シシィはそっ、と目を覚ました。
辺りはまだ薄暗く、静けさが漂っている。起きようとして横たわっていた体制から手をつくと、体のいたるところが鈍く痛んだ。おそらくルビーブラッドに呼ばれたときの体勢のまま眠ってしまっていたからだろう。
シシィは苦笑しながら痛みに耐え、体を起こしてカーテンが閉まっている窓を見た。
「……朝、かな……」
ぼんやりとした光をカーテンの向こうに感じ、シシィはベッドから降りて窓の近くに立ってカーテンを開く。
空は、昨夜の雨など嘘のように赤い朝焼けを描いていた。
「……うん」
――わかって、る。
いつまでも、落ち込んでいてはいけない。
シシィは――パチンと自分の両頬を軽く叩いた。
「大丈夫……」
目をつむってつぶやき、再び目を開けてまっすぐ、赤い空を見つめる。
「大丈夫、です」
――歩き出すだけの、力はもらったんだから。
そう分かっていても、空の赤色は彼の瞳に少し似ていて。
ほんの少しだけ、涙が出そうだった。
********
――ベーコンが、焼けている香りがする。
ルウスはまどろみの中で、ぼんやりとそう考えた。やはり朝は、こういういい香りの中でそっと目覚めるのが一番の贅沢である。
ソファの上で丸まって眠っていたルウスはパサリ、としっぽを振り――。
「!?」
慌てて飛び起きた。
朝食の香りがするということは、誰かが朝食を作っているということであり、その誰かとはこの家においてはシシィの他ない。
しかし彼女は昨日、あまりにも酷い仕打ちを受けて見ているこちらがやるせないほどに、深く傷ついていた。その様子からして、下手をすると今日一日は起きてこないと思っていたのだが。
「あ、おはようございます、ルウスさん」
シシィはちゃんと、それもルウスよりも早くに起きて、そして朝食の準備をしている。
あまつさえは、微笑みながら挨拶も。
予想だにしなかった光景に、ルウスがソファの上で唖然としていると、その様子にシシィは首をかしげながらもダイニングテーブルの上に皿を置いた。
「ルウスさん今朝は紅茶ですか、コーヒーですか?」
「あ、こ、紅茶を……」
ではなく。
なぜこうも、人の倍傷つきやすい彼女が平然としているのか聞きたくてたまらないルウスだったが、下手に昨日の話題に触れることは怖かった。今はなんであれ、元気に微笑んでいる彼女が、また暗い顔に戻ってしまうのは忍びない。
仕方なくルウスは尋ねることを諦め、犬らしく体をぶるぶるとふるわせてからソファの上から降りてダイニングテーブルまで近づいた。椅子の上に座れないルウスは、毎朝テーブル近くの床に朝食を置いてもらっていて、飲み物も飲みやすいように深い皿に入れてもらうことになっている。
いつもどおり、焼かれたベーコンにスクランブルエッグ、少しのレタスを乗せた皿が床に置かれているのを見ていると、シシィが紅茶を淹れながら声をかけてきた。
「ルウスさん」
「はい?」
コポポ、と音を立てながらシシィは深い皿に紅茶を注ぐ。
「今日、図書館をお休みにしようと思うんです」
「休みに?」
意外な言葉にルウスが顔をあげると、紅茶を注ぎ終わったシシィはポットを手にしたままニコリとルウスに微笑みかけた。
「ちょっと、お買い物をしてきたいなと思うんです。再来週にある衣装祭のドレスももうできていると思うし、とってくるのも兼ねて」
「あ、ああ、ドレス……そういえば」
色々あって忘れていたが、確かに衣装祭はもう近いし、そろそろドレスができていなければいけない頃だろう。
――けれど。
ルウスは冷静に、シシィの言葉に流されないよう考える。
――それくらいの用事で、彼女は図書館を休みにしない。
そもそも彼女はその祭り自体を心待ちにしている、というのではない。むしろドレスを着るのを嫌がっていたくらいなのだ。
だからこれは。
――やはり、彼女は元気になったわけではない。
まだ深く傷は残っていて、それでも心配をかけさせまいと気丈に微笑みを作っているのだろう。それを思うとますます昨日のことになど触れられるはずもなく、また、その提案に反対することもできないし理由もない。
ルウスは微笑みながら、キッチンに立つシシィを見上げた。
「そのくらいの休み、構わないでしょう。そうせ利用する人はいませんよ」
「それはちょっと失礼じゃないですか……?」
「おや、それなら今までの図書館利用者人数は?」
「……ゼロ、ですけど」
悔しい、というふうに口を軽くとがらせるシシィを見てルウスは微笑む。
「……行っておいでなさい」
――きっと、私が彼女にできるのは、これくらいだろう。
その歯がゆさを、ルウスは心の奥底に押し込めた。
********
「……出来上がって、ない?」
所変わって、縫製店。
幼いころからずっと、衣装祭のときにはドレスを作ってもらっている馴染みの深いここは、他の縫製店より少しだけ店は小さい。が、しかし、店主である初老がかった女性はかなりいい腕をしていているため、すっかり安心していたところに「できていない」の一言。
呆然として立ち尽くすシシィの前には、その店主である女性がおっとり微笑みながら椅子に腰かけている。
「ど、ど、どういうことですか……っ!?今、この時期にできてないって、まずいんじゃないのでしょうか!?」
「だーいじょうぶだよ、シシィちゃん。当日の朝には出来るさね」
「と、当日!?」
くらくらする頭を押さえながらシシィが叫ぶと、店主は「ほっほっ」と笑いながら手元で針を動かす。
「今年は、ちょっと持ってくるのが遅かったねぇ」
「う……」
それは、ドレスのことを考えると憂鬱になって仕方なかったからなのだが、そういう気持ちであっても今までは毎年母がシシィを無理やり連れ出していたから、早目に注文できていたのだ。
しかし、今年は一人暮らしで急かすものはない。
なのでつい、後回し後回し、となっていて、確かに注文時期はギリギリに近かった。
が、しかし、だ。
「こ、ここでなら大丈夫かと思って」
「生憎ねぇ、今年はいっぱい注文が入ったのさ」
「う」
「シシィちゃんはお得意様だから、急いだんだけれども、急いで当日の朝だねぇ」
――自業、自得かぁ……。
店主の手元で動く針を見つめながら、シシィは重くため息をついた。ギリギリになる仕上げが嫌だったなら、もっと早めに注文しておくべきだったのだ。
「ごめんねぇ。当日、早くに店を開けといてあげるから」
「……ありがとうございます」
当日と言っても、朝早くであればそう人もいないだろうし、仮装している人もいないだろう。その時間帯を狙っていけば、普通の服であっても浮くことはないはずだ。
シシィはそう自分を励ますことにして、申し訳なさそうに微笑む店主に手を振り、見本のドレスやレースが置かれた小さな店から出た。
1歩出ればそこは大通りで、お昼近い時間帯なので人通りは多い。
「さて、と……これからどうしよう」
ルウスには買い物をしたい、と言って出てきたわけであるが、それは単なる口実で、実際にはあの家の中でじっとしているのが辛かっただけなのだ。何かしていないと、不意に涙が出てきそうになるので、ルウスに心配をかけてしまう。
シシィは空を見上げながら、ボソリとつぶやく。
「……頑張るって、決めたのに」
――こんなに、ぐずぐずいじけてちゃ、ダメなの分かってるのに。
分かっているのに割り切れない。心の在り方をすぐに切り替えられない。
――こんなに弱くちゃ、ダメだ。
こんなに弱くては、目標としている祖母にもルビーブラッドにも追いつくことができない。祖母はどうだったのか定かではないが、少なくともルビーブラッドは魔力はおろか心も強い。
――誰か、他の人の痛みを、受け入れられる人だもの。
尊いと思う。目を逸らすことなく、閉じることもなく、ただまっすぐに他人の痛みすらも受け入れて一緒に分かち合ってくれるということは。
それができるルビーブラッドは芯が強いということで、シシィにはまぶしいほど羨ましい強さだった。
――いつか……。
「……?」
と、そこでシシィは我に返る。
――いつかって、何が、いつか……?
自分で考えたことなのに訳が分からず、とりあえず空から視線を外して、シシィは人の流れに乗って行くあてもなくプラプラと店を見て回ることにした。
何せずっと魔術の勉強をしているので、なかなかこういうふうに店を見て回る機会がない。
「……あれ、なんか、ちょっと空しい事実に気づいたような……」
年頃の少女として、服屋や雑貨屋、お菓子屋あたりの情報は常に最新のものを取り入れておきたいところであるが、現在の生活環境だとそれは叶いそうにもなく。トホホ、と思いながら歩いていると、前方でブティックのガラス製の扉がカランと鐘を鳴らしながら開いたのが視界に入る。
「――あ」
そこから出てきたのは、見間違うはずもないほど美しい、ヴィトラン。
「おや!」
ヴィトランもシシィに気がついたらしく、手に店で買ったものを入れた袋を提げながらもう片方で手を振り、極上の笑みを浮かべながら爽やかに挨拶をしてくれた。
「やぁやぁ、僕の麗しくも儚さと優しさと愛とを詰め込んだ化身のごとき女神のようでいて天使のようでもある人類の最高傑作というべき闇色ハット!」
あくまで爽やかなのは、顔だけだが。
おそらく常人なら顔を真っ赤にした揚句、そのまま失神して倒れていたに違いない言葉を貰い受けてしまったシシィは、残念ながらというか賞賛すべきというか迷う根性で持って最悪の最上の事態を避け、なおかつスムーズにヴィトランを近くにあった、人目につきにくい路地に誘導することに成功した。
道行く人々からかなり注目を浴びたため、シシィの体は汗でびっしょりだ。
「どうしたんだい、闇色ハット。病気なのかい?」
「い、いえ……」
病気ではないが、ヴィトランの言動は心臓に悪すぎる。まさかあんな大通り、人の多い場所でワークネームを大声で呼ばれるとは思っていなかったのだ。
しかも、余計な言葉つきで。
シシィは疲れた表情で、何も分かっていない様子のヴィトランを見つめる。
「あ、あまり人のいるところでワークネームを呼ばないでください……」
「ふむ?そうかい……考えておくよ」
「是非ともお願いします……」
――じゃなきゃ、私の心臓持たないかも。
とりあえず胸をなでおろしたところで、ヴィトランが提げている荷物に視線が向いたシシィは、何だろう?と内心首をかしげる。彼に出会った衝撃のほうが大きくて、何の店から出てきたのかは確認せずだった。
その視線に気がついたらしいヴィトランは、提げていた袋をシシィの視線の高さに合わせてくれて、中身を少し見せてくれた。
「服とか、アクセサリーだよ」
「へぇ……ヴィトランさんもお買い物だったんですね」
「ということは、君も?」
「え、ええと……本来の目的はドレスを引き取りに来たんですが」
まだ出来ていなかったので、本来の目的こそが潰れてしまったのである。
「ああ、再来週ある衣装祭のドレスだね!」
「そうです」
「ピンク?」
――は?
いきなり色の名前を言われても、何がピンクなのかが分からない。
唖然としているシシィを見て、さすがに言葉が足りなかったか、とヴィトランは改めて彼女に質問する。
「だから、ドレスはピンクにしたかい?」
「い、いえ……枯れ葉色、みたい、な」
シシィの言葉に――ヴィトランは提げていた袋をボトリと落とした。
「あ、あ、あ、ありえない……何たる愚行!」
「は、はい?」
「闇色ハットにはピンクに決まっているじゃないか!!ピンク!桃色!君にばっちりぴったり似合うのはピンクだというのに、どこの店でやってもらったんだい!」
「え、あ、いやその。じ、自分で選んだので……」
「神よぉぉぉ!!」
すさまじい勢いで嘆くヴィトランに、シシィは現実的には一歩引いて、精神的には5kmくらい軽く引きながら、その様子を眺めた。というより、眺めるしかない。
しかしせっかく眺めているだけにとどめていたというのに、ヴィトランはシシィの気持ちなど構うことなく、彼女の肩をしっかとつかんで力説し始めた。
「今からでも遅くない、僕の馴染みの店で作らせよう!僕が見立ててあげるとも!」
「いいい、いえ!?」
あまりの唐突な提案に、シシィは動揺してヴィトランから視線を逸らす。
逸らして、気がついた。
ヴィトランが落とした袋に書かれてある、店の名前。それはこの町では大変有名なオートクチュール(高級衣装店)の店の名前で、先ほどヴィトランが出てきた店は思い出せばそこの店である。
――だ、だだだだ、だめだ!
ヴィトランは一流のものを好む。なので自然と馴染みの店となると一流店となり、そんなところで買えるようなお金を持っていない自分は、恥をかくはめに。
――は、話を逸らさなくちゃ!!
シシィは必死で笑みを浮かべて、ヴィトランに尋ねる。
「そ、そんなに気合が入っているってことは、ヴィトランさんもそういうところで作ってもらったんですか?」
「え?ああ、いや、僕は自作だよ」
「――自作!?」
確かに魔道具を作るくらいの人なので、器用ではあるのだろうがまさか裁縫までするとは思っていなかったシシィは驚いた。シシィのその様子に、いささか心外だ、と言いながらヴィトランはシシィから手を放し、腰に手を当てる。
「魔道具は縫製が必要な時もあるからね。裁縫くらいお手の物さ!」
「そ、それはすごいです……どういうふうなのにしたんですか?」
その質問にヴィトランは――目を輝かせながら笑う。
「よくぞ聞いてくれたとも!そうだね詳しくは見てからのお楽しみだが――タイトルをつけるならば『僕の未来にある姿』とでも名付けておこうか」
「そ、それは壮大な」
「はははははは!壮大だとも、この僕の未来だからね!当日は真っ先に君に見せるために馳せ参じよう!楽しみにしていたまえ!!」
「あ、はは、は」
――楽しみのような、怖いような。
ただでさえ微妙な祭りが、もっと微妙になってしまった、とシシィは聞いてしまったことを密かに後悔する。
「あの、それじゃあ、引き止めてしまってすみませんでした。私はこれで失礼します」
「ああ、それじゃあ!」
――成功、した……。
何とか話を逸らすことに成功し、そのまま何事もなく別れることができたシシィは精神的にドッと疲れて、路地を出たあとしばらく人の流れに逆らわず歩いた。
ヴィトランはいい人だが、何せしゃべると疲れる。
改めてそのことを実感したシシィは、その疲れを癒すためにぼんやりとしながら街の雰囲気を感じることにする。町は祭りが近いため、それに便乗したセールの文字がよく目についた。
「うーん……洋服、一枚何か買おうかな……」
そろそろ新しい服が欲しかったところでもある。
そう思いながら、とりあえず目についた洋服屋に入ると、中はシシィと同じ年頃の子たちが熱心に服を眺めていて、友達同士で選びあってはキャッキャッと笑っている。
微笑ましい光景に、シシィは和やかな気持ちになりながら、自分も洋服の並べられた棚の前に行き、シャツやタートルネックなどをじ、と見てみた。
――ああ、かわいい……。
あまりのかわいさに、思わず淡いピンク色で、半袖の袖が少し膨らんだシャツに手をのばしたが。
――いや、いやいや、似合わないでしょう……っ!
かわいいものは好きだ、何せ女の子である。しかし、着るとなると別だ。
あと少しのところで思いとどまり、あえて未練を残さないためシシィはそそくさとその棚から離れた。もう少し、自分には地味めな服のほうが似合う。
しかし、周りで服を眺めている女の子たちの多くは、華やかでかわいらしい色とデザインの服を着ているので、シシィはますます憂鬱になってしまった。
やはり服はあきらめようか、と涙ながらにとある棚を見たところ。
「――!」
シシィは、不意に思いついて、その棚に飾られているものを手に取った。
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「おかえりなさい、シシィさん」
「ひぃ!た、ただいまです、ルウスさん!」
午後3時ごろ、キッチンの勝手口から帰ってきたシシィにリビングからルウスは声をかけたのだが、なぜか彼女は驚いたように飛び上り、ひきつった笑顔でルウスと顔を合わせた。
ルウスは不思議に思いながらも、目敏くシシィが背後に隠したものを目にし、さらに疑問を深くさせる。
「その、小さな紙袋は……?」
「え、あ、ちょっと買ってきたもので」
「はぁ、ドレスはどうしたんです?」
「それが、まだ出来てないらしくて。当日になるということなんです」
当日!?と自分と同じように驚くルウスを見て苦笑しながら、シシィは自室に向かうために歩きだしつつ、ルウスに話す。
「朝には渡してもらえるそうですから、まぁ、大丈夫ですよ」
「それならいいですが……」
「あの、これ、自分の部屋に置いてきますね」
これ、と持っている紙袋を指し示し、シシィはリビングから出て自分の部屋に入り、ドアを閉める。そこでようやくシシィはやっと緊張をといて、紙袋の中を見つめた。
袋の中身は、あの洋服店で見つけたもの。
これを――ルビーブラッドに渡そうと思って、シシィは購入したのだ。
「いつ、会えるかはわからないけど……」
――励ましてもらったお礼を、渡したい。
そんなに、いきなり傷が癒えることはない。けれどルビーブラッドに励ましてもらったおかげで立ち上がる元気は貰ったし、癒してもらったのも事実。
今日自分が、たとえ空元気であったとしてもこんなにも明るくいられたのは、彼に話を聞いてもらえたからだ。
「また、会えますように」
彼と直接会えるように願いながら、シシィは袋を優しく抱きしめた。
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