呪いが去って、一夜明け。
シシィは遠くの方からカリカリという、何か固いものひっかいているような音を眠りながら聞いていた。
――何だろう。
まだ起きたくはない。昨日は対呪いの魔術で魔力をかなり消耗し、疲れている。このまま深く眠っていたい。
カリカリキィ。
が、音は一向に止まない。それどころかもう一つ音が増えた。
『〜〜!〜〜〜〜!』
――眠い……。
シシィはベッドの掛け布団を、自分の頭までかぶせた。これで外界との接点を遮断したかのように思ったが、音は布の防御をかき分け耳に入ってくる。
音は、声のように思えた。
『〜〜!〜ィさ〜!』
「……んに?」
「シシィさん!ご無事ですか死んでるんですか半死半生ですかぁぁぁぁ!!」
「ぴぃっ!?」
キキキィィィィィィィィィ。
ルウスが窓ガラスを鋭い爪でひっかくことによって奏でられた不協和音は、シシィの神経を逆なでし、ぞわぞわっという不快感を味わせた。背筋をなんとも言えないものが上っていく。
半泣きでベッドの上で起き上がると、窓の外でルウスの耳が震えていた。自分がやっておいて、自分にも思った以上に効いたらしい。毛が逆立っている。
「〜〜〜〜〜〜〜っ!」
「〜〜〜〜〜〜〜っ!」
しばらく2人して悶絶した後。
「ど、どうはれたんですかっ、ルウスさん……。お早いお帰りですね……」
「Bさんが呪いのリボンがなくなったと言って、町中を探しているんです!シシィさんのところなんかに来てないでしょうね!?」
ものすごい剣幕で事情を説明するルウスに気圧されながら、シシィはベッドから降りて窓を開け、寝室のテーブルの上に置いておいた青いリボンを窓の外にいるルウスに見せた。
禍々しさのない、キレイなサテンのリボン。本来はこういうものだったのだ。
リボンを見て、ルウスは目を見開く。
「これは……!」
「浄化はしてあります」
「シシィさんが!?」
「ええと……」
寝ぼけ眼で、シシィは額に手を当てて夜のことを思い出そうと試みた。
まず、自分がこの呪いの欠片のせいでおかしくなってしまって、ルビーブラッドに助けられて、励まされて。それで、彼に助けられながらもやっとのことで浄化出来て。
最後にニコリ、と――。
「わぁぁぁぁあああ!?」
「!?」
ルビーブラッドの微笑みまで思い出してしまい、シシィは心臓をバクバクと鳴らし、顔を赤くするハメとなってしまった。
――お、おかしい……絶対病気だ!
頬を冷やすように手で覆うシシィを見て、ルウスが呆れた表情をする。
「……何をやってるんですか。説明してくださいよ」
「す、すみません。実はその呪いのリボン、夜に家の前まで来てしまいまして。それでちょうどそこにルビーブラッドさんがいらっしゃったので、消滅作業を手伝ってもらったんです」
「ルビーブラッド……ねぇ……それで浄化出来てるんですね」
心なしか、ルウスの視線が痛かった。
仕方ないか、とシシィは冷や汗をかきながら思う。ルウスにはルビーブラッドが来ていたことを言っていない。彼にルビーブラッドとの確執がある以上は、あえてしゃべろうという勇気が出ないのである。
ルビーブラッドがルウスを犬の姿に変えた、という事実はあるのだから。
――あんまり、よく思ってないんだろうなぁ……。
それは少し、悲しいことだった。
「……まぁ、ともかく。ご無事ならよかったんです。Bさんに連絡を差し上げるべきでしょう、必死に探していたようでしたから」
「Bさんとはどこで会ったんです?」
「帰る途中に。ばったりと出会いまして、私にですら話しかけてきましたよ」
「それは……早く連絡しにいかないと」
Bも責任を持って預かっていたもの、それも呪われたものが無くなっていたのでは不安で仕方がないだろう。
――早く安心させてあげよう。
しかし、まずルウスを家にあげることが先だ。
「ルウスさん、勝手口の方へ来てください。ドア開けますから」
「はい」
シシィは窓から離れて、ドアを開けるために寝室を出ようとして。
「シシィさん」
「はい?」
ルウスに呼び止められた。
顔だけ振り向くと、ルウスは窓枠に足をかけて優しく微笑んでいた。
「――頑張りましたね」
「――――――」
目頭が、熱くなる。
シシィはすぐさま顔を背けて、それでも震える声で返した。
「――はい」
心に満ち溢れるのは悲しみでなく、『頑張った』という誇り。
シシィはその気持ちを大事にするように、胸の前で手を握りしめた。
********
「――そう」
ため息と共に、落とすようにBはつぶやいた。
安堵と後悔。
その2つを感じ取って、シシィは口を開いて――結局閉じた。
――何て言えばいいのか分からない。
おそらくBは自分の失態を責めているのだろう。少し間違えば大惨事になっていたことだ、責任を感じるなという方が無理だろう。
「謝ってすむことではないけれど……本当に申し訳ないわ……」
「そ、そんな」
「私の管理責任よ。せめて謝らせて」
ごめんなさい、と頭を下げたBにシシィは首を横に振る。
「わ、私は呪いと対面できる自信を貰ったから、大丈夫です。気にしないでください」
「……貴女は本当に優しいわね、闇色ハット。こんなところまで教えに来てくれて」
こんなところ、と言われてシシィは改めて辺りを見渡す。
ここは町の中にある、オープンカフェ。ちょうどこの店の前でBを見つけられたため、立ち話をするよりはカフェに入ることを選んだのである。
客の入りはそこそこで、多くも少なくもない。
Bは再びため息をつくと、テーブルに置かれた紅茶のカップを手に取った。
――落ち込んでる。
Bの暗い表情を見て、何とか元気づけたいと思ったシシィは必死に何か話題を、と探していると、不意に祭りの時のことを思い出した。
「あ、あのBさん?質問してもいいですか?」
「ええ」
「お祭りのとき――誰か男の人と一緒にいましたよね?」
パチリ、と一度目をまばたかせた後、Bは苦笑した。
「見た?」
「ええとー……はい。あの、一緒にいた方はどういう……?」
「夫よ」
――は?
シシィの思考が止まる。
今、彼女は何と言ったのか。
「おおおお、おお、おオットセイ?」
「夫」
「おおおおおおおおおおおっと、オット?」
「そう、夫」
「結婚なされてたのですかぁぁぁあ!!」
思わずイスから立ち上がると、Bは苦笑しながらシシィを宥めた。衝撃から我に帰って周りを見てみると、大声をあげてしまったため微妙な注目を浴びている。
シシィは慌てて、再びイスに座って顔をうつむけた。
――恥ずかしい!
しかし、それほど驚いてしまうまでにショッキングなことだったのだ。
「意外だった?」
「そそ、それはもう!お店の中で会ったこともなかったですし!」
「それはそうね。彼は今、遠いところで仕事をしてるから一緒にいられないの。ときどき思い出したように帰ってくるくらいよ」
いわゆる、単身赴任というものなのだろうか。
夫婦であるというのに、それはいささか冷たいような気もしたが、カップルの数だけ愛が違うように、その人たちにとって何がベストなのかなんて、分からない。だから、Bのところもこれで納得しているのならいいだろう。
「会えないのはさみしいけれど、仕事だから仕方がないわ。イベントのときには帰ってきてくれるし」
「はぁ……」
「そのうち、闇色ハットにも紹介してあげるわ。びっくりするほどいい男よ」
「び、美男美女夫妻……」
そんなものが存在していいのだろうか。存在を許されたとしても、周りの羨望のまなざしは消えることはないだろう。
――カッコイイ人と結婚するっていうの大変なんだ……。
ヴィトランを思い出して考えてみたが、3秒で大変だという結果に行きついた。彼にお嫁さんが来る日は来るのだろうか。
「話はまた戻るのだけれど、闇色ハット」
「え、はい?」
ぼんやりと考え事をしていたシシィは、慌ててBの顔を見つめた。彼女の表情は真剣で、どこか心配しているような、不安の混じった表情だ。
首を傾げるシシィに、Bは質問する。
「……気分、悪くないかしら?」
「え、ええ」
「落ち込んだり、とかは?」
「あ、あの?何でそんなこと聞くんですか……?」
シシィの胸にもやもやとしたものがくすぶる。
――やっぱり、私何か、病気になってしまったのかな……!
「……記憶を見てしまったのでしょう?」
「記憶?」
Bの言葉にシシィは再び首を傾げる。記憶、というのはどういうことなのか。
彼女はそんなシシィの様子を不思議がるように、軽く唇に手を触れさせながら口を開いた。
「『封印』ではなく、『消滅』を行ったのよね?」
「え、ええ」
「『消滅』を行うと――呪いをかけた本人の記憶を見てしまうはずなんだけれど」
――え?
ひゅ、と息をのみ込む。
呪いをかけた本人の記憶。今回の場合はあのリボンに呪いをかけた人物。
――その人の、記憶……?
見ていない。そんな覚えはない。
「……っまさか」
見た覚えはないが、考えられることは一つあった。
『動くな――』
呪いが消滅する瞬間、光が辺りに広がったときのルビーブラッドの言葉。
あの光の中に、女の子を見た。暗い目をした少女。
何故彼は、『動くな』と言ったのか。
何故、自分を庇うように前に立ったのか。
――あの光を浴びたら、記憶を見てしまうのだとすれば。
彼はそれを自分に見せないよう、庇ってくれたことになる。
ルビーブラッド1人に、痛みを被らせてしまった。
「闇色ハット……?」
「――わた、し」
涙がこぼれた。
「ルビー、ブラッドさんに、庇われて……!」
――最低だ。
自分が嫌になる。結局何から何まで、最初から最後までルビーブラッドに頼りっぱなしになってしまっていた。
――私の依頼だったのに、痛みを与えてしまうなんて……。
呪いと初めて対峙するから、彼は自分にはまだ記憶を見せるのは酷だと、早いと思ったのかもしれない。
それでもその記憶は、自分が見なければならないものだった。
自分が引き受け、対面した呪いだったのだから。
「ねぇ、闇色ハット。私はね、女の方が痛みに強いと思うの」
「……?」
涙をこぼすシシィに、Bはハンカチを差し出す。
「彼は、耐えられなかったんじゃないかしら」
「何、にですか……?」
「それは、自分でお考えなさい。ねぇ、闇色ハット。貴女は彼に庇われて、どう思ったの?大きなお世話だと思った?」
「そんな……っ!」
大きなお世話だとは思わない。
ただ、胸は痛かった。
――痛みを、背負わせてしまったから?
それもある、が。
「――悲しい、です」
「悲しい?」
シシィはうつむきながらコクリと頷いた。
悲しいのだ。色々と複雑に感情は胸の中で絡み合うけれど、大きくそこを占めるのは悲しいという感情。
あのとき、ルビーブラッドの優しさに気付けなかった。もしかすると、あのときだけじゃなくて、これまでにもたくさんあったのかもしれない。
そして、自分の知らないところ――彼自身の依頼の中でも。
気付かれない優しさ。
それは悲しいものだ。気付けない自分も、気付かれなかったその人も。
「優しくされたことに――気付きたかった」
「……」
「今までも、見落としてきたのかもしれなくて……それが、悲しいです……っ」
「……そう」
――それと同時に、胸にくすぶるこの想いは何だろう……?
息の詰まるような切なさと言えばいいのだろうか。それとも違うような。
「きっと、気付けるようになるわ」
ハッ、としてシシィは顔をあげた。
優しく微笑むBが、こちらを見つめている。
「また庇われたら、今度は気付いてあげればいいの。それにその行動自体は気にするほどのことでもないわ」
「え、でも……」
「おそらく、ルビーブラッド本人がそう言うはずよ。気にするなって」
「そんな」
「性なのよ。どうしようもない、ね」
苦笑するように言ってから、Bは紅茶に口をつけた。まだ湯気が立っていて、あたたかそうな、おいしそうな紅茶だ。
シシィは自分の目の前にも置かれた紅茶の表面を見つめた。
「性って……ルビーブラッドさんのですか?」
「そうね……そうとも言えるし、そうじゃないとも言える」
「?」
「とにかく、貴女が気付きたいと思うのなら、注意深く彼の行動を見ていれば分かるようになるはずよ。それか、助けがいらないほど強くなるか」
「……そうですよね」
ぼんわりと、心の中に光が差し込みはじめる。
気付けれる人になればいいのだ。そして、強くなればいい。
ルビーブラッドが、安心できるような自分になればいい。
シシィはパチン、と頬を軽く叩いた。
「私、頑張ります……!」
◇◇◇◇◇◇◇◇
――そうだ、私は逃げたのかもしれない。
本当は君から逃げたのかもしれない。
何故、と責められるのを恐れたのかもしれない。
時が戻ってくれたのなら。もう二度と、あんな真似はしないと誓えるのに。
君の言う通りにしていればよかった。
それなら私はきっと、今も君の隣にいたんだろう。
君の隣で笑って、平穏に暮らせていたんだろう。
今の私に帰る場所はない。
帰れる場所はない。
『復讐者』
――知っているよ。
『裏切り者』
――悲しいけれど、それも知っているよ。ジゼ―――。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「――っ!」
ブレックファーストは飛び起きた。
こめかみから汗が伝う。体はぐっしょりと、汗でぬれていた。
―――何という……。
久しく見ていなかった悪夢。その残像を消すように、頭を抱え込むブレックファーストの耳に、夜の木々たちが風にざわめく音が入ってくる。
泊まる宿もなく、夜空の下で野宿を余儀なくされた。寝袋もなく、木にもたれかかって焚火だけの明かりを頼りに軽く眠っていたのだが、火は小さくなりかけている。
「……まいったな」
つぶやきながら、ブレックファーストは木の枝を火に加えた。
別に、火がなくなることを恐れたのではない。
――もう、見ないと思っていたんだけれどもな。
この生活も長くなった。最初は悪夢を見ることもあったが、最近は忘れていたことだ。
何故、今になってあんな夢を見たのか。
――忘れてなど、いなかったのかもしれない。
ずっと、心の奥底に秘めていただけで、忘れてなどいなかったのだろう。
自分は復讐者で、裏切り者であることを。
「……――あと、少しだ」
報いを与えるのは、あと5人。
謝罪による、罪を認めさせる復讐を。
――終われば、どこへ行けばいいのか。
帰れるものだろうか。何もかも捨ててきた故郷へ。
あの美しい故郷は変わることなく、変わってしまった自分を受け入れてくれるのか。
『裏切り者』
「……そうだな」
いまさら、帰れなどしない。
「……けれど」
――あの空を、もう一度見たい。
真上にも夜空は広がっていたが、彼はあえて見なかった。
ただ、心の中で故郷の夜空を眺めていた。
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