幸せなんだ。
 幸せなんだ幸せなんだ幸せなんだ幸せなんだ。
 憐れむことはない。悲しむこともない。

 僕は世界中で一番幸せだ。





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「あとは……お肉、と」

 乾いた風が吹き抜ける街を、シシィはメモと買い物バッグ片手に歩んでいく。
 今日は図書館は休館日だったので、夕食は豪勢にしようと思い買い出しにやってきたわけだが、豪勢にしようと思うとどうしても食材の量が増えて、荷物が重くなる。
 これは結構悩みの種だ。何せ自分の家は丘の上。坂が待ち受けている。
 ――こればっかりはルウスさんがいてもなぁ……。
 犬の姿なので、荷物を持ってもらうことができない。
 祖母は年を取ってからは宅配を利用していたようなので、坂で苦しむことはなかったようだが、それを若い自分が使うのは気が引ける。
 それにお金もかかるので、あまり気が進まない。
 毎回毎回、重い買い出しをするたびに悩むことではあるが、毎回毎回憂鬱である。

「さて、と。お肉はどこで買っていこうかな」

 豪勢にしよう、と言っても別にイベントやお祝いがあるわけではない。ここが悩みどころだ。

「量より質か、質より量か……」

 量より質を選ぶなら、もう少し先に行った角の肉屋がいい。やわらかくて、とてもおいしい肉料理ができるし、奥さんが親切なので、お勧めの料理を教えてくれるのだ。
 ――今日は、いっぱい買っちゃったしなぁ。
 量より、質でいくべきだろう。
 そうと決まれば、シシィの足取りに迷いはなく、人ごみをかき分けて目的のお店まで重い荷物を持ってもくもくと歩く。
 が、やはり荷物が重い。
 こんなとき自然と目がいくのは、恋人が荷物を持ってくれている女の子たちだ。
 前方からやってきた、仲よさげなカップルとすれ違い、シシィはぼんやりと思う。
 ――いいなぁ。
 今まで恋人などいたことないシシィにとっては未知の領域だが、仲がよさそうな2人を見るとこちらも自然と幸せな気分になる。
 特に、恋人の隣で笑っている女の子はかわいらしいと思う。
 ちょうど前方で、荷物を持ってくれる恋人に対してにこりと微笑む少女を見て、シシィも密かに微笑んだ。

「かわいい……」

 優しくされたら幸せな気持ちになるのは誰だってそうだ。
 将来自分にもそんな人が出来たなら、こういうとき荷物を持ってくれるのは本当に助かる。全部持ってくれなんて無茶は言わないが、ちょっとでも持ってくれると負担がかなり減るのは明らかだ。
 ――腕力が強そうな人は軽々持てそうだなぁ。
 武道を習っている人なんて、そのあたり頼りになりそうだ。体格のいい人や背の高い人も何となく頼りになりそうである。
 こんなことを考えるのは、荷物のあまりの多さからの現実逃避のような気もするが、そのあたりは気にしないことにする。
 ――あと、料理がおいしいって言ってくれると嬉しいかも。
 これを考えるとルウスはかなり優しい。毎回「ありがとう」と言ってくれるし、おいしいとお世辞でも言ってくれる。
 明らかに失敗をしたときも、何も言わずに食べてくれているところも大人だ。
 ――あとあと、目が鋭くて赤…………。

 そこまで考えて、シシィは意図的に自分の頭を街灯にぶつけた。

「ぎゅふっ!」

 周りからの視線が痛いが、脳内はそれどころじゃない。
 ――わ、わわわ、私、今、なな、何を考えたっ!?
 頭の中を――1人の人物がよぎらなかっただろうか。
 強くて、背が高く、料理をおいしいと言ってくれた人で。
 目が鋭く赤い。
 完璧に、ルビーブラッドだ。
 この事実にシシィは、

「さ、ささ、最悪すぎる、私……」

 思い切りへこんだ。

「よくよく考えれば、荷物持ってほしいとか自分本位な考え方すぎるよ、いつのまにルビーブラッドさんをべ、べ、便利な人だなんて見方をしてたんだろう?最悪すぎる、何様ですか私……!」

 彼のために、彼に呆れられないような人間になろうと決意したばかりなのに、「してほしい」とばかり思っているとは何事なのか。
 助けられることに慣れてしまうような人間にはなりたくないと思っていたのに。
 すでに遅かったのだろうか。甘ったれになってしまっているのだろうか。
 ――ううん。まだ頑張れるはず!
 気付けてよかったのだ。これで直せるところが見つかったのだから。
 ――自分の荷物くらい、弱音を吐かずに持てるようにならなくちゃ。
 これはこれで正しい決意だが、傍から見ると微妙にずれている決意を改めてしてから、シシィは再び歩き出した。
 目的のお肉屋さんは、すぐそこだ。

「闇っ」
「?」

 どこからか、声が聞こえた、と思った瞬間。

「色ハットォォー麗しのマイ・フェア・レディー!!」
「ひぎゃあっ!」

 背後から抱きしめられ、同時に顔を見なくともすぐに誰か分かった。

「ヴィヴィヴィ・ヴィトランしゃんっ!」
「ははははは!相変わらずかわいいね、闇色ハット!」
「と、とと、と言うか、フェア、フェア・レディって、私は恋人じゃないですから!」
「何を言うんだい!美しいものは、全て僕が恋人!」
「…………そ、そうですか」
「もちろん、あの気高きルビーブラッドも!」

 それを本人の前で言ったら殴られるだろう。場合によっては一生の眠りだ。
 とにかく何とか抱きしめられている状態から抜け出し、ようやっとシシィはヴィトランと正面から対面できた。
 いつ見ても「生きた人形」のようで、その美しさは今日も健在だ。

「珍しいところでお会いしましたね」
「ふむ。今日はコラーゲンを取らねばと思ってね。肉を所望しに来たのさ」
「……すみません」
「ん?何故謝るんだい?」
「いえ、あの、気にしないでください……」

 あまりにも生活感のない人なので、買い物をするんだ、と普通に失礼なことを思ってしまったのである。
 ――あれ?でもヴィトランさんって、メイドさんがいるんじゃ?

「メイドさんは……」
「うん。3日で辞めてしまってね。現在新しい子を募集中だ」

 何となく、理由はわかる。
 彼のお眼鏡にかなっても、彼のテンションについて行けなかったらダメだ。結局。
 とにかく、人がいないので自分で買いにきた、ということは分かった。

「それにしてもちょうどいいところで会ったなぁ」

 マジマジとヴィトランに見つめられ、緊張しながらも見つめ返すと、彼はにっこりと誰もが見惚れる笑顔をシシィに向けた。

「指輪、出来たよ」
「ほ、本当ですか!?」
「うん。闇色ハットさえよければ、帰りに持って帰っておくれ」
「はい!」

 どんな指輪に仕上がったのかが楽しみだ。
 早く受け取りたいが、その前に目的を果たさなければならない。でなければ、今日のメインディッシュは残念なことにベーコンとじゃがいものスープだ。
 買うモノはヴィトランも一緒なので、目の鼻の先だった精肉店へ一緒に向かう。
 店には先客がいて、ちょうど品を受け取っているところに出くわした。

「はい、じゃあおつり」
「ありがとうございます」

 ――あの男の人、幸せそうに笑う人だなぁ。
 ありがとう、と微笑んだ表情がちょうど見えたのだが、間違いなく最近見た笑顔の中で一番幸福そうに見えた。
 ――お肉、好きなのかな?
 この店の肉は上質なので、肉好きの人にはたまらないのかもしれない。現にルウスはこの店の肉でローストビーフを作って出すと、いつもより多く食べる。
 肉の味がやはり濃いのだ。
 ヴィトランが買いに来るほどの店だし、品質は保証されているだろう。だからこそ、あれだけ幸せそうだったのかもしれない。

「闇色ハット、先にいいよ」
「あ、ありがとうございます」

 ヴィトランの言葉に甘えて先にカウンターに近づくと、青年とすれ違った。
 そのとき、ふわりと。
 ――甘い、香り?
 あらゆる花の香りを煮詰めて作ったような、そんな香りだった。不快ではないが不思議な香りだ。
 それにしても男性で香水をつけているのは珍しい。

「珍しい香りをさせてるのね、貴方」

 ――ん?
 今の声を、聞いたことがある。
 それはヴィトランも思ったことらしく、彼はあっさりと背後を振り返った。
 シシィは怖くて振り返る気がしない。

「いい香りで幸せでしょうけど――その状態このまま続くと」
「……あ」

 ――やっぱり、空耳とか聞き違いじゃすまなそう……。
 諦めの境地で、シシィは背後を振り返る。

「死んじゃうわよ?」
「Bじゃないか」

 そこには先ほどの青年に向かって話しかけるBがいて。
 同時にシシィにとっては、依頼をされたのも同然の光景だった。





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「困ってることなんて、本当にないんですけれども」

 突然の依頼人に急遽図書館を開き、そこに集まったのは依頼人の青年にシシィ、Bとヴィトラン、それと家にいたルウスだった。
 この状態に慣れているシシィ達はいいとしても、困惑しているのはほとんど拉致されるかのように連れてこられた依頼人の青年だ。
 彼はにこにこと微笑みながら、正面に座るシシィを見つめる。
 シシィも見つめ返し――しばらくたってからBに尋ねた。

「Bさん……私にもこの方が困っていることがあるように見えないのですが……」

 今までの依頼なら、依頼人自身が異常に気付いて悩んでいたのだが、今回は依頼人自身が思い当たらないと言っている。さらに外見からでは彼に関して、特に異常と見えるモノもない。
 が、Bは首を横にふる。

「……おかしいわ。こんなに進行するまで気付かなかったなんて」
「え?」

 深刻そうに悩むBから視線を外し、ヴィトランを見てみるが、やはり彼は魔術の分野に関しては少々専門外のようで、軽く肩をすくめた。

「しかし、こんなところに図書館があったなんて気付きませんでした。今日気付けて、僕は得をしましたね」
「は、はぁ。ありがとうございます……?」

 ――やっぱり変わったところなんてないように思うんだけれど。
 喋り方に不自然な点はないし、手足も不自由なく動いているようだ。
 何故この人に、魔術の治療が必要なのかが分からない。
 ――待って。でも、あの甘い香り……。
 すれ違ったときに嗅いだ、不可思議で甘い香り。花を煮詰めたようなあの香りは。
 魔術書の中で、記述があったものではないだろうか。
 ――最近読んだ覚えがあるから、絶対上級のもののはず……。
 悩むシシィをよそに、Bが少し表情を引き締めて青年に近づいた。

「ごめんなさいね。貴方のその症状、どこまで進行しているか知りたいの」
「はい?」

 微笑みを向ける青年の頬に。
 Bはビンタをくらわせた。

「っ!」
「びびびびびびびBさんっ!?」

 突然の奇行に、シシィは慌てて青年の元に駆け寄った。幸いBは子供の姿で、なおかつ手加減したようなので腫れてはいないものの、少し赤くなっている。
 おろおろと慌てるシシィとは対照的に、青年は冷静に、微笑んでいた。

「生きていることを実感できました」
「……え?」
「今、僕は痛みを与えられることによって、生きていることを実感できたんですよね。それってすごく幸せなことですよ。僕って幸せ者だなぁ」

 ――あ、れ?
 とても奇妙な感覚。
 何かが抜け落ちているような。欠けているような。
 何故だか、青年が恐ろしく見えた。

「でも、もっと痛ければ、もっと生を感じられるかもしれない」

 ――これ、は。
 これは、異常だ。
 微笑む青年。彼は危険に犯されている。
 それも命の危機だ。
 この症状を、シシィは頭の奥底から思い出した。
 呪いとは違うが、呪いと同じように恐ろしい症状。

「――『フォアン』……」
「何だい、その『フォアン』って」

 ヴィトランの質問に、シシィは声を震わせながら答えた。

「幸福しか、感じなくなってしまう症状です……。いつも心は幸福感で満たされていて、それが途切れることはないという……」
「楽しそうな症状に思えるけれど」
「とんでも、ない、です。幸福感しか感じないから、何でも『自分は幸せだ』っていうふうにどんどん思い込んでしまって、最後には」
「――死が、この世での最上な幸福だと考えるようになるのよ」

 Bの言葉に、シシィは静かに頷いた。
 彼女の言ったとおりだ。『フォアン』は必ず人を死に追いやる、凶悪な症状。
 けれど外見上はニコニコとして、いつも人より幸せそうに見えるから、気付きにくい症状でもある。ほとんどの場合、末期近くになってから、周りの人たちがおかしいことに気付いて慌てて魔術師のもとへとやってくるのだ。
 彼もまた――末期に近い。

「けれど進行速度がおかしいわ……。気配を感じ始めたのは1週間ほど前で、その間ずっと彼を探していたの。この1週間の間で末期近くになるなんて」

 Bの言葉が本当であるなら、魔術師であるシシィも「おかしい」と判断する。
 『フォアン』はゆるやかに進行していくものだ。周りの人間も違和感を感じにくく、一定を超えた時点で異変にやっと気付く。
 ――やだな……。
 この間から、胸騒ぎばかりがする。本当に何もないのだろうか。

 ――何か、もしかして、大きなことが……。

 ふぁさり、と。
 足に柔らかいものが触れて、シシィは我に帰った。
 足元を見るとルウスが心配そうにこちらを見上げている。
 ――だい、じょうぶ……だよね。
 いつもの杞憂だ。そんなことより急がなければならないのは、この青年の治療。
 進行が早いのなら、治療も早く行わなければならない。
 シシィは、幸せそうに微笑む青年を見つめた。

「治療をしましょう?その幸福感は偽物なんです。命を落とす前に治しましょう?」

 青年は、その言葉をただ微笑みながら聞いていた。