「うわっ!?」

 と、叫んだのはシシィではなく、男の方だった。
 シシィに伸ばされた男の腕をオンディーナが取り、きれいに、それは本当にきれいに一本背負いで投げ飛ばしたのだ。
 身体の小さな少女が、大の男を投げ飛ばすシーンは、かなりの圧巻である。
 ドォン、と地響きのような音が廊下に響き渡り。

「来い!走れ!」
「……え?」

 オンディーナは呆然とするシシィを連れて走り出した。
 その一瞬後に、清掃係の女性の悲鳴がこだまする。

「ど、どどどうしっ!」
「落ち着け!くそっ、顔の知れてる人間に早く出くわすたぁ、完全に予想外だよっ!あんた、トラブルメーカーか!」
「ごめんなさい!」
「そこだけきっぱり謝るな!自覚持ちか!」

 残念ながら最近になって自覚が芽生え始めたのだ。

「いて……やってくれるな、子うさぎちゃん。でもさぁ、俺が何なのか教えてやるよ」

 起き上った男の手に、ロッドが召喚される。
 ――あの人も魔導師……ううん、魔術師!?
 長髪の男よりはロッドが短く、シシィのロッドより少し長い程度だ。

『我が意識下の黒き獣よ 我は汝に力を与えん 牙を()き爪を()ぎ欲望の心を(さら)け出せ 輝きの力は汝に及ばず息絶えるのみ 我らに逆らいし愚かなる者に絶対零度(ぜったいれいど)屈従(くつじゅう)恐慌(きょうこう)悦楽(えつらく)を 墜落(ついらく)せよディーフェルント!』

 ――何、あの呪文は。
 あんな呪文は知らない。あの魔術は今まで勉強してきた中で、シシィには聞き覚えも見覚えもない魔術で、そしてそれはとある1つの推理にたどりつく。
 あの魔術は、黒魔術なのでは、という推理。
 呪いと黒魔術は密接に関係しており、勉強することは出来ても会得することは禁じられている危険な魔術だ。
 それだけに、当たれば脅威で。
 今、シシィには防ぐ術がない。
 ――ロッドが、あれば……!

「はっ!教えてやる?あたしの方こそ教えてやんよ」

 男の方を振り向いて、オンディーナは美しく笑った。
 それは自信に満ち溢れた笑みで、動作で。

「てめぇらは――誰のコレクション(・・・・・・・・)に手ぇ出したのか忘れてんじゃねぇの?」
「!」

 腕を伸ばし、オンディーナは真っ向から魔術とぶつかりに行く。
 ――無謀な!
 シシィが彼女を引き戻そうと手を引っ張るが、あちらの方が驚くほど力が強い。逆に引っ張られて、シシィ自身も魔術とぶつかりに行く形になってしまった。
 ――どんな魔術なのかもわからないのに!
 また、眠らされるだけならいいが、ケガでもするものなら。
 しかし実際には、オンディーナの手のひらに魔術が当たった瞬間。

 魔術は、跡形もなく消えた。

「――え」
「ちっ!」

 呆然とした声はシシィで、舌打ちをしたのは短髪の男。
 消した本人のオンディーナはニヤリと笑う。
 ――今、魔術が。
 オンディーナが魔術に触れた瞬間、男の魔術が消えて、新たな魔術が現れた。
 魔術と言うよりは魔法陣で、一瞬見ただけでも封印するための魔術だということは形式を見れば分かった。
 何かを封じている。
 それも恐ろしいほど美しく強い魔法陣で。
 ――オンディーナ、まさか。

「来い!逃げるぞ!」

 手を取られてシシィはオンディーナと共に逃げ出し、男は慌ててその後を追う。どうやら魔術はオンディーナがいる以上、むやみに撃つことができないようだ。
 それはそれで助かるが、あちらは成人男性、こちらは子供と女。明らかに体力に差があり歩幅も違うため、すぐに追いつかれてしまうだろう。
 さらに悪いことに、さきほどの悲鳴を聞きつけて、警備員が集まってきてしまった。
 廊下を曲がろうとすれば警備員と鉢合わせる。
 シシィとオンディーナは、次第に追い詰められていく。

「どうしよう……このままだと追いつかれちゃう」
「まぁな」

 ――せめて、オンディーナだけでも!
 シシィはぐ、と唇を噛みしめた。

「わ、私がまた魔術を使って気を引きつけるから、オンディーナはその間にどこかに隠れて。隠れていればきっと、いつかは港に着く。そのときに下りられさえすれば」
「はぁ!?人の心配してる場合か、お前はどうするんだ!つーかロッド!」
「私、何とかなるよ。大丈夫、運は悪いけど、運は強いの」
「意味分かんねぇよ!あんたは弱いんだからすっこんどけ!」
「ダメ!わ、私の方が年上なんだから、オンディーナを守るの!」

 シシィの言葉に、オンディーナは黙り込んだ。

「た、確かに、私の方が足手まといだし弱いけど、でもそんなの、後ろに下がっていい言い訳にならないよ!オンディーナは私より小さな女の子だから、私が守る!」
「……」
「オンディーナ?」

 彼女は――泣きそうな顔をしていた。
 それも大泣きしたいのを、必死に我慢しているような表情。

「お前みたいなのがいるから、いけないんだ」
「え?」
「あんたとか……デュクみたいなのがいるから、あたしは絶望出来ないんだ」

 落とすように吐き出されたオンディーナの言葉。
 その意味を問いただしたかったシシィだが、目の前に迫る白い壁がそれをさせてくれなかった。左右に通路はなく、戻る道もない。
 つまりこれは、行き止まり。
 どこかおかしな行き止まりに思えたが、シシィの思考はそれどころでない。
 ――追いつかれる!

「闇色ハット、行け」
「ど、どこへ?」
「上でも下でも、逃げまわれ」

 オンディーナが壁に設置されていた突起物を軽く押す。ピンポン、という軽やかな音とともに、それまで行き止まりのはずだった壁が開いて、狭く四角い部屋を現わさせた。中の部屋の壁には、大きな鏡がはられている。
 自分の姿を足から頭まできちんと移せるものだ。
 いきなり現れた部屋にシシィが困惑していると、その背中をオンディーナが力強く押した。

「オンディーナッ!?」
「行け、ここはあたしが時間稼ぎしてやる」

 部屋の中に押し込まれてよろめいた隙に、ふたたび壁が閉まっていく。

「無理だよ!あんなに人数が……!」
「あたしは、あの短髪の男みたいなやつが大好きだ。何の遠慮もなくぶん殴れるし、死んでもなんとも思わないから」

 言いながら、彼女はシャツのボタンを軽く外して、シシィに鎖骨を見せた。
 これで、理由が分かるだろ、と言わんばかりに。
 魔術師なら、分かる。

「――――それは!」
「でも、あんたは嫌いだ。あんたみたいないい奴がケガすると、調子が狂う」

 ――セレナーデ!
 オンディーナの鎖骨には、黒いバラを剣がつらぬく絵柄の、刺青のようなものがあった。しかしそれは入れ墨でなく、呪いを受けた証。
 その呪いの名をセレナーデと言う。
 古代の凶悪な呪い。その呪いを身に受けると、身体能力が上がり、自己治癒能力も上がる代わりに殺人衝動を抑えられなくなる呪いだ。
 今はもう絶滅したと言われていた呪いだが、その呪いが目の前にある。
 何かを封じているのでは、と先ほど確かに思ったが、これほどまでに凶悪な呪いを押さえこんでいるものだとは思わなかった。
 ――あ、れ?でも。
 そんな凶悪な呪いなのに、禍々しさを感じられない。むしろ、早朝の空気のような澄んだ気配しかしない。
 ――あの、魔法陣の力?
 あの強力な魔法陣のおかげで呪いを押さえこんでいるどころか、オンディーナ自身の気配、魔力すらも浄化しているのではないだろうか。
 ――もし、そうなら。
 短髪の男の黒魔術をかき消したのも分かる。あの魔法陣はおそらく、オンディーナに触れる黒いものを浄化する作用があるのだろう。

「行け、闇色ハット!!」

 ――でも、それとこれとは違う!
 例えその呪いがあったとしても、今はそれを封じられているし、封じられていなくてもそれを使わせる気はない。
 ――殺人、なんて。
 年は関係ないと分かっている。それでも、そんなおぞましい行為を、あんな小さな女の子にさせていいはずがない。
 シシィは手を伸ばす。
 オンディーナは既に背を向けていた。

「オンディーナ!」

 壁が、閉まる。
 瞬間、体が宙に浮いた感覚がした。

「ひぃっ!?」

 ――こ、これは空間転移のときの感覚!?
 床にへたり込むと、何とも言えない感覚がシシィを襲う。上にあがっている感覚がするのに、下に引っ張られているような不思議な感覚。
 その感覚に怯えながら体を引きずり、壁を叩いてみるが開く様子はない。
 ――閉じ込められた?
 一抹の不安を覚え始めたとき、チーン、と間の抜けた音が部屋の中に鳴り響いて、壁が再び開く。
 開いたその先の風景を見て、シシィは目を疑った。

「さ、さっきと風景が違う!」

 ついさっきまで、壁の向こうは殺風景な廊下と、大勢の自分を追ってくる人たちしかなかったのに、今目の前に広がっているのは、赤いじゅうたんの敷かれた、とても豪奢な廊下だった。絵画なども飾られていて、その美的センスはヴィトランが小躍りしそうなもの。
 あまりの変わりように、シシィは頭を抱えた。

「こ、これはどういうことだろう……ものすごい手早い模様替え?」

 ではなく。
 おそらく空間転移のようなものをしてしまったのだろう。この部屋自体が空間転移の役割を担っているのかもしれない。
 ――でも、魔術の気配なんてしなかったのに。
 考え込んでいると、壁が再び閉まりそうになって、慌てたシシィは外に飛び出してしまった。

「って、出ちゃダメだ!オンディーナのところへ戻りたいのに……!」

 しかし無情にも壁は閉まり、シシィが小部屋に入ることを拒絶した。
 ――オンディーナは、どうやって開けたんだろう?
 色々と壁を叩いてみたが、開く気配がない。それどころかウィーン、という気持ちの悪い音をし始めたので、シシィはそこから距離をとった。
 そこで、気が付く。
 上の方に、数字の書かれた板がある。時計の針のようなものがついていて、1,2,3と指し示していく。
 それが何を示しているのかよく分からなかったので、シシィはとりあえず自分のいる場所を確認するため、窓から外を見るためにそこから離れた。
 この廊下の造りはかなり単純で、先ほどの場所からまっすぐのびた廊下に交わるよう、平行な2本の廊下があるだけのようだ。
 とりあえず廊下をまっすぐ進んで、突きあたりを右に進んでみた。
 左手側の壁にドアが一つしかなくて、突きあたりに窓があるだけだ。とりあえず窓を発見することが出来たので、ドアを通り過ぎて窓に近寄り、外を見てみる。
 海が、先ほど見たときより下の方にあった。
 ――ということは、昇ってきちゃったんだ。
 オンディーナと会うには、下に下がるしかない。
 階段を探そうと、シシィが来た道を帰ろうとしたとき、ピンポン、と元の居た場所から音がした。
 ――もしかして、オンディーナ!?
 しかしその期待は、あっけなく裏切られる。

「この階で最上階だな」
「まさか、ここまでは昇ってこないだろ。袋の鼠じゃん」

 ――じゃ、ない。
 低い声の話し声に、シシィは体を強張らせた。あれは、絶対に、自分を捕まえようとしている者だ。
 オンディーナのもとに早く行きたい。
 けれど、ここで捕まっては全てが水の泡だ。捕まらず、オンディーナのもとに行くことこそが大事であって、捕まってしまえば全てが終わりだ。今度こそ、容易には脱出できないようなところに閉じ込められてしまうだろう。
 ――どこか、隠れるところ!
 それはもう、たった1つある、目の前のドアしかなかった。
 足音を聞きながら、シシィはドアノブをつかんで回す。
 ガチャリ、と引っかかって扉は開かない。鍵がかかっているようだ。
 ――お願い、開いて!
 手に汗がにじむ。回して回しても、扉は開かない。
 もう他のドアを探している余裕はない。
 シシィは、目をつむり自分の体を信じた。

『我は全てを(ほど)く者 汝の責を解放しよう 紐解けラゴールエ!』

 錠が開く音がして。
 シシィの腕は、再び業火に焼かれた。

「――――っぁ!」

 声を押し殺し、部屋の中に滑り込む。中はかなり広い部屋で、調度品も立派な部屋だった。しかし、今まで見たところとは明らかに格が違う。
 もしかしなくとも、ここはVIPが泊まるようなランクの部屋だ。
 ――痛い……!
 が、今のシシィにそんな部屋を見て感動する余裕もなく、フラフラとよろめきながら部屋の奥へと進んだ。どうやら空き部屋ではなく、誰かが使っているようで、食事が用意されてあるのだが、手を付けられていない。
 ただ無造作に、ソファーの前のテーブルにアクセサリーが置かれていた。
 ――留守?
 鍵がかかっていたし、人の気配がない。
 とりあえずこの部屋の住人と鉢合わせする心配がなくなって、シシィは安堵のため息をついた。
 まずはこの痛みが治まるまで、じっとしていなければならない。
 それまでこの部屋を少しだけ貸してください、と物言わぬアクセサリーたちに思ったところで。
 シシィは、止まった。

「あ…………っ!」

 ――溶けた、って、言ってた、のに。
 涙が、にじむ。
 シシィの目に映っているのは、幻でも偽物でもなく。
 真っ赤な。
 この世でたった一つ。
 好きな人から贈られた。

「ペンダン……ッ!」
「動くな」

 低い声とともに、シシィの背中に冷たいものが押し付けられた。

「目的はなん……」

 ――この声は。

「………………この、魔力」

 押しつけられたものが背中からゆっくりと離れていって。
 それに合わせるように、シシィもゆっくりと振り返った。
 ――どうしたらいいか、分からない。
 腕は痛くて頭も痛くて、魔術は使えない魔道具も奪われ、ペンダントは溶けて消えてここに現れて指輪は戻らなくて、オンディーナを助けに行きたいのに自分も追われて助けに行けない。
 八方塞がりで、自分が情けなくて折れてしまいそうだった。
 ――どうしていつも、こんなときに現れてくれるんですか。

「ルビーブラッドさん…………!」

 ロッドを持ったままのルビーブラッドに、シシィは思わず抱きついた。