「刺した、って……殺したってこと?でも、朝刊には……」

 Bの言葉に、シシィ自身も何も答えられず、ただベッドの上で眠る少年を見つめるしかできなかった。
 彼はあの後、伝えるべきことを伝えて気が抜けたかのように眠りに落ちた。今はシシィのベッドで、深く眠っている。よほど身体に堪えたのだろう。
 ――精神的にも。
 実の姉が、人を刺す場面を見てしまったのだ。精神的に堪えない方がおかしい。
 そっと少年の額を撫でると、髪の毛が汗でほんのり湿っていた。

「朝刊には、死人は出てないどころか……連続犯行が止まったって書いているわ」
「……止まった?」

 その言葉に、シシィは驚きを隠せなかった。
 止まった、ということならケガ人は出なかったはずだろうが、少年の話を信じるなら彼の姉は人を刺し、そして彼女が残念ながら犯人であることは間違いないだろう。封じた呪いがずっと姉を操っていたように言っていた。
 ――何の目的で、操っていたんだろう。
 そもそも、この姉弟はどこで呪われたものを拾ってきたのか。
 呪いは大抵、物を媒介にしてしか発動できない。呪いとは本来、物質に頼らないと消えてしまうような弱いものらしいのだが、長く物質の中に住みつくことによって力を蓄えるらしい。憎しみや悲しみを、少しずつ堆積させていくのだ。
 もちろん例外もある。その代表的なものは『孤独共存の呪い』だ。
 もっとも『孤独共存の呪い』に関しては良く分かっていない事の方が多いため、とりあえずそのカテゴリーに入る、といったものだが。

「……」

 知能の高い呪い。となると、かなり古い呪いのはずで、かなり古い住みかとなっていることからして、アンティークもののはずだ。
 ――……でも、待って。
 呪いは封じた。ということは、少年の姉についていた呪いも解けたはずだ。
 なのに、姉が姿を現さないのはどういうことか。
 ――ううん、それは考え過ぎだわ、きっと……。
 まだ少年が眠ってから40分ほどしか経っていない。姉の方も何が起きたのか分からず、町の中で混乱しているのではないだろうか。
 これは、事態を良く見た考えで。
 最悪の事態を想定すると。
 ――呪いがもう1つお姉さんに憑いていて、『コフェレン』も治ってない。
 そういうことも、ある。シシィは冷静に自分に言い聞かせた。

「知能の高い『呪い』……確実に上級の呪いではあるのだろうけれど……分からないわね、どんな呪いなのか。こういうややこしい呪いのときは、『ブラック・フィンガー』の意見が欲しくなるわ」
「『ブラック・フィンガー』?」

 ――黒の指?
 意味が分からず首を傾げるシシィの横で、ルウスがぴくりと耳を動かす。

「ああ、貴女は会ったことないのよね。『ブラック・フィンガー』というのはとある魔術師のワークネームでもあり、才能でもあるの」
「才能、って……」
「黒魔術に対して、生まれつきかなり高い免疫を持っている才能。ちょっとした呪いになら防御しなくても、とり憑かれることはないのよ。ただその代わり、太陽の光を一定時間以上浴びると、火傷を負ってしまうらしいけれど」
「メリットがあればデメリットもあるってことなんですね」
「ええ」

 デメリットはあれども、黒魔術――対呪いのスペシャリストではあるのだろう。

「ただ、困ったことに『ブラック・フィンガー』は変人でね。自分のコレクションに加えたいと思った『呪い』にしか手を出さないの」
「……は?コレクション?」
「『ブラック・フィンガー』は、呪いコレクターでもあるのよ。彼の家には古今東西、あらゆる種類の呪いがあると言われているのだけれど、よく分からないわ。実を言うと、『彼』で正解なのかさえ分からない」
「……ええと」
「つまり、性別も分からないの。会うたびに青年だったり、少女の姿なんかをしているものだから、男か女なのか分からないのよね……」

 あらゆる意味で、謎の人物だ。Bの話を聞けば聞くほど分からなくなっていく。
 ――これを考えると、ルビーブラッドさんは分かりやすい方かも。
 少なくともルビーブラッドは、男性であることは分かっている。
 ――いやいや、そんなことよりも。
 シシィは気持ちを引き締め、Bに尋ねる。

「その人に、助言をもらうことはできますか?」
「どうかしら……どちらかというと無理かもしれないわ。ほら、魔術師の集まりがあるから、ブラック・フィンガーもそれに向けて出発したかも。一応連絡はとってみるけれど……期待はしないで」

 難しい表情をするBを見て、シシィは頷いた。ダメで元々の願いだ。基本的には自分で考えて動かなければならない。
 ――どうしよう。
 まずやらなくてはいけないのは、少年の姉の行方を探ることだろう。呪いに憑かれていようがいまいが、姿を消したのは放っておけない。
 放っておけないが――それは危険を伴うことも考えなければならなかった。
 姉の呪いが解かれていなければ、彼女の症状は間違いなく悪化しているだろう。
 以前会った、あの『フォアン』の青年のように。
 ――まさ、か。
 そこまで思い出して、シシィは固まった。
 あの呪いには、逃げられたのだ。封印できていない。
 その呪いが、姉に憑いているのだとしたら。

「…………」

 混乱し、思考が空回りするばかりで答えにたどりつけない。

「……とにかく、この子のお姉さんを探さなくちゃ」
「それはそうだけど、闇色ハット。そんなに知能の高い呪いなら、彼女の魔力すら隠している可能性もあるわ。探そうって言っても……」
「出てきてもらいましょう」

 シシィの言葉に、Bとルウスは目を丸くする。
 ――迷って、後手に回ってしまったんだもの。
 これ以上猶予はない。

「――罠を、仕掛けましょう」





********





 冷たい空気が、月さえも寒々しく見せる。
 街が暗闇と静寂に包まれ、夜も深くなった時間。
 シシィの姿は静まり返った大通りの真ん中にあった。
 毛糸の手袋と帽子で防寒はしているものの、やはり夜間は冷え込む。しかもいつもなら完全に夢の中にいる時間帯であり、慣れない眠さとさらに夜の恐怖でシシィは震えていた。

「寒い……眠い……」

 眠さの方は、魔術薬で無理やり目を覚まさせているため我慢できるが、寒さはそうもいかない。この国は南に位置するため、他の国より冬は暖かいのだが、この国で育ったために他国の冬の寒さを知らない彼女の身体は、ちょっとの寒さでも寒いと感じるようになっている。
 ぶるぶると震えながら、シシィはロッドを強く握りしめた。
 ――負けちゃ、ダメ。
 深夜は、シシィにとってあらゆる意味で敵だ。眠さでも寒さでも視界の悪さでも。

『そんな呪いはないって』

 昼間に聞いた、Bの言葉を思い出す。

『ブラック・フィンガーが言うには、“傷つけるだけの呪い”というのは存在を確認したことがないみたい。その症状に近い呪いがあるとすれば“セレナーデ”っていう太古の呪いだって言うんだけど』

 奇跡的にもブラック・フィンガーと連絡が取れたらしいが、彼にも思い当たる呪いはなかったようだ。『セレナーデ』という呪いならシシィも覚えがあった。しかしそれは本当に古い呪いで、それもかなり凶悪なものだ。
 『セレナーデ』は殺人衝動を引き起こす呪いであり、しかも対象者は驚異的な治癒能力を持つことになる。つまり人を殺しながらも自身は死ににくい身体になるため、大昔にとある国家が人為的に作った呪いだと言われている。
 使用目的は、軍事力をあげるために。
 しかし今では滅んだ呪いとされているし、『コフェレン』の彼女とは症状が少々異なるため、違うだろう。

「うっ、寒い……!」

 叩きつけるような風が吹いて、シシィの着ている真っ赤なケープが揺れる。
 そう――赤だ。
 彼女の症状は凶悪とはいえ、基本は『赤を求めて』いるのであるのだから、赤いものを身に纏っていればおびき出せる可能性も高いと思ったのだ。もうこれに頼るしかない、というのも事実である。
 つまりは、囮。
 危険は増すが、より探しやすくなる方法だ。危ないため、ルウスはBに預けてきた。
 ルウスもBも心配そうな顔をしていたが、あえてシシィは「大丈夫」と言って笑顔で別れてきた。
 けれど、やはり怖い。
 シシィは胸元にある、ルビーブラッドから貰ったペンダントと、ヴィトランに作ってもらった指輪を握りしめた。
 あの指輪は無くさないようにペンダントの鎖に一緒に通してある。
 ――勇気を、ください。
 魔力を澄ますと、ルビーブラッドの魔力がペンダントを通して感じ取れるような気がした。今は揺らぐことなく、安定している。
 それが逆に、シシィを不安にさせていた。
 ――無理をしていませんように。
 頑張りすぎてはいないか、自分自身にさえ嘘をついていないか。
 あの一件から、夢の中のガーデンでも会えていない。待っていても、彼がガーデンの中へ来る気配はなかった。

「……顔を合わせにくい、のかな」

 忘れてくれ、と言われた。彼にとっては、あの時の姿は見せたくなかったものなのかもしれない。
 ――でも。

「会いたい、です。ルビーブラッドさん……」

 まだ、悲しみにさえ浸れていない状態であるなら、悲しむことができるように傍に居てあげたい。
 一目でいいから、彼の顔が見たかった。
 しかしその前に、自分自身が強くなっていなければならない。
 それはルビーブラッドだけへの想いじゃなく、これから魔術師としてやっていくには必要なものでもあるから、強くシシィはそう思う。
 そのために――。

「……まず、貴女を助けたいんです」

 シシィは静かに、前方に現れた人物に話しかけた。
 髪はぼさぼさで、服も肌も赤く汚れている。その赤は、何の赤なのか問うのも愚かしいほどに深く、鉄の臭いのする赤。
 ――血の匂い。
 鼻の奥がつんと痛くなって、シシィの目に涙が浮かぶ。
 やはり彼女は、彼女の弟が目撃したとおり――人を殺してしまったのだ、と。
 切り傷程度で、あれほどの返り血が付くはずがない。一見して分かるほど、彼女の左手とその袖口は真っ赤に染まっていた。
 そして魔力を持つシシィだからこそ分かったが、呪いは彼女から離れていない。
 漆黒の煙が付かず離れず、彼女の体にまとわりついている。
 よくぞあの姿で昼間、誰にも見つからなかったものだ。姿すら、呪いが隠していたのだろうか。
 何にしても、もう後戻りはできない。
 人を殺してしまった以上、呪いは強くなっているはずだ。罪悪感が増すほど、呪いの力は強くなっていく。
 それにつれて、宿主の心は衰弱していく。
 もはや彼女の身体は、獣に操られているのと同じこと。

「……あ、か」

 表情に生気はないのに、瞳だけは異様にらんらんと輝いていて、それがシシィには恐ろしかった。後ずさりたくなったが、何とか踏みとどまる。
 ――まだ、早い。
 恐れを、怯えを見せるにはまだ早すぎる。
 シシィはぎゅ、とロッドを握り締めた。

「あか、ほしいよぉ……」
「お姉さん……正気に戻ってください。弟さんが泣いてましたよ」
「あか……」

 完全に心が呪いに侵されている。声は、届かない。
 シシィは静かに肺に、冷たい空気を流し込んだ。
 深く、覚悟も一緒に吸いこむ。
 ――助けは、ない。頑張れ、私……!
 ロッドの先を、彼女へ向ける。

『悪しき一閃(いっせん)は茨に阻まれ 正しき蝶は触れし者の企図(きと)を排除するだろう 拒めブランシェリーア!』

 ロッドの先から放った光は、まっすぐと彼女のところへ飛んでいく。その光を嫌うようにして、少年の姉は体を大きく反らせて光を避けた。
 そして、シシィを睨みつけて――笑う。
 それは邪悪と言うにふさわしい笑みだった。まさに、呪いに取り憑かれた者の笑み。
 シシィは体を震わせた。

『ふは、はははは!』
「何が、おかしいの」
『小娘が。怯えておるな。魔術師のくせに呪いが恐ろしいか』

 ――『恐れていい』と。
 それが正しい、と言ってくれたのはルビーブラッドだ。呪いを恐れて呪いに怯える
 自分を、シシィは恥ずかしく思わない。だからそんな挑発にはたやすく乗らない。

「怖いよ。だって、貴方たち『呪い』は、私が大切に思う人たちを傷つけるから」
『我らは人間から生まれたモノ。つまりは人間が人間を傷つける』
「そう。だから私たちが貴方たちを眠らせるの」

 ロッドの照準を少年の姉に合わせようとすると、呪いは先手を打つようにして、彼女に隠し持たせていたらしいナイフを取り出すと、シシィに向かって突進してきた。

「っ!」

 紙一重でかわすが、シシィのこめかみに冷たい汗が流れる。
 ――やっぱり、『逃げる』しかない、か。
 かわした勢いそのままに、シシィは路地へと逃げ込んだ。その様子をほんの一瞬呆然として眺めた少年の姉は、すぐさまナイフを片手にシシィの後を追う。
 呪いと一緒に、彼女は笑う。

「あははは!」
『眠らせると言いながら、そのザマか!小娘が!』

 決して速くない自分の足を恨めしく思いながらも、シシィは必死で路地を突き進む。
 ――まだ、ダメ……!
 心臓が破れそうなほど痛いし、息も上がる。このままだと、目的のある場所に着くまでに捕まってしまう。
 シシィは後ろを振り向きながら、呪文を唱えた。

『悪しき一閃(いっせん)は茨に阻まれ 正しき蝶は触れし者の企図(きと)を排除するだろう 拒めブランシェリーア!』

 魔術はまた避けられる。さすがにあちらも動ける状態では、シシィの技術ではなかなか捕らえる事が出来ない。
 やはり、知能が高い呪いだ。
 今までの呪いとは格が違う。それを考えると、『フォアン』のときの呪いとは違う呪いなのかもしれないが、こうも短期間に呪いが何度も現れるものだろうか。
 ――ありえない。
 Bが言っていたとおり、この町には『孤独共存の呪い』が眠っている。アレを恐れている以上、呪いはこの町で多発しないはずなのだ。
 ――でも、待って。
 もしかすると、『孤独共存の呪い』は力が薄れてきているのかもしれない。呪いは封印されると眠るだけでなく、力を徐々に削がれていく。そうやって、最後は消滅させてしまうシステムである以上、その可能性も捨てきれない。
 もし、その推理が正しいとして。
 それによって、今までよりつけなかったこの町を狙って、大量の『呪い』がこの町へやってきているとしたら。
 ――そうか。
 それなら、この短期間に呪いが多発しているのも理由が付く。呪いは狙ってこの町へやってきているのだ。
 今まで寄りつけられなかった反動から、この町に集まってきているのだろうか。

「はぁっ、はぁ……っ!」

 ――あと、もう少し……!
 その瞬間、シシィは気が緩んで。

「――あ!」

 よろけて、転んでしまった。
 ひざの痛みと共に、恐怖がシシィの身体を襲う。
 彼女との距離は、近かった。
 早く動かなければいけないのは分かっている。頭では分かっているのに、体が混乱して言うことを聞かない。
 立て、と命令しているのに。
 ――後ろを、向くな……!!
 振り向いた視線の先に、ナイフを構えた少年の姉がいた。

「うふ、ふ」

 彼女は笑いながら、ナイフを突き立てた。