キレイな音がきこえるの。
とてもキレイな音なのに、だれもしらないって言うの。
どうして?
どうして?
その音をきいたあとは、むねがいたくなるのはどうしてなの?
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上級の魔術書ともなると、やはり内容は応用が多くなる。
いつものように利用する人のない図書館のカウンターで、シシィは上級魔術書を読み漁っていた。朝からずっと本を手放さず、昼食もとっていない。
夢中になっている本人はいいとして、それに音をあげたのはルウスだった。
「シシィさん、お腹がすきましたよ」
「…………」
「シシィさーん」
「…………」
「お腹が……」
ルウスの声になど全く気付かず、シシィはパラパラと速読によってページをめくる。
――そっかぁ、こういう応用があったんだ。
初級や中級を踏まえてきた上級の魔術は、とてもおもしろい。今までの魔術に少し手を加えるだけで、ぐっと高度な魔術になる。
シシィが次のページをめくろうとした、その瞬間。
本の脇から、黒い足がはえた。
「お腹が減りました」
「…………え?」
「シシィさん。もう、2時になろうとしています」
「え、え、ああ!?お、お昼!ごめんなさい!」
慌てて時計を見てみると、確かにもう2時を回ろうとしている。
時刻を確認すると急にお腹が減ってきて、シシィは本の上に乗せられたルウスの足を下ろしながら立ち上がった。
このまま昼食を抜くのは良くない。遅くなっても食べるべきだ。
「遅くなりましたけど、ご飯にしましょうか」
シシィの呼びかけに、ルウスは一度口を開いて――また閉じる。
「?」
――もしかして、ご飯が遅くなったから怒ってるのかな。
けれどそれにしては、いつものように顔を拗ねたようにそらさない。ということは少なくとも怒っていないはずなのに、と考えていると、後方から足音が聞こえた。
「――闇色ハット、いるかしら」
「Bさん?」
聞きなれた声にシシィが振り向くと、入口には思ったとおりBが立っていた。
1つだけ予想外だったのは、彼女が大人の姿をしていたこと。
あの姿で現れる、ということはもしかして依頼を持ってきたのだろうか、とシシィは考えたが、それにしては依頼人の姿が見えなかった。
首を傾げるシシィにBは近づき、声をひそめて話し始める。
「貴女、『魔力遮断布』持っているでしょう?」
「遮断布、ですか」
魔力遮断布、というのは文字通り、魔力を遮断する布地のことだ。魔力を外部から隠すときに、自分にその布をかければ魔力が漏れないという優れものである。
本によれば、主に隠密用の道具らしい。
なので隠密活動などしたことのないシシィは持っていないのだが。
「パールが確か持っていたはずなの。どこかになかった?黒いショールみたいなものが」
――そう言われると。
隠し部屋の棚の中に、黒いショールがあったような気がする。あれが魔力遮断布であるようだ。
そういえばあったような気がします、と答えたシシィに、Bは少し安堵した様子を見せながらそれを持ってきてほしいと頼んできた。
「どうしてですか?」
「その魔力遮断布を羽織ってくれないと、今回の依頼人に会わせられないの。お願いよ、闇色ハット」
魔力遮断布がなければ依頼人に会わせられないというのは、もしかすると依頼人に関係することなのかもしれない。
Bにこんなことをお願いされるのは初めてのことだったので戸惑ったが、何となく事情を飲み込んできたシシィは頷いて、ショールを取ってくるために自宅へ急ぎ足で向かった。
そのあとを、ルウスがついてくる。
「シシィさん」
リビングに入ったところで、Bの目を気にしなくてよくなったためか、ルウスが口を開いた。
「ごめんなさい、ご飯は……」
「それはよろしいんですよ。ただ、今回は私はここに残ります」
「え……一緒に依頼を聞かないんですか?」
驚いて歩みを止めたシシィを、ルウスはまっすぐ見つめる。
「ええ。少し体験をしてみましょうか」
「?」
「『私がいない依頼』を、です」
そう言われて、シシィは気がついた。
――そうだ。今まで、依頼のときにルウスさんがいなかったこと、ほとんどない。
あったとしても、それは親しい人からの直接的な依頼からだったので、緊張することはなかった。
「そんな悲しそうな顔をしないでください。今回は試験的に席を外すだけです」
「は、はい」
「大丈夫、Bさんが上手くフォローしてくれるでしょうし、シシィさんも上手くやれます」
――今、初めて気がついた。
ルウスが依頼の場にいてくれなくて、やはり心細いと思う。そう思う分だけ、自分はルウスを支えとしていて、それと同時に甘えてきた部分があったのだ。
本当に、彼とは不思議な関係にあると思う。友達でも恋人でもなければ、父親でもない。ただの『依頼人』にしかすぎないのに、そんなふうにも思えない。
――うん。
甘えてばかりではダメだ。あの呪いと対面したとき、思ったのだから。
自分を変えようと。
「頑張ってきます!」
「ええ、頑張ってきてください」
ほんの少し、さみしい思いを抱きながら、シシィはショールを取るために、さらに奥にある隠し部屋へと向かった。
********
ショールを羽織い、祖母直伝のブレンドティーを淹れて一人で図書館に戻ると、いつも依頼人が座る読書スペースに30代くらいの女性と、まだ5つくらいにしかなっていないだろう少女が座っていた。親子のように見える。
そのかたわらにはBが立っていた。
――ルウスさんはいないけど。
自分の普段ならルウスのいるスペースを意識しながらも、シシィは自分を奮い立たせた。
――頑張らなくちゃ。
「初めまして、魔術師の『闇色ハット』と申します。まずはお茶をどうぞ」
「あ……」
女性が何か言う前に、シシィは紅茶を差し出した。自分用に持ってきていたお茶は少女にまわし、Bに席を勧めて紅茶を出す。
「お飲みなさいな。闇色ハットの紅茶は気分を静めてくれて、貴女の言いたいことを冷静にまとめられるようにしてくれるわ」
Bに勧められて、女性はおずおずと紅茶を口に含み、幼い少女がそのマネをする。
――かわいい。
思わず頬がゆるんで笑みを向けると、少女も微笑みながらシシィを指差した。
「りんりんー」
「……?」
少女の言葉に首をかしげていると、女性が指さしている手を叩く。
「こら、人を指さしちゃいけません」
「あーい」
叱りつける声は厳しくも、どこか優しい。
叩かれた手をさすりながら机の下にひっこめる少女と、それを慈しみの目で見守る女性の様子を見て、Bが口を開いた。
「落ち着いたようね」
「……はい。だいぶ、状況がのみこめてきました。ダメですね、私はこの子の母親なのに」
やはり母親と娘という関係だったのか、と思いながらシシィは首を横にふる。
「そんなことないです。私のところへ来たということは、普通のお医者様では治せないようなことがあったんですよね?」
「ええ……」
「それは、どちらのほうに?」
依頼人が2人いる。ということは、この母親のほうか子供のほうか、それとも両方ともが魔術の関係で悩んでいることになるだろう。
シシィの質問に、母親の方は少しだけ身体を強張らせたあと、覚悟を決めるように深呼吸して、自分の娘の肩に手を置いた。
少女はその行動に、首を傾げながらも微笑んでいる。
「この子、のほうです」
――特に異常なところはなさそうなのに。
茶色の髪をふたつぐくりにしていて、さくらんぼ柄のワンピースを着ている、見た目に変わったところなどないかわいらしい女の子だ。
母親も彼女に触れているところを見ると、触れられるのが困る系統(体温が熱い、体がもろくなっているなど)ではないようだ。
後は、パッと見では分からないものだろうか。
それは声だったり、服で隠された場所だったりとして、一瞥では分からない。
「少なくとも、目につくような異変ではありませんね?」
「ええ。困っているのは……」
「ねぇ。りんりん、すずがなってるよ」
鈴、と言われてシシィはあたりを見渡したが、当然そんなものはないし、持ってもいない。困惑するシシィに向かって、少女はさらに続けた。
「すごい。いちばんきれいなおとがする」
「えっと……外で誰かが鈴か鐘でも鳴らしてるんでしょうか?」
「これで困っているんです」
――これ?
母親は少女の頭を撫でてやりながら言う。
「誰にも聞こえない音が聞こえると言って……それだけならまだしも、その音を聞いた後、必ず体調をくずすんです」
誰にも聞こえない音。
ということは、耳の異常ということだ。魔術を習い始めの頃に、耳の異常を訴える依頼人が来たこともあったが、あれは『雑音が聞こえる』という訴えだった。
魔力の循環に問題があったもので、初級の魔術で何とかできるくらいのレベルだったが――今回は、違う気がした。
鈴の音。
それは、目を通した魔術書の中にあった言葉ではなかっただろうか。
「おかあさん、いたい」
「おいで」
胸を押さえて痛みを訴える少女を、女性は自分のひざの上に座りなおさせて胸をさすってやる。それでも少女の痛みはやわらがないようで、小さく短く息をくりかえしながら、じっと痛みに耐えている。
「胸の痛み……」
胸の痛み。
鈴の音。
そして魔力遮断布。
何故Bはこのショールを持ってこいと言ったのか。彼女はいたずらに依頼に関係ないことは言わないだろう。彼女も依頼人のことをいつも大切にしている。なるべく早く解決してあげて欲しいと思っているはずだ
ではこの魔力遮断布は、いったい何に使うのか。
――魔力。
「まさか……貴女、魔力の音が聞こえているんじゃ……」
「魔力の音?」
母親がくりかえした言葉に、シシィは頷く。
魔力には音があるらしい。ただ、それは人間の耳では聞き取れない音であり、人が魔力の音を聞けるのは、魔力開花の才能を持つ赤ん坊が生まれ、なおかつそのときに、魔力が開花している者がいたときだけだ。生まれてから何秒で音が聞こえたかで、開花時期を見るらしい。
シシィは父親に20歳ほどで開花すると思っていた、と言われたことがあったので、生まれてから20秒後にその音が聞こえたということだ。
シシィは母親のひざの上で、痛みと闘う少女をじっと見つめた。
――すごく、辛いはずなのに。
「どうやら、魔力の音が聞こえるのは生まれつきらしいわ」
「Bさん」
「だから貴女にそれを着てもらわないといけなかったの。貴女の魔力は強いから」
それ、とはショールのことだろう。シシィは着ている真っ黒なショールをつかんだ。
特に自分の魔力が強いと思ったことはないが、この魔力遮断布を使っていても少女の耳は音を拾ってしまったようだ。
この場合すごいのは少女の方か、それとも。
――深く考えるのはよそう。
今はそんなことよりも、少女の体のことの方が大切だ。
「魔力の音、というのは長い間聞いていると体に悪影響を及ぼします。お嬢さんの胸の痛みはそれが原因で起こっています」
「魔術師さま。娘は治るのでしょうか」
「……残念ながら、完治は難しいです。お嬢さんのそれは体質ですから」
その言葉に顔色を無くす女性を見て、シシィは慌てて言葉を加えた。
「けれど、音を聞こえないようにすることはできます。魔力の音というものが聞こえてしまうのは、お嬢さんの魔力が敏感になっているからです」
「魔力?敏感?」
「魔力は誰にでもあります。眠っているだけなんです。お嬢さんの魔力は開花してないようですが、何故か敏感に他の魔力に反応してしまうようです」
「一種のアレルギー……のようなものでしょうか」
そう考えた方が分かりやすいだろう。
そう思ってシシィは頷いておいた。
「依頼を引き受けさせてもらいます。大丈夫ですよ、必ず良くなります」
安心させるようにシシィが微笑みながら母親に言うと、彼女は目に涙を溜めて、堪え切れないようにうつむいた。
細い肩が震えている。
心細かったのだろう、というのは容易に想像できた。おそらくいろんな医師にも診せてまわったのだろうが、原因は分からなかっただろう。魔術と医術は全く違う。
――魔術書に、一通り目を通しておいてよかった。
意味が分からずとも、魔術書は一番最初に必ず全部のページに目を通すようにしている。こういうときに速読は役に立つのだ。
これも上級の魔術であり、今読んでいるページの2ページ先に載っていたはずだ。
だからこの症状のことを覚えていた。
――本当によかった。
安堵するシシィをよそに、ひざの上で苦しそうにしていた少女は息を整え、何もない空間を見つめる。
「……ごんごん……」
「ごんごん?」
「ごんごん、音がするよ……ちっちゃいけど、ごんごんいってるよ……」
――どういうことだろう?
首を傾げながらBと目を合わすが、彼女も分かっていないようだった。
魔力の音は、必ず鈴の音に聞こえるらしい。なので彼女の耳だけに入る、他の人が聞こえない音は鈴の音のみのはずなのだが。
少女は続ける。
「――音が、するよ」
その言葉は不思議とシシィの耳に、深く残った。
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