周りの景色は歪んで、シシィの身体を冷たい豪風が打った。
――熱いっ……!
内臓が焼けるように熱く、痛い。頭がくらくらして気持ち悪い。
おそらく魔導の発動か、魔力の使い方が違った反動なのだろう。やはり魔術と同じような魔力の注ぎ方では、魔導を使う場合はいけないようだ。
もっとよこせ、と魔力をはぎ取られているような感覚がする。
涙がにじんできたが、それでも自分にはこの方法しか残されていなかった。一か八かでも、付け焼刃にすらなっていない魔導に頼ることしかできなかった。
――魔導の空間転移なら、人物で指定ができるはず……!
ルビーブラッドは、よく移動の際にこの魔導を多用している。特に、次の依頼に向かうときにだ。
彼の場合は緊急で依頼が入ることも多く、その場合は依頼人のもとへ急行しなければならないことも多いだろう。そういう癖がついて、彼は転移魔導をよく多用するのではないだろうか。
でなければ、魔力消費の少ない魔術を使うはずだ。魔導を使う以上、魔術にないメリットがあるはずで、そしてそれこそが、目標を『人物』にも設定できるということではないだろうか。
この仮説が正しいのかどうかは――魔導を制御できるかどうかにかかっている。
「…………っ!!」
ルビーブラッドが使ったときのように、一瞬にして目的地に着かないのは魔力の注ぎ方や発動が正しくなかったからなのか。
歪む景色の中、豪風に押されながらもシシィは必死で甘い香りのする魔力の気配をつかもうとした。が、すぐに流される。左右に揺らされる。
使ってみて、改めて魔導の難しさを知った。ルビーブラッドは何でもないことかのように使っていたが、確かに魔術以上に魔力をもぎ取られる。
実力の魔法。
何にも頼らない、己のみの力。
――そうだ、これは私の力。
この歪む景色も、豪風も、左右に押し流される力も、自分の物だ。
「言うことを……聞いて……!」
瞬間、体が宙に浮いたような感覚がした。
――これは、ルビーブラッドさんと一緒に飛んだときと同じ……っ!
「っ!」
広い空が広がっていた。
風は肌寒く、地上で吹かれる風より澄んでいる。
シシィが立っていたのは、高い建物の屋根の上だった。
同時に、依頼人もそこに立っていた。
「……闇色ハットさん」
いきなり現れたシシィに、青年は振り向いた状態で固まっていた。表情に笑みはなく、ただ驚きのみが見て取れる。
――ああ、まだ。
まだ、大丈夫だ。引き返してこれる。
間に合う。
彼は、治ることができる。
シシィはポケットから薬を取り出し、青年に掲げて見せた。
「薬が……出来た……んです……飲んでください……」
自分のあまりに小さな声に、シシィは驚いた。体力がかなり消費されている。
風の音に声がさらわれたかもしれないと思ったが、青年にはしっかり聞こえていたようで、彼は微笑んで。
首を横に振った。
「いいです。僕はこのままがいい」
恐れていた事態が、今現実となる。
彼はやはり、治療を拒んだ。
「ダメです……飲んでください……死んじゃいます!」
「昨日ね、僕は素晴らしい考えが思い浮かんだんです。僕は、今は幸福だけれど、もしかしたら将来は、この先は、1秒後は幸福じゃないかもしれない。だから幸福なうちに、この気持ちを永遠にしておこうって」
――その『永遠』は、『死』ということですか……?
言葉が出ない。吸い込んだ重い空気が、言おうとした言葉を押し込んでしまう。
「幸福なまま天に昇る……これこそが、最上の幸福ですよね?恐れも不安もなく、怯えることもなく僕は階段を上ってゆけるんです」
「……違います……そんなものは、幸福じゃない」
何かがねじ曲がっている。
何故彼は、こんなにも『幸福』であることにしがみつくのか。
――執着するのは。
「――何か、とても悲しいことがあったのですか?」
彼の表情が、微笑んだまま固まる。
その様子を見て、シシィは確信した。彼は悲しいことがあったのだと。
こんなにも幸福にすがりつくのは、それが彼の周りにまったくなく、むしろ逆の状況に置かれていたからではないだろうか。
ないものは、欲しくなる。
手に入れば、手放したくなくなる。
それが――貴重であればあるほどに。
「負けてしまわないでください……!」
「……簡単に言わないでくださいよ」
「生きていれば、悲しいことだってあるけど、それだけじゃ……」
「うるさい!貴女なんかに、僕の何が分かるって言うんだ!!」
今まで穏やかに笑っていたのが嘘のように、青年は取り乱しながら叫んだ。
「何も知らないくせに……!僕が、どれほどの絶望の中にいたのか知らないくせに勝手なことを言わないでくれ!大切な人を失ったこともないくせに……なんの意味もない励ましなんていらないんだよ!」
「……!」
「彼女が死んでからこの3か月、楽しいことなんて一つもなかった。あのとき僕が彼女の方を歩いていたら馬車にはねられなかったとか、病院へ連れていくのが早かったらとか、いろんな後悔がぐるぐる回るんだ。町に出ても、本当なら2人で並んで歩いて、買い物だって出来ていたはずなのに。そういうのを考えてるとイライラして、どうしようもなかったけど、今は違う。彼女がいた頃と同じ幸福感に包まれているんだ。僕は哀れなんかじゃない、幸せだ。お願いだからこのままでいさせてくれ」
――そういう、理由で。
彼は過剰な幸福感に酔って、依存してしまったのだ。
青年は知らないのだろうか。今も微笑んでいるその表情は、泣き笑いに近いことを。
――それが、本物の幸福ですか?
その幸福感は、そう思わされているだけだ。偽物でしかない。
「……もう、いいでしょう。十分でしょう?僕は、自分がよく持ったと褒めてやりたい気分なんです。負けたっていいじゃないですか?放っておいてください、僕は彼女に――会いにいきたい」
「会いたいのはっ!」
シシィは持てる力全てを使って、声を荒げた。
まっすぐ、意図して青年を見つめる。少しでも自分を力強く見せるように。
「亡くなった人に会いたいのは、貴方だけじゃないです。私、だって……私だって、会いたい。会って、話したい。だって、私は大切な人、祖母の最期に、立ち会えなかったから……!」
――泣くな。
そう思うのに、勝手に目に涙が溜まってしまう。あの時のことを思い出しただけで、苦い記憶と深い後悔の念が、鮮やかに思い出される。
祖母の最期を、シシィは看取れなかった。
まだ祖母の遺言のことを知らず、シシィは学校を卒業したら働くつもりで、ずっと就職する職場を探していて、家を空けることが多かった。
その日も、祖母に「行ってきます」と言って家を出た。祖母も「いってらっしゃい」と行って、ベッドの中からだったが、送りだしてくれた。
それが最期の会話だった。
何も知らず帰ると、母が泣き崩れて父がそれを支えていた。祖母はベッドの上で冷たくなっていて、一瞬蝋人形ではないかと疑った。
「何の予感もなくて、外にいる時も何も感じなくて、虫の知らせなんて、そんなものないんだって、そのとき初めて思いました。こんなにも、本当に、唐突に終わるものなんだって……」
知ったのは大切な人を亡くした後で、後悔するしかないときで、知った代償はあまりに大きかった。
自分だけお別れすら言えなかったのが、情けなくて、悔しくて、冷たくなった祖母の手を握りながらシシィは色んなものを恨んだ。
両親も、医者も、葬儀屋も、誰でもいいから、どうして自分を探しに来て、一言「家に帰れ」と言ってくれなかったのかと。
仲間外れにされたような気分で、一人取り残された気分で。
どうして除け者にしたのかと、すべてを恨んだ。
同時に、心の中に大きな穴があいて、何もかもがどうでもよくなった気がした。
「何をやっても空虚で、そのうち祖母のところにいきたいと思うようにもなりました。でも、それを止めたのも、祖母で……」
遺言状が見つかった。
それはシシィに宛てたもので、図書館を譲るという内容。
それと一緒にもう一枚手紙も入っていて、こう書かれてあった。
『人生とは扉を開けることなのよ、シシィ。図書館の扉を開いてくれるなら、貴女にきっと輝く日々をプレゼントできるわ。シシィが笑って、泣いて、怒って、成長する輝く日々を送るなら、私は貴女の前に立つでしょう。私はシシィと共に生きているわ』
読んで、シシィは大声をあげて泣いた。そのときは本当に、このまま涙が枯れて、一生涙なんて出ないんじゃないかと思うくらいに、ずっと泣き続けていた。
「亡くなった人は、あ、後を追ってきてなんて、ほしくないんです!ただ、強く生きてほしくて、だから、私たちはたくさん泣いて、その後に立ち上がらないとダメなんじゃないですかっ!」
「……!」
「それでも、幸せだけを求めて、死んでしまうんですか!?大切な人がいたときだって、悲しみや、怒りを共有したんじゃないんですか!それを貴方は捨ててしまおうとしてるんですよ!!」
「僕、は……」
――どうか、考えなおしてください。
明らかに青年の気持ちが揺らいでるのが見て取れた。
『フォアン』の症状が後退し、落ち着きを取り戻してきたように思えて、シシィがひそかに安堵した瞬間。
視界の端に、黒い煙のようなものを見た。
――え?
ちらりと見えたそれは、すぐに消えて。
再び現れたときには、青年の身体を包み込んだ。
「うわぁああっ!?」
――こ、の感覚……そんな、嘘だ……!!
無意識に震える体が、その感覚を鮮明に覚えていた。魔術師となって、一番怖くて一番手こずったもの。
この気配は、呪いだ。
そう認識したときには、黒い煙――呪いにまとわりつかれた青年の様子はすでにおかしくなっていた。
「あ、はは、あははは!やっぱりダメだダメだダメだダメなんだよぉぉ!」
「……っ!?」
「どうせみんな死んでしまうんだ、僕がいつ死んだって構わない!!」
――やめて、どうして。
せっかく、思いとどまってくれるところだったのに。何故このタイミングで、呪いが出てきたのか分からず、シシィの頭は混乱していた。
どうすればいいのか分からない。『フォアン』は呪いではないはずなのに、青年の身体は呪いで覆われて、精神が侵されていっている。
呪いはどこから来たのか?何の呪いなのか?そもそも青年の症状は『フォアン』ではなかったのか?
――落ち、着け。今は違う。今はそんなことを考えるより……!
シシィはロッドを構えた。
『悪しき一閃は茨に阻まれ 正しき蝶は触れし者の企図を排除するだろう 拒めブランシェリーア!』
シシィの魔術は青年に向かい、呪いはそれを察知したのかすぅ、と青年の身体から手を引いた。呪いは霧のように溶けて、シシィの魔術は青年の身体を覆う。
これはこれで、いい。あの魔術は呪いを追い払うと同時に、守護してくれる役目もある。簡単な呪いならはね返すのだが、まさかこれで手を引くとは思えない。
シシィは油断なく、辺りを見渡した。
消えた。気配を消して、機を窺っているのだろうか。
『悪しき一閃は茨に阻まれ 正しき蝶は触れし者の企図を排除するだろう』
万が一のために、あらかじめ呪文を唱えておく。姿を見せてから呪文を唱えていたのでは間に合わない場合もある。
シシィはじっ、と待ったがいくら待っても呪いが姿を現す気配はなかった。
――来、ない……?
リボンのときと同じように、感覚に頼って呪いを探ってみるが、完璧に気配は消えていた。この屋根の上どころか、近くにはもう気配を感じ取れない。
――逃げた?
シシィはホッとするどころか、逆にぞっとした。
その行動は、まるで呪いが思考を持っているようにしか思えない。知恵を持ち、何かの機会を、きっかけをひっそりと無理をせず待っているようにしか思えない。
「……僕は」
力ない青年の声にシシィは我に返り、青年のもとへ駆け寄った。呆然と座り込む彼に合わせるように、自分も座って肩に手をかけると、青年の肩があまりにも細いことに気がつく。
「忘れて……いました。彼女は、とても強い人で……いつも僕の心配を」
「……」
「心配を、していて、結婚して、私が先に死んだら、とても心配だから、もっと強くなってと……いつも言っていたのに」
乾いた屋根の上に、ポツリポツリと大きなシミができる。
青年の肩は震えていた。
「時間が経っていくにつれて、他の人たちが、何でもないように笑うのを見て、何て冷たい人たちだろうと……やっぱり彼女を一番想っているのは僕だと思っていたけれど……違ったんですね……。僕が、一番彼女の遺志に反していたんだ……」
「間違っては……ないですよ、きっと」
「……?」
シシィは青年に、微笑んでみせる。
「きっと、これだけ想ってくれて幸せだったと思います。でも、だからこそ、彼女はもう貴方に前向きになってほしいんじゃないでしょうか?きっと、私ならそう思います」
「前向きに……」
「忘れるってことじゃないんです。ちゃんと思い出を抱えて、時々泣いてもいいからできるだけ笑って過ごしていくんです。別れがあるように、きっとまだ出会いもあるんです。私にも、たくさん訪れました」
祖母の遺言通り図書館の扉を開けば輝いて、それでいて忙しい日々が待っていた。
たくさんの人とも出会えることができた。
悲しいけれど、大切な人を亡くした痛みは時間が癒してくれた。
「まず、貴方が前向きになるには、その『幸福感』を手放すことです。手放して、ちゃんと大切な人を亡くした悲しみと向き合うことが大切なんです」
「……」
薬を差し出すと、青年はゆっくりとそれを受け取った。
しばらくビンの中で転がる錠剤を見ていて、決意が固まると薬を取り出し、それを飲み込んだ。
「……これで、治りますか」
「はい。徐々に、幸福感が薄れていくはずです」
頷いて見せると、青年は泣きながら微笑んだ。
「これで良かったんだ……これで……」
「……」
「僕は……強くなりたい……っ」
「ええ……なれますよ、きっと」
「私も修行中なんです」とシシィが言うと、青年はやはり泣きながら笑った。
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