――うわ、すごい……!
 シシィは何一つ見逃さないよう、ルビーブラッドの魔術薬を調合する手を注意深く見ていたのだが彼の手は素早く正確に、材料の重さを量り、調合を進めていく。
 ほとんど1発でグラムをピタリと当て、修正するとしてもわずか0・5グラムや1グラム程度。材料を量ったその手でよどみなく調合し、すべての行動に無駄がないのだ。
 ――魔術専門の私なんかより、調合し慣れてる……。
 魔術師や魔法使いが魔法のスペシャリストと言うならば、魔導師は魔法におけるゼネラリストだ。ルウスが始めに言っていた『エリート』という言葉がいまさらになってよく分かる。
 ――だって、日常生活で魔術に携わる時間なら私の方が上のはずなのに。
 日々、戦闘があったりするルビーブラッドは、のんびりと魔術を使える時間がないため、絶対的に魔導を使う。精霊の多い場所でなら魔法も使うだろうが、魔法は精霊によって力が左右されるところがあると本では記述していたので、それならば安定のある魔導を使うだろう。実際彼がよく使うのも魔導だ。
 魔術で何かを調合している姿を見たのは、これが初めてだ。
 ――や、そもそも、会ってる回数も少ないんだけど。

「これで調合は完了だ」
「ひゃい!?」

 ふと見ると、ビーカーの中には、紫色のなんとも怪しい液体が出来上がっていた。
 ――うっ!
 シシィはその色を見てほんの少しだけ、一瞬だけ、犬になると言ってしまった自分を後悔した。常々思っていたが、治療できるといっても本当に怪しげな液体を飲んだり、体内に入れたりする依頼人の人たちは、偉いと思う。
 そんなふうに思っているシシィには全く気付かず、ルビーブラッドは紫色の液体が入ったビーカーを机から少し離れた床の上に置くと、壁に立てかけておいた長いロッドを手に持ち、トン、と床を叩く。

『我は有為(うい)門扉(もんぴ)を創る者 全てはここから始まりここに終わる』

 カッ、とルビーブラッドのロッドについている丸い石が、シシィとは違って赤黒く光を帯び始める。魔術は傍から見るとこんな感じなんだ、と驚きを覚えながらシシィは邪魔になってはいけない、と声を出さないように手で口を覆う。

荊棘(けいきょく)分かつ一閃有り 傍に造詣(ぞうけい)流れて思惟(しい)(きら)めく道と成り 安定の二重(ふたえ)星は荊棘(けいきょく)封ずる(いしずえ)と成る 荊棘(けいきょく)を泳ぐ自由と不自由よ 五つの極微の安定 三つの重なる星 幾千万の動かぬ造詣(ぞうけい) 歪曲の声は祖に還り雫とともに(めぐ)れ 其は囲いしモノ 囲え魔と力 其は導くモノ 導け魔と力』

 ――何て複雑な陣……!
 おそらく、この魔術は上級だろう。シシィには全くもって理解できないことがたくさんあり、なおかつ陣もシシィが勉強してきたものなど比べ物にならないくらい複雑である。基本的に陣は円と四角と三角で表わされるが、この陣はツタのような絵や、文字も描かれていた。
 ルビーブラッドの持つロッドと、描かれた陣がさらに赤黒い光を放つ。

『グランデルタ・ベリアロ・コンテーモヌ 偽れ器』

 最後の呪文で、陣はひと際輝いて液の入ったビーカーを包み込み。
 ――紫だった液体が、透明に……!
 光が収まったときにはビーカーの中の液体は色を変えていて、水の中に金を入れて朝日に透かしたようにきらきらと輝いていた。
 ルビーブラッドはその不思議な液体が入ったビーカーを拾い上げると、シシィに渡すのかと思いきや、そのままスタスタ歩いて階段を下りようとした。それを見てシシィが慌てて止める。

「ど、どこにお行きなるのですかっ!?」
「解除薬を作るから、外へ」
「え、あの、ここでも……」
「調合している暇がない。裏技を使う」

 ――裏技?
 首を傾げている間に、ルビーブラッドがさっさと階段を下りて部屋を出てしまったため、シシィも分からないながらに彼の後を追って部屋を出て、秋の風吹く外へ行く。
 キッチンの勝手口から出たところ、少し離れたところで彼は自分が持っていたらしい器に半分ほどビーカーの中の液体を入れると、自分の器に入れたほうの液体を自分の前に置き、もともとのビーカーに入った液体はシシィを呼んで彼女に持たせた。

「背後にいろ」
「は、はぁ……」

 前に置いたビーカーから離れるように、ルビーブラッドはじりじりと後退していき、その背後にいるシシィも一緒に後退する。
 ――な、なな何故か、嫌な予感が……。
 その予感は、ばっちり当たった。

『ηζβθστψαψγμοε』
「……はい?」
「――飛ばされるなよ」

 その瞬間、前方からの狂風がシシィとルビーブラッドを襲う。

「うわぁぁぁぁぁああああ!?」

 ルビーブラッドの後ろにいるというのに、耳にはゴウゴウと鼓膜を破りそうなほどの大音量で風の音が聞こえて、息をするもいっぱいいっぱい、目も開けていられない。
 ――後ろにいてこれなのに、ルビーブラッドさんは……!
 反射的に閉じようとするまぶたを叱咤し、ほんのわずか、薄くだがシシィは目を開いてルビーブラッドの後ろ頭を見つめるが、シシィのいるところからは彼の表情が見えなかった。

「だ、だだだっ大丈夫なんですかぁぁぁルビーブラッドさぁぁぁん!!」

 ゴウゴウと唸る風の音がシシィの声を邪魔して、言った本人にも聞こえないし、もちろんルビーブラッドも何か言われたことに気付かない。
 ――も、もう訳が分からないよ……!
 シシィが半泣きになったころ、やっと風がやみ、辺りは再び町の喧騒とは関係ない静けさを取り戻した。

「な、なななな、なに、なに、何がっ」

あわあわと、混乱するシシィをちらりと視界に入れて、ルビーブラッドは地面に置いた
ビーカーに歩み寄る。ビーカーの中は透明ではなく黄色になっていて、ルビーブラッ
ドはそれを確認してから拾い上げた。

「……少々強引に、魔術薬から解除薬を作った」
「どど、どうどうどう、どうやっ」
「……紙の束と鉛筆3本」
「は」
「理論を説明するとそれくらいいる。聞くか?」
「遠慮します」

 そうだろう、とうなずく彼を見て、シシィもコクコクとうなずく。
 うなずきながら――密かに残念に思った。
 実は解除薬を作ると聞かされた時、それをどうにかもう一つ作ってもらってルウスの分を確保できないかと悩んだのだが、この作り方で頼むにはリスクが高い。さらに普通に解除薬を作ってもらうにしても必ず理由を聞かれるだろう。
解除薬だけを、望む理由を。
 ――それは、言えないし……。
 ならば魔術薬とセットで頼み、そのうち解除薬だけをルウスに与えるのはどうかとも考えたが、それにしたって理由は聞かれる。何に使い、目的は何なのか。それを把握してからじゃなければ作るのは危ういほどに、魔術薬というものの効果は恐ろしく絶大なのだ。
 ――結局、私が作るしかないのか……。
 悩むシシィをおいて、ルビーブラッドはさっさと解除薬を小さな試験管に移し、コルクで栓をして、シシィの持っていた魔術薬を再びその手に持った。

「ドレミファソ、の次」
「ラ?ごぼっ!」

 ルビーブラッドのいきなりの意味不明な問いかけに、シシィが律義にも相手の顔を見返し、ラ、と口をあけて答えたところその口を狙って彼は持っていたビーカーの中の魔術薬を流し込んだ。

「ごほっ!の、の、飲みこんじゃっ、ま、まだ心の準備が!」
「そう言って、10分は動かなさそうだったからな」
「ああ!エスパー!!」

 ――けど、もう少し心の準備くらいくれても!
 そんなシシィの悲痛な心の叫びなどお構いなしに、彼女の体は魔術薬によって変化を表し始めた。全身がぼんやりとした黒い光に包まれて、額にあたたかなものを感じる。さらに、どんどん視界の高さが――低く。
 ――る、るる、ルビーブラッドさんが怪獣みたい!
 いくら犬になったと言っても、それほどまで彼が大きく見えるはずがない、とシシィは首をフルフルと横に振ったが、不意に気がついた。
 視線と、地面が異様に近い。

「……お前……」
「る、ルビーブラッドさん!どうですかっ、私どんな犬になってます!?」

 ルビーブラッドの反応を見るからに、犬になるのは成功したようで、シシィとしては自分がどんな犬になっているのかが気になるところだ。自分の予想はテリア系統の中型犬くらいかと予想していたのだが。
 ルビーブラッドは犬となったシシィを抱き上げて、自分の目の高さと合わせると何とも複雑そうな表情で答えを言った。

「……よりにもよって、チワワか」

 ――ちわわ。

「……まさか、小型犬とは」
「……あき、らかに、人ごみの町の中が歩きにくい、ですよ、ね」

 予想外である。
 なまじ、シシィはルウスという前例を見ていたので、てっきり大型犬や中型犬などに大きさを設定できるのかと思っていたのだが、どうやらどんな犬種になるかは指定できないようだ。
 ルビーブラッドは犬の姿になったシシィを胸に抱いたまま、彼女が姿を変える過程で落としてしまったバッグを拾い、手に持ったところで。

「血を吸う、飛ぶ虫は」
「蚊?もぐぐ!」

 シシィに、錠剤を飲ませた。

「な、なな」
「嗅覚が倍ほど良くなる魔術薬だ。人なら高が知れているが、犬は別だろう」
「……はぁ、そういえば」

 犬の姿になってから確かに嗅覚は良くなったと思ったが、さきほどの錠剤を飲み込んだことでさらに嗅覚の効きがいい。
 ――ん?
 鼻をヒクヒクと動かして、よく匂いを嗅いでみると、覚えのある匂いを嗅いだ。

「ルビーブラッドさん、母の匂いがします!」
「どの方向だ」
「あっち……ですけど、人ごみの中からだと、いろんな匂いと混じって分からなくなるかもしれないです……現に、もう既に香水の香りが」
「……そうだな」

 ルビーブラッドは手に持っていたロッドを掲げると、魔力をこめはじめた。

「せめて、屋根の上からなら匂いも和らぐだろう」





********





 町の中の建物の屋根に魔導によって移動したシシィとルビーブラッドは、そこからアンリーヌの姿を探した。

「どうだ」
「んんー……いろんな匂いが混じって分かりにくいんですけれど、母の匂いが薄い感じが……ここを通って移動した、という感じですね」
「そうか」
「……にしても、すごい状況になってますね……」

 と、ルビーブラッドの腕の中から言うシシィの眼下では、彼女の言うとおりすごい状況になっていた。
 相変わらず異性を追いかけまわす集団があるのは、置いておき。
 ――お、大勢の人が、地面に向かって愛の告白を!

「……液をこぼしたらしいな」
「……おかーさーん……」

 異性に向かって愛を告白するならまだしも、地面に向かって告白をするのは哀れすぎる。早くこの状況を何とかしなければ、責任の重さに自分の胃も潰れそうな思いなシシィは改めてこの状況を治すと固く決意した。

「どの方向に行ったか、分かるか」
「えっと……」

 ルビーブラッドに抱えられた状態のまま、シシィは首をのばして必死に鼻を動かし匂いを嗅ぐ。人どころか、普通の犬よりも嗅覚が良くなっているので、嗅ぎ分けは簡単なのだが、何せ匂いを強く感じすぎてしまうため、その分少しキツイ部分もある。
 それでもわずかに母の匂いを嗅いだとき、シシィは目を開けてその方向を見た。
 すると、その方向には。
 ――B、さん?
 眼下に広がる人ごみの中、そこにはBの姿があったが、彼女の姿はいつも見慣れた姿とは大きく違っていた。
 ――大人の、姿だ。
 本来の、大人の姿に戻っていたのだ。あの愛らしさは美しさへと成長し、大人の色香漂う美しい女性。そしてその横には、男性の姿があった。
 男性の方は後ろ姿なので分からないが、Bの方は深刻な顔をして騒ぎを観察している。彼女にはこの騒ぎが魔法関係のものだと分かっているのだろう。

「――分かったか」
「あ、え、は、はい!あっちです!」

 ――ああ、一緒にいる男の人、誰なんだろう……。
 気になるところであるが、あいにく聞きに行ける暇がない。ルビーブラッドがシシィから方向を聞いた途端、空間転移の魔導を発動してしまったからだ。仕方なくシシィは泣く泣く聞きに行くことをあきらめ、ルビーブラッドの魔導に身を任せた。
 例によって、一瞬の浮遊の後墜落するような、少々緊張する感覚の後、2人の身は先ほどとは別の屋根の上に。

「……!」

 ――お母さんの匂いが、強くなった。
 同時に騒ぎの元となっている、精霊の惚れ薬の香りも濃い。この近辺に確実に母がいる、とふんだシシィは、先ほどの場所よりは少ない人ごみの中、目を皿のようにしてアンリーヌの姿を探した。下で探すより、こういうときは上からあらかじめ位置を知っておいた方が動きやすい。
 ――どこに……。
 ルビーブラッドの腕の中から、限界まで首をのばして人ごみを凝視していると、そのオレンジの瞳に、よく知った姿を捉えた。
 自分と同じ色の髪。小さな背。
 後ろ姿しか確認できないが、おそらくあれはアンリーヌだ。

「ルビーブラッドさん、見つけました!」
「よし、一度路地の方に下りる」

 回りくどくなるが、仕方なかった。屋根の上から人がいきなり降ってくれば驚かれるだろうし、犬の姿も元に戻してからでなければアンリーヌに話しかけられない。
 シシィを抱いたまま、ルビーブラッドは大通りではなく、いったん暗い路地裏の方にひらりと舞い降りてシシィを地面に下ろした。それから、素早くウエストポーチから解除薬の入った試験管を取り出す。

「今から人に――」
「ルビーブラッド?」

 大通りの方から声をかけられて、ルビーブラッドは左方向へ視線をやり、シシィは右方向へ顔を向けた。
 向けて、双方固まる。

「ああっ、やはり僕の愛しのルビーブラッドじゃないか!ワンダホー!」

 ――ヴィヴィヴィヴィヴィヴィヴィ、ヴィトランさっ……!
 満面の、これ以上なく至福の笑みを浮かべながら大通りから裏路地へ1歩入ってきたヴィトランに対して、ルビーブラッドとシシィはそれぞれきっちり5歩引いた。おまけにルビーブラッドの瞳孔は、思い切り開いていたりする。
 恐怖によって。

「どうだいっ、この美しい僕!感想を述べてくれてもいいよ!!」
「ついに脳細胞が壊滅したか」
「そうとも!僕は美しいものに会えば理性が壊滅するのさ!」
「頼む寄ってくるな寄るな失せてくれ人語を解せ」

 ――それは、頼んでるというより命令、です……。
 しかし思わずそう言いたくなるのがシシィにも痛いほどに分かる。
 一応断わっておくが、ヴィトランは美しいといえども男性である。そう、男性であるのだが、この格好をいったいどうしてくれようか。

「ツレないね!君のために、こんなにも美しいウエディングドレスを縫ったのに!」

 乙女の憧れ、純白のウエディングドレス。
 それを着ているのだ、男性のであるヴィトランが。
 ――ベール被って、ブーケまで持って……!
 ドレス自体は本当にかわいらしく、プリンセスラインを基調としたものでスカート部分はレースが何枚も重なっていて美しい。本当に、男性であることをのぞいてしまえばそのまま結婚式が挙げられそうな格好で、しかも異様に似合うという恐ろしい光景を目の当たりにし、シシィとルビーブラッドは完璧に思考が停止した。
 一方ヴィトランは、くるくる回りながら楽しそうに解説する。

「見てくれたまえ、生地はシルク、レースも最高級品の文句なしの一級品ドレス!僕のこの美しい姿を披露することができたのも、すべては2か月前、電撃の如く僕の頭脳に奔った素晴らしい考えからさ!」

 と、そこでヴィトランは固まっているルビーブラッドを指差した。

「まず僕が『闇色ハット』を花嫁として迎え、彼女を連れたまま僕が君の花嫁になれば3人一緒にずっとハッピーな老後!!」
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああっ!!」

 シシィは思わず、叫んだ。
 ――いいいいい、今っ今っ、ヴィトランさん、『闇色ハット』って……!
 色々と突っ込みたい考えではあるが、一番の問題点はそこだ。
 ルビーブラッドの前で、『闇色ハット』の名前。
 それはシシィにとって最大のタブー。もしも今のセリフで、『闇色ハット』=『シシィ』の図がルビーブラッドの脳内で出来てしまったら、終わりなのだ。
 シシィは恐る恐る、隣にいるルビーブラッドを見上げた。
 そして、それをすぐに後悔する。

「あれ、今、犬がしゃべ」
「――――――いだ」
「ん、何か言ったかい、ルビーブラッド」

『シュヴァルツ 永劫(えいごう)彷徨(ほうこう)する漆黒の(からす)陋劣(ろうれつ)な獣と心神(しんしん)の腐敗 其は汝が渇望せし奸悪(かんあく)なる芳香の果実 惨禍と懲戒 汝の(かて)とせよ』

 ――ルビーブラッドさん、目が据わってらっしゃる!!
 サラサラと詰まることなく詠唱された呪文に逆らうことなく、ルビーブラッドの魔術は速やかに発動し、ロッドの先に溜まっていた黒い球場のモヤのようなものが、勢いよくヴィトランの顔にはりついた。

「もが」

 はりつかれたヴィトランは、急にヒザから力が抜けたように倒れて地面に突っ伏せ、シシィはそれを見て慌ててルビーブラッドに抗議した。

「る、ルビーブラッドさん!闇っ、闇を見せるのはあんまりです!」
「……眠らせただけだ」
「へ」

 呆然ともう一度ヴィトランに視線を向けると、確かにヴィトランは顔に黒いモヤをはりつかせたまま、すやすや寝息を立てて眠っている。
 一気に気の抜けたシシィはそのまま地面に座り込み、ルビーブラッドも安堵したように空を見上げてため息をついた。
 ――あの様子なら、『闇色ハット』は気にしてない、かな……?
 明らかに正気ではなかったため、『闇色ハット』のくだりはルビーブラッドの耳に届いてなかったのかもしれない。むしろ、固まって状況判断で精一杯だったようなので、その可能性の方が高いだろう。
 ――に、しても。

「……危なかった」
「はい……」

 ルビーブラッドとはまた違う意味で同意しておきながら、シシィはひそかに冷や汗を拭った。