その日の始まりは、ぼんやりと始まった。
 シシィは朝早く、彼女にとってはいつも通りの時間に目が覚めたのだが、ベッドの上で起き上がった瞬間、体に違和感を感じた。
 身体の節々が痛み、のどにも違和感がある。
 ――やだなぁ、風邪でもひいちゃったのかな……。
 体にだるさはないため、風邪のひきはじめといったところか。そう判断してシシィは少しふらつきながらもベッドを下りた。体の節々が痛むので、歩くのも痛い。
 それでも床に敷かれた毛布の上で眠るルウスを起こさないよう、シシィは慎重に寝室から出て、顔を洗いに井戸へと向かった。

「うー……ちょっと肌寒くなってきた」

 夏と比べると、明らかに井戸の水も冷たくなってきた。
 シシィはバケツに汲んだ井戸水に、おそるおそる指先を付けた後、一気に手を入れて水をすくい、顔を洗う。
 ――寒い……。
 やはり、冬がやってきている。
 この国は温暖な気候のため、北にある国と比べると雪も降らないし、冬は比較的暖かい方なのだろうが、何せ普段が温暖な気候だからこそ、冬の寒さにめっぽう弱くなる。シシィも極度の寒がりだ。
 ――早くおひさま、昇らないかな?
 そういえば日が昇るのも少し遅くなったな、と空を見上げた瞬間。

「――あ、れ?」

 ぐらりと。
 世界が歪み、回転して。

「―――っ」

 シシィはその場に倒れた。
 ――あ、マズイ……。
 倒れたあと、今もなお脳がぐるぐると回転しているような気分だ。気持ちが悪い。
 必死に起き上がろうとするが、体に痛みがはしり、力が入らなかった。
 自分で思っていたより、風邪の症状が酷かったようだ。
 ――でも、こんなところで倒れてちゃ、だ、め……。
 ルウスは7時をすぎないと起きてこない。彼が起きるのをあてにしていると、自分の体調がどんどん悪化していってしまう。
 そう思っている間にも、体が寒さで震えてきた。
 ――困った、なぁ……。
 今日はやっと決心がついて、ヴィトランに指輪を注文しに行くつもりだった。ルビーブラッドから貰ったアステールを加工するのは気が引けるので、なるべく石を傷つけない、はめ込みのデザインでしてもらおうと思っている。
 しかし、これでは注文に行くことが出来ない。

「……っ」

 意識がもうろうとしてきた。
 重くなるまぶたと闘いながら、シシィはやっとの思いで這いずりながら、キッチンの勝手口に進みはじめた。

「い、たたた……」

 関節すべてに熱がこもったようで、酷く痛む。
 痛いのに、眠気は襲ってくる。
 ――ダメだ……。
 ドアをつかんだ手が、地面に力なく下ろされる。

 ――………………さ、ん。

 無意識のうちに呼んだのは、誰の名前だったのか。
 自分でも分からないまま、シシィの意識は深いところへと落ちていった。





◇◇◇◇◇◇◇◇





<シシィ>

 深くて、やわらかな声。鼓膜を刺激しない、けれど耳に残る声だ。
 シシィはゆっくりと目を開けた。真っ白な光が目にしみる。
 自分がどこに立っているのか分からない。立っているのかさえ分からない。

<かわいいなぁ、シシィ>
<彼は将来、私の気持ちが分かるようになるんだろうなぁ>

 白い光の中で人影を見た。
 背が高いのと低い声で男性と思われるが、声に覚えがない。
 ――でも、どこかで聞いた覚えがあるような。
 目が明るさに慣れないので、顔がよく見えない。

<幸せにおなり、シシィ。きっとシシィの手を取ってくれる人はこの世にいる>
<――ねぇ?誰かさんと誰かさんみたいに>

 ようやく目が明るさに慣れてきて、シシィは優しい声の持ち主を見る。

<だから君に、物語を紡いでおこう>

 その人は、闇色の帽子をかぶっていた。





◇*◇*◇*◇*





 ――おでこ、冷たい……?
 気がつくとそこは、自分のベッドの上だった。
 薄目を開けて、とりあえず状況を確認した後、シシィはまた目を閉じた。
 外で倒れたはずなのに、なぜ自分のベッドに戻ってこれたのかが分からない。
 無意識のうちに帰ってきたのか、夢なのか。
 熱がこもった頭の中で思考が混乱している間に、額に乗せられていたタオルが外されて、水音が聞こえてきた。
そうして、また額に戻される。
 ――冷たくて、気持ちいい……。

「シシィさん」

 呼びかけられたあと、頬に何かが触る。ひんやりとして、けれど冷たすぎない。
 ――手?誰の?
 一瞬、母だろうか、と考えて、すぐさま違うと否定した。熱で頭はぼんやりしているが、ここが実家でないことくらい分かっている。アンリーヌがいるはずない。
 それに、母にしては手が大きい。この手の大きさは、男性だ。

「まだ、熱は高いですね」

 やはり男性だ。聞こえてくる声が低い。
 ――でも、お父さんでも、ない……。
 声が違う。手の感触も違う。
 シシィは熱で腫れぼったく感じるまぶたを、ゆっくりと開けた。

「ああ、起きましたか。けれど、もう少し眠っていなさい」

 その人物は、自分が眠っているベッドの脇に立っていた。
 瞳はアンティークの銀細工を思わせるような銀色で、黒いタートルネックに黒いズボンを着ている。そんな服装のせいか、普通の男性の身体より細めに感じる。
 黒くて胸辺りまである長い髪は、さらさらとしていて絹糸のようだ。そんな美しい髪を右側に全て流し、鎖骨の辺りで一つに括っている。
 それだけなら熱のせいで、驚きは鈍っていたかもしれない。
 けれど、鈍った頭でも衝撃を受けるようなものをシシィは見てしまった。

 彼は頭に、黒い帽子をかぶっていた。

 その帽子は、見覚えがある。今までずっと、見てきたもの。

「――る、うす、さん……?」
「ええ」

 信じられない気持ちで呼びかけると、彼はあっさりと笑って頷いた。
 自分がルウスだ、と肯定するように。

「仕方のない人ですね、風邪をひいてたことに気付かなかったなんて」
「な、なんで、人に戻れて……」
「薬は……何か胃に入れてからの方がいいんですが、食べれますか?」

 ルウスにそう問われても、シシィは返事をせずにただ彼を見つめていた。
 どこからどう見ても、人間だ。犬耳が残っていたり、しっぽが残っているということは少なくともなさそうである。
 よく見ると彫りの深い顔で、年齢的には20代後半以上であることは間違いなさそうに見えた。

「ルウス、さん、何で犬じゃないんですか……魔術、解けたんですか……?」
「犬?おかしなことを言いますね、さっきから。人に戻れたやらなんやらと……私は始めから人間だったじゃないですか」

 ――そうだったっけ?
 頭の回転が鈍くなっていて、今までのことを鮮明に思い出せない。
 けれど、確かにルウスと初めて会ったときは犬だと記憶していたのに、本人がそれを否定している。シシィにはまったくこの状況が読めなかった。
 ――もしかして、これも夢?
 さっきの不思議で、どこか懐かしい声のする夢のように。
 これも夢なのか。
 ――何でも、いいや。
 驚きはしたが、夢でも何でもルウスが元の姿に戻ってくれてうれしかった。これで不便な犬の生活から抜け出せられたのかと思うと、涙がにじんでくる。
 ポロポロと、熱い涙がこぼれていく。

「気持ち悪いんですか、シシィさん」
「ルウスさんが……元の姿に戻れてうれしいんです……っ」
「だから何です、それ……。もしかして、怖い夢でも見ました?」

 ルウスは笑いながらシシィの頭を撫でた。ひんやりとした手が心地いい。

「それだけしゃべれるなら、何か食べれますね。オートミールでも作りましょう」

 ――お料理、出来るのかな……。
 不意に不安になったが、かと言って自分が作れる体調ではないため、シシィはとりあえず甘えておくことにした。
 不安げなシシィの様子を感じ取ったのか、ルウスは苦笑する。

「ちゃんと食べれる物ですよ。さぁ、食事ができるまでもうひと眠りしてらっしゃい」
「……はい」

 ルウスの手で視界を遮られて、シシィは目を閉じた。
 静かな暗闇が広がって、シシィの意識は身体が望むままに、再び深いところへ落ちていく。
 夢から覚めるための暗闇か。
 夢へ落ちていくための暗闇か。
 分からないまま、シシィは眠る。

「――あと、少し。頑張りましょう、シシィさん」

 ルウスのつぶやきを聞きながら。





◇*◇*◇*◇*





 目が覚めると、そこは自分の寝室だった。
 シシィは重いまぶたを何度かまばたきさせてから、額に乗せられたタオルに触れてみた。タオルは既にぬるくなっている。
 ――あれは、夢?
 ルウスが人間に戻っていた、あれが現実なのか夢なのか分からない。
 とりあえず額に乗せられたタオルを手に取り、体を起こすと、倒れた時よりは気分もよく、体もだるく感じないことが分かった。
 シシィがサイドテーブルの上にあった、氷水の入ったボールにタオルを戻していると寝室の扉がいきなり開いた。

「あら、起きたのね、闇色ハット」
「え?Bさん……?」

 そこには、いつもの子供の姿でない、大人の姿をしたBが立っていた。
 やはり彼女は美しくて、シシィの心拍数は風邪と関係なく上がった。

「ダメよ、まだ寝ていなくちゃ」

 深めの皿を持ったBは、その皿をサイドテーブルの上に置くと、シシィの額を押すようにして、また彼女を横にした。
 シシィもそれに大人しく従うが、頭の中は疑問でいっぱいだ。
 Bはベッドに腰かけてタオルを絞ると、その冷たいタオルをシシィの額に乗せる。

「ごめんなさいね、勝手に色々と。ポチがいきなりやってきたものだから、貴女に何かあったんじゃないかと」
「ルウ……ポ、ポチがですかっ」
「ええ、賢いわね。それであの子に連れられて来てみたら、貴方がこの家の前で倒れてたからビックリしたわ」

 ――ポチ。
 Bがこう呼んでいる、ということは、やっぱりルウスは人間に戻れていないのだ。
 夢かもしれない、と思っていたとはいえ、シシィは密かに落胆した。
 そして同時に、不安もよぎる。
 ――あれって、じゃあ、夢なんだよね……。
 ということは、深層心理として、ルウスの人間の姿はあんなにも美形な人だと思っていたということだろうか。
 その考えに、シシィは冷や汗をかく。
 ――いやいや、そんな展開は小説の中だけだよ、私!

「まずは食事をなさいな、闇色ハット。薬が飲めないから」

 と言って、Bはテーブルの上に置かれた皿を指した。
 皿からは湯気が立ち上っていて、おいしそうな香りもした。

「病気のときはオートミールでしょう?食べられるかしら」
「は、はい」
「よかったわ。それじゃあ、私はお湯を沸かしてくるわね。本当は着替えさせてあげたかったんだけど、ここに運ぶのでやっとだったの。汗をかいたでしょう?」

 その言葉を聞いて、シシィの血の気は一気に退いた。
 ――ルビーブラッドさんのペンダント!!
 あれは人に見せるなと言われているもので、アンティークキーと共に肌身離さずつけているものだ。もし、Bに着替えさせてもらっていたら、確実に見られていただろう。
 まさに危機一髪だ。

「大丈夫?顔色悪いわよ?」
「ひょいっ!だ、大丈夫です!!」
「そう?なら、いいけれど」

 別の意味で汗を流しながらも、シシィは力なく微笑んだ。
 と、そこでガサガサという音が聞こえてきた。

「わん」
「あら、ポチ」

 開いていたドアから黒い身体が見えて、シシィは改めて不思議に思う。
 ――あの姿から、どうやってあの姿を想像したんだろう。
 なまじ、本ばかり読んできたせいで想像力というより、妄想力が育ってしまったのかもしれない。
 ルウスが近づいて来ようとすると、それをBが止めた。

「ダメよ、近寄っちゃ。ご主人さまは病気なんだから」
「……ええと」

 ルウスからの視線が痛い。
 しかしBに、「その犬は人間ですから」ということもできず、シシィは心の中で謝りながらも黙って寝ていることにした。
 ――ルウスさんの秘密を守るためなんです!
 やはり視線は痛いので、あとでそう弁解するのが無難なようである。

「じゃあ、お湯を沸かしてくるわね。着替えはそこのクローゼットの中?」
「は、はい」
「食べられないなら無理をしないでちょうだいね?さ、ポチ、行くわよ」

 そう言うとBは、ポチ(ルウス)を連れて部屋から出ていった。
 残ったシシィはベッドの上で起き上がり、何よりまず先に、身につけていたルビーブラッドから貰ったペンダントを枕の下に隠した。
 これでBやルウスに見られる心配はない。
 とりあえず安心したところで、シシィはテーブルの上に置かれた、あたたかいオートミールの入った皿を手に取った。

「……おいしそう」

 いい香りに誘われるように、シシィはスプーンですくって一口すする。
 ――優しい味。
 寝込んでしまったときの一番の薬は、こういう優しく、あたたかな食事だ。
 迷惑をかけてしまって申し訳ないと思う半面、やはり嬉しく思う。1人暮らしのときにひく風邪ほど心細いものはない。
 実家では母が看病してくれたが、今は1人だ。
 ――厳密には違うけど。
 ルウスもいるので1人ではないが、ルウスは犬の姿でいるため、やれることが限られている。現に、Bをわざわざ呼びに行ったのは、自分では看病できなかったからだろう。
 それでも、誰かを呼んできてくれて助かった。
 ――元気になったら、ローストビーフを作らなくちゃ。
 また一口、オートミールを口に入れながらシシィはそんなことを考える。

「それにしても……本当に夢の中のルウスさんはカッコよかったなぁ……」

 ヴィトランのような美しさとは、また別の系統の美しさだった。
 ある意味、自分の想像力を褒めてやりたかった。自分の脳内では、あれだけの美貌を作ることができるらしい。
 あの姿なら、確かに黒い帽子もよく似合っていた、と思ったところで。
 ふと、思い出す。

<だから君に、物語を紡いでおこう>

 ――あれは、誰なんだろう?
 懐かしい感じのする声だったが、聞いた覚えがない。少なくとも知り合いの中にはいなかったと思うのだが、知らない人の声でもないような気がした。
 相反するような感覚。
 けれど、どちらも矛盾していないような。

「……私は、何かを忘れている……?」

 その答えは、真実に近いような気がした。
 が、何を忘れているのか分からない。
 その答えも近いだけで、合っていないかもしれない。
 ぐるぐると迷宮化していく思考の中で、シシィの頭はついに悲鳴をあげた。熱が上がったような気がする。
仕方なく、とりあえず今は体を治すことに集中することにした。

 ――気になるけれど。

 シシィは黙って、あたたかなオートミールを口にした。
 今、自分にできることはこれだけだ。