に脳も回ったような感覚で、軽く乗り物酔いをした気分である。
 ――さっきのを、あの人にやられたら……。
 向こうが、心の中で魔術を唱え始めたら。
 もう、勝ち目はない。

『シュヴァルツ 永劫(えいごう)彷徨(ほうこう)する漆黒の(からす)陋劣(ろうれつ)な獣と心神(しんしん)の腐敗 其の者共は汝が渇望せし奸悪(かんあく)なる芳香の果実 惨禍と懲戒 汝の(かて)とせよ』

 ――!
 黒い光が男の身体を包む。
 暗黒の光が闇に溶けたときには、男は拘束されたままぐっすりと眠っていた。

『ヴァイス 静謐(せいひつ)寵愛(ちょうあい)する雪白の(さぎ)よ 純良(じゅんりょう)な獣と心神(しんしん)の方正 我は汝を渇望せし佳良なる芳香の果実 加護と太平 我の(かて)とする』

 今度は白い光がシシィの身体を包み、体の硬直が解かれた。
 シシィは光が飛んできた先を見る。
 ――涙が、出そう……。

「ルビーブラッド、さ……」
「シシィ!」

 硬直が解かれたことによって傾いたシシィの身体を、ルビーブラッドは抱きとめた。
 朦朧とする中、オレンジの香りだけが濃く感じる。
 ――良かった。ケガもないみたいだし。
 支えてくれている左腕にそっと触れてみるが、特に目立った外傷はなさそうだった。
 安堵するシシィとは裏腹に、ルビーブラッドは厳しい声を出す。

「また無茶な使い方を」
「いえ……こんなの魔導を使ったときに比べれば」

 きゅ、と抱きとめているルビーブラッドの左腕に力が入った。

「……………………魔導を、使った?」
「……あ」

 低くなったルビーブラッドの声に、シシィは不穏なものを感じて無理やり話の流れを変えた。

「オンディーナはブラック・フィンガーさんが連れて帰られました、よ」
「そうか。魔導は」
「あ、あの、ルビーブラッドさんは、相手を倒されてきたんですか」
「気絶させてきた。魔導は」

 ――うん。やっぱり、無理だよね。
 ちょっと涙目になりながら、シシィは以前依頼で魔導を使った経緯を話した。その話をルビーブラッドは無言で聞いていたが、その無言が怖い。
 話し終わった後も、双方微動だにしなかった。
 シシィに限っては、出来なかったという方が正しいが。

「――『イオス』は魔導の中で最後から2番目に習う魔導だ。何故か分かるか」
「え、えっと、どうしてでしょう」
「失敗すると、空間の狭間から帰ってこれなくなるからだ」

 シシィの身体から、どっ、と冷たい汗が噴き出す。

「どんなに困っても、二度と魔導は使うな。使う気なら最初から勉強をしろ」
「お、おお、おっしゃる通りでございますりまする……っ!」

 もう色々と泣きそうだった。怒られて悲しいのやら、怖くて怯えているのやら、会えてホッとしているのか全く分からない。
 ――いや、会えて嬉しいんだけど……。
 と、思ったところでシシィは魔術にかかってもいないのに、再び硬直した。
 ルビーブラッドに抱きとめられている、この状況。
 ――ああ、ああ、あ、ああああ、ある意味幸せなのですが!
 あまりにも恥ずかしくて、これから先どうすればいいのか分からない。

「――シシィ」
「とわいっ!?」

 体をはねさせたシシィに構わず、ルビーブラッドの視線は1点から動かない。
 ルビーブラッドの左腕に触れている、シシィの左手。
 その人差し指にはめられた――指輪。
 ――あ。そういえば、説明してなかったんだっけ?

「あの、これ、ルビーブラッドさんから貰ったアステールを、いつも持ち歩けるようにしようと思って、ヴィトランさんに指輪にしてもらったんです」
「…………」
「け、削ってませんよ?原石のままです」
「あ、ああ……いや、そういうことではなく」

 珍しく動揺しているような声を出したルビーブラッドを不思議に思い、シシィは彼の腕から離れて顔をのぞきこむ。
が、すい、と逸らされた。
 もう一度のぞきこもうとするも、やはり逸らされる。

「ルビーブラッドさん?」
「……何でもない。自分の愚かさに呆れただけだ」

 首を傾げるシシィの見つめる先には、赤く染まったルビーブラッドの耳があった。