――あああああああぁぁぁっ!!

 シシィは思い切り、心の中で喚き、パニックになった。
 慌てて入った裏路地。
 狭いところなので、その入り口にて彼らは押し合いへしあいになり、そのおかげでだいぶ距離は稼げたのだが、新たな問題が発覚した。
 ――こ、こ、ここっ、Bさんのお店に行ける路地じゃない……っ!!
 どうやら慌てていたので、1本前の路地に入ってしまったらしかった。しかしのことに気がついても今更来た道を戻ることはできず、かと言って闇雲に走り回っても迷子になるのがオチ。というか、軽く今の時点で迷子である。

「あわ、あわわ!」

 止まることすらできず、もう泣きながらシシィは走っていたのだが、運命はさらに過酷に彼女を崖から突き落とす。

「のぉぉ!!」

 シシィは立ち止まる。立ち止まるしかなかった。
 ――行き止ま、り……!
 目の前には大きなレンガの壁。シシィはそれを絶望的な気持ちで呆然と見つめて、次いで背後を振り返る。まだ誰もいないし、気配もないが、この路地はそう入り組んでないため追いつかれるのは時間の問題だろう。
 ――わ、わわ、私の全財産が搾り取られたらどうしよう!!
 この期に及んで、かなり見当違いな悩みを抱くシシィは、それでも真剣にこの状況を打破することはできないかと真剣に悩む。

「ええと、ええと……!1、私が消える、無理。2、私が消える、一緒だよ!ささ3、私が消え……ああダメッ、消えるしか思いつかない!」

 真剣だが、空回りだ。

「ま、まま、待って、そういえば、バックの中に色々と……!」

 最近、魔術薬がそこそこ作れるようになってからは、日常生活において使えるような魔術薬は持ち歩くことにしている。その魔術薬で何か使えるものはないだろうか、とシシィが小さなバックの中身をぐしゃぐしゃ探っていると、中で何かが光った。
 ――ん、んん?
 目を凝らすと、それは――赤黒い光。

「え……っ!?」

 瞬間、辺りは光に包まれ。
 閉じてしまった眼を開くと、シシィの前には。

「る、る、」

 ――ルビーブラッドの姿があった。

「ルビーブラッドさぁん……!!」

 夜の森のような色の髪に、ルビーのような赤い瞳。背は高くて、少しだけ目つきは怖いけれど、とても優しい人。変わらない姿がそこにある。
 危機的状況にいた中で頼れる人が現れて、シシィは思わず涙を流すが、一方のルビーブラッドはなぜか珍しく驚いた表情のまま、完璧に固まっていた。
 そんな彼に、パニック状態に陥っていたシシィが気づけるはずもなく、彼女はのろのろとルビーブラッドのそばに近づいていく。
 ――ああ、ルビーブラッドさんだ……!
 本当に、夢のなかではなく現実世界で、会えている。現実として会うのはかなり久しぶりなので、半ば感動を覚えていたシシィだったが、そんな彼女をずっと見ていたルビーブラッドの瞳は、ふと遠くなり。

 シシィの目の前は、真っ暗になった。

 ――オレンジの、香り?
 真っ暗で、何も見えないが体は温かい何かに包まれているようだ。
 さらり、と髪をなでられて、シシィは内心パニックに陥る。
 ――な、何、何が起こって!?

「――シシィ」

 ルビーブラッドの、あまりに近すぎる、本当に頭上から降ってきたかのような声にシシィはガチン、と固まった。
 ――ち、ち、ちか、ちか、近いっ!?
 何なんだどうしたんだこれはどういうことなんだ、と一気に上がった体の熱と闘いながらぐるぐるとシシィは考える。
 ――な、何かに包まれていて、髪をなでられて、声が近くって。体が熱いのは私の熱のせいだとし、して、でも何で熱いのか分からないし、心臓が速くなった気が、ああっ病気かもしれない、いや、そうじゃなくて、この状況は。
 これはつまり。

 ルビーブラッドに抱きしめられている、ということ以外に他ならず。

「――――――っ!!!!」

 シシィは声にならない叫び声をあげる。
 これはどういうことなのだろう、もしや思わず泣いてしまったのを見られて、慰めてくれているということなのだろうか。ルビーブラッドはこの国の人間でないことは分かっているため、文化の違いがあるのは仕方ないにしても、この慰め方は少々シシィには刺激が強すぎた。顔どころか、体中が真っ赤である。
 ――と、いうか、息、息ができでき、出来なくなって……!
 シシィも女性である分にはそこそこの身長で、今日はヒールの高さがあるので背丈はあるが、ルビーブラッドは並はずれて背が高い。規格外の高さだ。なので、どれだけシシィがヒールを履いていようとも、彼女の顔はルビーブラッドの胸のあたりにすっぽりと埋もれてしまう。イコール、苦しい。
 シシィは苦しさから思わず、ルビーブラッドのコートを握り。

 その行為で、ルビーブラッドが固まったのを確かに感じた。

「……る、るる、ルビーブラッドさん……?」

 シシィの戸惑ったような、か細い声を合図に、ルビーブラッドは勢いよくシシィから離れるように後ずさる。
 というより、後方に跳んだ。一気に5メートルも。
 5メートルも離れた地点でようやく彼は、呆然と顔を真っ赤にさせたシシィを見やり、その姿を確認するや否や。
 ゴン!と。
 路地のレンガの壁に、己の頭をたたきつけた。

「ぎ、ぎゃああぁぁぁぁああぁぁ!?る、るるルビーブラッドさんんん!」

 一体どうしたことか!とシシィは駆け寄ろうとしたが、当の本人がそれを手を挙げて制し、睨むような視線をシシィに送る。それだけでも怖いというのに、今の彼は加えて額から血が出ているので、泣きそうなほど怖かった。

「寄るな」
「よ、よる……う、うう……っ!」
「待て、泣くな……違う、一生寄るなという意味じゃなく、今は、だ。今は」

 寄るなと言われたことが悲しいのか、ルビーブラッドが額から血を流しているのが怖いのかよく分からないまま、シシィの目には涙がたまり、もう瞬きをすれば涙がこぼれおちるほどまでになっている。

「お前……それ(・・)はどうした」
「……う、ううっ?」

 己から頭を壁にぶつけ、額から血を流す彼にこそ、その質問をしたかったシシィであったが、それを抜きにしても『それ』が何を指しているのか分からなかった。
 首を傾げるシシィを見て、ルビーブラッドは自分を落ち着かせるように溜息をついたあと、何もない空間にロッドを呼び、手に取るといきなり何かを唱え始めた。

『ヴァイス 静謐(せいひつ)寵愛(ちょうあい)する雪白の(さぎ)よ 純良(じゅんりょう)な獣と心神(しんしん)の方正 我は汝を渇望せし佳良なる芳香の果実 加護と太平 我の(かて)とする』

 真っ白な光がルビーブラッドを包み、シシィは目を細める。目をつむらなければいけないほどの光ではないが、細めずにいるのは難しい。
 けれどどこかやわらかな光が収まったのを確認して、そろそろとシシィが普段通りに目を開くと、ルビーブラッドは極端に安心したようにレンガの壁に頭を預けていた。
 が、まだ血は出ている。

「る、る、る、ルビ、ルビー……ッ!」
「……何が………………」
「桃色の姫ーーーーーー!!どこにいるんですかーー!」

 背後から聞こえてきた、怒号と言ってもいいくらいの大きな声にルビーブラッドは振り返り、シシィはビクリと体を震わせながらルビーブラッドの後方を見つめる。
 声が近かった、ということは、詐欺師の団体様(シシィだけがこう思っているのだが)はもうすぐそこまで迫っているのだろう。
 シシィは慌ててルビーブラッドのそばへ走り寄る。

「る、るる、ルビーブラッドさんは逃げてくださいっ!は、早くしないと詐欺師さんの団体に捉まって全財産が奪われることにっ!」
「――――――は?」
「だ、大丈夫です!ここは私に任せて!」
「……待て、今来た俺のほうが状況を理解しているというのはどういうことだ」
「は、は、は、はい?」

 ルビーブラッドはシシィの様子に空を見上げてため息をつくと、持っていたロッドをかざし、後方を気にしながら呪文を唱える。

『イオス』

 ――あれ?『イオス』って空間移動の魔導だったような?
 思った瞬間、ルビーブラッドに手を取られ。

「……へ?」

 体が軽くなった、かと思うと次の瞬間には屋根の上にいた。

「え?え?え?」
「伏せろ」

 訳が分からないまま、ルビーブラッドの言うとおりおとなしく体を屋根の上に伏せて、ルビーブラッドが見ている方向へと目をやると、そこは今まで自分たちがいた行き止まりの道。
 つまり、これは魔導によって移動したということだ。
 下からは見えないような位置に伏せているので、たとえあの道に彼らが来たところで見つかることはないだろうが、あまりにも目まぐるしく変わる状況にシシィの頭はパンク寸前だった。

「で、それ(・・)はどうした」

 同じく隣で屋根に伏せているルビーブラッドに改めて訊かれるが、やはり『それ』が何を指しているのかシシィには全く分からず、混乱している表情を彼に向けると、彼は横目でそれを確認しガクリと頭を落とす。
 ちなみに、額からはまだ血が出ている。

「る、ルビーブラッドさん、血、血がっ」

 持っていたバックからハンカチを引っ張り出し、ルビーブラッドの額に当てようとしたのだがその直前に少し体をひかれて回避された。ハンカチを持ったシシィの手は何もない空間で止まる。

「……う、」
「待て、泣くな。お前のハンカチが汚れるからだ」

 ルビーブラッドは自分の腰につけているポーチから布を取り出し、流れた血を拭って傷に押し付けて出血を止めた。額の傷は派手に出血するが、大した傷ではない場合も多いため、魔導で回復するほどでもないと判断したのだろう。
 一回深呼吸をして落着きを強制的に取り戻したルビーブラッドは、額に布を当てて伏
せているその体勢のままシシィにひそりと話しかけた。

「……『オテロース』だ」
「……お手ロース?何が、でしょう、か」
「……分からんか……上級のものだからな……」

 いきなり言われても、何を言われているか、話の内容も行く先も全く見えず、シシィは首をかしげ、ルビーブラッドは1人呟きながらため息をつき、眉間にしわを寄せる。
 何やら、ためらっているようだった。

「…………香水をつけているだろう」
「あ、私ですか……?は、はい、出掛け際に母につけられて」

「その香水、惚れ薬だ」

 ――惚れ?
 たった今、何ともファンタジーな言葉を真顔で言ってのけたルビーブラッドを、シシィは点になった目で見つめた。
 2人は数秒無言となり。

「ほ、本当、ですか」
「冗談を言うように見えるか」

 ――見えません。残念だけど、見えないんです。

「……も、ももも、ももももももしかして、ルビーブラッドさ……っ」
「……みなまで言うな」
「……………………」
「…………すまん。一生の不覚だ……」

 ――あの行動は、かかっちゃった、ってこと、だよね……。
 そしておそらく、彼が使った魔導はその惚れ薬の効果を拒むためのものだろう。
 額に布を当てたまま、がっくりと落ち込むルビーブラッドを見て、シシィはそう確信すると共に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 ――よ、よよ、よりにもよって、私なんかに……。
 もっと美人でかわいらしくて、賢くて気のきいて、明るい女の子であったなら彼も悪い気はしなかっただろうが、よりにもよって相手は自分。さぞかし不快だっただろう。
 自分で考えて、シシィはだんだんと落ち込んできた。
 ――ああ、よく考えたら、今の格好最悪だ……っ!
 本気で泣きたい、とシシィは屋根に顔をうずめる。今自分は、この世で最も似合わない色であるピンク色のドレスを着ていて、しかも丈が短いというひどい恰好。
 あまりの情けなさと申し訳なさに、シシィは伏せたまま彼に謝罪する。

「すみません……わ、私が、もう少しマシ……というか、私じゃなければ……っ」
「……――は、何を」

 しかしルビーブラッドがその先言おうとしたことは、とうとう追いついてきてしまったらしい男たちの声にかき消されてしまった。

「愛しの君ーー!いずこにぃーー!?」

 ――あ、あ、穴があれば入って埋まりたい!!
 彼らにも、大変申し訳ない。こんな地味で可愛くもなんともない自分を追いかけるなどと、果てしなく無駄な時間を費やさせてしまった。

「……とにかく、あいつらの頭を冷やす」
「え?」
『シアン』

 ちょっとお待ちを!とシシィが叫ぶ前に、ルビーブラッドはもの見事に呪文省略までして、行き止まりの道で右往左往する彼らの上に巨大な水の塊を作ると、一気に大きな滝のごとく水を落とした。
 当然の如く、水圧はすごいもので。

「あ、あ、ああ……っ!」

 水がすべて落ち切った後に立っているものは誰もおらず、みな地面にすがりつくように倒れて気絶していた。屍累々とは、まさにこの状況のためにある言葉だ。
 悲惨で悲しい光景に目を逸らすシシィだったが、その隣ではしきりにルビーブラッドが自分のロッドを触って首をかしげていた。

「……奇妙だ。あんなに水を出すつもりじゃなかったんだが」
「は、はぁ……」

 どうやらルビーブラッドにも力加減を間違えるときはあるらしい。悪いと思ったのか、彼は何事かつぶやくと彼らのぬれていた体を乾かし、さらに回復魔導まで使って起きたら頭が痛くなっているかもしれないというシシィの懸念を取り除いた。
 これで彼らは、ただ気絶しているだけである。
 ほっ、と安堵したシシィは隠れる必要がなくなったため、のそのそと起き上がり、それを横目で見ながらルビーブラッドも起き上がる。

「………………」
「……あ、あの、なんでしょう……?」

 起き上った彼は、シシィを真正面からとらえるように体の向きを変えて座っていて、視線も真っ直ぐシシィへ。ビクビクと質問するシシィに、ルビーブラッドはあごに手を添えながら睨むように観察し。
 こいこい、と手でシシィを呼んだ。
 その呼びかけに素直にシシィは従い、ルビーブラッドに座ったまま近づいていく。
 と、そのシシィの頭をいきなり彼はつかみ、自分のもとへと引き寄せた。
 ――うううう、うわ、うああああああああっ!?
 とっさにシシィは目をつむったが、特に予想していた衝撃――ルビーブラッドの胸板に当たるだとか、そういうものはなく、むしろ頭上でふんふんと音がするだけで衝撃は全くなかった。

「あ、あああ、あの……?」
「……花系統か」
「へ?」
「バラ……鈴蘭、カトレア……複数。これは上級精霊だな……」

 バラ、鈴蘭、カトレア。この言葉でシシィはすべてを悟り、同時に脱力する。
 ――か、香りを、確かめるためでしたか……。
 もしかして、また惚れ薬(というか香り)にかかってしまったのだろうかと思ってしまったシシィだが、そんな自分を恥じて顔を真っ赤にさせて、大人しくルビーブラッドのしたいようにさせておいた。何気に、薄々と思っていたが彼は理解不能なところがあると解るまで調べ上げるというような、根っからの学者気質であるような気がする。
 ――そういえば、ルウスさんが魔術師は科学者みたいなものって言ってたっけ。
 ルビーブラッドは魔術師でもある。知的探究心が強いのはそういうことだろう。

「……よし、分かった」

 その言葉でシシィは身を引き、改めて彼の前に座って説明を聞く体勢をとる。

「お前のその香水は、精霊が作ったものだ」
「ど、どうしてわかるんですか?」
「魔術師が作ると必ず果物の香りになるが、精霊のものは植物の香り。それもお前のは香りが数種類混じっているから上級の精霊が作ったものと思われる」
「ははぁ」
「本来なら薄めて使うものだが、原液をかけられたな」
「げん……っ!」

 ぐらり、とめまいがして額に手を当てる。日常生活で考えても原液のままでは使ってはいけないものが多いというのに、魔法関係ならなおさらだ。
 ――まぁ、だからルビーブラッドさんが不覚を取っちゃったのかもだけど。
 その思考にはルビーブラッドもたどり着いたようだが、彼はそれについて触れることはせず、いささか動揺しながら話を進める。

「お前にかかっている効果を取り除くには、その香水が必要だ」
「え?」
「その香水を煮沸すると、無効薬になる。それしか解除法がない」
「た、大変人任せな提案で申し訳ないですがっ、ルビーブラッドさんの魔法とかでも無理……なのですか」
「無理だな。人は精霊に敵わん」

 すっぱりとした意見に、シシィはいっそ気持ちがいいほどに諦めがついた。とにもかくにも、この状態を何とかするには香水が必要で、その香水は両親が持っている。そしておそらく両親は祭りを満喫中であるだろう。
 ――結局、祭りの中に戻らなきゃいけないんだ……っ!
 首を垂れるシシィを、ルビーブラッドは不思議そうに見ていたが、ふと思い出したように彼女の前にロッドをかざし、呪文を唱える。

『ヴァイス 静謐(せいひつ)寵愛(ちょうあい)する雪白の(さぎ)よ 純良(じゅんりょう)な獣と心神(しんしん)の方正 其は汝を渇望せし佳良なる芳香の果実 加護と太平 其の(かて)とせよ』

 ――え?
 真っ白で柔らかな光がシシィの体を一瞬だけ包み、消える。彼女は目を丸くしてルビーブラッドを見るが、彼は立ち上がりながら街の方を見つめていた。

「あ、あの、今のは」
「よく分からんが、ここから見る限り人が多い。解除はできんが、その魔導でなら少し効力が弱まる」
「あ、ありがとうございます」
「しかし精霊から『オテロース』……どこから手に入れた?」

 そう言われれば不思議であったが、少し悩んだ末にシシィはハッ、とあることが頭をよぎる。

「お父さん!!」

 精霊との交渉者だという父なら、精霊からそういうものをもらっていてもおかしくないのでは。そう考えつくと、それしかないような気がしてきた。
 精霊からもらったが、使いように困った父はそれを放置し、その香水を何らかで発見してしまった母が持ってきてしまってシシィに使ったのだろう。これしか答えはない。
 と、そこでシシィは一気に青ざめるようなことに気づく。

「た、たた、大変……」
「どうした」
「香水ビンの中身、半分くらいだったんです……」
「半分……」

 シシィは勢いよく立ちあがり、焦るようにルビーブラッドの瞳を見つめた。

「もし、香水の中身が使われてしまって半分になっていたら(・・・・・・・・・・・・・・・・・)…!!」
「……まずいな」

 ルビーブラッドは静かながらも、どこか緊張した声音でつぶやいた。


「もしそうなら、町はパニックになる」