――あ、私、死んじゃった……。

 呆然と、胸に刺さったナイフを見つめる。
 心臓に、深々と。

「る、びー……」

 ナイフを持つルビーブラッドの手に力が込められた。
 逆に、シシィの身体からは力が流れ出していく。立っていられなくなる。
 ――どうして。よりにもよって、ルビーブラッドさんに……。

『汝の内に潜むもの 我は其の侵害を赦さず 侵略を赦さず 内なる光を放ち闇を解け 其に眠り赦さぬ滅亡を』

 突き刺さった白いナイフが、徐々に黒く染まってゆくのが見えた。
 ――黒、に?
 ふと思えば、刃物が胸に刺さっているというのに痛みが全くない。
 ショックで痛みすらもなくなっているのかとも思ったが、どうにもそうではないらしい。
 痛み自体が――ない。

『留まりし暗黒 ここに封印せん!』

 さぁ、と開けるような。
 体の中にあった重いものが吸い出されるような感覚がして、シシィは内なる劇的な変化に目を閉じる。まぶたの裏ですら白く、肺に送り込む空気ですら白い気がした。
 何もかもが美しい。
 何もかもが穢れていない。
 目を開くとずぶり、と音を立てて引き抜かれたナイフには血の一滴もついておらず、代わりに真っ白だったナイフが、刃から柄まで全て黒くなっているが見えた。

「ない、ふが」

 シシィが震える声でやっとそう言うと、その瞬間ルビーブラッドの手の中でナイフはボロボロと崩れ去ってしまった。
 塵すら残らない。
 まるで刺されたことが嘘のように。

「……手荒な真似をして悪かった。大丈夫か」
「え?あ、はい……」

 大丈夫かと訊かれたら大丈夫に決まっていた。痛みも出血もない。
 むしろ清々しくさえあるのだから。
 呆然とルビーブラッドを見上げるシシィに、彼は安堵のため息をついて、やっとのことで拘束していた手を離した。

「いいか、パニックになるな。ゆっくり落ち着いて今までの行動を思い返せ」
「今までの、行動……」

 自由になった手を見つめながら、シシィは言われた通り今までの行動を思い出してみた。
 まず家の中にいて。急に不安になって、外に飛び出して。
 そこで、祖母を。
 ――お、ばあちゃん……を。
 そこまで考えて、シシィはぞっ(・・)とした。

「――っ!!」

 アレは祖母じゃない(・・・・・・・・・)
 井戸だ(・・・)

 祖母だと思っていたものは、井戸だ。

 ――私が、見ていたも、のは……幻……?
 もしも。
 もしも、あのままルビーブラッドが止めてもくれず、祖母だと思っていた幻に近づいて抱きしめようとしていたら、確実に井戸へ落ちていた。
 井戸へ、身投げをすることになっていたのだ。
 シシィの身体はガクガクと震える。
 井戸に身投げなどすれば、まず間違いなく助からない。ましてや今日はルウスもおらず、誰もいなかったのだ。幸運にもルビーブラッドが来てくれたから、シシィは死ななかっただけで。
 そこでハッ、としてシシィはルビーブラッドを見上げた。

「わた、し、何てことを……っ!ルビーブラッドさん、お怪我は……っ!?」
「お前は攻撃系の魔術は使わなかった」
「でも……っ、私は……!!」

 無事を、存在を確かめるように、シシィはルビーブラッドの右腕に触れた。
 おそらくあのまま戦いを続けていれば、攻撃系の魔術すらも使っただろう。
 ――何故、あんなことを。
 愕然とするシシィをなだめるように、ルビーブラッドは右腕に置かれたシシィの手にそっと触れた。

「――呪われたものに、遭遇しなかったか」

 呪われたもの。
 その単語にシシィは目を丸くしてルビーブラッドを見つめる。

「たまに、呪われたものをそばに置くと、『欠片』がこぼれ落ちて人の中へ入る。それが入るとマイナスのことばかり考えるようになり、幻を見て、自殺に追いやられる。さっきのナイフはその欠片を取り除く魔道具だ」

 ――幻を。
 まさに、今までのシシィの症状だ。
 つまり呪いにかかるというのは、これ以上の精神的圧迫を受けて、衰弱し、孤独に亡くなっていくということに他ならず。
 ――怖い。
 魔術書で、呪いのことは勉強していた。けれど、実際に体験することと本で読むだけでは全く違う。
 ――本当に、死んでしまうか、と……。
 祖母の幻を見ている間は、それでもいいと思っていた。それが恐ろしい。
 ――これが、呪い。
 そしてルビーブラッドの質問、呪われたものに接触したかと問われると、それはたった一つの答えしか思い浮かばない。
 ――青い、リボン……。
 そこでシシィはさらに思い出す。

「ルビーブラッドさん、が、使った魔導は……」

 今までは何もないように思っていた。
 ルビーブラッドは何故か、何もない闇へ魔導を使ったのだと。
 けれど、今は違う。

 魔導の光が貫いた先には、呪われた青いリボンが浮いていた(・・・・・・・・・・・・・・・)

 ――どうして……?
 あのリボンはBが持ち帰ったはずだった。それはシシィ自身が自分の目でちゃんと見ている。
 なのに。
 ここにあるはずがないものが、何故あそこにあったのか。
『私はこのリボンが逃げ出していたところをちょうど捕まえたのよ』
 それはBの言葉。
 あのリボンは、自らの意志で動くことができるのだ。
 シシィはその場でひざをガクリと折った。

「わ、わた、し」

 どんどん記憶が正しく上書きされていく。
 祖母の幻を見ている間に、祖母だと思っていたものに一歩近づくたびに息が苦しくなっていたのは、あの青いリボンに首を絞められていたからだ。
 ――そこをルビーブラッドさんに、助けてもらったのに。
 肩を震わすシシィに、ルビーブラッドが片ひざをつき気遣いながら触れようしたとき、
 ドォン!と。
 キッチンの勝手口が、内に破られそうな勢いで震えた。

「なっ……!?」
「……効果が切れたか」

 ボソリとつぶやかれた声に彼の方を見ると、ルビーブラッドはすでに立ち上がってロッドを構え、ドアを睨みつけていた。

「あの魔導は一時的にしか行動を止められない。紐……リボンか?アレにかけた魔導がおそらく切れたんだろう」
「切れ……」
「待ってろ、片付けてくる」

 外へ向かうためにひるがえされて揺れる、長い黒のコート。
 そのコートの裾を、シシィはほとんど無意識につかんで彼の行動を引き留めた。

「……どうした?」
「わ、わた、し」
「シシィ。この家はお前の祖母の魔術で悪意から守られている。あのリボンは入れない。ここが安全だ、ここにいろ」

 その言葉にシシィは首を横に振る。
 ――違うんです、ルビーブラッドさん。
 ――私が、安全な所にいるのは間違ってる……!
 手を放そうとしないシシィへ向きなおり、ルビーブラッドは再び片ひざをついてシシィとの距離を縮めた。

「どうした?」

 その質問は、重い。
 心が、潰れてしまいそうなほどに。
 ――私に来た、依頼だった、んだもの……。
 実力的に出来る依頼だった。こなせるはずだった。
 けれど、断ってしまった。
 ――怖かった、から……!
 命を脅かす呪い。初めて目の当たりにして、足がすくんで。
 やらなければと思うのに、できないとも思う。
 ――こんな私、知られたくない……。

 ――ルビーブラッドさんに、見捨てられたくない。

「私に、来た依頼なんです……だか、ら、私が」

 コートをつかむ手が震えているのを見て、ルビーブラッドは澄んだ赤い瞳でシシィを見つめる。
 そうして、低い声で彼女に言葉を投げかけた。

「恐ろしいんだろう」
「――――っ!!」

 ドッ、と心臓が揺れる。
 ――見抜かれ、た。
 弱さを。卑怯さを。汚さを。
 固まるシシィに、ルビーブラッドは意識的に声のトーンを和らげ、言う。

「呆れない。だから本音を」
「…………っ」
「待ってやる」

 ドン!と再びドアが揺れて、シシィはそちらに視線が動いたが、ルビーブラッドは決してシシィから視線を逸らさなかった。

「あのリボンの標的は、お前らしい。ここにお前がいる限りアレはどこにもいかないだろう。けれど魔術で入れない。時間はある、ゆっくり話してみろ」
「…………わ、たし」

 ルビーブラッドと目が合う。彼の瞳は揺らがない。
 ――私は、どうなんだろう。
 考えるまでもない。揺らいでいるに決まっている。外にある、呪われたリボンの存在が逃げだしたいほど恐ろしかった。
 ほかでもないその恐怖で、立つことすらできないけれど。
 ――何て情けない。
 自分でも腹立たしい。魔術師であるというのに、呆れるほどなのに。

『呆れない。だから本音を』

 ――本当ですか……?
 ――信じて、いいですか……?

「……あ、れは、本当に、私に来た依頼、で」
「ああ」
「呪われたリボンで、人を、殺し、てて。だから、それが怖くて、どうにかしなくちゃって、また犠牲者が……出ないように、何とかしなくちゃって思うのに、どうしても怖く……って……!だから、私」

 それ以上は目を合わせていられずに、シシィはルビーブラッドから目を逸らした。
 リビングのテーブルの上でこぼれた紅茶と倒れたカップが目に映る。
 ――あのとき、思ったことは、幻じゃなくて本心だった。

「依頼を、断った、んです……恐怖に、負けて逃げたんです……」

 ルビーブラッドのコートをつかんでいた手を放し、シシィはその手を胸の前でギュッと握りしめる。
 ふがいなさを、握りつぶしたい思いで。

「……最悪なんです……逃げて、しまって……。どうして、なんでしょう……いっつも……」
「……」
「勇気が……欲しいです……欲しい……!恐れないで立ち向かえる勇気が……!」

 沈黙が重く響く。
 ――ああ、言ってしまった。
 シシィは視線を床に落として考える。今回ばかりはダメだろう、と。
 どんなにルビーブラッドが優しくて寛容であっても、こんなにも情けなくて卑怯な自分はきっと、見捨てられてしまう。
 こんな、弱い自分は――。

「それが正しい」

 ハッ、とシシィが顔をあげると、ルビーブラッドは真摯な表情で彼女を見つめていた。
 その目に軽蔑は宿らず。
 嘲りも宿らず。
 ただ真摯に、まっすぐシシィを捉える。

「お前が抱く恐ろしさは尊いものだ。呪いを恐れなくなった人間は必ず呪いを使い始める(・・・・・・・・・・)。恐れていい、怖がっていい。それはお前が善良である証拠だ」
「で、も」
「ああ。お前が魔術師であるというなら闘わなければならない。避けては通れない。魔術師や魔導師は、必ず呪いと立ち向かわなければいけないからな」

 壊れやすいものに触れるように、ルビーブラッドは優しく、触れるか触れていないかシシィさえ分からない程度に彼女の頬を両手で包みこむ。

「シシィ。人は勇気では行動しない。人を立ち上がらせて、歩かせるのは、確固たる意志の力だ。勇気とはそれを『成し遂げようと思う心』のことだ」
「成し遂げようと……思う」
「その心を持つことが、どれだけ大変か分かるだろう。その心さえ持てることなく、逃げだす人間だっている。けれどお前は『なんとかしなくては』と言った。成し遂げようとしている。したいと思っている。お前は立ち向かえる勇気を、もう持っている」

 彼はそこでシシィの頬から手を外し、ゆっくりと立ち上がった。
 そして、手を差し伸べる。

「勇気はいずれ、意志となるものだ。お前の依頼だ、必ずできる」
「……必ず?」
「お前は孤独共存の呪いをたった1人で抑え込んだ、『パール』の血を継ぐ者。できないはずがない、お前は立って、ロッドを手に取り、呪いと対面できる」

 差し伸ばされた手に、シシィは震えながら手を近づける。
 ――本当に?
 自分がまだ、信じられない。呪いと対面しなければいけないのは分かっていても、それでも自分の力を信じ切れない。
 自分を疑うシシィを、ルビーブラッドの赤い瞳が貫く。

「――自分をまだ信じられなくて構わない。だが」

 ――強い、目。何においても、信じられそうな瞳が。

「シシィを信じる、俺を信じろ」

 差し伸ばされた手を、握り締めた。
 ――自分は、信じられないけれど。
 ――でも、ルビーブラッドさんなら信じられる。

 賭けてみようと思った。
 これを乗り越えられたなら、ほんの少しでも自分は、変われるのではないかと。

 シシィは震えながらも――立ち上がった。