『フォアン』は、『キシュール』という花の香りを嗅ぐことで発症するとされている。
 『キシュール』の香りは甘く不思議で、正しく使えば精神安定剤となるが、直接嗅いだり濃度を間違えたりすると、『フォアン』になる。
 そしてこの花の恐ろしいところは、一見するだけでは、野薔薇と見分けがつかないところにあり、何も知らない素人が近づいて香りを嗅ぐと、大変なことになる。
 青年の話によると、ちょうど1週間前山に入り、キレイな花の香を嗅いだということなので、つじつまは合う。

「しかし、末期の『フォアン』とは厄介ですね」
「そう……なんですか?」

 依頼を引き受けたシシィは、Bたちと別れた後、祖母の隠し部屋で『フォアン』のことについて詳しく調べていた。
 確かに末期の『フォアン』は大変である。それだけ偽の幸福感が体にしみわたっているのだから。
 が、ルウスは首を横にふる。

「厄介、というのはシシィさんの思っているようなことではありませんよ」
「え?」
「本当に恐ろしいのはですね、シシィさん。依頼人が治ることを拒否するんです」

 ――拒否?
 まさか、と思う。
 本人に自覚がないとはいえ、あれだけBや自分に「死んでしまうかもしれない」と言われたのだから、青年は薬を飲むだろう。
 その証拠に、依頼をしてきたのだから。
 信じられないでいるシシィを、銀色の瞳で鋭く見つめながらルウスは続けた。

「気付いてないですね、シシィさん。彼は一度も(・・・)依頼する(・・・・)なんて言ってない(・・・・・・・・)
「――!」
「そうでしょう?彼はただ、微笑みながらそこに座っていただけです」

 思い出してみれば。
 そう、なのだ。ルウスの言うとおり、彼は微笑みながら座っていただけだ。
 ――正確に言えば、違う。
 彼は一度断った(・・・・・・・)
 『困っていることなんて、ない』と言って。
 シシィは、絶句した。

「あれは危ない兆候ですよ。もしかすると彼は治りたくないのかもしれません」
「そんなことって、あるんです、か……?」
「麻薬と同じです。幸福に満たされている感覚が、堪らなくなるのでしょう。誰だってイラついたり、悲しんだりしたくない。幸福である方がいい」

 ――そうかも、しれない。
 常に幸福感に満たされていれば、他の感情で気が落ち込むこともないし、前向きになれる。幸福であるということはいいことだ。
 でもそれは、本物であるならば、だ。
 『フォアン』の幸福感は違う。それはれっきとした『症状』で、自身の命を追い詰めていくものでしかない。
 幸福のようであって、不幸の道へたどるモノ。
 ――そういうものに、救いを求めたくなるのは……分かる、けれど……。
 遥か先にあるかもしれない、遠い幸福より、偽りでもいいから近くにある幸福を、と思ってしまう気持ち。
 弱い心だ。
 そして同時に、人間らしい願いでもある。
 ――少なくとも、私も一度そう願ったもの……。
 だからそう願うことを非難できない。けれどそれは、叶うことがないのがいい願いだとシシィ自身は知っている。

「――治療薬を作りましょう」

 たとえ依頼人に治療を拒まれたとしても、諦めないように自分をしっかり持たなければダメだ。治療はしなくてはならない。諦めてはいけない。
 ――頑張ろう。
 気合を入れたシシィは、魔術書を片手に棚へ近づき、そこから材料を拾っていく。

「『デリ』『ファイント』『メギ』『アナスターアール』『メディディの実』『コルカントロアーの種子』……で全部ですね」

 ちなみに前4つは魔術薬の名前だ。『フォアン』治療に使う魔術薬も上級の魔術に入るので、材料がかなり多いし、材料として魔術薬を使う数も多い。
 ――そろそろ魔術薬のストックがなくなるし、時間があるときに作らなくちゃ。
 それは後にするとして、シシィは手元の魔術書を見た。

「まずは……『メディディの実』をすりつぶし……」

 読み上げながら材料を机の上に置き、乳鉢を用意して実をすり潰す用意をする。
 メディディの実は蒸した栗のようにやわらかくて、すぐに潰すことができた。

「『コルカントロア―の種子』を砕き粉末にして、『メディディの実』と混ぜ合わせる……と。次は『ファイント』を10cc……これくらいかな。それで『メギ』を12cc……」

 さくさくと、淀みなくシシィはいつもの通り正確な目分量で魔術薬を調合していく。
 依頼で魔術薬を作るのは久しぶりのような気もするが、依頼以外でもちゃんと魔術薬は作っていたので、目分量の勘は衰えるどころか冴えるばかりだ。
 ――うん。最近調子がいいなぁ。
 シシィの前には緑色の液体魔術薬があっという間に完成した。
 一方、この一連の作業を見ていたルウスは、ただ目を瞠るばかりだ。
 ものの20分程度の出来事である。

「早かった……ですね、シシィさん」
「そうですか?量らないから、もっと早くなれると思うんですけれど」

 実際、ルビーブラッドはこれより多い材料を使う魔術薬を、あっという間に作って見せた。あれを今の自分がやるなら、おそらく彼の倍の時間はかかるはずだ。量るだけなら自分の方がもしかすると早いのかもしれないが、すり潰したりする動作が入ると要領をわきまえている彼の方が断然早い。
 ――ルビーブラッドさんと比べること自体が、不遜、です、が……。
 目標は高いに越したことはない。
 正確に、早く作れる方が良いに決まっている。

「それに、これからが大変ですからね……」

 魔術薬を作る上で一番大変なのは、魔法陣。
 魔術書を見る限りでは、今回もまた難儀な呪文のようだ。噛みそうである。
 調合出来たばかりの魔術薬を床の上に置いて、シシィはロッドを手に取った。

『我は有為(うい)門扉(もんぴ)を創る者 全てはここから始まりここに終わる』

 ロッドの先の、透明だった石がシシィの魔力の色であるオレンジに光りはじめたのを確認し、さらに呪文を続ける。

荊棘(けいきょく)の中に包囲されし重なる安定よ 幾億の(きら)めきは光の(つた)と成り 緑は荊棘(けいきょく)を包むモノと成る 其は示すモノ 示せ泥と水 其は現すモノ 現せ仮面と(きょ)

 ――複雑な陣。
 複雑であればあるほど、魔力は比例して持って行かれる。
 床には呪文にあるとおり蔦や、さまざまな図形が円の中に収められていて、やはり中級の魔法陣とは一線を画していた。
 ある意味芸術的、とでも言えそうな魔法陣に見惚れそうになるが、そんなことをしている場合ではなく、シシィは無理矢理意識を魔術の施行へと向ける。

『シャレーティア・フェルア 枯渇せよ白水(はくすい)!』

 魔法陣が光ると、ビーカーの中の液体だった魔術薬は、震えたかと思うと球状に圧縮されていき、表面が揺れなくなった。
 つまり固体化して錠剤となり、再びビーカーの底へ転がった。

「……せっ、成功したぁー……」

 その場でシシィは倒れ込む。今回の魔法陣には、かなり魔力を持っていかれた。
 久々に眠気が襲ってきたほどだ。
 倒れたシシィを心配して、離れていたルウスがシシィの傍までやってきた。

「生きてます?」
「……眠りたいです……」
「でしょうね。今日はBさんに薬ができたことだけ伝えて、依頼人には明日渡すことにしなさい。でないと、シシィさんの方が倒れますよ」

 出来ることなら今すぐ渡しに行きたいが、ルウスの言うとおり、倒れることになりそうだ。ここは大人しく従っておくのが賢いだろう。

『けれど進行速度がおかしいわ……』

 ビクリ、と。
 シシィは体を震わせた。
 ――Bさんの、言葉……。
 明日渡すことで、間に合うのだろうか。彼の症状の進行具合をBはやたらと気にしていた。『フォアン』は本来ならもっとゆっくりな進行だからだ。
 胸を圧迫されるような不安が、シシィを襲う。
 ――考えすぎ、だよ。
 末期症状とは言え、すぐさま死に走るような考えに至るわけではない。最低でもその考えに達するまでに1か月は必要だと魔術書には書いてあった。
 常識的に考えてたった1日で、そこまで悪化するはずがない。
 ――だよね……?
 自分に言い聞かせ、シシィはふらつきながらBへ連絡を取るために立ち上がった。





********





 カチン、と時計の針が静寂な空間の中で鳴り響く。
 シシィはカウンターに肘をついて、待ちくたびれた様子で目の前に置いてある、ビンの中に入った緑色の錠剤を見つめた。
 その間にも、図書館の中の時計は時を刻んでいく。
 秒針が30回音を立てたあと、ようやくシシィは口を開いた。

「……来ませんね、あの依頼人さん」

 隣にいるルウスは、それを無言で肯定する。肯定することしかできない。
 依頼人の青年は、約束の午前10時を3時間過ぎた今でも、姿を現す様子がない。
 きちんと昨日の内にBに連絡を取り、青年に薬ができたと伝えてもらって、なおかつ取りに来る時間も約束したのに来ない。
 ――何か、急用でも出来たのかな?
 けれどシシィは、自分のその考えが精一杯の強がりであることを知っていた。
 本当はそんなふうに思っていない。強烈な不安が胸の底にある。
 彼はやはり、治ることを拒否しているのではないのかと。

「闇色ハット!」

 騒がしい音とともに、図書館に転がり込んできたのは待ちに待った依頼人ではなく、焦った様子のBであり、シシィはその光景に嫌な予感を覚えながら立ち上がった。

「どうしたんですか……?」
「昨日の依頼人の彼、ここに来てないわよね!?」

 ――こんなに焦ってるBさん、初めて見る……。
 その勢いに圧倒されながらも、シシィは頷いた。その返事を見て、Bは額に手を当てて、ぐしゃりと艶やかな髪をつかむ。
 その表情は、決して楽観できる状態を指すものではない。

「やっぱり帰すんじゃなかったわ……!まだ『ブラック』までは時間があるものと」
「『ブラック』って、何ですか?」

 Bは懐から、懐中時計を取り出した。
 ――違う、時計じゃない。
 盤には方角が描かれており、短い針が1本、北東を指して止まっている。時計としても不思議なつくりだが、それ以上に不思議なのは、その針は赤になったり黒になったりと、忙しく点滅を繰り返しているところだった。

「これは依頼人を探す道具よ。この魔道具があるからこそ、私は魔術師を必要としている人のいる方角が分かるの」
「針の示す方角がそうなんですね?」
「ええ。でも今回見てほしいのはこの、針の色よ」

 針の色、と言われても、赤と黒の間を行ったり来たりで点滅しかしていない。

「症状にもレベルがあるの。この針が白なら比較的軽くて、それからは青、緑、黄、赤、黒の順番で危険度が上がっていく」
「赤……って、じゃあ!」
「今の色は、赤と黒の点滅……」

 Bは力なく――冷えた声で言葉を落とした。

「黒になれば、彼は死んでしまうわ」

 ――死?
 ここに、薬はあるのに。
 彼女の言葉に、自分の思考が追い付かない。自分の中の現実が追い付かない。
 Bは顔を覆いながら、崩れるようにその場に座り込む。
 その動作は、嫌でもシシィに現在の状況を叩きつけた。
 ――間に合わない。
 これからあの青年を探していたら、絶対に針が黒になってしまうだろう。彼は一般人なので、魔力を探ることは難しいし、居場所も分からない。Bがここに駆け込んできたということは、自宅にもいなかったのだろう。
 手遅れだ。
 何もかもが、遅かった。
 ――どうして、私、昨日の内に渡さなかったんだろう?
 無理矢理にでも、重い体を引きずってでも、青年を治していればこんな状況にはならなかったはずなのに。
 自分の落ち度だ。
 自分の甘えが、至らなさが、依頼人を――殺す。

『………ありがとうございました、闇色ハット様』

 いつか、聞いた声が頭の中に響く。
 ――どこで、だっただろう。
 確かに聞いた、それは。

『彼女も、彼女の姉も、貴女のおかげで幸福だけを抱くために眠っていられる』

 青の気配がするあの屋敷で言われた、あの青年の言葉。

「……いや、だ……」

 心の底から湧きあがった言葉を、シシィは口にする。
 声にしたことで、一気に感情が波となって押し寄せてきた。
 ――もう、嫌だ、あんな思いは。
 救えなかった人たち。自分が弱かったが為に、何もすることができず、負け犬のようにしっぽを巻いて逃げてくることしかできなかった、苦い記憶。
 今になっても思う。まだ、他にできることがあったのではないかと。
 今なら、もっと別に何か出来たのじゃないかと。
 後悔だ。
 後悔と苦さだけが残った、依頼だ。

「嫌だ……っ!」

 あんな思いを、二度としたくないと思っていた。
 なのに、また後悔が残る依頼にするつもりなのか。
 どこまで、自分は学習しないのか。
 ――あの時とは、違うんだ……違う……っ!
 後悔は、しないように。
 傷つくことはあっても、自分のふがいなさに泣くことはあっても、後悔だけはしない。
 やれることがあったんじゃないかと嘆く前に、これからやれることをやらなければ。

『お前は立ち向かえる勇気を、もう持っている』

「――ロッド!!」

 シシィの声に、電光石火の如く反応してロッドがシシィの前に現れた。
 それをつかみ取り、ロッドの石を額に当てる彼女を見て、ルウスがカウンターの影からひっそりとシシィに呼びかける。

「何をする気ですか」
「あの青年の魔力を探ります」

 シシィの言葉に驚いたように、Bが顔をあげた。

「そんな……無理よ、闇色ハット。一般人の目覚めていない魔力を探るのは、熟練の魔術師ですらとても……困難なことなのよ」
「知っています、困難なんですよね。でも困難なだけであって可能性はゼロじゃない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)ってことじゃないですか」

 目をつむり、意識を深い湖の底へと向かわせる。
 水の音も、自分の心音すらも聞こえてこないような深い場所へ。
 ――彼の魔力の色は……?
 一般の人の魔力は、レースのカーテン越しに見る色のようで、とても分かりにくい。
 それに自分の探れる距離に彼が居てくれるのかも分からない。
 ルビーブラッドに指摘されたあと、ルウスに協力してもらって測ってみたが、自分が探れる範囲は半径10キロほどだった。
 けれど今はもう少し距離が延びているかもしれない。
 ――魔力の色は、甘い花のような……桃色の……。
 もしかすると、その色は『フォアン』の影響を受けた色なのかもしれない。体調の良し悪し程度では色は変わらないが、魔術の病気に侵されるとまれに色が変わることがあるらしい。色を変える魔術薬や魔道具もある。

「!」

 ――今、一瞬だけ甘い香りがした気がする。
 Bの持っている魔道具が示していたとおり、北東にその気配はあった。

「見つけました!」
「え――!?」

 場所を忘れないうちに、気配を確保しているうちに、シシィは急いでカウンターの上に置いてあった魔術薬をポケットの中に押し込んだ。

「でも、闇色ハット……!今から走っていっても間に合わないわ!!」
「ええ」

 気配は――遠かった。今から走っていったのでは到底間に合わない。
 それなら図書館のロビーにある空間転移魔術を使えばいい話だが、シシィは、まだ転移魔術までは習えていない。行くことは出来たとしても、帰ってこれないのだ。
 別に飛んだ場所が普通の場所ならいいが、断崖絶壁の上だったりすると、帰りの呪文を使えないのはかなり危険である。
 そしてさらに、あの魔術には欠点があった。
 それは転移の設定は、『場所』に限られることだ。
 つまり、会いたい人物の気配と方向だけ分かっていても、場所が分からなければ飛ぶことができない。今現在の状態だ。
 あの空間転移魔術は、たとえ帰りの呪文を使えたとしても使えない。
 ――でもそれは、あの転移魔術は(・・・・・・・)って、こと、で……。
 シシィはもうひとつ、使える転移を知っている。
 でもそれは、大きな賭けだった。
 呪文は知っていても使えないかもしれない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

「……やってみなくちゃ、分かんない、ですよ、ね」

 震える自分をごまかすように笑って、シシィは、ロッドを構えた。
 ――さぁ、思い出すのよ。
 ずっと近くで見てきて、この身で体験している。
 一瞬だけれど、感じ取れたことだってある。
 一流の彼の淀みない魔力の流れを(・・・・・・・・・・・・・・・)


『――イオス 誇り高き二藍(ふたあい)のかわひらこよ 妖艶な羽と神秘の羽 我は奇怪の扉を開く者 浮き世に囚われず 汝の力を望む』