翌朝も、太陽の輝くいい天気だった。風も穏やかだが、そろそろ冬の訪れを知らせるかのように、この温暖な国にしては肌寒い。
――朝は、ちょっと寒くなってきたなぁ。
そろそろ衣替えの季節かもしれない。さすがに半袖では肌寒くなってきた。
そんなことを思いながら、図書館の正面玄関を開けて、表をほうきで掃除していたところ、シシィは坂を上がってくる人物を視界にとらえた。
大きなリュックサックを背負った人物。
誰だろう、と考える前に、それは簡単に予想がついた。
「おはようございます、ブレックファーストさん」
「やぁ、おはよう」
微笑むブレックファーストを見て、シシィは安堵した。顔色もいいようだし、くまも薄くなっている。昨夜はきちんと眠ることができたらしい。
ほうきで掃く手を止めたシシィの前まで来ると、ブレックファーストはリュックを背負い直しながら、いつもの明るい表情で口を開いた。
「世話になってしまって、すまなかった。昨日の記憶がさっぱり抜け落ちていてね」
「そう、なんですか」
「君を頼ってきたところまでは覚えているんだが……宿にいるときの記憶は、もうさっぱりなくてね。気がついたら眠っていたようで、机の上にオレンジケーキが置いてあったよ」
これは君が作ってくれたんだよね、と言いながらブレックファーストは空になった、オレンジケーキが入っていた容器を差し出した。
確かに昨日、彼への差し入れに持っていったものだ。
「食べた後に聞くのもなんだが……これは、私が食べてよかったんだろうか?」
「もちろんですよ。ブレックファーストさんへの差し入れだったんですから」
その言葉にブレックファーストは顔を緩めた。どうやら食べてしまったのはいいが、本当に自分が食べてよかったのか気になっていたらしい。
確かに容器を受け取ったシシィは、彼の背負っている荷物へ目を向けた。
来た時よりは中身が減っていそうなので、Bのところで少し売ってきたらしい。
ということは、とシシィはブレックファーストへ再び視線を戻した。
「もしかして、もう行かれてしまわれるんですか?」
「まあね」
「もう少し、ゆっくりして行っても……」
シシィの提案に、彼はゆるゆると首を横にふった。
「魅力的な提案だが、ここへは君に『ナイトメア』を解除してもらうために寄っただけなんだ。これから……そうだな、南東の方へ向かってみようかと思っている」
ここから南東、と言うと海へ出る方角だ。そちらには大きな港町があって、外国へ出航する船もある。
ということはもしかすると、海を渡るつもりなのだろうか。
どうやらその疑問は表情に出ていたらしく、ブレックファーストはふ、と笑うと南東の方を見つめた。
「そう。この大陸をちょっと離れようかと思ってね」
「な、何でですか?」
「探している人物が、この大陸じゃないところにいるかもしれない、と聞いたんだ」
内心、シシィはドキリとして冷や汗をかいた。
――騙した人を追って、行ってしまうんだ。
あれだけの後悔を抱えながら、傷を作った人物を追う。
止めてしまえばいいのに、と思う半面、無責任にそんなことは言えなかった。
昨夜のブレックファーストの話を聞いてしまったら。
――ブレックファーストさんが覚えてなくて、よかったかもしれない。
錯乱していたとはいえ、話してしまったと知ったら、彼はどう思うだろう。おそらく、彼の中で一番触れられたくない、暗くて深い部分のことだ。
――もしかすると、傷つくかもしれない。
だから、知らないふりをするしかない。
シシィは胸に痛みを覚えながら、そうですか、と微笑むだけにとどめた。
「どうしたんだい?」
「あ、いえ……しばらくお会いできなそうなので、さみしくなるなぁ、と」
「そうだねぇ。こちらに来たときはめずらしい魔術材料を持ってくるよ」
「お願いしますね」
それはきっと、Bがとても喜ぶだろう。彼女はめずらしい材料が好きだ。
狂喜乱舞するBの姿が容易に想像できて、少しおかしかった。
そんなシシィを一瞥したブレックファーストは、今気がついた、というふうに目をまたたかせて、不思議そうな表情でシシィに尋ねた。
「――関係ない話で悪いんだが、服の趣味が変わったかい?」
「へ?」
「何と言うか……明るいというべきか、華やかというべきか」
指さされて、シシィの視線は自分の服へ。確かに今日の服は新しく買ったもので、落ちたピンク色に小花柄の、ひざ丈ワンピースだった。
実はずっとかわいいと思っていて、けれど手の出せなかった服だったりしたのだが。
――ちょっと、前向きになれたからかな。
この服であの同級生に会えば、やはり怯えてしまうかもしれないが、これを着て町の中へ行ける、とは思える。
「華やかな色は苦手そうだったけど……」
「苦手だったというか、自分には似合わない色なんだ、って避けてたんですけど、
何と言うか、理論的にそんなことないと言ってくれた人がいたので。こういう色、かわいくて好きですよ、私自身は」
「……理論的、というと、もしかしてルビーブラッドかな?」
「!?」
何故名前も出していないのに分かったんだろう、という驚きで、シシィが落としかけた容器をキャッチしながら、ブレックファーストは苦笑した。
「Bさんが、2,3週間前にルビーブラッドが来ていた、と話してくれてね。そこからは勘だよ、勘」
「は、はぁ」
そういえば、呪われたリボンのときに、Bにルビーブラッドに協力してもらったと話しておいたのをすっかり忘れていた。おそらく、商品を売り買いしている間に、2人の間の雑談としてでも話が出たのだろう。
――けど、勘って、どういうことだろう?
首を傾げるシシィに容器を返しながら、ブレックファーストは微笑んだ。
「すみにおけないね、ルビーブラッドも」
「……?」
意味が分からず、なおも首を傾げるシシィの頭を、ブレックファーストは軽くたたく。
「独り言だから気にしないでくれ」
「はぁ」
「ああ、ついでにひとつ。ルビーブラッドはこの町に落ち着くつもりなのかな?」
「……へ!?」
突然、唐突もないことを訊かれて、シシィは大声をあげた。
――ルビーブラッドさんが、この町に、お、落ち着く……!?
そんな話は本人から、ましてや噂でも聞いたことがない。なので、シシィは思い切り首を横にふった。
「そ、そんなお話は聞いたことがないです!!」
「ん?そうなのかい?私はてっきり、この町に落ち着くのかと」
「そんな訳ないですよ!ルビーブラッドさんは、世界中を飛び回る魔導師ですよ」
「いや、だからそろそろ落ち着くのかと」
きょとん、とした表情でブレックファーストは説明を始める。
「魔導師って、一通り色々なところに顔を売ったら、一定のところに住む人が多いんだ。そうしたほうが、確実に依頼を受けられるからね」
「つまり、有名になったらお仕事場を設ける、ってことですか?」
「そういうことだ。ルビーブラッドはまだ世界中を回っているんだろう?けれど、もう充分有名になったから、仕事場を開く場所を探しているのかと」
「ひ、開くって……ルビーブラッドさん、まだ18歳らしいですよ?」
その発言に、ブレックファーストの動きが止まった。
というよりは、凍ったという方が正しい。
その気持ち、シシィには痛いほどよく分かった。
「……じゅう、はち?」
「冬が来れば19になるそうです」
「私と同い年か!?」
「ええ!?」
今度こそ、誰にもキャッチされることなくシシィの手から容器が落ちた。
しかしそんなこと、今はどうでもいい。重要なのは、ブレックファーストもルビーブラッドと同じ年齢だったということだ。
――みっ、見えない!
とてもじゃないが、ルビーブラッドもブレックファーストも今年19歳とは思えないほど大人びている。
「若いとは聞いていたが、本当に若いとは……。しかもその若さで魔導師なんて天才だな」
「や、やっぱりそうなんですか?」
「魔導師の勉強は、最短で5年。魔術は最短で1年ということを考えたら、魔導って奥深いだろう?」
それは確かにそう思う。シシィはコクコクと頷いた。
魔術は最短で1年、遅くとも2年の間に基礎は全て終わる。基礎が終われば、あとは自分の研究次第で魔術が優秀かどうか決まっていくものらしい。
究極を言えば、魔術師は生涯修行者とも言える。
が、この場合、魔導師の基礎が最短でも5年ということだろう。
基礎の容量が違いすぎる。
――5年も勉強してられるかなぁ……。
おそらくは、その気持ちが大きく魔導師の門を狭くしているのだろう。
「……19歳ってことは、ルビーブラッドさん、早くて10歳ころから魔導師の勉強してたってことでしょうか……?」
「ありえない話ではないけれども」
「……めずらしい、ですか?」
「ん、んんー……」
言いよどむブレックファーストの様子を見る限り、やはり特殊なことではあるらしい。
――私、10歳の頃って言ったら普通の勉強を一生懸命してたなぁ……。
ものすごい違いである。
改めてルビーブラッドの格差を痛感し、シシィは微妙にへこんだ。
ルビーブラッドを安心させられるような魔術師になれる日は、かなり遠い。
「まぁ、もし、彼がここに落ち着くという話を聞いたら、ぜひ教えてくれるかい?一度でいいから本物の『ルビーブラッド』を見てみたいんだよ」
「お二人とも旅をしてるから、お会いしませんしね」
ルビーブラッドが去ったらブレックファーストがやって来て、彼が去ったらルビーブラッドが来る、といったふうに、ちょうど悪いサイクルにいるようだ。
落ち着く、とは言わなくとも、長期滞在をするという話があれば、是非とも教えてあげたかったが、ブレックファーストへの通信手段以上に問題が一つある。
「でも、この町に長く居られることはないと思うんですよ……」
「何故?」
シシィは苦笑した。
「――ヴィトランさんがいらっしゃるので……」
何せ、ルビーブラッドはヴィトランに会うと速攻で気絶させてしまうくらい、彼のことが苦手である。
シシィも悪い人だとは思っていないが、どうにも絡みづらい人なのは確かだ。
いつぞやのウエディングドレスが思い出される。
「ヴィトラン、と言うと魔道具師の?それはすごい人が住んでるな」
「ええ……すごいです」
あらゆる意味で、それはもう。
遠い目をしながら語るシシィを見て、ブレックファーストが少しひいた。
「……どうすごいのかは、あえて追及しないでおくよ」
「それがいいと思われます」
笑顔で言うシシィに対して、ブレックファーストも笑みで返した。どちらの笑顔もよくよく見ると不自然な笑顔だったが、どちらもそのことについては触れなかった。
ブレックファーストは一度大きな咳払いをし、リュックサックを背負いなおすと、さて、と区切るように声を出す。
「そろそろ本当に行くことにするよ」
「――あ、はい」
海の方へ行くなら、出発は早いに越したことはない。ブレックファーストが野宿に慣れているとはいえ、夜の山は危険が多い。
そうそう出くわすことはないが、盗賊や猛獣の危険もある。
それじゃあ、と言ってブレックファーストはシシィに背を向けた。
どこかさびしげな、その背中を見て。
シシィは思わず声をあげた。
「あのっ!!」
「ん?」
視線だけ振り向いたブレックファーストに戸惑いながら、シシィは言葉をつづけた。
「1つだけ、教えてください。ブレックファーストさんは……どうして私に依頼されたんですか」
「……」
「他にも、魔術師さんはいたんじゃないですか?」
一度視線を外してから、ブレックファーストは再び視線だけでシシィを捉え、低いトーンでその疑問に答えた。
「――あまりね、私は『魔術師』を信用していないんだ」
「……!」
「君は……私の大切な人……親友に似ていたから、君なら信頼できると思って依頼したんだ。それだけの、自分勝手な理由だよ」
そう言うと最後に微笑んで、彼は丘を下っていく。
――何も、言えない。
シシィはその様子をただ黙って見ていた。
何が言えただろう。ブレックファーストが魔術師を信じられなくなったのは、過去に裏切ったその人たちが魔術師だったからではないだろうか。
やはり、彼の中で決着はついていないのだ。
まだ彼の痛みは、傷跡にすらなっていない、かさぶたの状態なのかもしれない。
徐々に見えなくなっていく後姿を見つめながら、シシィは胸を押さえた。
「――シシィさん?」
後ろからルウスに声をかけられて、シシィは振り向く。
図書館のドアからのぞき見るようにして、ルウスが立っていた。
「お掃除終わりましたか?そろそろ開館の時間ですが」
「あ、ええ……」
もうそんな時間か、とシシィは落としてしまった空の容器を拾う。
――もう少しくらい、持って行ってもよかったかもしれない。
ふと、そう思った。
ブレックファーストにできることは少ない。けれど、それくらいなら自分にもできそうな気がして、シシィは密やかに次に彼が来たときは、オレンジケーキを山ほど持っていこうと決意した。
「シシィさん?どうかしましたか?」
「いえ、それじゃあ開館しましょうか」
秋空とは違う、寒さを帯びた青空。
もうそろそろ、冬がやってくる。
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