「…………くっ!」

 自室兼寝室の窓から外を見てシシィは――ガクリと、膝を折った。
 外は晴れ。美しいまでの朝日。
 もう一度、うつむけていた顔をあげて見てみるが、現実は変わらない。
 ――あんなに、雨よ降れってお願いしたのに……!
 多くの人たちが晴れろとおそらく願った中で、それは自分の願いなど少数派だと思っていたが、せめて曇りくらいにしてくれてもよかったのではないだろうか。
 そう神に恨み言を内心言いながら、シシィは仕方なく出かける準備を始める。

「だから、今日は晴れると言ったじゃないですか」
「うう……」
「若者らしく、今日は一日遊んでくることですよ。今日は私も所用で出かけてきますから」
「え?」

 上着を羽織りながらシシィは、珍しいルウスの言葉に目を丸くした。

「所用、ですか?」
「ええ。犬になってからでも、色々と管理しておかねばならないことも多いので」
「はぁ……どこに行ってくるんですか?」

 シシィの質問に、ルウスはふむ、と一人頷き、部屋中に視線を彷徨わせたあと、再びシシィを視界に入れ。
 にっこりと。

「聞きたいですか?」

 真っ黒く、笑った。

「……………………いえ」
「それは残念。シシィさんが帰るころには帰りますよ」

 そうですか、とシシィはうなだれながら返事をして、憂鬱げに横目で窓の外を見る。
 ――今からでも、雨、降らないかなぁ……。


 今日は楽しい衣装祭だ。





********





 町に下りると、朝早くであるため人はまばらであり、辺りはまだ静けさを保っていた。
 と言っても、やはりどこか町中にお祭り特有の浮かれた雰囲気が漂っているが、それでも静かなほうだろう。
 そう思いながらも、シシィの足は自然と速足になる。
 ――早く受け取らないと、仮装してきた人たちが出てきちゃう……。
 正式に祭りが始まるのは朝9時からだが、この衣装祭を待っていたという熱の入った人たちは朝も早くから仮装して町中を練り歩く。事実、町には早くも仮装した人たちがチラホラと見られるし、そうでなくとも9時になる前に多くの人々が仮装して町に出てきてしまう。
 そんな時間帯に、普通の服でいることになれば最悪だ。

「は、早く取りに行こう……!」

 心なしか仮装している人たちが増えていくのを横目に、シシィはほとんど走る勢いで縫製店に駆け込んだ。

「お、お、おはようございます!出来てますか!?」
「ああ、シシィちゃん。出来てるさね」

 店の真ん中で、のんびりとピンク色のかわいらしいドレスをいじっていた店主はシシィが来たのを見るとにっこりと微笑んでそう言った。その言葉にシシィはひとまず安心し、ホッ、と息をつく。
 しかし。

「さぁ、持って行きなさいね」

 ――そう、言われても。
 店の中には、シシィの注文しておいたデザインのドレスなどない。あるのは色とりどりの見本用のドレスに、店主が触っている、一際目を惹くかわいらしいドレスのみ。
 一応見渡してみて、自分が頼んでおいた枯れ葉色のドレスがないのを確認すると、シシィは改めて店主に言う。

「あの、私のドレスは」
「だから、ここにあるさね」
「ど、どこに……?」

「ここに」

 指さされたのは、彼女が今まで触っていた、ピンク色のドレスで。

「――ち、ち、違い、ます、よ」
「いんや、シシィちゃんのドレスはこれさね」
「いやいやいや!私のもっと、枯れ葉色というか、そんなので!」

 こんな、明るい色のドレスを頼んだ記憶はとんとない。
 デザインもドレスの生地も何から何まで違う。シシィが頼んだのは枯れ葉色の生地で、デザインもネックラインは四角くその縁には申し訳程度のレース、袖は膨らんだ半袖でスカート部分はロングという、愛想も何もないシンプルなドレスだった。
 が、今目の前にあるドレスは、ベビーピンクのサテン生地で、肩ひもと胸のすぐ下にあるリボンは真っ白なベルベット。胸のところにはレースが使われ、ふわりとしたオーガンジーがスカート部分を覆って、丈もひざが隠れそうで隠れないという短さだ。
 もしかして、勘違いをされたまま作られてしまったのだろうか、とシシィが深い不安に陥ったとき。
 背後のドアがカランと鐘の名を鳴らしながら開いて、同時に、背中に軽い衝撃。

「きゃーん、シシィちゃーんっ!」

 ――この声、は。

「お、お母さん!?お父さんも!?」
「やぁ、シシィ」

 シシィは背中から抱きつく自分の母、アンリーヌとその後ろに大荷物を抱えた父であるコーファの姿を見て驚いた。確かに今日は祭りなので母も父も来ているかもしれないと思っていたが、まさかこんなに朝早く、しかもこんなところで会うとは思っていなかったのだ。
 驚くシシィを一人残し、アンリーヌとコーファは店の真ん中にあるピンク色のドレスを見て喜ぶ。

「きゃーっ!私の思い通りだわ!」
「そうですか、それはよかった」
「ありがとうございます」

 のほほんと、会話を交わす両親と店主。
 シシィが全く状況が飲み込めず固まっていると、その背中を押すように母はシシィをドレスの近くまで連れて行く。

「見て見て、シシィちゃん!かわいいわよねぇ!」
「か、わいいけど、これ、私のドレスじゃ……」
「いいえ、シシィちゃんのよ」

 ――は?
 目を点にするシシィから離れ、アンリーヌはピンク色のドレスに触れながら微笑む。
 それはもう、にっこりと。

「注文、変更しちゃった!」

 一度シシィの世界は完璧に止まり、思考停止する。
 しかし悲しいことに、今までトラブルに慣れすぎた頭はすぐに思考を開始し、状況を正確に判断し始めた。
 ――つ、つま、つまり。
 シシィがこの店に本来の注文をした後に、母がこっそりと訪れ、シシィの注文をキャンセルし、おそらく自分が選んだドレス生地とデザインで作ってもらった、と。

「シシィちゃんにバレないように、当日まで出さないようにしてもらってたのよん」
「あはは、アンリーヌはいたずら好きだなぁ」
「うふふー、でしょでしょー?」

 ふんわりと笑いあう両親が、これほどまで憎かったことはない。
 シシィはブルブルと体を震わせ。

「お母さんの……!!」

 馬鹿っ!と叫びたかったが―――シシィは無意識のうちにその言葉を封じた。何せシシィはほかでもないこの両親と祖母からきつく、人を傷つけるような言葉を言ってはいけないと言われて育っているため、親に向かって罵倒の言葉は言えないような育ちになっていた。
 それでもそんな言葉が口に出かけたのは、それだけシシィが怒っている証拠で。

「……う、ううっ!うわぁーーーん!!」
「うわ、シシィ!?」
「分かるわ、シシィちゃん、嬉しいのよね!お母さん、分かってる!」

 ――全っ然、分かってない……!!
 もう泣くしか、気持ちの発散方法がない。シシィは今や幻になってしまった、自分に似合うドレスを思いながら顔を覆う。しかし、覆ったところで現実がなくなるわけでもない。
 問題はシシィが着るドレスが、このドレスしかないということだ。

「さ、シシィちゃん着替えちゃいましょ!」
「は、ここで!?」
「ええ。着替えさせてもらえるよう、事前に頼んでおいたのよ!」

 だから、逃げられないように当日にドレスを見せることにしたのだろう。店主も鷹揚に頷き、試着室を使っていいさね、などと微笑みながらトルソーからドレスを外す。
 その光景に、シシィは恐怖を覚えた。
 ――だ、だ、ダメだ!
 いかに流されやすい自分といえども、ここで流されるとあのピンク色の恥ずかしいドレスを着なくてはいけなくなるのは火より明らか。
 ――断固、断固拒否しなくちゃ!それだけは!!

「い、い、嫌だ……」
「シシィちゃん?」
「わ、私今年は、家に引きこもる!引きこもって編み物でもしておく!だからドレスなんて着なくていい、帰る!」

 と、シシィは背後にいた父を押しのけ、ドアから外に出ようとしたのだが、そこから見えてしまった光景を見て固まった。
 ――か、仮装した人たちが!
 ほんの少しの時間で、もうすでに仮装をしている人たちで街は賑わいを見せている。
 色とりどりのドレスに、タキシード、燕尾服。かぶりものをかぶっている人たちまでいて、シシィは本日2度目となるが、ガクリとひざを折った。
 この中を私服で歩く勇気は、シシィにはない。

「ふふー、ね。シシィちゃん、もう着るしかないのよ」
「………………」

 後方で笑う母を見て、シシィは悪魔だ、と思う。しかしアンリーヌはそんなこと露知らず、嬉々としてもう半分死にかけているシシィを立ち上がらせると、店主からドレスを受け取り、試着室へ娘を押し込んだ。


 それから、30分。


 ――ああ、やっぱり……。

 ほら見たことか、とシシィは目の前の鏡に映る自分を見て、深く落胆のため息をついた。ピンク色のドレスはもちろんのこと、抜かりない母が父に持たせていたドレスと同じ色の手袋に白いレースのカチューシャ、白い花のコサージュがついたチョーカーに、白い華奢なヒール。全身白とピンクでコーディネートされた姿は、シシィ自身にとってはおぞましい以外何物でもなかったのだが。

「はぁぁっ、見てコーファ!シシィちゃんがものすごくかわいい!」
「見ているとも、アンリーヌ!さすが僕たちの子供だね!」
「ほっほっ、かわいらしいこと」

シシィ本人以外は、大変満足げであった。

「あ、足がスースーする」
「それはシシィちゃんが普段ミニスカートをはかないからよ」
「首回りもスースーするし……」
「それはシシィちゃんが普段キャミソールを着ないからよ」
「こけそう……」
「シシィちゃんが、ヒールのある靴に慣れてないからよ。慣れればすべて問題なんてなし!オールOKよ!」

 ――全然、OKじゃない。
 ドレス用のキラキラしたバックまで持たされて、仕方なく人目について困るもの(鍵やルビーブラッドからもらったペンダント)はそこにしまったが、シシィは泣きそうな顔で母であるアンリーヌを見つめる。しかし、彼女はニコニコとしながら仕上げとばかりに香水をシシィにかけるだけで、全く取り合ってくれない。

「これでよし!さぁ、シシィちゃん、その格好でもって素敵な未来のお婿さん候補を見つけてくるのよ!」
「ね、狙いはそれ!?お、お父さん!」
「シシィ……お父さんは諦めることにしたんだ……幸せにおなり」
「諦めないでーーーー!」

 目を逸らしながら、くっ、と涙する父を見て、シシィは叫ぶ。ここで、父に諦められたらもう母の天下だ。すでに天下かもしれないが、こんな暴利許されていいはずがない。
 ――はずが、ないのに。

「さぁ、行っておいでシシィちゃん!」
「ちょっ!」

 瞬く間に店の外に追いやられ、ドアはパタンと締まる。
 ガラスドアの向こうでは、アンリーヌがしっかり入口を閉めながらご機嫌そうに手を振っていた。いってらっしゃい、ということなのだろう。
 泣き叫び、中に入れてもらいたかったが何せ、シシィがいるのはもはや外。そんなことすれば目立つのはもうわかりきっていることであり、ただでさえ似合わないドレスを笑われる的になってしまう。
 ――う、うう。何で、こんなことしてるんだろ……。
 もうこうなったら、何もかもすべて諦めて早く帰るべきだ。

「そうだ、帰ろう……」

 シシィはひとり呟くと、のったりと体を起こし仮装で賑わう街の中へと消えていった。
 その様子を見ていたアンリーヌは満足げにうなずき、その後ろではコーファが心配そうにシシィの背中を見送る。

「ねぇ、アンリーヌ。シシィは大丈夫かなぁ……」
「大丈夫よ、女の子はちょっとしたことで嫌いなものを好きになれるんだから!」
「そ、そうかい……?そうだといいけれど……ところで」

 と、コーファはアンリーヌの手元をのぞきこむ。

「その手に持っているビンは?」
「あら、やぁね、とぼけちゃって!これ、貴方が内緒でシシィのために買っておいた香水でしょう?ちゃんと持ってきてあげておいたのよん」
「……へ?」

 そんなものを買った覚えがなかったコーファは、よくよくアンリーヌの手の中にある香水のビンを見てみた。透明なビンなので、中の液体が桃色だというのが分かる。
 ――あ、れ?
 買った覚えは、なかった。
 しかし、残念なことに、見覚えは――ある。

「こ、こ、これって、僕の机の上に置いておいたの、かい……?」
「え、ええ……。もしかして、使っちゃだめだったの?」
「で、できれば」

 ガタガタと声も体も震わし、変な汗をかき始めたコーファを見て、アンリーヌはまぁどうしましょう、と頬に手を添える。

「さっき、シシィちゃんに使っちゃったわ」
「シ……っ」
「それに、あまりにもいい香りだったからお隣の奥さんにもわけてあげちゃったし、宿の娘さんにもあげちゃったし、色々な人にあげちゃって。極めつけに持ってくるとき転んで半分くらいこぼしてしまったわ!」

 コーファは、蒼い顔をしてその場に倒れた。





********





 ――?

 シシィは、ビクビクとして、縮こまりながら大通りである道の端のほうをちびちびと歩いていた。朝も早いというのに、他に大きな祭りがないためこの祭りを心待ちにしていた人は多く、その分賑わいも大きい。
 そう、大きいのだが――。

「……?」

 何か、視線を感じるのだ。
 最初は着なれないものを着ているので、見られて笑われているんじゃないかという疑心暗鬼だろうと思ったのだが、どうにも違う。どこからか、それも不特定多数に見られている気がする。
 ――やだなぁ、何か怖い……。
 これはいよいよもって、早く帰らなければ、と足を速めようとしたところ、ぽすんと何かに当たってしまった。シシィがいたた、と額を押さえながら見上げると、そこには衣装祭らしくタキシードを着た男性がいて、彼に当たってしまったんだ、と気づいたシシィは慌てて謝る。

「あの、すみません」

 しかし相手の男性はボーッ、としていて、シシィは思わず当たり所でも悪かったのだろうかと心配になったのだが。

「――かわいい、方ですね」
「は?」

 固まっているシシィの手を取り、なおも相手は続ける。

「ここで会ったのも何かの運命……どうですか、僕と一緒に祭りを」

 ――あ、あ、新手の詐欺!
 ここから始まって、最後には怪しげなダイエット食品でも買わされるに違いない、と踏んだシシィはひきつった笑顔でもって断りながら手を引こうとする。
 が、相手もよほど売り込みたいらしく、手を離してくれない。

「も、もう帰るので」
「まだ、始まってもないじゃないですか」
「いや、始まる前だから帰るんです」

 分からないのかな、と冷や汗を流しながら必死に拒むシシィの前に、また新たに他の男性が姿を現した。
 ――た、助けてくれるのかな……!
 淡い期待をもって、その男性を見ると、彼はニコリと微笑んで。

「俺とじゃ、どうかな?」
「……は?」

 ――また、新手の詐欺!?
 今度は何だ、ダイエット器具の販売なのか、と身構えるシシィにもっと恐ろしいことが降りかかる。

「いや、俺とは!?」
「私とはどうです、お嬢さん!」
「そこで劇があるのですが、ご一緒に」
「それより、催し物を」
「これに俺、出るんだけど来てくれないかな」
「僕とお話を」
「俺と」
「私と」

 あっという間に、壁というにふさわしいほどの人数の男性が、シシィの前に。
 しかも恐ろしいことに、全員が全員シシィに言い寄ってくる。
 ――しゅ、しゅ、集団詐欺!?
 これだけの詐欺師に目をつけられるほど、自分は世間知らずなのだろうかと考えると悲しくなり、しかし悲しんでいる場合じゃないと改めて自分を励ます。
 ――な、なんか、餌(自分)を前に縄張り争い(言い争い)をしてくれてるみたいだ
 し、今のうちに逃げなくちゃ、全財産を無くしちゃう!
 一瞬のすきをついて、シシィは群がる男たちを押しのけて逃走する。
 しかし。

「ああ、待ってくれ!」
「どうか俺と!」
「いや、私と」
「――ひぃっ!!」

 ある意味乙女の憧れ的なシーンかもしれないが、そもそもこれほどまで大人数の男性に囲まれると怖いものがあるし、なおかつ逃げたら逃げたでその全員に追いかけられ始めた挙句、シシィにとっては全員が詐欺師にしか見えていない。
 恐怖である。
 シシィの目にはもはや涙がたまり、色とりどりの衣装で華やいでいるはずの町がぼやけてにじむ。しかし好都合なことに、あともう少しすれば図書館のある丘が見えてくるはず――と思い、気がついた。
 ――このまま、この人たちがついてきたら……?
 可能性としては、普通ならありえない。ありえないのだが――。
 シシィは、恐る恐る後ろをついてくる彼らを見てみる。
 目の色が、明らかに違う。
 ――く、くる!あの人たちは家にまでくるよ!訪問販売!!
 ならここで、撒いてしまわねば――と、シシィは慌てて横の路地に飛び込んだ。
 この路地は、Bの店につながる路地。Bの店にさえ入りこんでしまえば、自分を捕まえることはおろか、発見することさえできずあきらめてくれるだろうと考えたからだ。

 しかしそれが完璧な間違いだとは、残念なことにシシィは気がつかなかった。