――泣きやまなくちゃいけないのに。
 ルビーブラッドが困惑している。それはそうだろう、シシィと出会うはずがないと思っていたところで出会い、背中まで腕はまわされていないものの抱きつかれ、しかもシシィは泣いている。これで困惑するなという方が難しいというものだ。
 ――早く、説明をしないと。勝手にお部屋に入って、ごめんなさいって言わないと。
 そう分かっていても、涙があふれて止まらない。

「…………」

 一向に泣きやまないシシィの頭に、ルビーブラッドの手が置かれようとしたとき。
 コンコン、と。
 音がして、扉が開いた。

「失礼します!現在不審者を捜していまして…………」

 その状況を説明すると。
 VIPルームで、抱き合う男女(厳密に言うと違うのだが)。
 そこへ割り込んだ警備員。
 ムードはぶち壊し(警備員の思っているようなムードではないが)。
 しかもVIPはあのルビーブラッドで、思い切り睨まれている(本当は驚いているだけなのだが)。
 一瞬、彼は固まったのち。

「申し訳ありませんでしたぁぁぁぁっ!!」

 真っ青、どころか真っ白な顔で、警備員はドアを勢いよく閉めた。

「…………」

 ルビーブラッドは黙って、触れようとしていた手を退けた。

「よ、良かった……?」

 そんなルビーブラッドの行動は露知らず。
 いきなりドアが開かれたことにより、もうダメかと観念したシシィだったが、何故か気付かれることなく危機を乗り越えられたために、驚きのあまり涙が止まってしまった。まだ頬は濡れているが、目から新しく雫がこぼれることはない。

「…………怪我を」

 ルビーブラッドはシシィをゆっくりと引き離し、シシィの左腕に巻かれている包帯に触れた。どこからどう質問すればいいのか分からず、とりあえず最優先すべきことから訊くことにしたようである。
 シシィは「大丈夫です」と手を振ろうとして――悶絶した。
 ――痛いの、忘れてた……っ!
 ショッキングな出来事が続き、痛みすらもマヒしていたが、この腕は前回の依頼のときに負ったケガにくわえて、ロッドなしの魔術を使った反動もくらっている。
 全く大丈夫なはずがなかった。

「こめかみにも」
「――っれは、あの、ええと、角で!本棚の角で!ガツンと!思い切りよく!」
「手に火傷も」
「ちちちちちょっとしたドジを!」
「…………シシィ。ロッドを見せてみろ」

 何故に。どうして、この状況でピタリとマズイことを言ってくるのか。
 ロッドを呼べないシシィは、あたふたと慌てた。

「ろろろろろロッド?なななな何でデショウカッ!」
「……持っていないな」
「何故それをっ!?」
「この腕の火傷、魔道具を使わず魔力を使った場合の火傷に似ている」

 こんな時だけはルビーブラッドの博識が憎くなる。

「何があったかは知らんが、無茶をする……」

 ――無茶?
 ロッドも魔道具もなくて、オンディーナと一緒に閉じ込められ、あのままでは魔道具も指輪も、それどころか自分自身さえどこに行きつくか分からなかった。
 両親にも、ルウスにも、Bにも、ヴィトランにも、ブレックファーストにも。
 ――ルビーブラッドさん、貴方にだって。
 会えなくなってしまうところだった。
 あそこで魔術を使ったのは無茶ではなくて、必要な抵抗だったのだ。
 自分たちが助かるために。
 ――助けなくちゃ。
 シシィは濡れていた頬を痛む手で拭った。
 ――私は、ルビーブラッドさんに会えたから。
 まだ頑張れる気力を貰った。光を貰えた。
 今度はオンディーナにそれを与えに行く番だ。

「お部屋に勝手に入ってしまってごめんなさい。でも、もう私行かないと」
「待て」

 ルビーブラッドに行く手を遮られて、シシィは戸惑った。
 長いロッドの先を向けられる。

『ジャッロ (きら)めき損なわぬ黄金(こがね)鶺鴒(せきれい)よ 満身の涙と心魂(しんこん)の血 其の者は汝を希求せし苦悶と苦痛の羊 慈愛と甘美 其の身とせよ』

 ルビーブラッドが呪文を唱えると、光がシシィの身体を包み、すぐに体中の痛みがなくなった。魔術で負った火傷どころか、依頼で刺された腕の傷も痛まない。
 包帯を解いてみると、傷跡すら無くなっていた。

「あ、ありが……」
「何故急ぐ」

 その理由を訊かれると辛いものがある。
 ――どうしよう。
 ルビーブラッドの様子からして、理由を言わなければこの部屋から出してくれそうではない。しかし、正直に言っていいものなのか。
 秘密裏に行われるオークションの商品にされそうになっている、と。
 言えばルビーブラッドは自分たちが逃げることに協力してくれるだろう。しかしそれは彼もこの騒動に巻き込むことを意味している。
 シシィはちらりと、ルビーブラッドの仏頂面を視界に入れる。
 ――嘘をついてみよう、か?

「あ、ああ、あの、実は」
「嘘は却下だ」
「何故それを!?っていや、ちが、あのこれは!依頼で!ふ、不審者を見つける依頼でして、わ、私はもう行かねばなりませぬ!」
「それは本当か、シシィ」

 ずい、と。
 ルビーブラッドに顔をのぞきこまれて、シシィの頭の中は真っ白になった。
 ――か、かかっか、顔がちかっ……!
 一瞬で顔が燃え上がるように熱くなり、恥ずかしくなってシシィはルビーブラッドから距離をとった。
 何せ『そういう気持ち』を自覚してから、初めて会うのだ。今まで普通に近づけていたことが信じられないし、先ほど抱きついたことも今考えると恥ずかしい。
 ――っていうか、普通の距離ってどれくらいだったっけ?
 ――違う、今はそんなことよりオンディーナを。
 グルグルと混乱するシシィに、またルビーブラッドが近づく。

「何故逃げる」
「うぇぁっ!?こ、ここれがスタンダードな距離ですっ!」
「嘘をついていて、後ろめたいからだろう」

 確かにそれもあるが、割合の多くを占めるのはルビーブラッドへの照れだ。
 どうして分かってくれないんですかっ、と心の中で無茶なことを思いながら、シシィがまた距離をとると、それにルビーブラッドがついてくる。
 何度か同じことを繰り返し、シシィの背中が壁についたところで。

「――っさ、攫われてきたんですっ!!」

 シシィの方が、結局音をあげた。

「図書館に依頼人の振りをして、魔導師と魔術師が私を攫いに来て、この船に知らない間に乗せられてオークションの品物として売られそうになったから逃げ出してきたんです!」

 顔を背けていたシシィはそこまで一気に言い切ると、ルビーブラッドの反応を確認するためにちらりと様子をうかがった。
 彼は――額に手を当てていた。

「る、るルビーブラッドさ……ごご、ごめんなさっ」
「違う。泣くな。シシィのせいじゃない……『それ』か……オークション」

 首を傾げるシシィに、ルビーブラッドは懐から青い封筒を取り出し、手紙を取り出してシシィに内容を見せた。
 どうやらそれは、ルビーブラッドに寄せられた依頼らしいのだが。

「……『詳細は、直接。指定された船に乗って来てくれ』?」
「としか、書かれてなくてな。おかしいと思った、いつも『イオス』で行くのに、今回は指定されていたからな……こういうことか」
「へ?」
「……この船は世界中を旅する、金持ち相手の豪華客船だ。これが黒い噂のある金持ち連中も大勢乗っていてだな、おそらくはそれが気に入らんのだろう」
「気に入らない?誰がですか?」
「手紙を寄こした依頼人だ。違法なオークションをされるのが不愉快なんだろう。つまりはこのオークションを潰せと言いたいらしいな」
「そうか!とっても正義感あふれる人なんですね!」

 シシィの言葉に、ルビーブラッドはなんとも言えない表情を見せて言葉を濁した。

「……まぁ、色々な思惑はあるだろうが、それはいい。とにかくシシィ、お前はここに隠れていろ」
「……えぇ!?でも私……!」
「魔術が使えないんだろう。それに、シシィも商品として扱われている以上危ない。頼むからここにいてくれ」

 ――でも。
 シシィは首を横に振った。何を了承しても、それだけは了承できない。自分だけ安全なところにいるなんて、オンディーナに顔向けできないではないか。
 彼女は、自分の身を犠牲にしてまでシシィを助けてくれた。
 ――ルビーブラッドさんも。
 少なくとも魔術師と魔導師が1人ずつこの船にはいるというのに、たった1人で行こうとしている。シシィの心配ばかりで、自分の身を心配していない。
 ――それは、強いかもしれないけど。
 そこで、シシィは気がついた。
 ――そうか、ルビーブラッドさんとオンディーナって、どこか似てるんだ……。

「シシィ」
「ダメです、ついていきます。私、ロッドの他にも魔道具とかも奪われてしまってるんです。それに……友達が、まだ下にいるんです。助けなくちゃ」
「……それは」
「たとえルビーブラッドさんが、私をここに閉じ込めていったとしても、何とかして外に出て、後を追っかけて行きます!」

 今度はシシィに押し切られ、心なしかルビーブラッドの方が体を退けた。
 眉間にしわをいつも以上に寄せて悩みに悩み、黙考する。
 ――1人でなんて、行かせられない。
 本当はルビーブラッド1人の方が動きやすいのは分かっているのだが。
 ――ルビーブラッドさん、前より痩せた。
 もともとルビーブラッドは細身な方ではあったが、それより格段に痩せている。それは痩せこけた、と言ってもいいくらいだ。
 テーブルの上に残された、手を付けられていない食事。
 ――ルビーブラッドさん。『あれから』ご飯は食べれているんですか?
 それは、尋ねられない。忘れてくれと言われた以上、あのときのことについては触れられない。でも、無かったことには出来ないのだ。
 力強い魔力に比べて、希薄な気力。
 シシィは、ルビーブラッドを真っ直ぐ見つめた。

「お願いします。連れて行ってください」

 その言葉に――ルビーブラッドは背を向けた。
 ――私では、やっぱりダメですか……。
 しょんぼりと、肩を落としたシシィをよそに、ルビーブラッドはテーブルの上に置かれていた、赤いペンダントを手に取った。
 それはルビーブラッドが、シシィに手渡したペンダント。

「これが戻ってきたときは、何事かと」
「あ……あの、私を攫った人たちに見られてしまったらしくて」
「本来、1つの魔道具に別系統の2種類の魔術をつけることは不可能なことだ」
「はぁ」

 2種類、というのは空間転移の魔術と、夢の魔術のことだろう。

「だから、このペンダントには『条件』をつけて、無理やり力を底上げしている。ペンダントの『条件』は『他人に見られないこと』で、このピアスの『条件』は『肌身離さないこと』だ」

 ――それが破られたから。
 ペンダントはシシィのもとから溶けて消え、ルビーブラッドのもとへ帰ってきた、ということなのだろうか。
 悩むシシィを横目で見てから視線を手元に戻し、ルビーブラッドはペンダントに軽く唇をあてた。

『千古の時は満ち 眠りの飴色は色を取り戻す 雫の一滴先は未来であれ 我は汝に再び命を灯さん イェンクォルート』

 優しい光がペンダントに入っていく。その光が入っていくほどに、今まで何も感じなかったペンダントが輝きを増していくように思えた。
 ――気付かなかった。あのペンダント、魔術が切れてたんだ……。
 それほど混乱していたということだが、改めて思い出してみると以前より輝きがなかったような気がする。それが今、ルビーブラッドの魔術によってよみがえった。
 それで終わったのかと思いきや、彼はもう1つ呪文を唱える。

『1つは1つ 1つは2つ 1つは3つ 汝らは互いに惹かれあい呼び合うだろう かすかな声も聞き逃すことなく 目前に現わせ ラフガバエオラ』

 聞いた事も見たこともない魔術だった。自分の勉強不足かもしれないが、あの魔術はルビーブラッドオリジナルの魔術だということも十分考えられる。
 ――何にしても、どんな魔術なのか分からない。
 首を傾げるシシィのもとに、ペンダントを持ったままルビーブラッドが戻ってくる。
 そしてシシィの手を取ると、持っていたペンダントを手のひらの上に落とした。

「これを持っていることが条件だ」
「え?」
「切れた魔術は戻しておいた。それと、今までは『飛ぶ』のはペンダントもピアスも俺にしか使えなかったが、これからはこのペンダントに魔力を一定以上注げば、俺のところに来れるようにしておいた。もしもはぐれたらこれを使え」
「はぐれたら、って……」

 ルビーブラッドはため息をつきながら答えた。

「……また、ロッドなしで魔術を使われると困る」

 それは事実上、シシィの同行を認めた言葉で。
 シシィは目を輝かせて、ルビーブラッドを見つめた。

「それは非常用だ。絶対に俺からはぐれるな」
「はい!」
「……傍に、いるなら」

 ――あ。
 ルビーブラッドの視線が、自分の腕へと移動したのをシシィは感じた。
 さみしげな瞳。どこか心細げな。
 それが何を意味するのか、あまりにも彼の心は深すぎて推し量れない。

「――いてくれるなら、必ず守れる」