「…………」

 中級基礎の本の残りページが薄くなってきた。
 シシィは隠し部屋から持ち出した、魔術の本の残りページをつまみながら図書館のカウンターでぼんやりと考える。
 分厚いように思えた基礎本もそろそろ終わりを迎える。この本が終われば、残すのは上級の基礎だけだ。

「残りページも薄くなってきましたね」

 まさに考えていたことを、傍らにいたルウスに言われて、シシィは思わず本から彼へと視線を移した。ルウスは一度本を見てから視線を逸らし、カリカリと頭の後ろを後ろ足でかく。
 ――どうしよう、ルウスさんがますます犬っぽくなってる。
 ふと胸に不安がよぎる。

「る、ルウスさん、もしかして本当に犬になっちゃったりしませんよね?」
「そんなことありませんよ。失礼な」
「だって……最初のころより行動が犬っぽくって」
「この身体での合理的な行動をしてるだけです。なってみればわかりますが、犬はあれで無駄な行動はないですね」

 つまり、楽なように動くと本物の犬っぽくなるということらしい。
 それを聞いて安心したが、同時になんとも言えない気持ちにもなる。彼の行動が本当の犬と区別できなくなる前に、早く治してあげたいものだ。

「できれば、上級に入ってすぐにそんな魔術が習えたらいいんですけれど」
「それは無理でしょう。変化の魔術は高等魔術。その魔術さえできれば魔術を修めたと言っても過言でないくらいに難しい魔術なんですよ」
「あ……やっぱりそうですか……」

 引きつった微笑みを浮かべながら思い出すのは、お祭りのあの日。ルビーブラッドが実際に見せてくれた魔術のことだ。
 ――確かに、難しかった……!
 とても多い材料に、複雑な陣。ルビーブラッドはヒョイヒョイとこなしていたが、やはり難しい魔術なのだ。そして、おそらくはそれを解く魔術も。
 ――ああ、なんか不安になってきた……。

「まぁ、おそらく上級に入るのは冬の初めでしょう。それまで気楽にやることですよ。ただでさえ上級は対呪いの魔術が多くなりますしね」
「はぁ」
「そろそろお昼にしませんか?世間はお昼休みに入るころでしょう」

 そう言われると空腹を覚えた。
 シシィは腹に手を当てながら「それもそうですね」と立ち上がる。

「今日のお昼、何にしましょうか」
「肉が良いですね」
「……ルウスさん」
「冗談ですよ、そんな心配そうな目で見ないでください。何が残ってましたっけ」
「ええと……」

 残っている材料を思い出しつつ、カウンターを出たとき、外から何か重たいものが倒れたような音を聞いた。

「?」

 シシィは首を傾げる。外にほうきか何か、立てかけていただろうか。
 ――でも、それにしては音が……。

「シシィさん?」
「あ、いえ……あのルウスさん、先に行っててください」
「はぁ」

 耳を動かしながら不思議がるルウスを先に自宅へ戻し、シシィは図書館の外へ様子を見に行った。何かが扉の前に倒れていたら危ないし、邪魔にもなる。どけておかなければならない。
 しかし、外へ出たシシィの目に映ったのはとんでもない光景だった。

「……袋?」

 最初は袋だと思った。数メートル離れた場所に、大きな袋が落ちているのだと。
 が、それはすぐに誤りだと気がついた。

「――ブレックファーストさん!?」

 ブレックファーストが、荷物を担いだまま倒れていたのだ。
 シシィはすぐさま駆け寄って、彼の担いでいたリュックサックを何とか外し、転がすように脇へとのけた。
 下ろすのにも一苦労するこんな大きな荷物を担いだまま倒れて、大丈夫なはずがないんじゃないだろうか。シシィは額に汗を浮かばせながら、うつぶせで倒れているブレックファーストに呼びかける。

「ブレックファーストさん!大丈夫ですかっ、意識はありますか!?」
「…………」
「ブレックファーストさん……!だめだ、どうしよう……!?」

 軽く頬を叩いてみたが、やはり反応がない。
 ――お医者様に診てもらった方がいいのかもしれない!
 けれど動かしていいものだろうか。下手をすると現状より悪化することもある。

「どうしよう……ルウスさん!」
「……やぁ、闇色ハット君」

 ルウスに相談しなければ、と立ち上がりかけたシシィを引き留めるように、ブレックファーストは倒れたまま言葉を発した。
 その声はあまりにも弱々しい。草花を軽く揺らす程度の爽やかな風にさえ、かき消されてしまいそうなほどだった。
 ――顔色も悪い……。
 よくよく見るとブレックファーストの顔は青白く、目の下に濃いクマができている。

「ちょっと寝不足でね……めまいが」
「ま、まだじっとしてなくちゃダメですよ」
「いや、もう大丈夫だ」

 それでもめまいを警戒するように、ゆっくりと彼は起き上がった。

「大丈夫なんかじゃないです、お顔真っ青じゃないですか!」
「さっきよりはいい。大丈夫さ」

 疲れを吐き出すようにため息をつきながら、ブレックファーストは視線だけで見渡す。
 自分のいる場所を確認しているように見えた。

「何とか無事に、ここまでは辿りついたようでよかった」
「私にご用だったんですか?急ぎでなければ、宿で眠ってからでも」
「それがね、急ぎだったんだよ『闇色ハット』」

『闇色ハット』とは、魔術師の名前。彼はそれを強調した。
 ならば、自分に会いに来たのは――。
 シシィの目をしっかりと見ながら、ブレックファーストは口を開く。
 どこか決断するように。
 けれど迷いを見せながら。

「君に依頼をしたい。私に憑いた『ナイトメア』を駆除してくれ」

 ――ナイトメア!
 シシィは目を見開いた。
 ナイトメア。それに憑かれたから、彼は眠れないのだ(・・・・・・)
 ブレックファーストはなおも、迷いを見せながら口を開く。
 その光景は、いつも知っている陽気な彼からは想像もできなかった光景で。
 とても、弱々しかった。

「――この依頼は、君にしか頼めないんだ。すまない、どうか私を助けてくれ」
「……ブレックファーストさん」

「どうか……私を、悪夢から救ってくれ……」





********





 悪夢を人生の中で一度も見なかった、という人はいないだろう。いつも見るわけではないが、忘れたころに何かの暗示のように見るときがある。
 悪夢が現実をおびやかすような、そんな恐怖感に襲われることもある。
 けれど大抵は夢で終わってしまう。
 悪夢とは近いようで、遠い存在なのだ。

 そんな遠い存在に、近しくなってしまう人たちがいる。

 とにかく眠ると、悪夢ばかりを見る。強い恐怖感や嫌悪感に苛まれて、心身が衰弱していってしまう。
 そういう状態が長く続くとき、魔術師は『ナイトメア』を疑うのだ。
 一般にナイトメアは黒い馬が『来訪者』『悪夢を連れてくるもの』として知られているのだが、魔術師たちはそうでないことを理解している。
 『ナイトメア』は『感染病』なのだと。

「ナイトメアに『感染』かぁー……、嫌なものにかかったもんだね」
「えっと……ヴィトランさんでも、やっぱり嫌なんですか?」

 シシィは目の前に座る、珍しく大人しいヴィトランを見つめながらそう質問した。
 ここはヴィトランの職場である。
 相変わらず品のいい調度品に囲まれた部屋の中で、少し身の置き場のない思いをしながらシシィはヴィトランと対面するようにして、イスに座っている。
 ヴィトランは眉をひそめて、美しい顔を歪めた。

「寝不足は美容の大敵だよ」
「……ああ、ええ……」

 やはりヴィトランはヴィトランだった。

「それで『銀幕の指輪』を作ってほしいわけだね」
「そ、そうなんです」

 ようやく本題に入れたと、シシィはホッと安堵のため息をついた。
 ナイトメアに感染したブレックファーストを一度宿に送りとどけ、治療をせずにヴィトランのもとへ来たのは『銀幕の指輪』が治療に必要不可欠だったからだ。その指輪を自分は持っていなかった。
なので魔道具師である彼に、作ってもらわなければならないのだが。

「どのくらい時間がかかりますか……?」

 一応出てくる前にルウスには話をしてきたし、お昼はパンで我慢してもらったので彼は良いとしても、ブレックファーストの方は急ぐ。早いなら早いに越したことはない。
 ヴィトランは考えながら、唇に指をあてた。

「ふむ、急いでも5時間だね。粗雑なものは、僕は渡したくないよ」
「そうですか……」

 5時間。その時間通りなら、今から取りかかってもらったら、何とか今夜までには治療が完了できるかもしれない。
 ――早く眠らせてあげないと……。
 ブレックファーストの衰弱は激しい。宿に行く途中も、何度かうつらうつらしていたのだが、その度に氷を背中に入れられたような反応で、身震いしながら目を覚ます。
 あれではそのうち、幻覚まで見てしまいそうだ。

「それでもいいなら作るよ」
「お願いします」

 ならば、と立ち上がって、作業机の引き出しから何かを取り出して帰ってきたヴィトランの手には、奇妙な形のメジャーのようなものが握られていた。
 ――や、あれは。
 メジャーと言っていいものなのかすら怪しい形だ。
 不思議な顔をしてそのメジャーを見るシシィに、ヴィトランは気付いたようで、彼は自分の手に持ったメジャーとシシィを見比べてから、口を開いた。

「知ってるだろうけど、僕のお客は必ずだから」
「……何がです?」
「サイズだよ」
「ええと、サイズ?」

 シシィが首をかしげた瞬間、ヴィトランの手からメジャーが落ちた。
 驚くシシィに追い打ちをかけるように、ヴィトランはシシィに詰め寄り、肩に手をかけて信じられない!と叫んだ。

「まさか自分のサイズを知らないなんてことはないだろうね!!」
「だだ、だからサイズって何のですか!?ふ、服?」
「指のだよ!!」

 指。
 その単語に、シシィはぽかんと口をあけた。

「あ、ああ、号のことですか……?そういえば知らないような……」
「何てことだ美の神よ!!」

 嘆きながらヴィトランは、床へ崩れ落ちた。
 が、すぐさまその美しい顔をあげて、シシィを見つめる。

「いや、知らないはずがない……指輪なんて誰でもするじゃないか」
「ええと……か、家事の邪魔になるからしたことなくて、ですね」
「家事!!」

 あまりに大声で叫ぶので、シシィは不安になった。
 もし、外にこの声が漏れていたら『火事』と勘違いされるのではないだろうか。

「美しい闇色ハットが家事なんて!!君はそんなことをしてはいけない!」
「あ、いやぁ……家事をしないと、その、餓死してしまうので……」
「メイドを雇えばいい!!彼女たちの服装は完成された美だよ!!」

 どうやらヴィトランは、あのメイド服を美と定義しているらしい。
 ということは、下手をするとあの衣装祭のときに、彼はメイド服を着ていたかもしれないという可能性も出てきた。
 ――いや、下手をしちゃったからウエディングドレスだったのかな……。
 どちらにしろ、ルビーブラッドは怯えることになっただろう。
 脱線しかけてきたので、シシィは話を戻すことにした。

「えっと……とにかくあのメジャーは指を測るものなんですね?」
「そうだよ。さて、サイズを調べなくてはね」

 あまりにあっさりとしたヴィトランの言葉に、シシィは肩すかしをくらう。
 やはり彼との会話は、かなりの難易度であった。

「……」
「ふむふむ、闇色ハットの指は細めだね」

 指のサイズを測ると、ヴィトランは懐からメモと鉛筆を取り出して、そのサイズを書き写していった。これをもとに、『銀幕の指輪』を作るので、サイズを忘れないためになのだろう。
 それは分かる。分かるのだが。

「……ええと、ヴィトランさん?」
「何だい」

 淡々と指のサイズを測っていくヴィトランに、シシィは戸惑いながらも口を開いた。

「み、右手のひとさし指だけ測ってくれればいいのですが……何故に左手の親指から測っていってるのでしょうか」
「全部の指のサイズを知るためだよ」
「いや、ですから右手のひとさし指にはめるので」
「僕の趣味なんだ」
「……そ、そうですか」

 会話の間もどんどん指のサイズが測られていくのを見て、シシィはがっくりと頭を落とした。
 無理なのだ、ヴィトランを止めるのは。
 どっ、と疲れて、ただサラサラと鉛筆が紙の上を滑る音を聞いていたシシィだったが不意にスカートのポケットにある存在を思い出した。
 丈夫めの小さな袋に包まれたモノ。
 ――アステール。
 ルビーブラッドに貰ってから、この石は自分の守護石のように思っていつも持っているのだが、いささか携帯するには不便なのだ。女性の服は、ポケットの付いていないものも多いので、いつも持っているのに苦労する。
 ――うーん。
 この石を指輪にしてみれば、ちょっとは持ちやすくなるのではないだろうか。

「ヴィトランさん、ちょっと相談なのですが」
「相談?」
「はい。こちらは急ぎじゃないですが……」

 空いている右手で、ポケットからアステールの入った袋を取り出す。

「これを指輪にしてもらうことは出来るでしょうか?」

 袋から輝く石を取り出すと、ヴィトランの表情が驚きに変わった。

「アステールじゃないか!」
「ご存じなんですか?」
「宝石と魔力は相性がいいからね……けれどそれを抜きにしても、このアステールは美しい石だよ!こんなに輝くアステールは見たことがない!!」

 それは、これをくれたルビーブラッドが唯一正当にアステールを取る方法を知る人物(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)だからだ。だからこそ、このアステールはきれいに輝く。
 まさしく空にある星のように。
 ――入手法を訊かれたらどうしよう…。
 たとえヴィトランであったとしても、ルビーブラッドの許可なくあの取り方を教えるわけにはいかない。あの知識はルビーブラッドのものだ。
 悩むシシィを尻目に、ヴィトランは宝石を見つめて、

「500万くらいかな」

とつぶやいた。

「…………は?」
「うん?500万くらいだろうね、価値としては。カットするともっと跳ね上がるよ」
「ご、ひゃくまん?」
「そうだよ」

『ただの小石と変わらない』
 そう言ったのは誰だったか。ルビーブラッドだ。

「うそだぁああ!」
「え、もしかして500万以上で買ったのかい!?それでも十分なもとは……」
「違うんです……」

 小石と変わらないから、と言って貰ってしまったのだ。
 が、実際はどうだ、この小さな石に500万。一流の魔道具師であるヴィトランが言うことなので、まず間違いはないだろう。
 ――と、とんでもないものを貰ってしまった……!!
 これを売れば借金の足しにもできるはずなのに、自分にくれるとは。
 シシィはアステールを握りしめたまま、頭を抱えた。
 そんな様子のシシィを不思議そうに見やった後、ヴィトランはふむ、と頷いた。

「ともかくその石を使って指輪を作ればいいんだね。デザインは任せてくれるかい?」
「いや、あの……やっぱり一度持って帰って考えます……」
「そうかい、それは残念だ。もし指輪にするなら僕のところに持ってきておくれ、その石で指輪を作りたいからね!!」
「……はぁ」

 ため息だったのか、了承だったのか自分にも分からない。
 とにかく今回は。

「『銀幕の指輪』は早急にお願いします……」
「了解したよ!!」

 微笑むヴィトランに、力なくシシィは微笑み返した。
 ――とにかく、ブレックファーストさんを助けなくちゃ。