――船の上、だったなんて。
シシィは青い海を絶望的な気持ちで見つめた。はるか遠くに見える水平線上には、なにもない。あるのは海と空だけだ。
どこにも足をつける場所はなく、逃げる場所もない。
呆然と、見つめることしかできない。
――腕、痛い。
じわじわと、不安に急かされるようにして痛みが強くなってくる。
――どうしよう。
逃げ出そうにも逃げ出せない状況。船に乗っている、ということはもはやシシィの居た国ではない、ということだ。どこに向かっているのか、ここはどの辺りなのか、という不安が拭おうにも拭えない。
オンディーナのいる前で、また不用意には泣けない。けれど、これだけ絶望的な状況がそろっていれば、涙も出そうになる。
何かにすがろうにも、すがれない状況。
――待って。
「そうだ!一か八か、空間転移魔術を使ってみれば……」
「どアホかっ!あんた、ロッドないんだろうが!んな高等魔術使ったら今度こそ天使のラッパの音が聞こえるぞ!」
「う……、オンディーナ、魔術に詳しいんだね」
空間転移魔術がどんなものか、しかもそれが高等魔術であると分かるのなら、それは完全に魔術関係者だ。
――違うって言ってたけど、オンディーナもやっぱり魔術師なのかな?
もしくは見習い、といったところか。黙りこんだ彼女を探るように見つめながら、シシィは改めて彼女について考えてみる。
先ほど彼女が取り乱した際、聞きとれない言葉があった。あれは方言かと思っていたのだが、この場所やオークションのことを考えると、もしかすると。
「オンディーナって……外国の人?」
「コカール王国の人間だけど」
「えっ!ものすごい北の国じゃない!?」
シシィの住む国から見れば、かなり北に位置する国である。そんな場所からも攫ってきているとなると、やはりかなり大規模なオークションらしい。
――あ、でも。それだけ大きなオークションなら。
「この船、警察とかいるんじゃないかな。軍警とか」
「金持ちの道楽に国家権力は介入しねぇよ。いるなら警備の奴だろうけど、賭けてもいい。主催者の犬だから助けてなんざくれないぜ」
「……オンディーナは、私よりしっかりしてるね……」
「あんたが平和ボケしすぎなんだ」
それは平和な田舎町で育ったため仕方ない。こんなふうに、命の危険にさらされることなど滅多にない町で育ったのだ。物騒なことを警戒し、あらゆることを想定して生きろ、と言われる方が難しい。
いったい誰が、あの町で誘拐されるなどと考えられるだろうか。
「どうせあんた、客かなんかに扮装した奴らに騙されて連れてこられたんだろう」
「うぐっ!当たってるような当たってないような」
厳密に言うと、騙されかけて気がついたのだが。
「オンディーナは何で捕まっちゃったの?」
「まぁ、何と言うか……発作?が出たっていうか」
「病気持ちなの!?」
「……今は薬で落ち着いてるよ」
ひとまずは、というつぶやきが聞き取れて、それも新たな不安の種となった。
薬だって、平常時とは全く違う環境にいるのだから聞かないかもしれないし、効果も短いかもしれない。
どんなものかは知らないが、発作が出てしまえば医者ではないシシィにはどうしようもなくなってしまう。
――脱出は早い方が良い。
たとえそれが、多少なりとも危険な方法でも。
「オンディーナ、やっぱり空間転移……」
「しっ!」
辺りを確認するように見渡していたオンディーナが、いきなり扉を閉めてシシィに静かにするよう指示を出した。ドアを開けていたことで明るかった踊り場はドアを閉めたことで再び薄暗くなる。
その閉めたドアに、オンディーナはぴったりと耳をくっつけた。
「……何?」
「見張りが戻ってきたかもしんない」
驚きの声をあげそうになるのを、シシィは何とかこらえた。こらえることは出来ても、見張りが本当にこちらにやってきたのでは意味がない。
――や、やっつける?
しかしこちらは魔術を使えない自分に、子供のオンディーナ。対するあちらは訓練を積んであるだろう警備員。勝てる見込みはかなり少ないというより、ほぼない。
――逃げる?
逃げてもまた監禁部屋に戻るだけだ。この階段はこれ以上上がれない。
かと言って外にも出られない八方塞がりの状態。
シシィの思考は焦れば焦るほど空回りする。
カツン、と大きくなってくる足音。
もう、この足音がこの扉を開けないことを祈るしかない。
「……闇色ハット、下がってろ」
「オンディーナも下がって!もしかすると見つかっちゃうかも」
「もうダメだ、こいつらはきっとこの扉を開ける。だから下がれって言ってんだ」
「オンディー……」
オンディーナは苛立ちながら強い口調でシシィに命令した。
「黙って下がってろ!」
睨まれた瞬間、シシィはゾッ、とした。
肌に触れると鳥肌が立っていた。なぜなのかは分からないまま、シシィは気圧されるように踊り場から3段ほど階段を下がって、ドアと距離をとった。
一方のオンディーナも少しドアから離れて、姿勢を低くする。
――戦うつもり……?
それは、彼女の小さな体では無謀と言うものだ。
シシィは無茶を止めようとして、
オンディーナの首筋に、光を見て動きが止まる。
それは真っ黒な光と真っ白な光。2つが混じり合う、というよりは闘いあっているかのようにして光っていた。
――何、あの光は……?
その、動きが止まった間にドアが開いて、外からの光が入る。
「――――っ!」
成人男性が2人、そこにはいた。
彼らは油断はしていた。まさか向こうも、扉を開けたすぐその先に、人間がいるとは思わなかっただろう。しかもそれは、商品としてとらえた人間。脱出は不可能と思っていたはずだ。
油断と予想外の出来事。それは認める。
しかし、一撃と一撃。
たった2回の動作で、オンディーナは彼らを昏倒させた。
「――っ闇色ハット、走れ!」
「え、あっ!」
オンディーナに肩をつかまれて、シシィは引きずられるようにして外へと飛び出した。
外はもう夕方に近いようで、太陽が水平線へ近づこうとしている。
「オンディーナ!さ、さっきの人たち」
「始末しようがないだろ!大の男どっかに縛りあげて動かせる体力、あんたあるのかよ!?あたしはないからな!」
「そ、それはない」
しかし聞きたかったのは、そういうことじゃない。むしろそういうことにまで気が回っていたことにシシィは驚いた。
――そ、そうか。あのまま倒れてたら誰かに見つかっちゃうもんね。
それはオンディーナの言うとおり、ここにいる2人ではどうしようもないことだ。
それなら騒ぎになる前に、ここから離れていた方がいいということか。
――じゃなくて。
何故彼女は、あんなにも強いのか。
それにあの黒い光。
あれは――。
「――っ、おい、あのドアに入るぞ!」
オンディーナの指差した先には確かにドアがあったが、それは先ほど見たドアとは違い、かなり豪華絢爛、装飾華美なものである。あれは間違いなく、乗客が出入りするためのドアだ。
「あ、ああ、あそこはマズイんじゃ」
「知るか!でも向こうの方に警備の奴らがいるんだよ!どっちがマズイ!?」
それは――心情的に警備の方がマズイ。
この船はかなり大きいため、シシィの視力では彼女の言っている警備員を見つけることはできなかったが、たしかにこのまま外をうろうろしていても見つかる可能性は高い。それなら乗客にまぎれた方がまだ見つかりにくいかもしれない。
シシィはコクコクと頷いた。
「い、いい行こう!」
「よし!」
ドアの前で走る速度を落とし、2人は静かにドアを開けた。
開けて――静かに閉める。
2人とも、声が出なかった。
「……おい。ここに入るのは、マズイよな」
「……う、うん。まぎれるどころじゃ、なかった、よね」
嫌な汗がだらだらと出る。
2人が開いたその先には、とても豪華なロビーが広がっており、しかもそこにいる人々は正装して団らんしていらっしゃったのだ。
ちなみにシシィの今の格好はワンピースであり、オンディーナの格好も正装とは言い難いものだ。
入れば、確実に浮く。
「じゅ、従業員通路を探そう。こういう豪華な客船には必ずある。客と一緒に従業員はなるべく同じところを歩かないようになってんだ」
「そうなの?詳しいね、オンディーナ」
「まぁ、何度も連れてかれたからな」
――貴女って子は、本当にどういう人なのですか。
言葉遣いのみで判断するなら、そういう場所からは縁がなさそうな彼女だが、何度もあるということはいいところのお嬢さんなのかもしれない。確かに着ているものは正装でないだけであって、いいものではある。
疑問が深まるばかりのシシィをよそに、オンディーナはシシィのワンピースのすそを
つかんで、また走り始める。
「こっちに客用ってことは、裏側に……」
先ほどの警備員とは鉢合わせしないように注意を払いながら、2人は壁に沿って裏側を目指した。
――陽が沈むのが早い……?
シシィは空を見て、そのことに気がついた。どんどん太陽が水平線に吸い込まれていくようだ。その速度はシシィの居た町とほとんど変わらない。
――ということは、この船は私の国の近くにいるんじゃ?
その可能性は高いが、そんなことに気がついても何にもならないだろう。ただ、何となく安心はできるが。
――近く?
そこでシシィは、ハッとした。
――ロッドが近くにないなら。
「呼べばいいんだ!」
「ああ!?」
「ああ、私って何でこんなにバカなんだろ……『ロッド』!」
パタパタと、自分たちが走る足音だけが聞こえる。
ロッドは、来ない。
「な、何で!?」
「馬鹿!あんたを攫ってきたの、魔術師だろ!あたしならロッドを取り返されないように、ロッドを魔法陣の中に置いとくけどな!魔術を弾くようなさ!」
「あ……」
「平和ボケも大概にしてくれ!」
泣きたい。
シシィは顔を覆いながら、本気でそう思った。腕も痛いし、疲れたし、心細いし、何より自分のマヌケさが一番情けない。
「くそ……っ!何が迷子防止だ、全然役立ってねぇだろデュクめが!」
オンディーナはイラつきながら首筋を撫でた。どうやら癖のようだ。
「ここから脱出したら、絶対文句言ってやる絶対言ってやる!」
どうやら彼女は、逆境に立たされると腹が立つタイプらしい。ある意味頼もしく、そして羨ましいのだが。
「オンディーナ!ドア、ドア過ぎてる!」
周りが見えなくなるのが欠点だ。
シシィの言葉にオンディーナは立ち止まり、顔を真っ赤にして振り向いた。
「もっと早く言え!」
「ご、ごめんなさい」
「あ、いや……あ、あたしが悪いんだけどな!悪かったな!」
やはり顔を真っ赤にしながら、オンディーナは扉を用心深く開けた。
ドアの向こうの、殺風景な廊下はシンとしていて誰もいない。
「で、でも、よく考えたら従業員通路に入ってもおかしいよね、この服だと……どうしよう?怪しまれるよね……」
「借りればいいだろ、服。従業員の」
「……え」
戸惑うシシィを引っ張って、オンディーナは静かな廊下を進んでいきながら、途中にあるドアの一つ一つを確認していった。
廊下は殺風景なのだが、まるで迷路のように入り組んでいる。おそらくどこの表にもこの通路を通って行けるようにしているため、複雑になっているのだろう。
なので表に通じるドアなのか、それとも部屋なのか確かめるだけでも大変だ。
オンディーナのその様子は、何かを探しているように見えた。
「借りるって……」
「清掃係の制服とか。こういうでかい船は、何日も港に帰らねぇはずだから、従業員の制服を洗濯するところがあるはずだ」
「そ、それって窃盗で犯罪っ!」
ぐるり、とオンディーナは方向転換して、指をシシィに突きつけた。
「拉致監禁されたあたしらは被害者で、服を無断で借りることより悪くないか?」
「ソレハ、ソウデスガッ」
「割り切れ。受け入れろ。こういうことも必要だ」
――確かに。
自由でなければ、悪いこともいいこともできない。ここで捕まっては、せっかく逃げ出した苦労が水の泡と化す。
この場合、オンディーナの言う割り切りも必要ではある。
シシィはかなり悩みながらも、自分に何度も言い聞かせた。これは必要、と。
――必要必要、必要……。
「あら?」
背後から聞こえた涼やかな声に、シシィとオンディーナは心臓が打たれたような衝撃を覚えるほど驚き、立ち止まった。
自分たちの声では、なかった。
シシィがゆっくり振り向くと、ちょうど通路が十字に重なったところに、シーツを持った清掃係の女性がいた。
体温が一気に下がったように感じる。
ここで、見つかったのは致命的だ。
――終わりだ……!
「お客様、もしや迷われましたか?こちらは従業員通路となっております」
「……へ?」
シシィは間の抜けた声を出し、オンディーナは唖然とした表情をして。
すぐさまシシィにひっつき、彼女は不安げな表情を作った。
「ぼ、ボクがいけなかったんだ。お姉さまがあちこち行ってはいけないって、注意してくれたのに聞かずに入っちゃって……ボク、もう悪いことしないよ……」
「!?」
オンディーナのいきなりの豹変ぶりに頭が混乱しつつも、シシィは必死に止まろうと
する頭を動かせた。
つまりこれは。オンディーナは少年のフリかつ弟の役を演じていて、シシィにはいいところの姉の役をしろと言っている。客を装え、と。
しかし服装に、かなりの違和感があるのではないだろうか。
「ね、お姉さま。ごめんね、お部屋でくつろいでたところだったのに、ボクが外に出たから慌ててそのまま追いかけて来ちゃったんだ……。清掃員さん、お姉さまは本当ならこんなはしたない恰好でウロウロする人じゃないんだ!」
お気に入りのワンピースをはしたないと言われて泣きたいのか、ナイスなフォローをありがとうと感激したいのか分からなくなってきた。
とりあえず何とか笑顔を作り、シシィは必死に話を合わせた。
「も、申し訳ありません……この、このこの子が勝手に入ってしまいまされまして」
噛みまくりのうえに、緊張のあまり敬語もおかしくなった。
ゴスッ、と清掃係の女性には見えないところを叩かれる。
「ボクら、お部屋に戻りたいんだけど、お姉さまがこの格好じゃ人前に出られないって言うんだ……何か、お姉さまに着るものを貸してくれませんか?必ず返すから」
「お安い御用でございます。では、こちらへどうぞ。当船ではあらゆるトラブルを想定しまして、貸し衣装もございます」
――お金、とかどうしよう。
シシィはそのことを考えて今にも倒れそうだった。こんな豪華な船の貸し衣装、安いはずがない。お金はトランクの中だが、そのトランクがないし、しかもあったとしても
足りないという事態も十分考えられる。この年で借金は悲しすぎる。
――ルビーブラッドさんや、ブレックファーストさんほどじゃないにしても。
その辺り、オンディーナはどう考えているのだろう、と彼女を見ると、「チョロイ」と言わんばかりに黒い笑みを浮かべていた。
――この子、顔はとっても儚げな、キレイな顔をしてるのに。
何がどうあって、こんなにもたくましくなってしまったのか。ちょっと泣きたくなる。
「――ああ、君。いいよ、この方たちはVIPだから」
背後からかけられた声に反応したのはオンディーナで、彼女は3歩飛ぶようにして前進し勢いよく振り返った。腕にひっつかれていたシシィもそれに引きずられるようにして、背後を振り返る。
鳥肌が立った。
驚愕するシシィに構わず、男は――短髪の男は笑う。
「ねぇ、うさぎちゃんたち。『お部屋』はここじゃないでしょ?」
シシィを攫った男は、笑いながらシシィ達に手を伸ばした。
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