「安心しなさい、闇色ハット君」
耳元でささやかれた言葉――否、その声と呼び方にシシィは暴れるのをやめた。
暗くて相手の顔は、こんなにも接近しているのによく見えない。
けれどどこか懐かしく頼もしい声と、異国の香り。
何より、この独特の魔力は。
「ブレックファーストさん……!?」
「やぁ、思わぬところで会ったものだね」
身近にいても見過ごしてしまいそうな魔力。しかもそれは、探ろうとしなければ探れず、探しにくいことこのうえない魔力は、彼、ブレックファーストしかいない。
しかしここでブレックファーストが登場したことにより、シシィの混乱度はさらに加速した。
つまりだ。先ほどルビーブラッドと闘っていたのはブレックファーストであり、さらに驚くべきことに、あのルビーブラッドに肉体戦で勝ってしまったのだ。
――つ、強いって知ってはいたけど。
何せ、最初に出会ったときがそういう場面だったのだ。あの身のこなしは武術を会得している者にしかできないこなしではあったろうが、まさかルビーブラッドに勝ってしまうまでとは思わなかった。
――だ、だってルビーブラッドさんも強いのに。
しかしよく考えれば、ルビーブラッドは武術よりも魔導を多用し、おそらくブレックファーストは魔力が少ない分、危機には武術で持って対応してきたのだろう。
使用頻度と経験の差。
おそらくはそれなのだろうが――。
「ど、どうしてこんなところにっ!」
「私は私の目的を追ってきたまでだよ」
ということは、彼の復讐対象がこの船に乗っているということだ。
「だからこんな闇のほうまで来たけど……さっき、君が警備員に追われているのを見たんだ。もしかして、密航したんじゃないだろうね」
「違います!」
「冗談だよ。私は目的を追ってきたから、この船の地下で何が行われているか知っているし、嫌なことに『オピス』も見たんでね。君がここへ望まず連れてこられたんじゃないかと」
『オピス』というのがワークネームだとして、それがあの2人のうちのどちらかのワークネームなのか、それとも他にも魔術師魔導師がいるのかは分からないが、やはりよくない船ではあるらしい。
暗闇に大分目が慣れてきて、ブレックファーストの表情が読みとれるようになった。
普段の陽気な表情とは全く違う、真剣な表情で辺りを警戒しながら走っている。
「で、下に下がってみれば案の定。大男に連行されそうだったから、暗闇に乗じてこうして助け出したという訳なのさ」
――ああ。
シシィは頭を抱えたくなった。善意がこうも仇になった例を他に知らない。
「……今まで一緒にいた人は、ルビーブラッドさんですぎゃぁっ!」
ブレックファーストが腕の力を緩めたせいで、シシィは落ちかけたが、何とか彼にしがみつくことで落下は免れた。
が、ブレックファーストの身体が揺れている。
走っているからではない。一緒にいたのがルビーブラッドだと言った瞬間に、彼は走ることをやめた。
「……え?いや、ごめん。闇色ハット君、もう1回言ってくれないか」
「あの、一緒にいた大きな男性はルビーブラッ」
「すまない、やっぱり言わないでくれ」
そう言う彼の表情は、少し泣きが入っている。
「あぁ……どおりで久々に手ごたえがあると思ったんだ……何てことをしたんだ私は……勘違いじゃ済まないぞ……」
「あ、謝ればルビーブラッドさん、許してくれますよ!」
「いや……5発もやってしまったからね……かなり、その、悶え苦しむように」
それでうめき声すら聞こえなかった理由が分かった。
確かにそれは、殺意を覚えられるかもしれない。いかにルビーブラッドと言えど。
ブレックファーストは、ゆっくりとシシィを下ろし、近くにあったドアを開け始めた。当然鍵がかかっているので、開かないのだが。
「ブレックファーストさん?」
「すまない。私には彼に謝りに行く度胸がとてもないよ」
言いながら、彼はドアノブをガチャガチャといじる。
「だ、大丈夫ですよ、きっと!誤解が解ければ」
「いや、あれなんだ。君が思ってるようなことを危惧しているのではなく、もっと別の、馬に蹴られる前に逃げておきたいというような」
「馬?馬なんてどこに?」
「この場合、ルビーブラッドのことになるだろうね」
「ルビーブラッドさんは人間ですよ?」
「まぁ、そうなんだが……ああもう、面倒だ!」
小気味いい破壊音を響かせながら、ドアは開いた。
暗闇の中ではっきりとは見れなかったが、それでもシシィは見てしまった。ブレックファーストが蹴りドアを破壊し、開けてしまったところを。
普段穏便な彼なら、絶対にやらないところではあろうが。
――ルビーブラッドさんに会うの、そんなに怖いのかな。
何だか彼は、とても焦っているように見えた。
「ここで隠れていれば、少なくとも魔術師以外には見つからず、ルビーブラッドに見つけてもらえると思うから。ここで大人しくしているんだよ」
「ブレックファーストさん……何か、焦ってませんか?」
「いや、そんなことはないよ」
じ、とシシィが見つめると、彼はにこりと微笑んで黙る。
しばし見つめあい。
やがて、彼は軽くため息をついた。
「――目的が逃げる前に、やり遂げなければいけないんだ」
「…………それは」
「後先考えずに、君を助けてしまったけど、君はこんなものに関わらない方がいい。味方がいるなら、私よりは彼の方が君を守るのに適任だよ」
とん、と背中を押されて、シシィはドアの内側へと入った。
中も暗くて、何か物が置かれているのは分かるが、細かくは分からない。
真っ暗だ。
シシィは後ろを振り返る。
ブレックファーストの表情はよく見えない。
――闇に。
「――復讐者は、守ることを考えない」
「……っ」
「アイツが終われば、残りは……1人」
――溶けてしまいそう。
「ブレックファーストさんっ、やっぱり……!」
復讐はダメだ、と。
いう言葉は壊れかけたドアによって遮られた。
ドアを開けようとする前に、足音が遠ざかっていくのが聞こえる。今からでは、この暗闇の中では追いつけない。ただでさえ、彼は足が速そうなのに、遅い自分が追いつけるはずもない。
――ブレックファーストさん……!
歯がゆかった。彼は、自分の今の顔を鏡で見ているだろうか。
――こんな、表情なんて見えないはずの暗闇の中でも分かるくらいに……っ!
暗い瞳をしていた。真っ黒な、虚無の目だ。
復讐も終わりの時が間近となり、その分心が病んでいる。復讐を果たせば果たした分だけ、彼の心はやつれて、真っ黒に染まっていくだろう。
それは、復讐という罪を背負う者の定めかもしれないが。
――あんなブレックファーストさんは、あまりにも見てられない……!
魔力の気配を探るが、やはり見つけることは出来ない。ただでさえ見つけにくい彼だが、もし、今意図的に魔力を隠しているのだとすれば、それは捜索困難だ。
シシィは強くドアを叩いた。
叩いた拳が痛い。
――どうすることもできない。
後1人だと言っていた。あそこまで行けば、彼はもう止まらないし、止めれない。
浅い事情しか知らない自分が言って止められるほど、そんな生半可な気持ちで彼は復讐をしているはずではないのだから。
「シシィ!!」
シシィは身体をビクリとはねさせた。
――この声は。
「ルビーブラッドさん!」
叫んだ瞬間、鈍い音と同時にドアが消えた。
――え。
ドアに拳をついたままだったシシィは支えを失って、そのまま前のめりに倒れそうになったが、何かがシシィを受け止める。
――オレンジの香り。
「無事か」
「え、あ、はい!あの、あれはちょっとした誤解が」
「怪我は本当にないか。乱暴なことは」
「あ、本当に全然……」
それより、ルビーブラッドの方がケガをしているのではないかと、シシィは彼の腕に触れて気がついた。
――震えて、る?
それはシシィの気のせいではなく、わずかだが確かにルビーブラッドは震えていた。
――やっぱり、どこかにケガを。
「――もう、ごめんだ」
「……?」
「自分の知らないところで……怪我をされるのは」
落とされるように、ルビーブラッドが言った言葉。
それを聞いて、すべてを悟ったシシィは自分の軽率さを呪いたくなった。
――気付くべきだったのに。
ルビーブラッドの様子がおかしかったのは、彼が親友の死を引きずっているだけではなく、自分を危険な場所に連れてこざるをえなかったからだ。
そして、万が一のことを考えていたのだろう。
もしもはぐれたときに、シシィが危険な目にあい、あまつさえ――死んでしまったら。
ルビーブラッドの親友は、彼の見えないところで死んでしまった。
そんなことがシシィにも起こったら、と。
――怖かったんだ……。
自分の無力さを、また味わうことが。
――どうして、私、ルビーブラッドさんの心に土足で入ってしまうんだろう。
「……私は、置いていきません」
言いながら、悲しくなってシシィはルビーブラッドを抱きしめた。
はず、だった。
部屋がいきなり明るくならなければ。
「わぁっ!」
「……っ!」
明るくなったところで、双方とも意外に近かった距離に驚いて身を引いた。
シシィは顔を赤らめながら胸を押さえ、ルビーブラッドは無表情にシシィから視線を逸らす。
――あ、ああ、危なかった!
おそらく、明かりがつかなければそのまま抱きしめてしまっていただろう。自分が起こそうとした大胆な行動に、シシィは信じられない気持ちだった。今までの自分ではありえない行動だ。
――ああ、もう、頭が混乱する。
この気持ちに、気付いてほしくないわけではない。けれど、まだ気付いてほしくない気持ちもあるわけで、その辺りは複雑な気持ちだ。
――今はまだ、あの声が名前を呼んでくれれば、それだけでいいのに……。
「シシィ」
「ひゃいっ!?」
望み通り呼ばれたことにより、心を読まれたように思えてしまったシシィは、思い切り声を裏返しながら返事をした。
それにルビーブラッドは少し驚いたようだったが、深くは追求せずにシシィの背後を指差した。
「ロッドが」
振り返ると、暗闇の中では分からなかった、部屋の全体像が明らかとなる。
そこは、倉庫のような印象を受ける部屋だった。
絵画に、宝石、剣に楯、甲冑。珍しいもので刀、というのもあり、食器につぼ、家具などと普段の生活にも使えそうなものもあって、かなり雑多としている。
しかしそのどれも、アンティークものか1級品である。
そんなあふれる物の中で、ルビーブラッドが指し示した先にシシィは見慣れたものを見つけた。
祖母から贈られたロッドと、魔術薬や道具を詰め込んだトランク。
――ここは、もしかして。
「どおりで弾かれたわけだ」
「え?」
「ピアスで飛ぼうとしたが、弾かれた」
それは、この部屋に結界が敷かれているからで。
「――オンディーナ!」
シシィは声を荒げた。ここにロッドとトランクがあり、結界があるということはこの部屋はオークションに出す品物を保管しておく部屋であり、そうであるならここにオンディーナがいるはずだからだ。
が、返事はない。それどころか人の気配すら感じられない。
――まさか。
「……運ばれた後か」
「…………っ」
――そんな。
シシィはがくりとひざを折った。
運ばれた後は、もう助けられない。オークション会場に移動してしまったのでは、もう助けに入れない。取り戻せない。
心も折れかけて、涙が目に溜まり。
顔が熱くなる。
手が白くなるほど、シシィは強くこぶしを握った。
――ダメ、諦めない。
どんなにもうダメだ、と思っても、奥底の方で「まだ助けられる」と声がする。
どうやっても諦めきれない、見苦しいほど希望を望む声。
――でも、これが私の手に入れたものだもの。
魔術師になって手に入れたものは、諦めない心だ。
「まだ……助けられます!この船に、オンディーナがいる限り!」
「……そう言うだろうと思っていた」
ルビーブラッドはため息をつきながら、腹部を軽くさすった。
「シシィ、ロッドを取れ」
「は、はい」
「痛みも治まった。あとは仕事をこなすだけだ」
ロッドを片手に、ルビーブラッドは厳しい目で部屋の外を見据える。
「明確な指定をしなかった方が悪い。俺は俺のやり方でオークションを潰す」
「へ……」
「それをどう利用するかは、シシィ。お前次第だ」
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