ぐるぐるぐるぐる、と。
廻る。
意識が、世界が。
この世は常に動き、廻る。
ならば、想いもめぐり廻るのだろうか。
私が彼らに怒りを感じたように、私に怒りを感じる者が。
背中に痛みを感じた。
そこに触ると、突起物とぬるりとしたものを感じた。
何だこれは。
『裏切り者』
声が聞こえる。咳が出て、口から赤いものがボタボタ落ちていく。
――これは、報いか?
生かすことでの苦痛を与えた、復讐者に対する?
君たちが私に復讐するなら、それはお門違いだ。君たちの方が先に私を裏切ったんじゃないか。私の人生を狂わせたのは、君たちだ。
――許せない。
『許せない』
さらに、背中に突起物を押し込まれる感覚。
そしてこの声は。
『何故――』
――まさ か 。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「――――――っ!!」
悲鳴を呑みこむように、口を手でふさぎながらブレックファーストは飛び起きた。
肩で息をしながら心臓が鎮まるのを待つ。
――夢だ。
最近は、夢見がより一層ひどくなってきた。刺される夢を見たのはこれが初めてだ。
――まったく、冗談にもならない。
自分を落ち着けるため深呼吸をした後、ブレックファーストはそこでやっと自分が置かれている状況に戸惑った。
「……ああ、そうか」
ふかふかとしたソファ。明るい照明。素朴だがあたたかみを感じる家具。ここは雨露をしのげる旅人のオアシス、宿だ。
朦朧としていたが、かすかに覚えがある。『闇色ハット』と名乗るあの少女が、自分を必死に支えながら探してくれた宿だった。
部屋を見渡すと荷物もきちんと片隅に置かれている。
――まだまだだな、私も。
倒れたところを拾ってもらったのが、あの少女だったから良いものを、他の人間だったら荷物を取られていたかもしれない。魔術に使うような材料が入っている以上は、そんなぬけたこと許されるものじゃない。
許されるものでは――。
『許せない』
――負けるな。これは『ナイトメア』だ。真実じゃない。
ナイトメアは真実ではなく、自分が作る恐れだ。自分をしっかり保っていれば気が狂うことを避けられる。
今まではそうやってやってきた。が、もはや限界に近かった。
『許せない』
――やめろ。
『許せない』
――お前は、彼じゃない。
『許せない』
「うるさい……っ!!」
********
――眠っていてくれたらいいんだけれど。
夕暮れの赤い光に町が染められていく中、シシィはブレックファーストのもとへ急いでいた。その指には銀色に光る、真新しい指輪がはめられている。
何の装飾もついていない、シンプルな指輪だ。
しかしこれは、まぎれもなく一流の魔道具師ヴィトランが作ったもの。魔道具としての信頼度はかなり高い。
この指輪がナイトメアの治療に重大なのだ。
――ナイトメア。
ナイトメアは感染する。
よく分かっていないところが多いが、感染ルートは確認されている。
ルートは、枕。
ナイトメアは枕を媒体に人へ感染する。
普段家でなら枕は自分専用のものを使うため、感染の恐れはないのだが、人間は旅行に行ったり旅に出たりする。そういうときに、枕を媒体にしてナイトメアに感染してしまうのだ。
ブレックファーストは旅人。なのでどこかの宿で感染してしまったのだろう。
――けれど、まさかあんなに弱り果ててしまうものだなんて……。
よく考えれば夢見が悪いというのは、あとあとまで精神的な辛さの尾をひくものだ。
衰弱してもおかしくはない。
おかしくはないが、大抵の人はあそこまで弱り果てるまでに、魔術師の治療に頼るものだ。ましてやブレックファーストは魔術師、魔力の関係から自分で治療することはできなかったにしても、早々と魔術師に頼ることはできたはずだ。
――どうして、頼らなかったのかな……。
何か理由があったのだろうか。魔術師を頼れなかった理由が――。
「うわっと!」
考えながら走っていたので、シシィはついつい目的の場所、ブレックファーストのいる宿を通り過ぎてしまうところだった。
腕の中にあるバッグを抱え直して、シシィはほんとうにこの宿だったかどうかを確かめた。抱えている荷物はブレックファーストへ、オレンジケーキを差し入れのつもりで持ってきたものだ。
「……うん、ここだった」
宿自体はあまり大きくない、小さな建物だ。緑色の古ぼけたドアを開けて、中に入るとブレックファーストを背負ってきた時に見た、小さなフロントがある。そこには主である老人が座っていた。
老人は目だけでシシィを見ると、ああ、と声をあげた。
「戻ってきたんかね?お連れさんは206号室だよ」
「ありがとうございます」
「あんまりね、調子は良くなさそうだったよ。医者いるかい?」
「あ、いいえ!お薬を買ってきたので」
そうかい、と言って老人は手元の本へまた視線を落とした。ちょっと無愛想かもしれないがブレックファーストのことを心配してくれていたり、自分のことを覚えていてくれたりとして、いい人だなとシシィは思った。
会釈をしてから、シシィは2階に上がる。206号室は、2階の一番奥の部屋だった。
その扉を軽くノックする。
「起きていらっしゃいますか?大丈夫ですか?」
声をかけてみるが、中からの返事がない。
――寝てるのかな。
悪夢を見ずに眠ってくれているなら、それが一番いい。
しかし眠れないから自分を訪ねてきたのに、そんなことがあるだろうか。シシィは首をかしげながらも、ドアノブに手をかけてみた。
ドアノブは回った。
ということは鍵がかかっていないということだ。
――やっぱり起きてる、よね?
念のためもう一度ノックしてみたが返事がなかったので、仕方なくシシィはドアを自分で開けた。
部屋の中はやけに静かだった。物音一つしない。
それだけならブレックファーストは眠っているのかとも思えたのだが。
「!」
おそらくは彼の持ち物であろうもので、床は埋め尽くされていた。
「ブレックファーストさん!?」
慌てて部屋へ入りこむと、ベッドの影に隠れるように座っているブレックファーストの頭が見えた。
駆け寄り声をかけようとしたシシィに、ブレックファーストはうつろな目を向ける。
いつもの陽気な彼からは思いつかないほどの、歪んだ瞳。
シシィは息を呑んで、肩に置こうとした手をひっこめた。
「――責めてくれ」
「……レック、ファーストさ……」
ブレックファーストもシシィも、やっとの声で出した言葉は酷くかすれていた。小さな音さえ立てるのもためらわれるような緊張感の中で、ブレックファーストの瞳が鈍く光る。
「私は君を裏切ったよ。嘲ってくれてかまわない」
「え……?」
――私を裏切ったって……いつ?どこで?
さっぱり意味が分からなかった。裏切られた覚えもなければ、嘲る理由も思いつかない。
シシィが首を傾げていると、またブレックファーストが口を開く。
「君を裏切ったから、こんなみじめな旅をすることになったんだ」
その言葉でシシィはやっと理解した。彼は現在シシィと確認して話しているのではなく、誰か別の人と幻覚の中で話しているのだと。
――ナイトメアが、進んでる……!
初期症状であれば、悪夢を起きている最中に見ることなどありえない。けれど末期ともなれば朝だろうが昼だろうが、幻覚を見ることになる。
ブレックファーストは、明らかに末期の状態だ。
彼はなおも、自嘲しながら『誰か』に語り続けた。
「君の言ったとおりだった。彼らは私を騙したよ」
「騙し、た?」
「始めから私を騙すつもりで近づいてきたらしい。それでも私は、あのとき、君以外の人に受け入れてもらえたのだと浮かれていたんだ」
話が噛み合わない。繋がりもしない。
『彼ら』とは、ブレックファーストの復讐対象者のことを言っているのだろうか。
かろうじて分かるのはそれだけ。
騙されたというのも、受け入れられたというのも、何のことか分からない。
シシィは困惑しながらも、また口を開くブレックファーストの前にしゃがみこんで言葉に耳を傾けた。
「冷静に考えれば分かったはずなのに……彼らが、魔力の低い私を受け入れるはずがない。私が愚かだった」
ブレックファーストは震える手で顔を覆う。
「残ったのは友情なんかじゃなく、5000万の赤札だ――」
「5000万の赤札――っ!」
赤札、というのは借金のことだ。それが5000万。
ルビーブラッドのように、国家予算並みの借金でなくても、5000万という数字は十分に人生を変えてしまうくらいの金額だ。
『残ったのは友情なんかじゃなく――』
ということは、借金は友人だと思っていた人たちに、どうやってか騙されて背負わされたもので、彼は被害者なのだろう。
シシィは目頭が熱くなっていくのを感じた。
――酷い。
ブレックファーストは『魔力が低い私を、彼らが受け入れるはずがなかったのに』と後悔している。もしかすると、ブレックファーストの故郷は魔術が盛んで、魔術師も珍しくない場所なのかもしれない。
そして、そうであるならば。
特段魔力の低いブレックファーストは、見下されていたのではないだろうか。
見下されていて、魔術師を名乗っていても相手にされなかったのではないだろうか。
孤独な環境の中で、たとえよく知らない人物でも話しかけてきてくれたなら。
――嬉しいに、決まってるもの。
自分という存在が、認められたように思えて。
「どうして――君を裏切ってしまったんだろう」
その言葉が、ブレックファーストの一番深い後悔の念をにじませていた。彼が一番後悔していて罪悪感を持っているのは、親しい関係にあった『彼』のことらしい。
『彼』との間に何があったのかは分からない。ブレックファーストも幻覚とはいえ『彼』と話している以上、詳しくは語らないだろう。
それは2人の間では分かりきっていることだからだ。
だからシシィは、過去に何があったのかは知ることができない。
けれどそれが――ナイトメアのもとだ。
ブレックファーストを苦しめる、悪夢の基盤となっているものだ。
シシィは涙のにじむ目を拭い、立ちあがった。
「――もういいんですよ、ブレックファーストさん」
できるだけ優しく声をかける。うつむいてしまったブレックファーストを怯えさせないように、そっと。
「私にはブレックファーストさんの過去を知ることはできないけれど、でも、もう充分じゃないですか。これだけ苦しんで、それでも自分が許せなくても」
責めてくれと、ブレックファーストは最初口にした。きっと、自分が過去にしたことが許せないのだろう。
――それでも。
「誰だって荷物を下ろすときはあります。休憩するくらい、いいじゃないですか」
――眠るときくらいは何もかも忘れて、ただ幸福だけを夢見て。
シシィは『銀幕の指輪』をしている手を握りしめたあと、その手をブレックファーストへと伸ばした。指輪へ魔力を少しずつ込めていく。
何の装飾もついていないはずの銀の指輪が、光を当てられた宝石のように輝き始めて、オレンジ色の光をまとっていく。
ロッドはいらない。この魔術は指輪自体がロッドの役割を果たしてくれる。
この指輪自体が、魔法陣だ。
『過去は悠遠未来は久遠 瞬かぬ星は地に堕ち 輝く蔓を育む 再生の葉は暗黒の空を拭うだろう』
指輪に込められる魔力に反応するように、ブレックファーストの身体から黒いオーラが湯気のように立ち上り始める。これが『ナイトメア』だ。
悪夢をもたらし、人を衰弱させてゆくもの。
――これ以上、ブレックファーストさんを苦しめないで……!
指輪が強く輝いた。
『汝の黒き星 ここに封印せん!!』
呪文を言い終わった瞬間、指輪はオレンジ色の光を放ち、その光は大きな1枚の布のような形で広がった。それに対しナイトメアは光を浴びて、一瞬の間に小さな黒い塊になって、床へ転がってしまった。
その好機を逃さずに、オレンジの光はナイトメアを包み込んで吸収してしまう。
しばらく大きくなったり、小さくなったりと動きを繰り返したのち。
「!」
光はシシィの指輪の下に戻ってきて、それが指輪へ収まってしまうと『銀幕の指輪』は音も立てずに砂のように崩れていってしまった。
指輪がなくなってしまっても失敗ではない。逆に成功だ。
『封印』とは、文字通り呪いや良くないものをアイテムの中に押し込めてしまうものだが、ただ単に押し込めるのではない。封印している間にその封じているものの能力を弱体化させていき、時間をかけて消滅させる役割を持っている。
なので簡単な呪いなどであれば、封印アイテムに入れれば一瞬で消滅させられる場合もあり、消滅に成功すれば封印アイテムは消えてしまう。消費アイテムだ。
つまり、結果的には消滅させてしまうので、呪いなどに対抗する術は厳密に言えば一つなのだが、『封印』の方が『消滅』より安全なため、魔術師は『封印』を使う。
もちろん、ルビーブラッドの言ったとおり『魔力消費量』と『技術』も関係するのだが。
――できて、よかった。
指輪がなくなったのは、きちんとナイトメアを取り除けた証拠だ。
「ブレック……ファーストさん?」
「…………」
「あの……」
もう正気に戻ったのではないだろうか、とシシィはブレックファーストに声をかけてみたが返答がない。うつむけたままの彼の顔を見るべく、シシィがしゃがみこむと彼女の耳に静かな音が聞こえてきた。
「……すー……」
寝息、のようだ。
ブレックファーストの顔を覗き込んでみると、どうやら熟睡しているようだった。頬をつついてみたが起きることはない。
今までろくに眠れていなかっただろうから、その疲れがきたのだろう。
シシィはホッとため息をついた。
「――おやすみなさい、ブレックファーストさん」
呼吸は穏やかで、眠る表情は安らかに。
シシィは微笑みながらブレックファーストの身体に毛布をかけた。
――どうか、良い夢を。
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