けたたましい音とともに開かれたドアに驚き、ソファの上でのんびりと眠っていたルウスは顔をあげた。時計を見ると、4時を過ぎたところだった。
昼寝の時間も終わりか、とあくびをしながら体を起こしたところ、その脇をものすごいスピードでシシィが駆けていった。
「ごめんなさいルウスさんっ、私は今から寝ます!!」
「……へ?」
シシィの言葉に、もう一度時刻を確認する。午後4時を過ぎたところだ。
――今から、寝る?
「……あの、ご飯はどうすれば」
ルウスの声は、すでに自分の寝室にこもってしまったシシィには届かなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
――花の香りが、一定されてない。
ガーデンの中に入って、すぐに気付いたのはそれだった。花の香りが強くなったり、弱くなったりしている。それは今までにはありえなかったことだった。
この異変は、術者であるルビーブラッドが関係しているのか。
分からないまま、シシィはガーデンへ続く小道を走り、門を開けた。
変わらない、花の美しさ。おとぎ話に出てくるようなガゼボも、ブランコもそこにある。
噴水の水も夜空を映していて、その噴水の前に、ルビーブラッドはこちらに背を向けて立っていた。
「ルビー……ブラッドさん」
シシィのささやくような声に反応して、ルビーブラッドはシシィの方へ振り向いた。
「どうした。何かあったのか」
「え、あ……」
――何かあったのか、って……。
その言葉をかけるべきはこちらだったろうに、先に彼の方に言われてしまった。
彼はいつも通りのように思える。立ちふるまいも、声の調子も。
その様子にホッとした。何かあったのでは、と思い来てみたが、ルビーブラッドに異変はないように見える。きっとあの魔力の揺れは、何か間違いだったのだろう。
――きっと、間違い……。
「……何かに、つまずいたのか」
淡々として、抑揚のないルビーブラッドの声。
――本当に?
何か違和感がある。いつもの彼のようでいて、そうでない。
シシィは自分を落ち着かせながら、不可思議な点を見逃さないよう考える。
あの揺れが、何かの間違いだったと言うのか。
揺さぶられて、平衡感覚さえ失うほどの強烈な揺れが。
そんなのはありえない。あれは絶対にルビーブラッドの動揺や不安からきたものだ。
不安でなくとも、彼の身に何か起きたのだ。
「……それは、私のセリフです……ルビーブラッドさん」
「……何?」
「どうした、んですか……何があったんですか?」
注意深く見れば、ルビーブラッドの異変はすぐに分かった。
――ああ、瞳が。
気遣うべき自分の方が泣きそうで、悲しい。彼が普段どおりにふるまおうとすればするだけ、涙がこぼれそうになる。
何故そんなにも、完璧を装うとするのか。
何故、弱さを見せようとしないのか。
近づくシシィに、ルビーブラッドは小さく首を横に振った。
「何もない」
「そんなの、嘘です」
「本当に何もなかったが……」
「じゃあどうして、そんな冷たい瞳をしているんですか……?」
ルビーブラッドの瞳が、揺れる。
「いつもなら、もっとあたたかい瞳をしてるのに、今のルビーブラッドさんの瞳は冷たいです。何も受け付けないような、拒絶してるような瞳です。何が、あったんですか」
彼から2,3歩離れたところでシシィは立ち止まった。近くで見れば見るほど、ルビーブラッドの瞳は冷たく、そして不安に揺れている。
その揺れている瞳を、ルビーブラッドはシシィから背けた。
背けて、目を閉じて黙考する。
それは掻き乱れた自分の思考を整えようとしているようにも見えたし、ただ不安に耐えているようにも見えた。
「わ、私は頼りないかもしれないけど、ルビーブラッドさんに、何があったのかくらいは、聞けます。ルビーブラッドさん、言ってくれたじゃないですか、『頼られても迷惑じゃない』って。それは、私だって、お、同じなんです……っ」
――1人で、耐えようとなんて、しないで。
いつもいつも、ルビーブラッドに救われてきた。不安や恐怖を取り除いてもらったことが、どれほど心強かったことか。
ルビーブラッドがしてくれたことが、自分にもできるなんて思っていない。それでも、何もしないでいるなんてことは、もっと出来ることではない。
「……本当に、何も……」
「……私じゃ、頼りないですか……っ」
以前ルビーブラッドに言われた言葉を、シシィは口にする。自分が頼りないことは分かっていたが、どうしても力になりたかった。
――私、いつのまにこんなに、わがままになったんだろう?
これはエゴだ。自分の気持ちしか考えていない。
けれど、1人で不安に耐えてほしくないという思いが、抑えきれない。
シシィはルビーブラッドの長いコートをつかむ。少しだけルビーブラッドの身体が揺れたが、振り払われなかったことに安堵した。
ルビーブラッドは、何も言わない。
しばしの沈黙が、何十時間という長い沈黙のように思え始めたころ。
「……シシィに、1つ嘘を、吐いていた」
目を閉じたまま、ルビーブラッドは消えそうな声でつぶやいた。
「俺の借金は、知人に背負わされたものだと……」
「はい」
「――本当は、知人じゃない。親友だった」
ガーデンに咲く花の香りが、一気に強くなる。
まるで、ルビーブラッドの感情を示しているかのように。
「……昔から、この魔力の高さのせいで、誰もよりついてこなかったし、輪にも入れてもらえなかった。化け物だと、線を引かれていた。だから幼少のころは、自分は本当に……化け物なんじゃないかと、内心怯えていた」
小さな声で淡々と、そんなことを話すルビーブラッドが痛々しかった。そんなことないという思いを込めてコートをますます強く握ると、彼はそれに反応したが、視線はシシィと合わさないままで、目も開かない。
「そいつは……10歳になったころだったか、いきなり現れて、何故かは知らないが、よく俺と一緒に行動していた。時間が経つうちに……親友と呼べるような、関係になっていって、その中で自分は初めて人間だと知ることができた……のに」
「のに……?」
「15の夏にそいつは、借金を俺に残して姿を消した」
表情を隠すようにして、ルビーブラッドは目を手で覆う。
「――何か理由があるのだろうと、借金を払う一方で、ずっと親友を探していた。情報があれば、仕事の暇を見つけてはどこへでも飛んだ。理由を訊きたかった。何故、姿を消したのか…………いや。……本当は、違う」
しばしの沈黙。
ルビーブラッドの目を覆う手は細かに震えていて、何かに怯えているように見えた。
その怯えを拭いたくて、シシィはコートをつかんでいた手を離し、目を覆う手の上に
自分の手をそっと重ねた。ルビーブラッドの身体が一瞬強張って、すぐに緊張が解かれる。
何かを覚悟したように、彼は重く口を開いた。
「……恐ろしかった、だけだ。自分が人間だと教えてくれた、唯一の存在がいなくなって、自分がまた化け物に戻ることが。借金を払い続けているのも、信じていれば、また帰ってくるんじゃないかと……思っているからだ」
「そんな……っ」
「……汚い、卑怯な考えだな。だからなのか」
それは今まで一番、小さく、低く、暗い声だった。
「帰ってこなかった。死んだらしい」
――ああ。
魔力が揺れたのは、この事実を知ったからだ。それ以外に何が考えられるだろう。
「……実感が、湧かない。死んだという証拠がないからなのか、考えが巡るばかりで、悲しみがない。涙も出てこない。……最低な……人間ですらないかもしれん」
「……っ!」
ボロボロと、涙をこぼしながらシシィは考える。親友と思っていた人の裏切りの理由も、あるいは親友の失踪の理由も、どちらも知ることができなかったルビーブラッドの悲しみを。
あまりにも、その悲しみは深い。
深すぎて、衝撃が強すぎて、頭の中で『親友が死んだ』という事実が処理できていないだけだ。感情がないわけではない。泣くと歯止めが利かなくなって、泥沼にはまっていくようにして堕ちていくことしかできないと、本能で分かっているから泣けないだけなのだ。
――泣いたって、いいのに。
そこから這い上がってくることでしか、得られない癒しだってあるのに。
なのに、ルビーブラッドは泣き喚くこともなく、ただ淡々と静かに、その事実を受け入れようとしている。
たった1人で――間違った方向に完結させようとしている。
「どこが、最低なんですか……っ」
涙声でも、シシィははっきりルビーブラッドに向かって言う。
「裏切られたって、怒ったっていいのに、ルビーブラッドさんはそんなこと考えてないじゃないですか……っ。どうして、そんなに、自分に厳しく当たるんですか。私は、ルビーブラッドさんのことを、化け物だなんて思えません……っ、私にはっ」
ルビーブラッドは目を覆っていた手をのけて、やっとシシィをその双眸で見つめた。
キレイな赤色だ、とシシィは頭の片隅で思う。
「厳しくて、優しくて、オレンジケーキが好きな……親友を亡くしてしまって、途方に暮れている男の子にしか、見えません……っ!」
シシィの前に、オレンジの香りが広がる。
――息が。
苦しくて、呼吸が止まりそうになる。
この感覚は、どこかで体験したのに思い出せない。
どこだったのか。
自分を包み込む熱が、思考を混乱させて、麻痺させる。
「――すまん。このことは忘れてくれ」
声が降ってくるような感覚。
オレンジの香り。降る声。自分を包み込む熱。真っ暗な視界。息が、苦しい。
胸が痛い。
身体が燃えているようで、何かに突き動かされそうになる。
――私、は。
「……ありがとう」
ルビーブラッドのその一言は、シシィからオレンジの香りも包み込む熱も、何もかも奪い去った。まばたきをする時間さえないほどの、刹那の出来事。
ガーデンの中に残ったのは、シシィただ1人。
ルビーブラッドの姿は、ガーデンの中から完璧に消えてしまった。
一瞬の出来事に混乱し、シシィはその場に呆然と座り込んだ。ただ、視線は自分の両腕に向かう。
――忘れて、って何を?
分からない。
――ありがとうって、何が?
分からない。
――私、役に立てたの?
分からない。
――私、何をしようとした?
「あ、ああ…………」
その答えなら、分かっていた。混乱する頭の中で、唯一混乱せずにいる気持ち。
忘れてくれと言われて、何故か胸が痛くなって、衝動が湧き起こった。
理性すら入りこめないほどの衝動で。
きっと、ルビーブラッドが消えなければ、その衝動のままに行動していた。
けれど衝動は果たせないままで、だからこそ気付いた。
――抱きしめたかった。
いつもより小さく見えた体も、悲しい瞳も、オレンジの香りも、混乱と戸惑いに満ちた心も、すべてを抱きしめたかった。
いつも彼がくれたような、安心とあたたかさを分け与えたかった。
なのに、これでは、傷をえぐっただけだ。
何の解決にもなっていない。何の安心感も与えられず、勇気づける言葉も言えることなく、ただ彼の傷を深くしただけではないだろうか。
――自分のエゴで、ルビーブラッドさんを、傷つけ、た。
「う、う……っ……!」
悔しくて、情けない。一体、何のために夢の中のガーデンまで来たのだろう。
全然成長できていない。
ルビーブラッドに心配されないような、そんな魔術師になろうと思っていたのに。
この結果を見るべきだ。心配されないどころか、傷つけた。
あんなにも優しい人を。
彼の弱音さえ、まともに受け止めきれない。
こんなときに役に立てなくて――どこで役に立つというのか。
いつか、と思っていたはずなのに――。
「――――」
そう、だ。
あのとき。衣装祭がある前、ルビーブラッドに渡すプレゼントを買いに行った日。
『いつか』の続きがでなくて、うやむやになったままだった。
けれど今なら、分かる。
あのとき、自分は。
『いつか貴方の痛みや弱さを受け入れたい』と、思ったのだ。
その感情の名前を知っている。
ずっと、ずっと気付かなかっただけで、すでに心の中にあったこの感情。
いつからあったのかは、分からない。それは彼の微笑みを見たときからか、励ましてもらったときからか、手をつないだときからか、悩みを聞いてもらったときからか、
それとも――初めて会ったときからなのか。
分からないほど長く、自分の中でつぼみであり続けた気持ちは、よりにもよって、このときをもって、花開いた。
開いたなら、もう無視はできない。
香って、その存在感は増す。
厳しくて、優しくて、ほんの少し怖くて、微笑んだ顔が素敵で、不器用で。
19歳になる青年で、オレンジケーキが好きな、天才魔導師。
ワークネームは、ルビーブラッド。
「……好きです」
――私は、ルビーブラッドさんのことが好きです。
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