少年の高い声が、図書館の中に響き渡る。
「……姉ちゃん、普段は本当に優しい姉ちゃんなんだ」
怯えるように呟かれた声を、シシィとBとルウスは黙って聞いていた。本来は今日は図書館は休みなのだが、事が事だけに緊急に開けた。
――切り裂き魔のしっぽを、掴んだかもしれない。
この少年が嘘を吐いているようには見えなかった。たとえ彼の姉が切り裂き魔じゃなかったとしても、彼が悩んでいるのは本当だろう。
シシィは紅茶を差し出しながら、少年に問う。
「お姉さんが切り裂き魔じゃないか、って疑ったのは何故?」
その問いにビクリと肩をふるわせたあと、少年は呟くように答えた。
「さ、最近になって、姉ちゃんは赤いものを集め始めるようになったんだ。前までは普通の部屋だったのに、今は赤いものばっかりで埋め尽くされた部屋になってて」
「赤いもの?」
その単語に反応したのは、Bだった。彼女は何か思い当たることがあるのか、唇に手を当てて少し考え込む。
「うん……。食べるものも赤いものしか食べなくなって、おかしいな、って思い始めたころに、気付いたんだ。姉ちゃんが、夜中に家を抜け出してどこかに行ってることに」
「夜中に――」
それは、聞き逃せない話だ。切り裂き魔も夜中に現れる。
そう、聞き逃せない話ではあるが、それだけでは切り裂き魔とは断定できない。
もっと情報があればいいのだが、切り裂き魔に対する目撃情報は無いに等しい状態だ。断定も何もない話なのかもしれない。
――でも、赤かぁ。
赤いものばかりを集める。
それは、魔術に関する症状だったと思う。
シシィは必死に頭の奥底から記憶を呼び起こす。確か、その症状は。
「……お姉さん、最近何か変わったものを踏まなかった?」
「え?」
「具体的に言うと、赤いガムみたいなもの、というか」
シシィのその言葉で、少年は何かを思い出したのか目を丸くした。
「そう、いえば。姉ちゃん、最近お気に入りの靴でガムみたいなものを踏んじゃったって、言ってた気がする」
――やっぱり。
そのガムのようなものが原因だ。それは『コフェレン』という症状で、赤いものを好むようになる。
特に命に別状はなさそうに思えるが、これは食べるものにも影響されるので、長い間放っておくと栄養バランスが偏って、体を壊すこととなるのだ。
――放っておいていいものでもないし、ね。
薬は渡しておいた方がいいだろう。幸い、調合はしてある。
シシィが彼に薬を持って帰るか尋ねようとしたところ、Bがそれを遮った。
「赤いものを収集するようになった、って言ったわね?」
「うん」
「ねぇ、闇色ハット。これは魔術に関することかしら」
「あ、はい。おそらく『コフェレン』というもので……」
「――血も、赤いわよね」
しん、とその場の空気が凍る。
シシィはBの言葉の意味を、即座には理解できなかった。
――血も、赤い。
それは、確かに赤い。人の血は赤いものだ。緑なんて見たことない。
けれど、それがどうしたというのか。
――『コフェレン』は、赤いものを好むようになる、症状で。
血は、赤い。
『コフェレン』は赤いものを好む。
――まさか。
「そ、そんな、ありえません……Bさんの思ってることはありえないです!」
「私だって、普段ならそう思うわ。でも、今は――」
シシィはBの言いたいことを悟る。
今、この町はおかしな状態にある。
それが、Bの中で引っかかっているのだろう。シシィもそう言われると、まだ呪いがこの町を徘徊していることが引っかかる。
『コフェレン』がいくら赤いものを好む、と言っても、人を傷つけてまで血を収集したという報告はない。少なくともシシィは知らない。
けれど――呪いに憑かれているとすれば、どうなるのだろう。
人を傷つけて、血を収集するようになるだろうか。
シシィはそばに座る、ルウスを見た。彼は真っ直ぐシシィを見返している。
――全ては貴女の判断です、と。
「…………」
しばし黙考して、シシィは少年を見つめた。
「お姉さんに、会ってみてもいい?」
「う、うん」
ともかく、彼の姉に会ってみなければ分からない。もし、呪いが憑いていれば気配で分かるだろうし、憑いていなければ薬を渡すだけでいい。
全ては、自分の目で確かめてから。
シシィはテーブルの下で、手を握りしめた。
********
「まぁ、魔術師さん?」
少年の姉は、ずいぶんと穏やかそうな人で、少年とはかなり年が離れていた。
おそらく姉の方は20代だろう。しかし少年と同じく髪の色は白い。
彼女のロングスカートが、ドアから入るそよ風で揺れる。
少年の家は、集合住宅――アパートだった。レンガ造りの古めかしい造りで、少年の住む部屋は3階にある。両親はいないらしく、姉と2人暮らしなのだそうだ。
そのせいなのか、お世辞にも隙間風も入らないような立派なアパートとは言えないところではあったが、親近感はかなり湧く。どこかあたたかみのあるアパートだった。
「立ち話もなんですし、中へ」
「あ、あの犬もいるんですけれど」
「ええ、どうぞ」
と言われてシシィの陰からルウスが姿を現す。その表情は、普段と違って少し険しかった。少年の姉を警戒しているのだろう。
今は確かに優しそうな女性だが、いつ様子が変わるか分からない。
――できれば、変わらないでほしいな……。
シシィのその考えは、事件をふりだしに戻すことを意味していたが、この少年と女性の様子を見ていると心からそう思えた。
少年は部屋に入るとすぐさま、姉の手を握りしめたのだ。
「どうしたの?今日は甘えん坊ね」
「何でもないよ」
笑いながらそう言う少年だが、不安なのだろう。
もしかすると、自分の姉が切り裂き魔なのかもしれないのだから。
ダイニングに案内されてイスに座ったシシィは、対面する少年の姉に、まずは『コフェレン』の症状について説明を始めた。
「最近、赤いものを好むようになったな、とか思うことはありますか?」
「え?ええ。最近になって、赤いものがとてもかわいらしく見えて」
と言いながら、彼女は部屋を見渡した。シシィもつられて見渡すが、確かに赤い小物が目立つ。テーブルクロスも、花瓶も、ソファにかけられた布も赤い。
もっと言うと、彼女の着ている服も赤いし、髪を止めるヘアピンの飾りも赤だ。
弟と一緒にいることになるダイニングでこの様子だと、彼女自身の部屋はもっと赤いもので埋め尽くされているだろう。
「それは魔術による影響なんです。今すぐ命に影響のあるものではないですが、食べるものにも影響されてくるので、そのうち体調を崩すことになります」
シシィの説明に、彼女は「まぁ」と驚く。
「けれど、この薬を飲めばそれは改善されますから安心してください」
シシィは懐から、青い色の液体が入った小瓶を取り出した。澄んだ海のように、真っ青なブルーの液体。
少年の姉はおろか、彼女の隣で大人しく座っていた少年すらも、少しひいた様子だった。シシィにはその気持ちが実によく分かる。
――青、はなぁ。
なんとも、口に入れづらい色なのだ。液体系の魔術薬で依頼人に渡しにくい色の魔術薬は、ダントツで青である。錠剤ならまだしも、液体は口に入れるという感覚が強いため、青い色のものは戸惑う。
そもそも自然物で緑や赤や黄色は口に入れることはあっても、青はなかなかない。
おそらくそれが、青い魔術薬を渡しにくい根源なのだろう。
「こんな色ですけど、お姉さんの赤いものを集めたくなる衝動を無くしてくれますから、どうか飲んでください」
「は、はぁ」
彼女は明らかに戸惑っている様子だった。いきなりやってきて、怪しげな液体を飲めというのも酷な話だ。
さらに『コフェレン』にかかっていると、青を嫌う風潮がある。数ある色の中でも、青系統の色に嫌悪感を示すのだそうだ。
――もしかすると、飲んでもらえないかも。
『コフェレン』の進行具合によるが、飲んでもらうには骨が折れるかもしれない。
が、救いの手は思わぬところから伸ばされた。
「姉ちゃん、飲んで」
少年は硬い声で姉に言う。
「たった2人の姉弟じゃん……心配事はなくそうよ」
それは――健康のことなのか、それとも別のことなのか。
シシィとルウスには2択あったが、姉にとっては1択しかない。
「……そうね。元気でいることが大切だもの」
決心したかのように彼女は小瓶を手に取り、一気に喉へと流し込んだ。味としては苦くも甘くもない、真水のように抵抗のない味らしいので、飲みやすくはあるはずだ。
――これで切り裂き魔が現れなくなったら、この人だったってことだよね……。
複雑な気分だった。止まってほしいような、そうでないような。
その思いはルウスも同じようで、彼も複雑そうな表情を浮かべていた。
「その症状は強いものなので、何度か薬を飲んでもらわなくちゃいけません。1日に3回、どのタイミングでもいいですが、3時間以上間隔を開けて飲んでください」
「はい、わかりました」
一応『コフェレン』も上級に入る。少年の話によると食べ物にまで影響が出ているくらいなので、完治に1か月はかかるだろう。
それでも、症状は改善されていくはずだ。まずは先ほどの1回分の薬で、赤い食べ物ばかり食べなくなるだろう。
最初の薬の効果はかなり大きい。だからこそ――彼女が本当に切り裂き魔だった場合、その犯行は止まるだろう。
「シシィさん」
ルウスの小声にシシィは反応し、前に座る2人に怪しまれない程度に、ルウスの方へ身体を傾けた。
「何ですか?」
「呪いの気配はありますか?」
言われて、シシィはあたりを探ったが、気配を見つけることはできなかった。
「ありません、けど、あの呪いは隠れることができるようなので」
「――何から何まで、好転にも悪転にも決定打が欠けますね」
「……はい」
白黒はっきりとせず、気持ちが悪い。
そしてその感情を一番濃く持っているのは、少年だろう。
シシィは少年を見つめて、口を開いた。
「――大丈夫、必ず良くなるから」
「……うん」
どこか不安を残した少年の瞳に引き込まれるように、シシィの心にも不安が残った。
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「――やめて」
暗闇の中で彼女は頭を抱えて、1人苦しむ。
その目には涙が浮かび、全身汗がにじんでいた。
(―――っと、赤を)
「いや……!」
テーブルの上に置かれた青い液体が入った小瓶をつかもうとするが、その手は内側の何かに邪魔されるようにして、逆に小瓶を割ってしまった。
床に、青い液体がこぼれる。
その色は、今の彼女にとって苦痛だった。
(お前が望んでいるのは、もっと深い赤)
「違う……」
(深紅。生命の色だ)
「お願い……やめて……!」
(美しいだろう?さぁ、奪え。それはこの世における最高の快感だ)
「……助けて、誰か」
(さらなる苦痛を、憎しみを、悪意を。私を育てるがいい、宿主よ!)
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