――見捨てられたのかなぁ……。

 自分以外誰もいないリビングで、シシィは1人紅茶を飲みながらぼんやりとする。
 壁にかけられた時計の短針は7を差し、窓のカーテンの隙間から見える外は暗かった。夜独特の静けさが、辺りに満ちている。
 シシィは手持無沙汰に、ソファの上に無造作に置いていた読みかけの本を手にとって、パラパラとページをめくった。
 文章は目に入るが、頭に入ることはない。
 ――よく考えてみれば、1人の夜って初めてのような気がする……。
 思えば、この家に引っ越してきた初日にルウスと出会い、その後は寝食を共にしてきたのだ。それは、今まで1人で夜を過ごしたことがない、ということ。
 実家には必ず母がいて、ここへ泊りに来た時は祖母がいた。
 そして現在の生活では、ルウスがいる。

「……1人の夜って、さみしいんだなぁ」

 つぶやいて、シシィは思わず苦笑した。
 これでは自分の母と一緒である。アンリーヌも誰かいなければさみしい人で、コーファが出張に行ってしまうたびに、子供部屋に来て自分と一緒に眠るような人だ。
 さすがに、近年になるとそんなことはなかったが。

「……そういえば、ルウスさんの家族はどうなんだろう」

 今まで考えたことがなかったが、ルウスにも家族がいるはずだ。と言っても、彼については年齢も分かっていないので、既婚者なのかどうかさえ疑うこともできない。
 しかし、どちらにしても両親はいるはずだ。
 その辺りはどうしているのだろう、と考えて、シシィはすぐに答えを見つけた。

「……昨日のお出かけは、そういうことだったのかな」

 もしかすると、家族に事情を説明するか会いに行っていたのかもしれない。

「……私の周りって、そういう話をしない人多いし分からないけど」

 ルウスだけじゃない。
 Bもヴィトランもブレックファーストも、ルビーブラッドも。
 何一つ知らない。
 魔術に関係している人は、みんな。

「どこまで、自分のことを話しちゃいけないんだろう……」

 思えば結局、初心者用の魔術本であるはずの魔術師に関するルールブックなるものや、その類は一切見つからないでいる。
 知らないまま、ここまで来てしまった。
 ――これで、本当にいいの?

「……やめて」

 シシィは本も紅茶のカップも机の上に置いて、何もかも拒絶するように頭を抱えた。
 これから先考えることは、もう解決したものだ。
 ――私は、魔術師だけど。知らないことはこれから知っていけばいいの……!
 ――魔術師だなんて。お前は。

 ――逃げたくせに。

 ビクリ、とシシィの身体が固まる。
 ――逃げたくせに。恐怖に負けて、呪いを見過ごした。
 ――他の魔術師が処置を施すまで、どのくらいの時間がかかるか。
 ――そのあいだ所持している、Bさんの身は危険なのに。

「わた、し」

 ――お前は、自分の安全を選んだんだ。

 シシィは勢いよくソファから立ち上がった。その時の衝撃で、机の上の紅茶がこぼれてしまったが、気にする余裕もない。
 ポタポタと机の上から滴り落ちる液体を視界に入れながら、喉を押さえた。
 ぐらぐらと、頭が揺れている。

気持ち悪い(・・・・・)……」

 自分が、気持ち悪くて仕方がない。
 服の上から爪を立てて、力を込めて胸をひっかく。
 痛い、と思いながらもそれを止められなかった。
 どんどんと、暗く悲しい気持ちになっていく。呼吸もままならないほどに。
 ――助けて……。
 急に明るい場所にいることに耐えられなくなったシシィは、ふらつく足で勝手口に向かった。震える手でドアノブを掴んで開ける。
 暗闇が広がっていた。

『シシィ』

 懐かしい声に呼ばれて、シシィはさらに前方を凝視する。
 遠くでぼんやりとシシィの瞳に映るのは。

「……おばあちゃん」

 ――どうして。
 祖母はもう、この世にいないはず。
 けれど、そんなことはシシィにとってどうでもよかった。
 一歩、また一歩、家のドアから離れるように、シシィは遠くへいる祖母のもとへ向かう。家に、未練はない。
 あの家で本当に欲しかったものは、遠くにある。
 ――おばあちゃん……!
 一歩、踏み出す。
 何故か苦しくなった。
 構わずもう一歩踏み出す。
 呼吸ができなくなる。

 ――それでも、いいよ。おばあちゃんが、向こうに。


『ヴァイス!!』


 ドン、と背中を強い力で押されたような衝撃を受けて、シシィは前方へと倒れてしまった。が、そのシシィの腕を誰かが掴み、すぐさま起こす。
 夜の闇にまぎれて、間近にいるのにほとんど分からない。
 が、瞳の色だけは闇の中でも浮かび上がるようで、シシィは自分の腕を掴んでいる
 人物の名前を咳混じりにつぶやいた。

「ごほごほっ、ルビー……ブラッドさ、ん……」
「抵抗くらいしろ!何をやってる!!」
「何?何を……って、おばあちゃんに会いにいくんですよ、ホラ、あそこに」

 祖母のいる方向を指さしながら微笑むシシィを見て、それまで眉間にしわを寄せて怒っていたルビーブラッドの表情が一変する。
 愕然とした表情へと。
 そのせいか、シシィの腕を掴んでいた手の力が緩み、シシィはその手を振り払ってでも祖母のもとへ行こうと立ち上がった。

「止めろ……!」

 しかしその腕を再びルビーブラッドが取り、逆に祖母との距離を稼ごうとシシィを連れて後ずさりをする。祖母のもとへ行きたいシシィとしては、その行動は見逃せるものでも許容できるものでもない。
 彼女はらしくなく思い切り暴れたが、ルビーブラッドはシシィの腹に腕をまわし、がっちりと固定しながら後退しているためにあまり意味はなかった。

「嫌です……っ!何を……おばあちゃんがあそこにいるのに!!」
「よく見ろ!あれはお前の祖母じゃない(・・・・・・・・・・・・)!!」
「私がおばあちゃんを見間違えるはずがないですっ、あれはおばあちゃん……っ!」

 ――会ったこともないルビーブラッドさんが、分かるはずがない。

「……――くっ!」

 ルビーブラッドはシシィを捕まえたまま、いきなり地面へと伏せる。当然シシィも地面へ伏せることとなり、思い切り体の前面を強く打った。
 いたた、と額を押さえるシシィを気にしながらも、彼はその体勢のままで、長いロッドを夜の闇へと向ける。

『ヴァイス 静謐(せいひつ)寵愛(ちょうあい)する雪白の(さぎ)よ 純良(じゅんりょう)な獣と心神(しんしん)の方正 我は汝を渇望せし佳良なる芳香の果実 加護と太平 我の(かて)とする』

 帯状の白い光が、闇を貫いたように見えた。
 ぽかん、とするシシィを再び抱え起こして、ルビーブラッドは無理やり彼女と家の中へ逃げ込み、扉を閉める。
 すぐさまロッドの先をドアに触れさせて、ルビーブラッドは呪文をつぶやいた。

『其に触れる者全て拒め 其に無理を働く者全て阻め 汝は頑強なる鍵の権利者 その責務我が責を解くまで グラーディ・ローナス!』

 ガチャン、と錠が落ちたような音。
 シシィは慌てて服の中からアンティークキーを取り出す。鍵は確かにここにあるのに錠が落ちたような音がしたということと、ルビーブラッドの呪文。
 その呪文には聞き覚えがあった。

「『錠かけの呪文』……」

 魔術師は何かを媒介して魔法を発動する。
 例えば物質。
 例えば魔法陣。
 しかし緊急用にいくつか、『言葉』と『ロッド』そのものを媒介として発動する魔術もある。それはほとんど魔導に近くなるため疲れるらしいが、先ほどの『錠かけの呪文』がその例だ。
 ――け、ど。
 今、鍵をかけられては祖母に会いに行けない。
 魔術を発動し終えたルビーブラッドが、ゆっくりとこちらを振り向くのをシシィは半ば呆然としながら眺めていた。

「シシィ」
「ルビーブラッドさん、私、外へ行きたいです」
「……祖母に会いにか?」
「はい。ホラ、おばあちゃんが呼んでるじゃないですか」

 耳に手を添えて、シシィは外の音を聞く。
 祖母が優しく呼んでいる声だ。早く行かなくてはいけない。
 ――会いに、いきたい。
 そんなシシィに顔をしかめながら、ルビーブラッドは扉を背に、首を横に振る。

「……シシィ、お前の祖母はもうこの世にいない」
「いるんですよ、いま、外にいるんです」
「シシィ!正気になれ!!」

 ――私は、正気なのに。
 ――みんな、私がおかしいみたいに。
 ――みんなどうして、言ってくれないの。

 ――どうして、除け者にするの……?

『シシィ。おいで――』

 ――おばあちゃんだけが、わたしのみかたであってくれる。

「……ロッド」

 呼べば、オレンジの丸い石がついたロッドは、すぐに飛んできた。右手でしっかりとそれをキャッチし、シシィはルビーブラッドに向かってロッドを構える。

「何を――」
『我は全てを(ほど)く者 汝の責を』
「―――っ『認容せぬ 摧破(さいは)せよ』!」

 オレンジの魔力と赤黒い魔力は互いにぶつかり、相殺する。
 相殺した故に、ルビーブラッドの勝利だった。シシィの魔術は錠を解こうとする、解除
の呪文。対してルビーブラッドの呪文は魔術破壊。
 2人はロッドを向けあったまま、睨みあう。

「……どうして、邪魔するんですか」
「お前が正気でないからだ」
「私、外へ行きます」
「……手荒になるが、許せ」

 ロッドが光ったのは、ルビーブラッドの方が早かった。

『汝の糸は我が戒め 操りの偽り人とする 縛れローフリア!』

 瞬間、シシィは細い糸が幾重にも重なり、自分の身体を捕縛していくのが分かった。
 それを黙って見過ごせるはずがない。
 シシィはロッドにいつも以上の魔力をこめながら、呪文を放つ。

『認容せぬ 摧破せよ!!』

 パン!と、糸が弾けたことに目を丸くしたのはシシィではなく、ルビーブラッド。
 驚く彼の内心を知ってか知らずか、シシィはさらにたたみかけるようにロッドの石をオレンジに染め、魔術を発動する。

彷徨(さまよ)う日輪の断片よ 我は汝の輝きを取り戻さん』
「くっ………『シュヴァルツ』!」
『目覚めよシャラーキリル!』

 シシィのロッドから強い光が生まれ、ルビーブラッドのロッドからは闇が生まれる。
 その黒い闇はルビーブラッドの前面へ出ると、楯のような形を変わって、シシィが放った強い光を遮った。
 実態のない黒い楯の後ろで、ルビーブラッドは素早くロッドに魔力を込める。

『汝の糸は我が戒め 操りの』
『我は全てを(ほど)く者』
「解除呪文……っ」

 呪文に気づいたルビーブラッドは呪文詠唱を途中で放棄し、改めて魔術破壊の呪文を早口に唱えた。シシィの呪文は言い切るまでにキャンセルされて、オレンジ色の魔力は力を失っていく。
 その様子を見ながら、シシィは自分の身体が変に重いことを感じていた。
 息は切れて、鼓動は激しく脈打ち、汗がにじみ出る。
 ――くらくら、する。
 ――関係ない。今は外に出ることだけを考えていればいい。
 カタカタと、ロッドを持つ手が震えているのを見て、ルビーブラッドは険しい表情をしながら首を横に振る。

「諦めろ。無理な魔力の使いすぎだ」
「おばあちゃんの、ところ……」
「それ以上むやみやたらに使うと、体が悲鳴を上げる」

 ――どうだっていい。

「そこを――退いてくださいっ!!」

 鈍くオレンジ色に光りはじめたロッドの先を見て、ルビーブラッドは改めて自分の長いロッドをシシィに向けると、
 そこに魔力を込めなかった。

「――え?」

 硬いものがぶつかったような音が響く。
 それはルビーブラッドがロッドでロッドを払った音だった。
 シシィの短いロッドは手からこぼれ、床の上に落ちて、すべるように離れていく。

「ロッドが……っ!」
「シシィ!!」

 ロッドを拾おうとして伸ばした手をルビーブラッドに取られ、たやすく両手は彼の片手のみで封じられてしまった。
 ――力が、入らない。
 体がだるく、いつも以上に体に力が入らないため、抵抗という抵抗もできなかったが、それでもルビーブラッドの手から逃れようと、シシィは必死にもがく。

「離してください!早く会いに行かないと、おばあちゃんが」
「目を覚ませ!お前の祖母はいない、自分自身が言っただろう!!」
「でも、生きてたもの!!」

 腕を掴まれたまま、シシィは顔をうつむける。
 視界はにじんで、何がこの目に映っているのかは分からなかった。

「おばあちゃんが、笑って、呼んでくれてたもの……っ!」
「……それは」
行かなくちゃ、一生言えないことがまたできてしまう(・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・)!」
「……それでも、それは幻だ。お前の祖母じゃない、穢されたもの」
「幻じゃない……私には見えたもの……おかしくなんかない……っ」
「……」

 肩を震わすシシィを見つめながら、ルビーブラッドはウエストポーチに手を伸ばした。

「…………れなら、それでもいい……」
「何?」
「幻なら、それでもいい……会いたい、おばあちゃんに」

 重力に伴い、シシィの目から一粒光るものが落ちる。
 それと共に、床に落とすようにつぶやかれた声は弱々しかった。


「――おばあちゃんのところへ、いきたい」


 パサリ、と何かが床に落ちたような音を聞いた。
 見るとそれは、革製のカバーのようなもので。
 ――何のカバー……?
 三日月のような奇妙な形は、とあるものを連想させる。
 シシィはゆっくりと顔をあげた。

「――シシィ」

 ルビーブラッドの左手には、

「許せ」

 白いナイフが握られていて。

 そのナイフが自分の胸に突き刺さったのを、シシィは呆然とした瞳で見ていた。