痛みは、ない。
 氷のように冷たい痛みも、火のように熱い痛みも。
 感じ取る暇もなく、死んでしまったのだろうか。
 シシィがそっと、目を開けると信じがたい光景が入りこんできた。

「お姉さ、ん……!」

 彼女はナイフを、シシィの代わりに自分自身の左手に突き立てていた。
 少年の姉の手は、当然の如く真っ赤に染まる。
 ――どうして?
 呪いがこんなことをするはずがない。理由がない。宿主を傷つけることはしないはずだ、自由に動けなくなってしまうのだから。
 ならば、これは。

「……魔術師、さん……逃げて……」

 彼女自身の、意志だ。

「お姉さん!」
「逃げて……私、自分が、壊れていく、の……」

 ポタポタと、血をこぼしながら彼女はささやくような声で言う。
 闇に溶けそうなほど、か細い声で。

「怖い……殺したくなんて、ないのに……殺したくないよぉっ!」

 ――……うん。
 涙が出そうだった。呪いに憑かれてなおも、まだ自我を保っていられる彼女は、とても強い人だ。その強さは、美しいと言って過言でない。
 涙をこぼす少年の姉を見つめながら、シシィも涙をこぼす。
 ――望んでいないのに。
 誰が人を殺したい、などと望むだろう。少なくとも彼女は望んでいないのに。なのに残酷なことをさせられている。

『この女……っ!また邪魔をするか!引っ込め!』
「う、ううっ……ああああっ!」

 叫びながら彼女は頭を抱える。呪いが彼女の心を奥へと引きずりこもうとしているのだろう。
 ――『また』?
 シシィはその間に立ちあがりながら、呪いの言った言葉を考える。
 呪いは『また』と言った。彼女は前にも呪いの邪魔をしたのだろうか。
 ――赤い左手。
 それは、シシィと会う前から真っ赤に染まっていた。血で染まっていた。
 ――会ったときは、あれは返り血だと思っていたけれど。
 新聞では犯行は止まったと書いてあった。けれど少年は姉の犯行を見ていて、そして姉の手は真っ赤に染まっている。
 それが意味することは。
 ――お姉さんは、人を殺していない……?
 少年が見た犯行、というのは、もしかして人を刺したように見えていただけ(・・・・・・・・・・・・・・・)で、本当は自分自身の左手を刺していたのではないだろうか。
 今と同じように。自分を犠牲にして、殺すことを阻止したのではないだろうか。
 ――まだ。
 まだ、間に合う。それなら呪いは強力にはなっていない。手に負える。
 シシィは少年の姉に背を向けて、再び走りはじめた。

『今さら逃げてどうなる!追え!』
「うふ、ふ。わたしの、赤」

 彼女の心はまた、呪いに囚われてしまった。笑みを浮かべながらナイフを引き抜き、シシィを追う。
 ――あと、少し……!
 風にさらわれるほどの小声で、シシィは呪文をつぶやく。

『委ねよ身と心 停滞は汝に安息をもたらす使いなり』

 目の前に、行き止まりが見える。壁は冷たくそれ以上の進行を阻み、シシィの行く手を遮っていた。
 背後にいる呪いが高らかに笑う。

『鬼ごっこもこれまでだ!』

 シシィは振り向いて――ロッドを呪いへ向けた。

「――そう。ここまで」

 少年の姉がシシィとの距離を縮めようと足を一歩進めた瞬間。
 空間に光が満ちて、彼女の足元に魔法陣が出現する。

『なっ……!』
『縛れ ローティンフ!』

 それを合図に、魔法陣からひも状の光が現れて、少年の姉の足へと絡みつく。呪いはそれを避けようとするが、魔法陣の真ん中にいたために、避けることができずに足を拘束され、胴体、腕と、次々に拘束されて動けなくなった。
 ――やっ、た……!
 汗を流し、ふらつきながら、シシィはその様子を眺めていた。
 呪いはギリギリまで宿主から離れず、攻撃を受けたときは必ず宿主に回避させるように操る。それならば、宿主自体を拘束してしまえばいいのだ。
 先ほど唱えた魔術は、拘束するための魔術。
 あらかじめ途中まで魔術を構成させて、魔法陣を描いておき、ここに追い込まれるようなフリをみせて誘い出し、陣を完成させる。
 これなら魔術の気配を悟られることもない。

『罠、かぁぁ!』

 拘束さえ出来たなら、あとは簡単に封印ができる。狙いが外れることはない。
 封印などされてたまるか、と呪いは少年の姉の身体を使ってあがく。しかし拘束が外れることはない。
 シシィはロッドの先を彼女に向けながら、ふところに持っていた小瓶のコルク栓を開けた。朝、少年に憑いた呪いを封印するために使った魔道具と同じものだ。
 ロッドの先は向けたまま、それを地面へ置く。

『彼の嘲罵(ちょうぼ)薄暮(はくぼ)の空に溶かし 白夜の作る木陰にて善良の芽吹きを取り戻せ 我が望みは汝の安息たる眠り 汝の望みは安寧の寝室 獰猛な黒の使いにしばしの休息を』
『く、ぅぅ……!』
『漆黒は銀白に 銀白は白へと自ら戻るだろう 黒白の正義を奥底の核へと刻み剣を収めよ』

 ――逃がさない。
 暴れる呪いを見ながら、シシィは強く思う。
 この町に呪いが集まってきているのなら、余計に今目の前にある呪いを見逃すわけにはいかない。いつ、どんなときにどんな脅威となって襲いかかってくるか分からないものを、野放しにはできない。
 危険の可能性は、低い方が良いに決まっている。

『降り注げ……』
『させて、たまるかぁぁ!』

 パン、と。
 ガラスが破裂したような音が響いて。
 シシィは我が目を疑った。
 ――拘束、が。
 少年の姉を押さえていた拘束が、解かれた。

「あはははは!」

 呆然と、彼女が笑いながらナイフをふりあげる動作を見つめる。
 脳内が真っ白で、何も考えられない。一瞬の出来事が、何時間のようにも感じられるほど、シシィは混乱していた。
 笑う彼女。
 うごめく黒い煙。呪い。
 壊れた拘束魔術。
 彼女に向けたままのロッド。
 準備されたままの魔道具。
 蒼い夜。
 美しい月。
 月に煌めく、ナイフの刃。
 その横で、何かがきらりと光る。
 ――何?
 ぽつり、とこぼれるように光るそれは――涙だった。
 彼女の、笑いながらこぼした涙。

『――殺したくないよぉっ!』

 真っ赤に、自分の血で染まった左手。
 それは犠牲の手だ。
 シシィの頭が、回転し始める。
 ――よけられないなら。
 後がどうなるか、を考えるよりも先に、シシィは左腕を差し出した。
 研ぎ澄まされた、血に濡れたナイフに向かって。

「あははははぁっ!」

 痛みというよりも、それは初め衝撃のように思えた。
 左腕に深く刺さったナイフを視認して、その一瞬後に左腕を激痛が襲った。

「――――――っ!!」

 ――声に、なら、ない……!
 痛みが声を殺す。シシィは息だけを吐きながら、痛みに悶えた。
 じんじんと、焼けるように痛い。左腕は血に染まり、痛みに震える。
 ――痛い痛い痛い痛い……!
 それでも強く、自分の右腕に命令する。
 絶対に、ロッドを取り落とすな、と。

「――…なたは、誤ったのよ」
『ふははは!戯言を!』

 少年の姉と一緒に高笑いする呪いを睨みつけるようにして、シシィは震える手でロッドを向けた。
 ――痛みが、何だというの。
 彼女はこの痛みを、他人のために2度も味わった。依頼人のその覚悟に、魔術師が応えられなくて恥ずかしくないのか。

「これで、逃げられない。封印されたくないなら逃げるべきだった……!」
『何……っ!?』
『降り注げイウェンコルガ……!』

 呪文に気付いて、呪いは身を引こうとしたが、ナイフがシシィの身体に刺さっていたため、それを引き抜こうとした分動作が遅れた。
 その瞬間分の時間さえあれば捕らえることは簡単で、シシィが放った光は少年の姉に絡みついたあと、引き寄せられるように呪いだけへと狙いを絞って絡みつく。

『うぉぉぉ!』

 叫びと共に、光は呪いを引きずりこむようにして瓶の中へと納めた。

「……お姉さん!」

 呪いが瓶の中におさまった瞬間、少年の姉から笑みが消え、同時に邪悪な気配も消えて、彼女はそのまま地面へと倒れ込んだ。
 慌てて確認すると、彼女はどうやら眠っているだけのようで、異常はないようだ。
 ――呪いさえ、落ちてしまえば。
 あとは最初に渡した薬で、どうにかなる。症状も改善されていく。

「よかった……でも、痛いし、眠い……な……」

 魔力も体力も困憊していて、ここで倒れては駄目だと分かっているのに、体が言うことを聞かない。脳が考えることを休もうとする。
 ――ダメ、眠っちゃ……。
 ふらり、と揺れて地面に沈みそうだった身体が、何かによって支えられる。
 ――あったかい……?

「がんばりましたね。後は私に任せてください」

 どこかで聞いたような声で、声を確認したかったのにシシィは目を開けられない。
 ――誰だった……?絶対に、聞いたことが、あるのに……。
 どこか懐かしい気配。この気配は。
 ――おばあ、ちゃん?

「さぁ、おやすみなさい。闇色ハット」





********





 シシィが目を覚ますと、ベッドの上だった。
 しかもそれは、祖母から譲り受けた家のではなく、実家の方のベッドで。

「うっうっ、シシィちゃん!」

 さらに母であるアンリーヌがベッドの傍で泣いている。

「おかあ、さん……?」
「シシィちゃーん!お父さんっ、シシィちゃんが目を覚ましたわ!」

 ぎゅ、と抱きつかれる、というより抱きしめられて、首が軽く締まったシシィは苦しい、とアンリーヌの背中を叩こうとして、止まった。
 左腕が痛い。
 その痛みでシシィはやっと思い出した。
 ――私、あのまま倒れて……。

「気がついたかい、シシィ?」

 アンリーヌをシシィから引き離しながら、コーファは優しく娘に声をかけた。

「アンリーヌ、シシィに紅茶か何か持ってきてあげてくれるかい?」
「そ、そうねっ!ミルクでも持ってくるわ!」

 涙をふきながらアンリーヌが部屋の外に出ていったのを見届けると、コーファはイスをシシィのベッドの近くへ引きよせ、そこに座った。
 大きな手が、シシィの額を撫でる。

「――呪いと、闘ったんだって?」
「何で、それを……」
「美男美女さんが、シシィを運んでくれてね。事情もその人たちから聞いたよ」

 ――美男美女?
 美女、の方はBとして、美男の方は誰だろうか。ヴィトランのことを言っているのか、それとも。
 ――倒れる前に聞いた、あの声の持ち主?

「お母さんには、事情は伏せておいたから安心しなさい」
「……ありがとう」

 お礼を言うと、コーファは名状しがたい表情を見せた。

「……こんな日が、来ると分かっていたんだけれどもね」
「?」
「本当は、僕はシシィが魔術師になることに反対だったんだ。危険も多い仕事だからね。でも、シシィの魔力が目覚める時期を考えると魔術師にならせるしかなかった。年齢が高くなると、その分だけ自分で目覚めた魔力をコントロールさせるのが難しくなってくるから」

 額を撫でる手が止まる。
 シシィは静かに、じっと父を見つめた。

「……辛いなら辞めてもいいんだよ、シシィ。魔力のコントロールさえできれば、魔術師までやる道理はないんだ」
「お父さん」

 シシィは力強く、凛とした声でコーファに答えた。

「私、なりたいものが出来たよ。おばあちゃんに言われたからやるんじゃなくて、私自身がなりたいの。私自身が追いかけてる背中があるの。その背中に近づいて、胸を張れるような魔術師になるのが、私の夢」

 静寂が満ちる。
 シシィの心臓は悲鳴をあげていた。緊張しすぎて、気持ちが悪い。
 父は何と言うだろう。それでも、こんなに危険な仕事を辞めてほしいと言うだろうか。
 額に置かれていた手が、再び動いた。
 優しく、シシィの頭を撫でて離れていく。

「――それくらいのケガで済んで良かった。頑張ったね、シシィ」

 こぼすつもりのなかった涙がこぼれた。

「……うん」
「着替えを持ってきてあげよう」

 言われてから気付いたが、服は血と汗で汚れたままだった。しかし腕の方は包帯が巻かれていて、何もしない分には痛みが少ないので、処置は終わっているように
 思える。これから着替えさせるつもりだったのだろうか。
 ――よかった。
 ルビーブラッドのペンダントを見られたら困るところだった。
 部屋から出ていく父の姿を見ながら、少し安心したところで、今まで父がいた方の反対から、ギシリと音がなった。
 視線だけ動かすと、黒い帽子が見える。
 この帽子は。

「――ルウスさん?」
「お疲れさまでした」

 聞きなれた声に、シシィは安堵する。

「無傷で何より……とは言えませんがね」
「こんなの、平気です」

 微笑んで見せると、ルウスはピスピスと鼻を鳴らした。どうやら無言で怒られているらしい。
 ――まぁ、無茶はしたもんね。
 苦笑しながら、シシィは少しだけ反省した。

「少年と、その姉は無事です。左手のケガも、少し跡は残るでしょうがBさんのところにある治療薬ならすぐ治りますよ」
「そうですか……」
「あとは、記憶の混乱が少年にも姉にも見られますね。特に姉の方が酷い。切り裂き魔の犯行はほとんど覚えていないようです」

 辺り前と言えば当たり前かもしれない。切り裂き魔の犯行は、呪いに操られてやったことなので記憶が薄いだろう。
 ――かえって、良かったかもしれない。
 覚えていれば、良心に苛まれる。無理矢理とはいえ、人々を傷つけてしまったのは消しようのない事実だ。彼女なら自分を責めるだろう。
 それならかえって、すべて覚えていない方が良い。
 ――何がきっかけで思い出すか分からないけれど……。
 心を落ち着かせる魔術薬もある。アフターケアをしっかりとすれば、彼女の心を壊すことはない。

「……ルウスさん」
「はい?」
「私を運んでくれた美男美女さん、って、美女さんはBさんですよね?もう1人は誰か分かりますか?」
「ああ」

 ルウスはさらりと答えた。

「Bさんの夫ですよ」
「はぁ、旦那さんでしたか…………旦那さん!?」
「ええ。だからあの姉弟のアフターケアは、彼がしてましたよ」

 思わず起き上がろうとして左腕を使ってしまい、シシィは痛みに悶絶した。
 しかしそんな痛みでも、衝撃はぬぐえきれなかった。
 同時に悔しさも。

「ああっ……見逃しました!Bさんの旦那さん、どんな人でしたか!?」
「さぁ。よく覚えてませんよ、シシィさんの状態の方が大変だったわけですし」
「ううっ、見たかった!」
「またチャンスも巡ってくるでしょう。今はとにかくおやすみなさい」

 カーテンの隙間から見える外は、まだ薄暗かった。あれから時間がかなり経ったかと思っていたが、まだ明け方のようだ。そう考えるとどっ、と疲れた。

「シシィちゃん!お母さん特製、愛情たっぷりミルクよ!」
「シシィ、着替えはこれでいい?」

 ――家に運んでくれて、良かった。
 シシィはB夫妻に感謝した。身も心も弱っているときに、両親の無償の愛情は優しくて、嬉しくて、泣いてしまいそうなほどありがたい。

「――うん。ありがとう」

 シシィは心から微笑みながら、両親にお礼を言った。