シシィは、両腕をあげたままという、奇妙なポーズで固まっていた。
目の前には大量の花に、果物。どちらも大きなバスケットに2つ分はある。
「だ、大丈夫です、よ。もう、治りましたから」
「いいや!!そんなはずはないっ、世界中の美しい人たちは、僕からのお見舞い品を受け取らなければ治らないという理の中にあるのさ!」
――初めて知りました、ヴィトランさん。
シシィは引きつった笑みを浮かべながら、キッチンの勝手口前を占領する花と果物を途方に暮れた思いで見つめていた。
もちろん、これらの送り主はシシィの前に意気揚々と立つヴィトランだ。
シシィの風邪は、結局3日寝たらすっかりよくなり、もうすでに自分で食事も作れるほどに回復した。思ったより酷くならず、それは重畳だったのだが、どうやらBがヴィトランに、シシィが風邪をひいていたことをうっかりと漏らしてしまったらしい。
それで、この状況だ。勝手口前が花と果物の香りで溢れている。
――ああ、いい香りなのに。
残念ながら、自分の昼食であるビーフシチューの香りが全くしてこないほどだ。
何せ量が尋常じゃない。果物は1日3食果物でも、1週間分はあるんじゃないかと思われる量だったし、花はこんなに飾る花瓶がない、と困るほどの量だ。
――嬉しいのになぁ……。
贈るものは間違っていない。病人に果物や花が贈られるのはよくある。
間違っているのはその量だけだ。
「ほらっ!まだ少し目元や鼻が赤いじゃないか!」
「たぶんそれは……お花の花粉で……っぷし!」
「何たること!くしゃみまで!!」
「ひゃ、ひゃから、花粉です」
これだけの花の量があれば、花粉だって舞う。
ちなみにルウスは、ドアを開ける前から漂っていたらしい花と果物の香りにやられて部屋の奥から出てこない。犬の鼻にはかなり辛いらしい。
そんなルウスの状態を知らないであろう彼は、シシィにバラを1本手渡した。
「体調管理には気をつけなければいけないよ、闇色ハット。もう冬に入ったのだから」
「……はい」
――まぁ、どうあれ。
ヴィトランに悪意はない。その悪意がないところが困りどころなのかもしれないが、
自分に対するヴィトランの言動は、やはりどこか優しく感じる。
ただ、やり方がハチャメチャなだけで。
シシィは苦笑しながら、バラの香りをかいだ。
――いい香り。
冬のバラは、温暖なこの国であっても多少値が張る。それにはちょっと気が引けるシシィだったが、キレイな花をもらって嫌な気分にはならない。
それにしてもやはり、一流の彼が選んだ花は品質良いのだろうか、と思ったところでシシィは重要なことを思い出した。
「そ、そうです!思い出しました!」
「え、僕への愛を忘れていたと!?」
「いや違うというか、あの、根本的に……いえ、何でもないです……。じゃなく、ヴィトランさんに指輪の依頼を」
ヴィトランはしばらく首を傾げた後、パチンと指を鳴らした。
「ああ、あの宝石の?決心はついたのかい?」
彼は『アステール』を扱えるのが嬉しいらしく、満面の微笑みでシシィに尋ねた。
そんなヴィトランに、少し申し訳ない、と思いながらも、シシィはポケットからアステールを取り出して、彼の前に差し出す。
星のように輝く、不思議な宝石。それは昼間でも変わらない。
「お願いがあるんです。この宝石はカットせずに、なるべく石を傷つけないよう、はめ込み式のデザインにしてほしいんです」
「ん?カットしないのかい?カットした方が美しいのに」
――ヴィトランさんが言うんだから、そうなんだろうな……。
宝石を美しく輝かせたいと思うなら、絶対にヴィトランの主張の方が正しいのだろう。
けれど、自分はこの宝石を美しくしたいのではない。
カットしなくても、このアステールは自分にとって充分美しい。ルビーブラッドの優しさが詰まっているような気がするのだ。
だから、この美しい宝石をずっと持っていたい。
「確かに、カットした方がキレイなんだとは思います。でも、私にとっては『このまま』が一番キレイだと思えるんです。削ってしまうのは……悲しい」
――まるで、ルビーブラッドさんの心を削ってしまうようで。
シシィの言葉を聞いて、ヴィトランはめずらしく、しばし口を閉ざしていた。
「……ヴィトランさん?」
「ああ、うん。少し驚いたと言うか……そうか。そういう世界もあるのか」
そういう世界、の意味が分からずに、首を傾げるシシィにヴィトランは首を大きく横にふり、呆れた、というより感心の意味が強いためいきをもらす。
その表情は、どこか輝いていた。
「分かったよ、依頼を受けよう。その宝石をそのまま活かしつつ、さらに美しく見えるようにしてみせようじゃないか!」
「ほ、本当ですか!」
「本当だとも!闇色ハットの言葉で目覚めたよ、僕は最近未知なるものに挑戦していなかったと!」
――未知なるもの。
呆然とするシシィを置いて、彼はいつものごとく暴走し始めた。
「何事にも挑戦してみなければね……型にはまると美しさがなくなる。僕としたことが、なんたる失態!美しさの定義を決めてかかるなどと!」
「あの、ヴィトランさん」
「観賞用の花も、野花も種類の違う美しさがあるということを忘れていたよ!野花のたくましさの中にも美しさがあると……」
「ヴィトランさん、お願いです戻ってきてくださいっ!これをお預けして大丈夫なのですよね……!?私、今日は大切な用事がっ」
「うん。じゃあ、預かっておくよ」
シシィはその場にひざをつきそうだった。やはり彼のテンション上げ下げスイッチがどこにあるのか分からない。
ふつう、会話するときには覚えるはずのない徒労感を感じながらも、シシィは光り輝くアステールをヴィトランに託した。
――ちょっと、さみしい気もするけれど。
ほんの少しの間のお別れだ。
「ところで大切な用事とは、どこかにお出かけかい?」
「いえ、そういうわけではなく……」
ヴィトランの質問に、心臓が高鳴る。
いよいよだ。
待ち望んでいた、この日がやってきた――。
「魔術書が、上級編に入るんです」
********
シシィはうんざりとした気持ちで、本の中の魔法陣見本を見た。
「何で、こんなびっちり描かなくちゃいけないんだろ……」
円の中には複雑な形や文字が、所狭しと描かれている。
以前とやる作業は同じなのだ。だが、明らかに違うのは魔法陣と呪文の複雑化。
さすが、中級編の総仕上げである魔術だけあって、もはや上級レベルに近いのではと思われるほどの複雑な魔法陣を描かなければならない。
もちろん、書き順なども指定されている。
「……私、画家さんは魔術師になるべきだと思います」
「ふむ、いいお言葉ですね」
ぼやいても仕方ないのは分かっているのだが、かれこれの時間描いて、終わりがやっと見えてきたところだ。愚痴の一つも言いたくなる。
何とか夕食までには魔法陣を完成させ、モザイク魔法を解きたい。
――よし、がんばろう。
「それにしても、きれいな円が描けるようになりましたね」
「魔法陣もいっぱい描いてきましたから」
練習し、使った分だけ腕は上がる。少なくとも今では、最初のころより線がぶれたり、円が楕円になることはない。
と、そこでシシィは次の手順を見ながら、ふと思った。
――ルウスさんって……異様に魔術に詳しすぎるような……。
もともと、魔術に関する仕事だとは言っていたが、ここまで詳しいものだろうか。
思えば魔術薬のことも、よく知っている。
――魔術に関する仕事って言っても、ヴィトランさんはあんまり知らない感じだし。
ある程度は彼も知っているようだが、それはあくまで『魔術に関する』者としての知識のようで、ルウスの知識は少し『魔術師』よりのような気がする。
けれどルウスは魔術師ではないらしい。
――どういうことだろう。
これを機に訊いてみるのも手である。
「――ルウスさん。ちょっとお聞きしたいんですが」
「はい?」
「ルウスさんって、人間のときはどんなお仕事を?」
その質問に、ルウスの尾がピタリと止まる。
「気になりますか」
「そ、それは、これだけ一緒にいて気にならない方がおかしいですよ。ルウスさん、なんだかんだで質問を逸らしちゃうじゃないですか」
「逸らしてなんかいませんよ。ただ『聞く覚悟はありますか?』と尋ねたら、ひいちゃうのはシシィさんですよ」
「そんな訊かれ方したら、誰だってひいちゃいますっ!」
書き順を間違えないように本を見ながらも、シシィは断固として抗議した。ルウスの訊き方はかなり卑怯だ。わざと怯えさせるように訊いているとしか思えない。
「って、また逸らそうとしているじゃないですか」
「……シシィさん、強くなりましたね」
――やっぱり、逸らそうとしてた。
「もういいです。ルウスさんがそんなに言うのが嫌なら……」
「魔道具屋ですよ」
すねるように発せられたシシィの声に、ルウスの低い声が覆いかぶさる。
思わず手を止めて、シシィはルウスを見つめた。
「Bさんと同じように、魔道具店を経営してます」
「……店主さん、だったんですか」
「まぁ、一応。あまり人は来ませんがね」
Bと同じような、魔道具店の店主。
そういえばルウスはBのことを苦手だと言っていた。もしかしてそれは、元の姿であるならライバルということになるからだとすると、説得力もある。
「でもそれ、お店大丈夫なんですか?店主さんがいないって……」
「もう1人働いている人がいましてね。その人に任せてあるので大丈夫です。もともと魔道具店と言っても副業のようなものですしね」
「はぁ、そうなんですか」
もう1人働いている、ということはそこそこ大きな店なのだろう。なのにそれを『副業』と言ってしまう辺りがすごい。
シシィは再び手を動かしながら、また改めて気付く。
――あれ?謎が深まったような気が……。
店の経営が副業なら、いったい本業は何なのか。
と、深く思考が沈む前にルウスが口を開いた。
「シシィさん、いいことを教えてさしあげましょう」
「はい?」
ルウスは、にっこりと微笑んだ。
「私はかなりの嘘つきですよ」
――そ、それってつまり。
「……今の話って、本当、ですよね?」
「さぁ、どうでしょうねぇ。かなりの嘘つき、というだけで真実を言う場合もありますよ」
場合もある、ということは、嘘をついているときの方が多いということだ。
――ヴィトランさんも厄介な人だけど、一番厄介なのはルウスさんだよね……。
何せひょうひょうとしているので、正体が一番つかめない。ヴィトランはあれが素なので、一度付き合ってみれば分かる人ではあるのだ。
実態がない人、というのが一番付き合い難い。
「結局、言いたくないってことですか」
「いやいや。今の話だって本当かもしれないでしょう?」
「本当のことを語って、初めて『話した』ってことになるんですよ」
彼が何故ここまでして、自分のことを話したがらないのか分からないが、何か理由があるのかもしれない。というより、あってほしい。
何も理由がないのに、ここまでひた隠しにしているのだったら悪趣味にも程がある。
シシィはため息をついた。
「まぁまぁ。それより、今はモザイクを解く魔術の方が先でしょう」
「……そうですね」
ルウスについては、彼の魔術を解いたときに分かるだろう。
そのときまで深く考えないようにするのが一番いいのかもしれない。
「それじゃあ、さっさとやっちゃいましょうか」
最後の一線を描いて――シシィは立ち上がる。
さすがに緊張する。この魔術が成功したら、魔術書の全てが読めるようになるのだ。
ロッドを手に取り、構える。
『四辺を満たす不透明なる真実よ』
シシィの言葉に呼応するように、魔法陣が光りはじめた。
『我は沈殿の宝石を拾う者 輝き曇らぬ光を水面に現わせ 今此れをもって透明となることを命ず』
初級のときと同じように、2,3人が手を打ったような音が聞こえた後に、魔法陣は溶けるように消えて、床には最初から何もなかったかのように元通りになる。
隠し部屋には、静けさが戻った。
それに反するように、シシィの鼓動はうるさくなる。
「――シシィさん、確認を」
「はい」
ロッドを置いて、シシィは近くの本棚から1冊本を取り出した。
それは今までは読めなかった、上級の本だ。
汗がにじんだ手で、ページをめくる。
「……ルウスさん」
「どうですか?」
シシィは、開いた本をルウスにも見せた。
「読めるようになってます!!」
その瞬間、シシィの耳に、水を入れたグラスのふちを濡れた手でなぞったときに聞こえる、独特の音が聞こえてきた。
けれどこの場所に、そんなものはない。
シシィが辺りを見渡していると、ルウスが首を傾げた。
「どうしたんですか、シシィさん?」
「何か……今、音が」
それに、音だけではない。
図書館の方の気配が、何かおかしい。
――増えた、ような。現れた、ような。
惹かれるように、シシィは本を置いて図書館の方へと走った。その後を困惑しながらルウスが追いかける。
――強力な、魔術の気配がする。
図書館に近づくにつれて、それははっきりと分かった。何故今まで、これほどの魔術の気配が図書館を覆っていたことに気付かなかったのかが不思議でならない。
一番最初に鍵を受け取ったときから、シシィ用に書き換えられたという家の魔術。
けれど、図書館の方にかけられた魔術はどうにも違うようだった。
図書館の扉を開けたことによって、シシィはそれを強く実感する。
「――おばあちゃんの魔術が、まだ活きてる……」
水色の爽やかな魔力の気配が、残っているのだ。
けれどそれは、図書館の中に巧みに隠されて、祖母の活きている魔術がどこにあるのか分からない。
酷く薄く、そして広く。明らかに意図して隠している。
――何を……。
「シシィさん、ロビーの方から光が漏れてませんか?」
「へ?」
ルウスにそう言われてみてみると、確かにロビーにつながる扉の隙間から、オレンジ色の光が漏れていた。光の色が示すように、あれは自分の魔力である。
が、あそこで魔術を使った記憶はない。
――前にもあそこから気配を感じたような。
シシィは首を傾げながら、ロビーのドアを開けてみた。
「……はれ?」
ロビー中央の床にあったものは、今まで見たこともない魔法陣。
光輝く魔法陣に、シシィは恐る恐る近づいていった。
のぞきこんでよく見てみると、かなり複雑な魔法陣だ。確実に上級魔術だと分かる。
「驚きましたね、これは空間転移魔術ですよ」
「く、空間転移?」
「俗に言うワープですね。この魔法陣の上に乗って、呪文を唱えながら自分の行きたいところを思い浮かべるだけでそこに行けますよ」
つまりは、ルビーブラッドの使う魔導『イオス』と同じ効果らしい。
「逆に帰ってくるときは、呪文を唱えればこの場所に帰ってこれます」
「便利ですねー。でも、何で今まで見えなかったんでしょう?」
「これも上級魔術ですからね。おそらく、上級の魔術書に入ったら使えるようにレイモルルさんが設定しておいたんじゃないですか?」
――なるほど。
納得して、シシィがもっと近くでその魔法陣を見ようと、足を1歩出したとき。
その1歩は、魔法陣を踏んでしまった。
「シッ、シシィさっ」
ルウスの声がシシィの耳に届く前に、光の速さで魔術が発動し。
「え……」
身体が一瞬浮いたような感覚がした後、瞬きをした一瞬の間にシシィはクロアの森の中に突っ立っていた。
幻覚でも、幻でも、夢でもない。まぎれもなく、ルビーブラッドやブレックファーストと出会った、クロアの森の中である。
「あ、あれ?ルウスさん!?」
慌てて辺りを見渡したが、ルウスの影すらも見つからない。どうやら、魔術でここに来てしまったのは自分1人だけのようだ。
――な、何で?
意味が分からない。ルウスは『呪文を唱えながら』魔法陣に乗れば好きなところへ行けると言っていた。
なのに、何故呪文も唱えていない自分が移動してしまったのか。
「……まさか、ルウスさん。あれが嘘なんてことはないですよね?」
いない人物に訊いても、答えが返ってくるはずもなく。
「とりあえず、戻ろう。ええと、呪文を唱えればまた帰れるんだよね」
と言って、そこで初めてシシィは問題点に気がついた。
――私、呪文を知らない……。
何せ、モザイク魔法を解いたばかりだ。魔術本など読んでいない。
ということは、つまり。
「あ、あ、歩きで帰れってこと!?」
残念なことに、太陽はすでに低い位置まで落ちていた。
******
その後。死ぬ気で帰ってきたシシィに、ルウスが事情を説明してくれた。
「どうやら、魔術短縮も組み込まれてたみたいですよ。なので呪文を唱えずとも、行きだけなら乗って場所を思い浮かべれば、好きなところに行けるようです」
「………」
「ええ……帰りは呪文を唱えないと、今回みたいなことになりますが」
シシィはこれから、不用意に魔法陣に近づかないことを固く誓ったのだった。
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