朝刊の地方記事は、騒いでいた。
<またもや切り裂き魔の犯行か!?>
シシィとルウスは、複雑な思いでその記事に目を通していた。せっかく晴れ晴れとした朝だというのに、2人の雰囲気は重い。
重くならざるを得ない。
「……これで、またふりだしですね」
「はい」
昨日少年の姉に治療薬を渡したにもかかわらず、またも犠牲者が出たということは彼女が犯人ではなかったということだ。
――残念だけど。
これで良かったような気もして、シシィは静かに息を吐いた。
そう、あの少年と姉のことを考えればそれでいい。あの仲の良い2人が辛い目にあうのは、胸が痛む。
もし彼女が犯人だったとして、例えそれが症状だったとしても、赤いものを求めて人を傷つけてしまった事実はなくならない。
「……これで良かったんですよ!」
シシィはわざと明るくルウスに言う。
「何にしても、あの子のお姉さんも末期症状に近かったみたいですし、倒れる前に助けてあげることができて良かったです」
「それもそうですね」
Bの持っていた道具が赤を示していたのは事実。あのまま放っておいては、別の意味で彼の姉は悪くなっていたはずだ。
それを止められただけでも良しとするべきだろう。
それに考えようによっては、まだ犯行が続いているということは自分たちも犯人の足跡を追えるということだ。証拠はどこかに必ず残っているはずだ。
シシィは1人頷いた。
――早く、見つけなくちゃ。
「さ、まずはご飯にしましょう!切り裂き魔のことについてはそれからです」
シシィはソファから立ち上がるとキッチンへと向かった。
――今日の朝ごはん、何にしよう?
食料保存箱を覗くと、昨日買い物をした分材料はたくさんあった。ソーセージに卵にキャベツ、チーズ。パンはすでに焼いてある。
昨日の夜から色々と考えっぱなしなので、お腹もすいていたシシィはそれらを手早く取り出して調理台にのせる。
――簡単なのでいっか。
調理しようと卵に手をかけたとき、ノックの音が聞こえた。
――Bさん、かな?
こんなに朝早くに訪ねてくる人物と言えば、Bかヴィトランくらいしか思いつかない。
シシィが軽い気持ちでドアを開けると、そこにいたのは予想に反して、昨日依頼に来た少年だった。
「え、あ、おはよう。どうしたの?」
「……闇色ハットさん」
にこり、と微笑む少年を見てシシィは安堵した。昨日までの心配そうな顔とは、無縁なように晴れ晴れとした笑顔である。
晴れ晴れとした――。
シシィは、心の奥底で引っかかりを感じた。
――何だろう、何か……。
「ありがとう。お姉さんの病気、よくなってきたんだ。外にも出歩かなくなったし」
「そうなの。よかった」
――気のせいだよね。
微笑む少年に、シシィは微笑みを返す。すると彼は1歩2歩と退がって、シシィを呼ぶように手を招いた。
「お礼がしたいんだ。ちょっと外に出てきて」
「え、でもそんな……」
「いいから」
お礼なんてよかったのに、と思いながらも無碍にもできず、シシィが外へ出ようとすると、それをルウスがスカートのすそを噛むことで留めた。
その表情は、険しい。
「ど、うしたんですかルウスさん」
「……何か、おかしいと思いませんでしたか」
そのルウスの質問に、シシィは動揺する。
まさしく、心の奥底で引っかかりを感じていたからだ。
昨日までの少年にはなかったもの。今の彼には自分たちを警戒させてしまうような、何かがある。
――お礼?
外に出てきてもらわなければいけないお礼とは、何だろう。自分ならクッキーやお菓子など手渡せるものを持っていくし、早朝からお礼を言いにやってくるだろうか。
起きていないかもしれない、ということを考えれば、どんなにうれしくても昼ごろに訪ねてくるのではないだろうか。
――お礼……外に私を出したい?
それは、何のためになのか。
――この家には……魔術が……。
『お姉さん』
背筋が、凍りついた。
――お姉さん?
あの少年は自分の姉のことをそんなふうに呼んでいただろうか。
『姉ちゃん』と呼んでいなかっただろうか――。
「……貴方は、誰」
依頼の少年ではない。それはもはや、確信だった。
「何を言ってるの、魔術師さん」
「ごまかさないで……貴方は、あの子じゃない」
ロッドを手元に呼んで、シシィは構えた。ルウスも姿勢を低くして威嚇する。
張りつめた空気がその場を支配していた。
――やっぱり、あの子はこの家に入って来ようとしない。
シシィの家には、祖母による魔術が張り巡らされていて、悪意のあるものは侵入できないようになっているらしい。
呪われたリボンさえ、弾き飛ばされた。
そして、少年は入ってこない。
それが意味するのは――。
「……その子から離れなさい、呪い」
まるで、幼子が母親に名前を呼ばれたときのように。
少年の口は弧を描き、ふふ、と笑い始めた。
「ふふ、ふ、ふふふっ!あははは!もう遅いよ、あの女は堕ちたよ」
「!」
「必死に耐えてたのになぁ!あんだけ必死に耐えてたっていうのに、『コイツ』に危害が及ばないように必死だったのに、結局はダメだった!お前もマヌケだな、魔術師さんよぉ!」
――手が、震える。
ロッドを持つ、シシィの手は細かに震えていた。それは、まだ呪いに対して持つ恐怖と、自分へのふがいなさからの震えだ。
――気付けなかった。
呪いの言うとおりだ。自分はマヌケだ。どうしてもっと、あの彼女のことを注意深く観察しておかなかったのか。事例と違うということは分かりきっていたのに。
あまつさえ、あの少年をもこうして危機に立たせてしまっている。
――どうして私は、また同じ間違いを……。
「シシィさん!」
ルウスの声に、シシィはハッと顔をあげる。
「耳を――魔力をアレに傾けないでください!持って行かれますよ!」
『退くな!』
シシィの脳裏に、あの声が蘇る。
――そうだ、ルビーブラッドさんも言っていたのに。
呪いは獣。こちらが弱者だと思えば必ず襲ってくる。強者には怯えをみせる。
ロッドを強く握りしめて、シシィはキッ、と呪いを睨みつけた。
――強くなると、決めたの。決めたでしょう、私。
「わたし、は強い」
シシィは普段は口にしない、強気な言葉をあえて声にした。
まずは口だ。言葉で自分の気持ちを戒める。
「私は強い……」
弱さに負けないように。
自分の力を信じられるように。
「『ディスト』!」
シシィが叫ぶと、それは電光石火のようにシシィの手元に現れた。シシィはそれを落とさないように、しっかりと左手に握る。
シシィの手の中にあるものは、一見普通の、何の変哲もない透明なガラスの小瓶だった。ふたもコルク栓で、特別なものには見えない。
が、しかしそれは魔術道具であり、しかも『対呪い用魔術道具』である。
呪いを封じ込めるためだけにある、呪い専用道具。
呪いを封じめることのできる唯一の物。
シシィは瓶のコルク栓を開けて、ロッドを呪いに向けて構えた。
『悪しき一閃は茨に阻まれ 正しき蝶は触れし者の企図を排除するだろう 拒めブランシェリーア!』
「!」
シシィのロッドから出た光に慄き、呪いは少年の身体ごと光をかわした。
その隙にシシィは外へ飛び出す。中にいた方が安全なのは分かっていたが、それでは呪いを捉えきれない。少年の身体を持って逃走されては困る。
呪いが怯えて、しっぽを巻いて逃げる前に決着をつけなくてはいけないのだ。
シシィは瞬きすら惜しんで、呪いの姿を目で追う。
『悪しき一閃は茨に阻まれ 正しき蝶は触れし者の企図を排除するだろう 拒めブランシェリーア!』
連撃には耐えられなかったのか、シシィの放った魔術が少年の体を包み込んだ。
「やった……!?」
「いえ……違います!」
ルウスの言葉をシシィは否定する。上手くやったかのように見えたが、シシィの目はその瞬間をきちんととらえていた。
呪いは光が少年の体を包み込む刹那の瞬間に逃げだした。
――でも。
それは、ようやっと逃げおおせただけだ。
まだ近くにいるはずだ。
『彼の嘲罵は薄暮の空に溶かし 白夜の作る木陰にて善良の芽吹きを取り戻せ 我が望みは汝の安息たる眠り 汝の望みは安寧の寝室 獰猛な黒の使いにしばしの休息を 漆黒は銀白に 銀白は白へと自ら戻るだろう 黒白の正義を奥底の核へと刻み剣を収めよ』
長い上級魔術の呪文を、シシィは一息で唱えた。呪いに対しては時間との勝負でもあるからだ。それならもっと簡単な中級魔術の『封印魔術』もあるが、今回の呪いは『喋って』いる。
つまり、知能が高いのだ。
そんな呪いを中級の魔術でとらえられるかと聞かれれば、答えは否だろう。時間は少々かかっても、確実に細く出来る呪文でなければならない。早くても当たらなければ意味がないのだ。
――あと一言。
それで、呪文は完成する。けれど呪いが見えなければ唱えても意味がない。
――どこにいる?
瞬間。
不意にシシィの頭上に影がさした。
――!
シシィはロッドを空へと向けて、最後の一言を唱えた。
『降り注げイウェンコルガ!』
ロッドから飛び出した光は、影へと一直線に向かう。
迷いは一切ない、素早い魔術の施行だったが――。
「!」
呪いはその光を紙一重でかわした。
――そんな。
一瞬の間に、シシィの脳裏で色々な言葉が舞う。
かわされた。もう一度唱えなければ。けれど時間がかかりすぎる。逃げられてしまうのではないか。逃がしてしまえば終わりだ。また隠れられる。
――終わった……?
その言葉に、シシィは即座に心の中で首を振る。
答えは否。まだ終わらせない。
『降り注げ――』
先ほどの魔術と同じ言葉で、先ほど以上の魔力をロッドに込める。
『――イウェンコルガ!』
「っ呪文短縮!?」
無茶な、というルウスの言葉が、彼は近くにいるはずなのにどこか頭の遠い場所で響く。呪文短縮、というのは確かに無茶だ。
熟練の魔術師や魔導師、魔法使いなら呪文短縮はできないことはない。が、それはかなりの技術を要し、経験も要する。シシィには技術も経験も足りない。
さらにこれは、上級魔術。難易度はかなり高い。
失敗しなくとも、かなりの魔力と体力を持って行かれるが――ここで呪いを取り逃がすよりはそちらの方が、シシィにとっては何倍もマシだった。
シシィが放った2回目の魔術は、運よく呪いを捉えた。
『!?』
逃げようともがく呪いの行動はすべて束縛されて、魔術は瓶の方向へと向かう。
しかし呪いが暴れて、なかなか思うように瓶の中におさまらない。
――っ、めまいが……!
ルウスの言うとおり、やはり呪文短縮が無茶だったのか、シシィの身体もボロボロだった。疲れの感覚は、魔導を無理矢理使ったときと似ている。
もっとも、あの時の方がもっと辛かったが。
――そうだよ、私はもっと辛いことを知ってる。
ここで、呪いを取り逃してしまえば大変なことになる。それは必ず、誰かを悲しませ、傷つけることになる。
それは辛くて、自分自身が許せなくなることだ。
――だから、もっと。
私に、力を。
「はぁぁっ!」
最後の力を振り絞るようにロッドに魔力を込めると、それと比例するように、呪いを瓶の中へ押し込む魔術の力が強くなった。
やがて、黒の塊が瓶の中へ全ておさまったかと思うと、風のように瓶の栓が飛んできて、瓶の口をふさいだ。
辺りはしん、と静まり返る。
ただ、シシィの短い呼吸だけが響いていた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
さわり、と風が吹いて、ようやくシシィは理解した。
――封じた、んだ。
誰に助けてもらうわけでもなく、退けるでもなく、封じた。
呪いに、対抗することが出来た。
「ルウスさん……ルウスさん!見ましたか!私、やりました!やりましたよ!」
「ええ……見てましたよ……とんでもなく無茶な魔術を」
ほとんど呆れながら言うルウスに、シシィはにっこりと笑った。無茶だろうが何だろうが、封じられたのは事実だ。
その事実が、シシィに自信と勇気を与えてくれる。
――ルビーブラッドさん。
まだ、全然追い付かなくとも。あの背中に少しだけ近づけた気がする。
「うう……っ」
か細い声に気付いて、シシィは後方に視線をやる。呪いに操られていた少年は目を覚ましたらしく、重たそうに地面から体を起こしていた。
「大丈夫!?」
「ま、じゅつしさん……」
ろれつの回らない口で、それでも少年は必死にシシィに何かを伝えようとしていた。
彼の体を支えながら、シシィは注意深く言葉に耳を傾ける。
「みた……よるに、姉ちゃん、ねえちゃんが……っ」
「落ち着いて、何?話すのが辛いなら、後からでもいいから……」
「人を、刺したところを……!」
その瞬間、風がやんだ。
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