「はっ!と、とりあえず母を追いかけなければ……っ!」
「ああ」
シシィの言葉に、おぞましい光景を目の当たりにして正常な思考を少し失っていたルビーブラッドは正気を取り戻し、ウエストポーチから試験管に入った解除薬を取り出した。それを持ったまま地面に片ヒザをつき、犬の姿のシシィの口に解除薬を流し込む。
――あったかい。
そんな感想を持ったときには既に、シシィの視線の高さは見慣れているいつもの視線の高さに戻っていた。
ロッドを消すルビーブラッドを見ながら、シシィは胸をなでおろす。
「こ、この薬、発動前に何もモーションがないのが奇妙です……」
「本来は隠密、変装用の魔術だからな。派手なのは本末転倒だ」
「な、なるほど」
と納得しながら自分の手袋を付けた腕と、ピンク色のドレスがひらひらする下半身を見て、シシィはあることに気付き密かにへこんだ。
――ああっ、家に帰ったんだから着替えてくればよかった……!
もう町全体が大騒ぎになっているのだから、自分の衣装に目をくれる人など誰もいないだろう。ならばいっそ、普段着に着替えて街に出てきてもよかったのに、と考えて、すぐにそれは無理か、と考え直す。
ルビーブラッドが調合している中で、そそくさと着替えに行けるはずもない。
後悔するのはそこまでにして、シシィはヘコみつつも今まで荷物を持っていてもらったルビーブラッドから受け取り、肩にかけた。
「……思わぬ時間をとった。まだいるといいが……」
「そうですね……」
ふんふん、とシシィは辺りの匂いを嗅いでみたが、ルビーブラッドから与えられた錠剤の魔術薬で普段よりは鼻が利くものの、やはり犬になっていた時とは比べようにならない。寝転がっているヴィトランは、可哀そうだと思いつつも緊急事態なので壁に寄り掛からせておくだけにとどめ、まだこの辺りにアンリーヌがいることを願いなが
ら、2人は路地裏から大通りに出る。
しかし一歩踏み出せば、人に当たるほどの多さ。
少しは町の中心部から離れたと思っていたが、ここも人が多く、油断していれば瞬く間にルビーブラッドとはぐれてしまいそうだ、と気づいたシシィは同じの過ちをしないべく、前を行くルビーブラッドのヒジあたりのコートをしっかと握った。
「……」
何故か一瞬固まられた気配を感じ、シシィは具合でも悪くなったのだろうかと彼の顔を覗こうとしたが、そのときには既に彼は動き出したため、進行上の理由で止まっただけかと勝手に自己解決することにする。
体の大きなルビーブラッドが先行してくれているおかげで、あまり人に当たらずに済んだシシィはその分母の姿を探すことに専念し、何も見落とさまいと周辺を注視して首を右往左往させた。
――上から見た感じだと、この辺にいたのに。
いくらヴィトランと会って時間が経過してしまったとはいえ、それもそんなに長くない出来事だったし、自分にはルビーブラッドという先行してくれる人がいるので歩きやすくあるが、体の小さな母には歩きにくく、そう遠くまで入っていないはずだ。
――どこに……。
「……シシィ、髪の色は親譲りか」
「え?あ、はい、母と同じ色で……」
「なら、あれはそうか?」
あれ、とルビーブラッドが指さす先には、体の小さな、長くて巻いているがシシィと同じ髪色の女性。
「お、お、お母さん!!」
愛しい娘の声ならつぶやきだって聞き逃さない、と幼い頃シシィに言っていたとおり彼女はシシィの声を感じ取り、辺りを急にキョロキョロ見渡して――その視界にシシィを入れた。
「まぁ、シシィちゃん!」
人ごみに流されそうになるのを、ルビーブラッドに先導してもらうことで何とか防げたシシィは、彼とともに母のもとへ駆け寄ってようやく目的の人物と会えたことによる安堵で胸を満たした。
しかし、すぐに安心に浸っている暇はないと思い直し、母の肩をつかみ、目的の香水のありかを聞き出す。
「お母さんっ!私にかけた香水、持ってる!?」
「え、持ってる……けれど、シシィちゃん、後ろの方はどなた?」
「う、こ、この人は……」
痛いところをつかれて、シシィは背後にいるルビーブラッドの方を振り返る。間違っても彼のことを「知り合いの魔導師さんです」などと、何も知らない母に言えるはずもなく、どうして結婚するときに事情を話しておかなかったのかと一瞬父を恨んだ。
――な、何て紹介すればいいのやら。
固まったシシィを見て、首をかしげる母だったが、そのうち「ああっ」と声をあげたかと思うと、ニコニコとご機嫌そうに微笑みはじめた。
「いいわっ、すべて言われなくてもお母さん分かってるもの!それより、香水が欲しいのね、はい、これよ!」
「う、うん……?」
今度はシシィが首をかしげながらも、まぁ貰えるならいいかと、香水を受け取る。
「お母さん、ありがとう…っていうか、お父さんは?」
「お父さんねぇ、シシィちゃんを見送った後いきなり倒れちゃって、まだ宿のベッドで
眠ってるわ。起きたら何かお祭りのものを食べさせてあげなくちゃって思って歩いてたところなの」
――倒れた?
もしかすると、それで父の魔力を感じることができなかったのかもしれないが、どちらにしろ自分の魔力探査範囲外だったのかもしれない。やはり限界を知っておく必要はありそうだ。
密かに頷いて、シシィは背後にいたルビーブラッドの方へ再び振り返った。
「ルビ、じゃない、あの、とりあえず早くまじゅ……じゃないっどうにかしましょう!」
「ああ」
「それじゃ、お母さんっ!お祭り楽しんでね!」
早くこの町の状態を何とかしなければという思いから、母との会話もそこそこに、シシィはアンリーヌに会釈するルビーブラッドの背を押しながらその場を後にした。アンリーヌはそんなシシィの姿を見て、あらまぁ、とにっこり微笑み。
「そのうち家にいらっしゃいな!お母さん、自慢のお料理で2人を迎えてあげるわ!何て言ったって……シシィちゃんの未来の旦那様だもの!!」
そのすさまじいほどまでの勘違いした叫びは、雑踏にまぎれて残念ながらシシィの耳には届かなかった。
********
「……!?」
「どうした」
「い、いえ……何か、今、悪寒が……?」
背筋を奔った悪寒をごまかすように、二の腕をさすった後、シシィは隣を歩くルビーブラッドに、雑踏に負けないよう大きな声で質問する。
「こ、これからどうすればいいですか!?」
「そうだな、どこか……」
と、何か言いかけたところで、ルビーブラッドはシシィを正視したまま止まった。あまりに突然のことにシシィも驚き、慌てて離れないように彼のコートの裾をつかむ。
――な、何……?
もしかして、何かまずい事態が発生したのだろうか、と思い心もち身を固くして彼が話し出すのを待っていると、ルビーブラッドは自分の首筋を手で覆い頭を垂れた後、再び顔をあげて、脇道を視線で示した。
「……入る」
――ここじゃ、話しにくいことなのかな…。
不思議に思いながらも言われた通り脇にあった路地に入ると、シシィは改めてこの後どうすればいいのかをルビーブラッドに問う。
「ど、どうしましょう」
「香水を」
渡してくれ、と言われてるんだろうなぁ、とシシィは彼の短い言葉から察し、持っていた香水をルビーブラッドに手渡した。香水のビンらしく、少し装飾が凝ったかわいらしいビン。ルビーブラッドが持っている姿は、失礼ながらなんとも言えない光景だったがシシィは必死に苦笑いを堪えた。
一方そのルビーブラッドは、香水のビンをじっと見つめ。
「……町の中心に、高い建物はないか」
「へ……?」
高いところ、というのならばシシィの家も小高い丘の上にあるので十分高さはあるのだが、あの丘は微妙に町の中心からずれている。なので、町の中心で、高い建物となると。
「……時計、台、でしょうか」
「ここに来るまでに、見たところだな」
「ええ……そうですけど……」
――なんで、高いところを?
疑問符を浮かべるシシィに、ルビーブラッドは香水を指差しながら説明する。
「町中がこれにかかっているから、対象者全員にいちいち吹きかけて回ると時間がかかるだろう。なので高所から一気に町全体に吹きかける」
「なるほど!」
ぽん、と手を打って、シシィは頷きながら納得した。確かに、町中がパニックになっているということは、それだけこの香水にかかってしまったという人が多いということで、一人一人対象者を確認していくには時間がかかりすぎる。多少大雑把かもしれないが、ルビーブラッドの言う方法が一番いいだろう。
なら急いで時計台へ行かなければ、とシシィが踵を返して歩きだそうとすると、ルビーブラッドはそれを引き止めた。
「待て」
「え?でも、あの、早く行かなくちゃ」
「…………」
側頭部に手を当て目を閉じて悩んだあと、ルビーブラッドは再びロッドを召喚し、シシィの手を取って自分のコートの裾をつかませる。
「……はい?」
『イオス』
何を、と疑問に思う間もなく、高い所から一気に落ちるような、なんとも気色の悪い感覚を一瞬味わった後、シシィが辺りを見るとそこは時計台のある場所の近くの路地で、斜め向かいに時計台が見えた。
王都のような、そう高くて豪華なものではなく、質素で他の建物より高いかな、という程度の時計台だが、時刻を告げるという役割はきちんと果たしている。現在時刻は午後4時。
――もう、そんなに時間が経っちゃってたんだ……。
呆然と、祭りが終わっちゃうと思っているシシィの横で、ルビーブラッドが路地から大通りに出る。
「妥協はここまでだ」
「え?え、妥協?」
「そこらに座って待っていろ」
シシィは困惑しながらルビーブラッドを呼んでみたが、彼は我関せず、といったふうに大通りに歩を進め、あっというまに人ごみの中に姿を消してしまった。
――座って待ってる、なんて、できないよ……!
シシィは突然起こったことに困惑しながらも、一歩大通りへ足を進めたが。
――痛い……!
かかと部分に痛みを感じて見てみると、どうやら履きなれないヒールで走り回ったのがいけなかったらしく、血がダラダラと出て、皮がはげていた。いつから傷になっていたのかは、今まで気にする余裕がなかったので分からないが、見るだけで痛い。
自覚すると、こういうものは痛みの鋭さが増すのだ。
――いや、頑張れば!頑張れば歩ける、痛くない!
ズキズキと痛む足に喝を入れて、シシィが歩きだそうとした瞬間。
上空から、ポン!と蒸気が一気に抜けるような音を聞いた。
「ルビーブラッドさん!?」
シシィが空を見上げると、それを狙ったかのように、いきなりの突風がシシィや周りの人々――町を襲う。
――これは、ルビーブラッドさんの、魔導……?
自然の風ではないだろう。町の真ん中から突如、風の塊ができて流れ出した、というような印象を受けた。あの突風は、絶対にルビーブラッドが創り出した解除薬を含んだ風だ。
――体、重い感じがなくなった……?
特に今まで、体を重く感じたわけではないのだが、ルビーブラッドが起こした風が吹き抜けた後、体が軽くなった。香水の影響は、やはり受けていたらしい。
――でも、私が解けたってことは、他も。
「……すごいなぁ、ルビーブラッドさんは……」
やることなすこと、すべて迅速で正確。魔術の腕は今日初めて見たが、材料を量る速さは、目分量で量る自分に勝るとも劣らないくらいだ。
すごい、と思う。
憧れも、ある。
――私もあんな魔術師になれたら。
「――アレモア?」
ぼんやりとしていたシシィがどこかで聞いた声、と思う前に、彼女は条件反射で声がした方へ顔を向けて。
凍りついた。
シシィから50メートルほど離れた先、シシィと同じ年頃くらいの少年3人が彼女の方を見ていた。そのうち真ん中に立っている鋭い目つきの、海のように青い髪をした少年は、以前、町の中で会った同級生の少年だ。
――うう、うわ!
一度会った眼を思い切り逸らし、シシィは痛む足で慌ててその場から離れようと建物の壁に手をつきながら、少年がいる方向とは逆へ逃げ始める。
――痛い、けど足が勝手に逃げちゃう、……でも、ルビーブラッドさんが。
ここから離れては、ルビーブラッドと落ち合うことができない、と一瞬足が止まりかけたが、すぐに時計台へ迎えに行けばいいのだと思いなおし、そのまま時計台へと歩き出す。もともと歩き出した方角は合っていたため、方向転換する必要もなかった。
足が痛みながらも、奇妙な歩き方で時計台に向かうシシィだったが、背後から腕を取られ無理やり方向転換をさせられる。
「アレモア!無視すんじゃねぇよ!!」
「ご、ご、ごご、ごめん……、き、きづか、なかっ……」
「ぼそぼそしゃべんじゃねぇ、聞こえねぇだろ!」
――もう、ヤダ……帰りたい。
涙目で、シシィは少年の顔を見ないようにうつむいた。同じ学校に通っていたころから、彼はよく自分に何かと絡んできて怒鳴り、最後は必ず泣かされるため苦手な人だった。
それに、ピンクが似合わない、と面と向かって言い放ったのも彼。
――最悪だ、何で、今日に限って。今年に限って。
今、着てるドレスは似合わないと言われたピンク色のドレス。
からかわれて泣かされるのは、火を見るより明らかだ。
「わ、わた、し、もう、かえ、るから」
「は?」
「え、っと……」
――怖い。
シシィにとって、彼は恐怖の対象でしかなかった。もともと怒鳴り声そのものが苦手なのに、その対象が自分であるのだから余計に怯える。学校にいたころは、同級生の女の子たちが見かねて助けに入ってくれていたが、今日は一人。自分で何とかしなければならない。
けれど、彼に対しての抵抗心はすでに粉々になるほど折られていた。
「お前さぁ……またそんなドレス着たんだな」
――似合わないのなんて、分かってるのに。
つかまれたままの腕も、彼の力が強すぎて痛くて、怖くて、シシィは思わず涙を地面に一粒落とした。
瞬間、夜が訪れる。
「悪いが」
――オレンジの香り、が。
目の前が暗くなったのは夜になったからではなく、黒い布地――コートをかぶせられたからだとシシィが気付いたときには、すでに足は地についておらず、浮遊感。
「こいつは怪我人だ。手当てするのに連れていく」
――ルビーブラッド、さん……だ……。
左半身に暖かさを感じながらも、顔にかかっているコートをのけて辺りを見渡す、前にシシィは自分の格好がどういうものであるかをマジマジと見る羽目になった。
長いルビーブラッドのコートが体を包み込んでいて、それで抱えあげられている。
俗名、お姫様だっこ、と呼ばれる抱えられ方で。
――ああああああ!おおお、お重いのにっ絶対私重いのに!
ある意味少女らしい感想を思い浮かべつつ、シシィが目をぐるぐると回しているうちにルビーブラッドは踵を返し、その場から立ち去ろうとする。
が、ルビーブラッドが現れてからシシィを抱きかかえるまでの一連の動作を茫然と見ていた少年は、正気を取り戻し果敢にもルビーブラッドに噛みついた。
「お、おい!そいつはまだ俺と……」
「怪我をしている人間に、無理をさせる気か」
「な……っどこも、怪我なんてしてねぇじゃねぇか!」
「酷い靴ずれだ。歩き方で怪我しているのが分かるだろう」
「う……」
「――行っても、いいな」
絶対零度、『目つきが悪い』を通り越して『極悪』と言って過言でない表情で睨まれた少年は、極寒の地に捨て去られたもののように凍りつき、そのままルビーブラッドとシシィの姿が見えなくなるのを見送った。
その姿を後方から、彼の友人たちが苦笑しながら見守る。
「あーあ、だから優しく接しろって言ったのに」
「無理だって。アイツのアレモアに対する初恋は、ピンクのドレスかわいいのについ似合わないって言っちまった事件で終わってたんだし」
と、そこで少年ががっくりヒザを折った。
「「かわいそうだけど、先を越されてたみたいだしなぁ……彼氏ポジション」」
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